第14話 技師が隠していた過去
金属箱の蓋は、指先で触れただけでは動かなかった。
錆びついた留め具の隙間に、長いあいだ溜まった砂が詰まっている。ユリウスが工具を差し込むと、乾いた音が貯水槽の奥へ走った。
「無理に開けると、中の紙を傷めます」
リゼットが言うと、ユリウスは手を止めた。
「分かっている」
「なら、私に任せてください」
彼女は共鳴板を箱の側面へ当てた。石壁から返ってきた音と、金属の内部でわずかに揺れる音を聞き分ける。留め具の裏に、小さな空洞があった。
そこへ細い針金を差し込むと、かちり、と錠が外れた。
蓋を開けた瞬間、古い紙と油の匂いが立ち上った。
中には、折り畳まれた図面が三枚、革張りの帳簿が一冊、それから封蝋の割れた封筒が入っていた。
封筒の表には、王都水利局の文字がある。
リゼットは図面を広げた。北側貯水槽から旧水路へ伸びる地下管路が、細い線で描かれている。現在の町の地図には存在しない水路だった。
「この管路が生きていれば、北の井戸だけでなく、東側の畑にも水を送れます」
「だが、三年前に廃棄されたことになっている」
ユリウスが帳簿を開いた。
最初の頁には、調査担当者の名前が並んでいた。その中に、リゼットの母の名があった。
エレナ・ヴァレル。
名前の横には、赤い線で大きく「虚偽報告」と記されている。
リゼットの指が震えた。
「母は、虚偽報告をしたのではありません」
「この帳簿だけを見れば、そうなる」
ユリウスは次の頁をめくった。
そこには、地下管路の点検記録があった。管路は崩れておらず、封鎖すれば町の水量が不足する。エレナはそう報告している。さらに、封鎖を命じた人物の欄には、当時の水利局長補佐の名が記されていた。
その名を見て、ユリウスの顔色が変わった。
「知っている人ですか」
「私の上司だった」
答えは短かった。
リゼットは帳簿から目を上げた。
「あなたは、母の調査を知っていたのですか」
「知っていた」
「ここに記録があることも?」
「知らなかった。だが、エレナ・ヴァレルという技師が、封鎖命令に異議を唱えたことは覚えている」
ユリウスは封筒を見つめた。
「彼女は何度も再調査を求めた。局長補佐は聞き入れなかった。王都へ戻った後、私はその書類を整理するよう命じられた」
「そして、母を虚偽報告の罪にした」
「私が署名した」
貯水槽の空気が、急に冷たくなった。
リゼットは何も言えなかった。目の前の男が、母を追放した記録の一部に自分の手を残していた。
ユリウスは言い訳をしなかった。
「命令されたから、とは言わない。私は署名した。異議を唱える欄があったのに、空白のまま提出した」
「どうしてですか」
「怖かった」
その言葉が、暗い石壁に落ちた。
「職を失うのが怖かった。家族を巻き込むのが怖かった。自分だけは正しい側にいると思いたかった」
リゼットは唇を噛んだ。
彼が過去を悔いていることは分かる。けれど、悔いているからといって、母の失った年月が戻るわけではない。
「私の母は、あなたの署名で故郷を追われました」
「そうだ」
「私たちは、何年も蔑まれました。伯爵家では、母の娘だからという理由で、まともな仕事さえ与えられなかった」
「分かっている」
「分かっているなら、なぜ今まで言わなかったのですか」
ユリウスは拳を握った。
「言えば、君は私を信じなくなる」
「信じていたと思っているのですか」
声が震えた。
「私はあなたの仕事を信じていました。測った水量を、直した水門を、住民と向き合う姿を。けれど、それはあなたが隠していた過去を消しません」
ユリウスは目を伏せた。
「その通りだ」
しばらく、地下水路の奥で水滴が落ちる音だけが続いた。
やがてリゼットは、封筒を手に取った。封蝋は割れていたが、中の紙は無事だった。
そこには、母の筆跡で短い文章が残されていた。
『記録を改ざんした者は、いつか水の流れによって証明される。流れは隠せても、音までは消せない』
その下に、別の筆跡で日付と署名があった。
ユリウス・アーレン。
リゼットは紙を持つ手を下ろした。
「あなたは、母の言葉を知っていた」
「あの文を読んで、初めて自分のしたことを疑った」
「疑うのが遅すぎます」
「分かっている」
ユリウスは箱の中から最後の紙を取り出した。それは彼が王都を去る直前に書いた告発文だった。しかし提出先の印はなく、隅には破り取られた跡がある。
「提出しなかったのですか」
「できなかった。提出する前に事故が起きて、責任を私に押しつけられた。私は逃げた」
リゼットはその紙を見た。
逃げた技師が、今はこの町のために水路を直している。罪を消せないまま、毎日、壊れた場所へ手を伸ばしている。
許すことはできなかった。だが、切り捨てることもできなかった。
「この記録を公開します」
リゼットは言った。
「私の母のためだけではありません。あなたを救うためでもない。町の水を奪った人間が、今も同じことをしようとしているからです」
ユリウスが静かに頷いた。
「私の署名も隠さないでくれ」
「隠しません」
「それでいい」
地上から、誰かが階段を駆け下りてくる音がした。
「リゼット! ユリウス!」
水路組合の若い書記だった。息を切らし、手には封書を握っている。
「町人会議に、王都から審査官が来るそうです。グラウス家が、あなたたちの調査を正式に問題視した」
彼は封書を差し出した。
「三日後、公開審査が開かれます」
リゼットは母の記録と、ユリウスの署名を見比べた。
真実を明かせば、彼も無傷では済まない。けれど、傷を隠して守られる未来など、もう望んでいなかった。
「三日あれば十分です」
リゼットは箱を閉じた。
「音紋も、帳簿も、住民の証言も、全部そろえてみせます」
ユリウスは彼女の隣に立った。
「私の過去も、証拠として使ってくれ」
その声に迷いはなかった。
二人は暗い貯水槽を出た。
地上では、夕暮れの町に細い水音が響いている。誰かが開いた水門から、新しい流れが畑へ向かっていた。
リゼットはその音を聞きながら思った。
隠されていた過去は、二人の前に立ちはだかる壁ではない。
それは、崩して確かめなければならない、古い堤防だった。




