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水路の音を読む令嬢は、辺境で居場所と恋をつくる  作者: 銀細工ナギ


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17/20

第17話 水路の記憶が証言する

 翌朝、審査は町役場の大広間で再開された。


 昨日まで祝宴に使われていた場所には、長机が三つ並べられ、王都水利局の印章を押された証拠箱が置かれている。窓の外では、再び水を得た水路が細い光を揺らしていた。けれど広間の中には、まだ乾いた緊張が残っていた。


 グラウス家の当主は姿を見せなかった。


 代理人だけが、黒い外套の襟を正しながら立っている。


「昨日の書記の供述は、脅迫によるものです」


 彼は開口一番に言った。


「地下の暗所で技師とリゼット嬢に囲まれ、恐怖のあまり虚偽を述べたのでしょう。あのような証言を証拠として扱うことはできません」


 審査官の一人が、封印を解いた記録板を机の上へ置いた。


「書記は今朝、同じ内容を正式に供述した。立会人は三名いる」


「買収された立会人でしょう」


「では、立会人を一人ずつ呼ぶ」


 中央の審査官が合図すると、最初に水門番の老女が進み出た。


 彼女は長年、北区画の水門を見守ってきた人物だった。杖をつきながら証言台に立ち、震える手で帽子を胸へ押し当てる。


「二年前の冬、北水門の開閉記録を書き換えろと言われました。実際には、夜半に弁が閉じられたのに、帳簿には朝まで正常に流れていたと記しました」


「誰に命じられたのですか」


「グラウス家の管理人です。断れば、息子の仕事を失わせると」


 代理人が机を叩いた。


「証拠のない記憶だ!」


 その瞬間、広間の隅に置かれた共鳴板がかすかに鳴った。


 リゼットは顔を上げた。


 板は、机の上に置かれた古い水門記録に反応している。低い振動が一度、二度。さらに水路の奥から、遅れて短い反響が返ってきた。


「記憶だけではありません」


 彼女は審査官へ向き直った。


「その夜の記録板には、北水門が朝まで開いていた音紋がありません。記録に残された水量なら、三度の放流音があるはずです。でも実際に残っているのは、閉鎖された水門が石壁へ圧力を返した音だけです」


 審査官が記録板を取り上げる。


「聞き分けられるのか」


「はい。水門の音は、開いたときには底に響きがありません。閉じたままなら、圧力が溜まるたび、壁の奥で低い音が返ります」


 ユリウスが記録板の縁を指で示した。


「ここに三つの振動痕がある。リゼットの読み取りと一致する」


 次に呼ばれたのは、石工の親方だった。


 彼は母の追放された年に、旧水路の修理を請け負っていた。


「当時、分岐を塞いだのは私です」


 親方は深く頭を下げた。


「だが、命じられた場所と、工事費として受け取った金額が合わなかった。図面では小さな漏れの修理とされていたのに、実際には大きな分岐を石で塞がされた。リゼットさんのお母上は、それを止めようとしていた」


「なぜ今まで黙っていたのです」


「怖かった。町の者に、裏切り者と呼ばれるのも、仕事を奪われるのも」


 親方は手のひらを広げた。


 指の間には、古い石粉が残っている。


「だが、昨日、水が戻った音を聞いた。あの方が言っていたことは嘘ではなかった。もう、黙っているほうが恥だと思った」


 大広間の後ろで、誰かが息を呑んだ。


 リゼットは母の報告書を開いた。そこには、工事の中止を求める最後の一文が記されている。


 ――水を塞ぐ者は、水の記憶まで塞いだと思ってはならない。


 幼い頃には意味の分からなかった言葉だった。


 今なら分かる。


 水路はただ流れるだけではない。通った場所、押し返された壁、閉じられた弁の震えを、長い時間の底に刻んでいる。誰かが帳簿を焼いても、石を削っても、流れの記憶までは消せない。


 代理人は最後の手段に出た。


「仮に不正があったとしても、母親の報告書が正式な記録である証拠はない。追放された者の私的な文書に、審査の効力などありません」


 リゼットは静かに紙を閉じた。


「母の身分を証拠にするつもりはありません」


 彼女は審査官へ向かって言った。


「母の記録が正しいかどうかは、音と構造と帳簿で確かめられます。誰が書いたかではなく、書かれたことが現実と一致するかを見てください」


 ユリウスが新しい記録板を置いた。


「今朝、北水門から地下分岐までの全区画を測定した。流量、圧力、開閉音、すべて記録してある」


 彼は板を順に並べた。


「二年前の報告書にある数値と、現在の水路が示した値は一致している。グラウス家の帳簿だけが、一貫して異なる」


 審査官たちは互いに顔を見合わせた。


 やがて中央の審査官が立ち上がり、広間全体へ声を響かせた。


「水路の構造、音紋、帳簿、そして証言を総合する。これらは単独の証拠ではない。だが、すべてが同じ事実を示している」


 代理人の顔から血の気が引いた。


「どの事実を……」


「旧水路の閉鎖は事故ではない。申立人側は、分岐の存在と過去の工事を隠し、その費用と水量の記録を改ざんした」


 広間の外から、押し殺していた歓声が湧き上がった。


 審査官はさらに続ける。


「本日をもって、グラウス家による水路管理権を仮停止する。町の水利組合を暫定管理者とし、正式な処分については王都へ送る」


 長い沈黙のあと、誰かが泣き出した。


 リゼットは母の報告書へ指を置いた。


 勝ったのだろうか。


 そう思った途端、胸の奥に別の問いが浮かんだ。


 真実を証明したあと、自分はどこへ戻るのか。


 伯爵家には、まだ自分の部屋がある。名目だけの身分も、帰りを待つ使用人もいる。けれどそこへ戻れば、また誰かの都合で沈黙を強いられるだろう。


 ユリウスが隣に立った。


「疲れたか」


「少し。でも、聞こえます」


「何が」


「水路の音です」


 彼女は窓の外を見た。


「昨日より、明るい」


 ユリウスはしばらく黙り、それから小さく頷いた。


「町が、君に礼を言っているのかもしれない」


「水は、人に礼を言いません」


「なら、俺が言う」


 リゼットが振り向くと、彼の視線はまっすぐだった。


「よくやった。君が聞き続けたから、ここまで来られた」


 その言葉は、母の声とは違っていた。


 けれど同じように、彼女の胸の奥へ届いた。


 広場では住民たちが水路のそばに集まり、誰からともなく石の縁を撫でている。町はようやく、自分たちの水を自分たちの手へ取り戻したのだ。


 リゼットは報告書を証拠箱へ戻した。


 封印される前に、最後の一行へ目を落とす。


 ――水を守る者は、記録された過去だけでなく、これから生まれる音にも耳を澄ませること。


 審査は終わっていない。


 母の名が戻るのも、まだ先だ。


 それでもリゼットは、初めて未来の音を聞いた気がした。


 水路の記憶は、過去を証言した。


 そして今、その流れは新しい明日へ向かっていた。

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