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水路の音を読む令嬢は、辺境で居場所と恋をつくる  作者: 銀細工ナギ


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15/20

第15話 公開審査の鐘が鳴る

 公開審査の日、町の中央広場には、夜明け前から人が集まっていた。


 冬の名残を含んだ風が石畳を抜け、仮設の審査台に掛けられた紺色の幕を揺らしている。正面には王都水利局の紋章。その下に、審査官三名と、グラウス家の代理人が並んでいた。


 鐘楼の鐘が八つ鳴る。


 その音に重なるように、広場の地下から低い振動が返ってきた。


 リゼットは共鳴板を胸元で押さえた。旧水路の奥を流れる水が、石の継ぎ目を伝い、かすかな音紋を奏でている。


 流れは生きていた。


 けれど、今日、止められるかもしれない。


「緊張しているか」


 隣でユリウスが尋ねた。


「しています」


「そうは見えない」


「緊張しているから、音をひとつも聞き逃さないようにしているだけです」


 ユリウスはわずかに口元を緩めた。だが、その目は審査台をまっすぐ見ている。


 彼の過去を記した帳簿は、布で包んだ箱の中にあった。母エレナの報告書も、封蝋の割れた封筒も、そこにある。


 真実を出せば、ユリウスの署名も同時にさらされる。


 それでも、二人は隠さないと決めていた。


 鐘がもう一度鳴る。


 審査官の中央に座る男が立ち上がった。痩せた顔に銀縁の眼鏡を掛け、王都水利局の徽章を胸に留めている。


「これより、辺境都市ヴァルネの水利再生事業に関する公開審査を始める」


 ざわめきが静まった。


「申立人はグラウス家。被申立人は、無資格の臨時技師リゼット・ヴァレル、ならびに元王都技師ユリウス・アーレン」


 無資格という言葉が、広場の隅々まで響いた。


 リゼットは背筋を伸ばした。


 審査官は続ける。


「申立人の主張は三点。第一に、旧水路の再開通は正式な調査を経ておらず、崩落事故を招く危険があること。第二に、事業に用いられた記録の一部が改ざんされている疑いがあること。第三に、被申立人らが水利組合を私的に掌握し、町の水を独占しようとしていることである」


