第15話 公開審査の鐘が鳴る
公開審査の日、町の中央広場には、夜明け前から人が集まっていた。
冬の名残を含んだ風が石畳を抜け、仮設の審査台に掛けられた紺色の幕を揺らしている。正面には王都水利局の紋章。その下に、審査官三名と、グラウス家の代理人が並んでいた。
鐘楼の鐘が八つ鳴る。
その音に重なるように、広場の地下から低い振動が返ってきた。
リゼットは共鳴板を胸元で押さえた。旧水路の奥を流れる水が、石の継ぎ目を伝い、かすかな音紋を奏でている。
流れは生きていた。
けれど、今日、止められるかもしれない。
「緊張しているか」
隣でユリウスが尋ねた。
「しています」
「そうは見えない」
「緊張しているから、音をひとつも聞き逃さないようにしているだけです」
ユリウスはわずかに口元を緩めた。だが、その目は審査台をまっすぐ見ている。
彼の過去を記した帳簿は、布で包んだ箱の中にあった。母エレナの報告書も、封蝋の割れた封筒も、そこにある。
真実を出せば、ユリウスの署名も同時にさらされる。
それでも、二人は隠さないと決めていた。
鐘がもう一度鳴る。
審査官の中央に座る男が立ち上がった。痩せた顔に銀縁の眼鏡を掛け、王都水利局の徽章を胸に留めている。
「これより、辺境都市ヴァルネの水利再生事業に関する公開審査を始める」
ざわめきが静まった。
「申立人はグラウス家。被申立人は、無資格の臨時技師リゼット・ヴァレル、ならびに元王都技師ユリウス・アーレン」
無資格という言葉が、広場の隅々まで響いた。
リゼットは背筋を伸ばした。
審査官は続ける。
「申立人の主張は三点。第一に、旧水路の再開通は正式な調査を経ておらず、崩落事故を招く危険があること。第二に、事業に用いられた記録の一部が改ざんされている疑いがあること。第三に、被申立人らが水利組合を私的に掌握し、町の水を独占しようとしていることである」
広場の後方で、グラウス家の代理人が満足そうに頷いた。
リゼットは町を見渡した。
水路の修復に手を貸した住民たちがいる。泥まみれで管を運んだ農夫も、水門の木材を削った大工も、夜遅くまで記録を写した書記も、みな不安そうに審査台を見ていた。
水を独占しようとしている者の顔に、あんな疲れた跡は残らない。
「まず、被申立人リゼット・ヴァレルから説明を」
呼ばれ、リゼットは台の前へ進んだ。
代理人がすぐに口を挟む。
「その前に、彼女が技師資格を持たないことを確認していただきたい。音を聞くという奇妙な能力だけで、公共水路の再開通を決めたのです」
「音を聞いただけではありません」
リゼットは答えた。
「水量を測り、地盤を調べ、管路の厚さを確認し、住民とともに試験運用を繰り返しました。私が判断したのは、音紋が示す構造と、測定した数値が一致したからです」
「その測定記録が改ざんされているのでは?」
代理人が一枚の紙を掲げた。
「先月の水量記録には、署名の異なる頁があります。これは被申立人が都合のよい数字を書き足した証拠です」
広場がざわついた。
リゼットは紙を見た。確かに、欄外の筆跡は自分のものに似ている。しかし、数字の並びが不自然だった。
「その頁は、私が書いたものではありません」
「筆跡は酷似している」
「似せたのでしょう」
代理人が笑った。
「証拠もないのに、他人へ罪を着せるのですか」
その瞬間、ユリウスが一歩進み出た。
「その記録は、試験水門が開かれていない時間の数値だ」
審査官が顔を上げる。
「何を根拠に?」
「水門の軸が固着していた。開閉には必ず三回、金属音が鳴る。記録時刻の音紋には、その音がない」
ユリウスは共鳴板を受け取り、審査台に置かれた水路模型へ近づいた。
「記録は数字だけで成立しない。水路には、その数字に伴う音がある」
彼は模型の側面を指で叩いた。澄んだ音が返る。
「この町の水路は、各所の形状によって異なる音を返す。これが音紋だ。時刻、水量、開閉状態が正しければ、音紋は一致する」
「あなたの主観的な感覚にすぎない」
「ならば、実際に聞いてください」
リゼットは共鳴板を取り出した。裏面には、修復した水路の測定位置と時刻が細かく刻まれている。
彼女が板を軽く擦ると、低い音の後に、三つの細い響きが続いた。
広場の地下から、同じ間隔の音が返る。
三つの音。
水門は、今も開いている。
住民の間から、息を呑む声が上がった。
審査官の一人が身を乗り出した。
「現時点の水路音を、記録として提出するというのか」
「はい。事前に採取した音紋と、今この場で返ってきた音紋です。水量の変化まで一致しています」
リゼットは二枚の記録板を差し出した。
代理人が慌てて立ち上がる。
「音など証拠にならない! その板をどこで作ったかも不明だ!」
「作った場所なら分かります」
後方から声がした。
水路組合の老大工が、杖をつきながら前へ出た。
「工房の炉で焼いた。板の縁に、わしの工房印がある」
続いて農夫が手を挙げた。
「記録時刻には俺が北水門を見ていた。三度鳴ったのを聞いた」
別の住民も声を上げる。
「私もいた。水は畑へ流れた」
一人、また一人と証言が続いた。
代理人は顔を赤くした。
だが、中央の審査官は手を上げ、ざわめきを制した。
「証言は後で整理する。次に、ユリウス・アーレンの資格と過去について確認する」
ユリウスは静かに前へ出た。
「私は王都水利局を辞した元技師だ。過去に、エレナ・ヴァレルの報告書を処理し、異議のないまま署名した」
その告白に、広場の空気が凍った。
リゼットの胸にも、重い痛みが走る。
代理人は待っていたように声を張った。
「つまり、彼は虚偽報告を追認した当事者です。そんな人物の提出する記録を、誰が信用できますか」
「信用されなくていい」
ユリウスは答えた。
「私の署名は、母の報告を消すために使われた。その責任から逃げない。だからこそ、ここにある帳簿を提出する」
彼が箱を開く。
古い紙の匂いが風に混じった。
リゼットは母の報告書を両手で持ち上げた。
母の文字が、日の光の下に現れる。
「この記録には、旧水路が崩れていないこと、封鎖すれば町の水量が不足すること、そして封鎖命令を出した人物の名が記されています」
グラウス家の代理人の顔から、血の気が引いた。
その名は、現在のグラウス家当主の父であり、当時の水利局長補佐だった。
審査官が帳簿を受け取ろうとした、そのときだった。
鐘楼の鐘が、予定されていない回数で鳴り始めた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
地下水路の音紋が、急に濁った。
広場の地下で、どこかの水門が乱暴に閉じられたのだ。
住民から悲鳴が上がる。
代理人が叫んだ。
「見ろ! 彼らの工事が水路を暴走させた!」
リゼットは共鳴板を耳へ当てた。
違う。
これは事故ではない。誰かが、審査の最中に別の水門を操作している。
そしてその音は、広場の地下ではなく、審査台の下から響いていた。
リゼットは台の床板を見つめた。
「ユリウス」
「分かっている」
彼は工具袋へ手を伸ばした。
公開審査の鐘は、真実を告げる合図ではなかった。
誰かが、証拠そのものを壊そうとして鳴らした鐘だった。




