第16話 帳簿と音の照合
ユリウスが工具袋から細い鋼棒を取り出した。
「台の下に空間がある」
彼は床板の継ぎ目へ棒を差し込んだ。木が軋み、隠されていた留め金が外れる。床板を持ち上げると、暗い穴と、地下へ続く梯子が現れた。
そこから、濁った水音が吹き上がってくる。
リゼットは共鳴板を穴の縁へ近づけた。
低い振動。二度の短い反響。続いて、金属が石を擦る音。
「旧水路の分岐です。誰かが手動の遮断弁を動かしています」
「そんな通路は図面にない」
審査官の一人が言った。
「図面から消されたのです」
リゼットは帳簿を開いた。母の報告書の端に、薄い線で描かれた分岐図がある。表からはただの書き損じに見えるが、線の脇には音階に似た印が並んでいた。
母は、音紋を記録していた。
そして、その分岐が存在することを、誰かに伝えようとしていた。
「この分岐は、旧水路の記録にはありません。ですが、母の音譜と、現在の反響が一致しています」
代理人が声を荒らげた。
「地下へ入るなど、審査の手続きにない!」
「手続きより、水が先だ」
ユリウスは梯子へ足を掛けた。
リゼットも続こうとしたが、審査官が制した。
「危険だ。技師を呼ぶ」
「呼んでいる間に、弁を閉じ切られます」
リゼットは水音へ耳を澄ませた。弁の軸は、まだ完全には閉じていない。だが、あと少しで流れが止まる。止まれば、圧力の逃げ場を失った水が、古い壁を内側から押し破る。
「このままでは北区画の壁が崩れます」
「断定できるのか」
「音が変わりました。水が行き場を失って、石の空洞へ叩きつけられています」
ユリウスが下から叫んだ。
「リゼット、来い!」
彼女は梯子を降りた。
地下の通路は肩幅ほどしかなく、壁には古い水垢が幾重にも残っていた。先を行くユリウスのランタンが、錆びた弁と、石壁に刻まれた数字を照らしている。
弁のそばに、男が一人いた。
グラウス家の代理人付きの書記だった。彼は手にした工具を落とし、後ずさる。
「なぜ、あなたがここに」
「審査台の下に抜け道があることを知っていたのですね」
リゼットは言った。
書記は答えず、弁を押さえ込んだ。ユリウスが腕をつかむ。激しい水音の中で、二人の影が揺れた。
「記録を壊せば、母の報告も失われると思ったのですか」
「違う!」
書記が叫んだ。
「私は命令されただけだ。古い帳簿を燃やせと、旦那様に……」
「今も命令されているのか」
ユリウスの声は低かった。
書記の手から力が抜けた。
リゼットは弁へ近づき、共鳴板を押し当てた。金属の震えが掌へ伝わる。弁の奥には、もう一つの遮断装置がある。無理に戻せば、管の継ぎ目が破裂する。
「ユリウス、軸を四分の一だけ戻して。急に開けてはいけません」
「分かった」
「書記さん、そこの木枠を外してください。圧力を逃がす管があります」
「私が?」
「あなたがここを知っているからです」
書記は怯えた顔で木枠へ駆け寄った。
三人がそれぞれ動く。
ユリウスが軸を回す。リゼットは音の変化を聞き取る。書記が木枠を外すたび、細い管から水が噴き出した。
濁った音が、少しずつ澄んでいく。
やがて、遠くで水門の軸が三度鳴った。
リゼットは目を閉じた。
「流れが戻りました」
地上から、住民たちの歓声が響いた。
梯子を上がると、広場には審査官たちと大勢の人が待っていた。代理人の姿だけがない。彼はいつの間にか審査台の裏へ逃げようとして、住民に取り囲まれていた。
審査官は、書記の供述を聞き終えると、帳簿を開いた。
「この帳簿の数字を、音紋と照合する」
リゼットは二枚の記録板を並べた。
「母の報告書にある水量、弁の開閉時刻、そして分岐の位置。すべて現在の音と一致します」
ユリウスが古い帳簿の頁をめくった。
「一方、グラウス家が提出した記録には、弁を閉じた時刻に水門の音が記されていない。数字だけを書き換えた跡がある」
審査官は黙って頁を見比べた。
広場には、誰も口を挟まなかった。
数字は嘘をつける。文字も、署名も、誰かの手で似せられる。
けれど、水の音は、積み重ねられた時間を裏切らない。
中央の審査官が立ち上がった。
「提出された帳簿、音紋記録、現場の構造、ならびに複数の証言を仮に照合した結果、グラウス家の申立てには重大な不整合がある」
代理人が叫ぶ。
「仮の結果にすぎない!」
「だからこそ、正式な再審査を行う」
審査官は王都水利局の印章を机へ置いた。
「証拠資料はすべて封印し、改ざんを防ぐ。審査は明日、続行する。なお、審査中に水路を操作した者については、別途事情を聴取する」
住民たちの間から、安堵の息が漏れた。
完全な勝利ではない。
けれど、真実を覆うために張られた布は、もう裂けていた。
リゼットは母の報告書へ目を落とした。
薄い紙の上で、消えかけた音譜が光を受けている。
「母さん。聞こえていますか」
小さく呟くと、隣に立つユリウスが答えた。
「きっと」
「どうして分かるのです」
「君が、聞き届けたからだ」
広場の地下で、水が静かに流れていた。
その音は、明日の審査を待つ町の心臓のように、途切れず響き続けていた。