 広場の後方で、グラウス家の代理人が満足そうに頷いた。


 リゼットは町を見渡した。


 水路の修復に手を貸した住民たちがいる。泥まみれで管を運んだ農夫も、水門の木材を削った大工も、夜遅くまで記録を写した書記も、みな不安そうに審査台を見ていた。


 水を独占しようとしている者の顔に、あんな疲れた跡は残らない。


「まず、被申立人リゼット・ヴァレルから説明を」


 呼ばれ、リゼットは台の前へ進んだ。


 代理人がすぐに口を挟む。


「その前に、彼女が技師資格を持たないことを確認していただきたい。音を聞くという奇妙な能力だけで、公共水路の再開通を決めたのです」


「音を聞いただけではありません」


 リゼットは答えた。


「水量を測り、地盤を調べ、管路の厚さを確認し、住民とともに試験運用を繰り返しました。私が判断したのは、音紋が示す構造と、測定した数値が一致したからです」


「その測定記録が改ざんされているのでは?」


 代理人が一枚の紙を掲げた。


「先月の水量記録には、署名の異なる頁があります。これは被申立人が都合のよい数字を書き足した証拠です」


 広場がざわついた。


 リゼットは紙を見た。確かに、欄外の筆跡は自分のものに似ている。しかし、数字の並びが不自然だった。


「その頁は、私が書いたものではありません」


「筆跡は酷似している」


「似せたのでしょう」


 代理人が笑った。


「証拠もないのに、他人へ罪を着せるのですか」


 その瞬間、ユリウスが一歩進み出た。


「その記録は、試験水門が開かれていない時間の数値だ」


 審査官が顔を上げる。


「何を根拠に?」


「水門の軸が固着していた。開閉には必ず三回、金属音が鳴る。記録時刻の音紋には、その音がない」


 ユリウスは共鳴板を受け取り、審査台に置かれた水路模型へ近づいた。


「記録は数字だけで成立しない。水路には、その数字に伴う音がある」


 彼は模型の側面を指で叩いた。澄んだ音が返る。


「この町の水路は、各所の形状によって異なる音を返す。これが音紋だ。時刻、水量、開閉状態が正しければ、音紋は一致する」


「あなたの主観的な感覚にすぎない」


「ならば、実際に聞いてください」


 リゼットは共鳴板を取り出した。裏面には、修復した水路の測定位置と時刻が細かく刻まれている。


 彼女が板を軽く擦ると、低い音の後に、三つの細い響きが続いた。


 広場の地下から、同じ間隔の音が返る。


 三つの音。


 水門は、今も開いている。


 住民の間から、息を呑む声が上がった。


 審査官の一人が身を乗り出した。


「現時点の水路音を、記録として提出するというのか」


「はい。事前に採取した音紋と、今この場で返ってきた音紋です。水量の変化まで一致しています」


 リゼットは二枚の記録板を差し出した。


 代理人が慌てて立ち上がる。


「音など証拠にならない! その板をどこで作ったかも不明だ!」


「作った場所なら分かります」


 後方から声がした。


 水路組合の老大工が、杖をつきながら前へ出た。


「工房の炉で焼いた。板の縁に、わしの工房印がある」


 続いて農夫が手を挙げた。


「記録時刻には俺が北水門を見ていた。三度鳴ったのを聞いた」


 別の住民も声を上げる。


「私もいた。水は畑へ流れた」


 一人、また一人と証言が続いた。


 代理人は顔を赤くした。


 だが、中央の審査官は手を上げ、ざわめきを制した。


「証言は後で整理する。次に、ユリウス・アーレンの資格と過去について確認する」


 ユリウスは静かに前へ出た。


「私は王都水利局を辞した元技師だ。過去に、エレナ・ヴァレルの報告書を処理し、異議のないまま署名した」


 その告白に、広場の空気が凍った。


 リゼットの胸にも、重い痛みが走る。


 代理人は待っていたように声を張った。


「つまり、彼は虚偽報告を追認した当事者です。そんな人物の提出する記録を、誰が信用できますか」


「信用されなくていい」


 ユリウスは答えた。


「私の署名は、母の報告を消すために使われた。その責任から逃げない。だからこそ、ここにある帳簿を提出する」


 彼が箱を開く。


 古い紙の匂いが風に混じった。


 リゼットは母の報告書を両手で持ち上げた。


 母の文字が、日の光の下に現れる。


「この記録には、旧水路が崩れていないこと、封鎖すれば町の水量が不足すること、そして封鎖命令を出した人物の名が記されています」


 グラウス家の代理人の顔から、血の気が引いた。


 その名は、現在のグラウス家当主の父であり、当時の水利局長補佐だった。


 審査官が帳簿を受け取ろうとした、そのときだった。


 鐘楼の鐘が、予定されていない回数で鳴り始めた。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 地下水路の音紋が、急に濁った。


 広場の地下で、どこかの水門が乱暴に閉じられたのだ。


 住民から悲鳴が上がる。


 代理人が叫んだ。


「見ろ! 彼らの工事が水路を暴走させた!」


 リゼットは共鳴板を耳へ当てた。


 違う。


 これは事故ではない。誰かが、審査の最中に別の水門を操作している。


 そしてその音は、広場の地下ではなく、審査台の下から響いていた。


 リゼットは台の床板を見つめた。


「ユリウス」


「分かっている」


 彼は工具袋へ手を伸ばした。


 公開審査の鐘は、真実を告げる合図ではなかった。


 誰かが、証拠そのものを壊そうとして鳴らした鐘だった。

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