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水路の音を読む令嬢は、辺境で居場所と恋をつくる  作者: 銀細工ナギ


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第18話 伯爵令嬢には戻らない

 審査が終わった翌朝、リゼットのもとへ一通の封書が届いた。


 封蝋には、かつて暮らしていた伯爵家の紋章が押されている。差出人は父、アドルフ伯爵だった。


 開く前から、何が書かれているのか想像できた。


 ――此度の功績を聞き及んだ。家名の名誉を回復するため、速やかに帰邸せよ。


 便箋には、飾り立てた言葉が並んでいた。


 王都の社交界では、辺境都市の水路を救った伯爵令嬢として、リゼットの名が話題になっているらしい。長く雑用係として扱われていたことには触れず、幼い頃から水利に関心を持っていた才女だったと、都合よく書き換えられていた。


 最後には、こう結ばれていた。


 ――おまえの席は、今も伯爵家にある。


 リゼットは便箋を机へ置いた。


 窓の外から、水の音が聞こえる。


 朝の放流を終えた水路が、石の継ぎ目をすり抜ける音。遠くでは、工房の修理班が新しい弁を取り付けている。金槌の音に合わせ、水路の響きが低く重なっていた。


「帰るつもりか」


 入口に立っていたユリウスが尋ねた。


 彼は封書を見て、すぐに事情を察したようだった。


「まだ、決めていません」


「君が決めることだ」


「伯爵家に戻れば、母の名を正式に戻すための支援を受けられるかもしれません。王都へ働きかける力も、私たちよりずっと大きい」


「そうだな」


 ユリウスは否定しなかった。


「だから、帰ったほうがいいとは言わない」


 リゼットは顔を上げた。


 彼はいつもそうだった。自分の望みを、彼女の選択にかぶせようとはしない。必要な材料を並べ、最後の判断を彼女へ返す。


「帰れば、母の名前は戻るでしょうか」


「家名は戻せるかもしれない。だが、母上が守ろうとした水路まで、君が守れるとは限らない」


 ユリウスの声は静かだった。


「伯爵家は君を、今度は功績のある令嬢として扱うだろう。けれど、君が何を聞き、何を選ぶかまで認めるとは限らない」


 リゼットは、便箋の上に置いた指をゆっくり引いた。


 伯爵家にいた頃、彼女が水路の異常を訴えても、誰も聞かなかった。古い記録を読むことも、地下の音に耳を澄ますことも、令嬢のすることではないと笑われた。


 今さら、その家が差し出す席へ戻れば、自分は何者になるのだろう。


 功績を飾るための娘か。


 母の名誉を取り戻すための駒か。


 それとも、また誰かの命令を待つだけの雑用係か。


「私は、伯爵令嬢に戻りたいわけではありません」


 言葉にすると、胸の奥で絡まっていた糸がほどけた。


「母の名を取り戻したい。水路を守りたい。記録を改ざんされない場所を作りたい。でも、そのためにあの家へ戻る必要はないはずです」


 ユリウスは、ほんのわずかに目を細めた。


「ない」


「この町に残っても、王都の人たちは私を元伯爵令嬢と呼ぶでしょう」


「呼ばせておけばいい。君が何者かは、呼び名で決まらない」


 リゼットは封書を折りたたんだ。


「返事を書きます」


 机に向かい、白紙を一枚取り出す。


 父への敬意を示す定型句も、家名への感謝も、必要なかった。何度も筆を止めそうになりながら、それでも自分の言葉で書いた。


 ――私は伯爵家へ戻りません。


 ――これからは、水路と記録を守る仕事を、自分の意思で続けます。


 ――母の名誉は、家名の一部としてではなく、一人の技師としての仕事によって回復させます。


 ――どうか、私の帰還を求めないでください。


 書き終えたとき、手は震えていなかった。


「強いな」


 背後からユリウスの声がした。


「怖いです」


「それでも書いた」


「あなたは、怖くないのですか」


 問いかけると、ユリウスは少し黙った。


「怖い。工房を作ることも、組合と契約することも、王都に記録を提出することも。失敗すれば、君を巻き込む」


「私が一人で決めたことです」


「そう言うと思った」


 彼は机の上に図面を広げた。


「だから、巻き込むのではなく、共同でやる」


 図面には、町の南側にある空き倉庫が描かれていた。崩れかけた壁を直せば、作業場として使える。水路に近く、測定器具を置く棚も作れる。入口の大きさや窓の向きまで、細かく記されていた。


「ここを工房に?」


「町の水利組合が貸してくれる。正式な許可はこれからだが、住民たちは賛成している」


「あなたは、もう話を進めていたのですね」


「君が帰る可能性も考えていた。必要なら一人でも続けるつもりだった」


 リゼットは図面へ目を落とした。


 そこには、彼女の名前を書くための空白が残されていた。


 技師ユリウスの工房ではない。


 誰かに雇われるための作業場でもない。


 二人が同じ高さで立つための場所だった。


「私の名前を、工房の看板に入れてもいいでしょうか」


「君が望むなら」


「望みます」


 リゼットは、図面の空白へ指を置いた。


「リゼット・ヴェルナーと、ユリウス・アーベルの共同工房。水路測定、修理、記録保全」


「長いな」


「大切なことを省きたくありません」


 ユリウスは低く笑った。


 その笑い声に、彼女は初めて、工房の中へ自分の未来が流れ込んでくるように感じた。


 昼過ぎ、二人は空き倉庫へ向かった。


 住民たちはすでに瓦礫を運び出していた。老いた水門番は窓枠を磨き、石工の親方は壁のひびを調べている。子どもたちは水路で拾った小石を並べ、入口の前に小さな道を作っていた。


「皆さん、どうして……」


 リゼットが尋ねると、水門番の老女が杖を振った。


「町の水を守る場所だろう。町の手で作らなくて、誰が作るんだい」


 石工の親方も頷いた。


「今度は、正しい図面で建てる。誰にも隠されないようにな」


 胸の奥が熱くなった。


 かつて彼女は、伯爵家の広い屋敷にいても、自分の居場所を持たなかった。けれど今は、崩れた倉庫の中に、まだ何もない机が一つある。その机を誰かが拭き、窓から入る光の向きを確かめ、明日置く道具の話をしている。


 空白は、失われたものではない。


 これから自分たちで満たすための場所なのだ。


 夕方、リゼットは伯爵家への返書を封じた。


 封蝋には、家の紋章を使わなかった。


 工房で作ったばかりの、波紋を刻んだ小さな印を押す。


 それはまだ正式な組織の印ではない。


 けれど、彼女が自分の手で選んだ最初の証だった。


 窓の外で、水路が夕陽を返している。


 リゼットはその音に耳を澄ませた。


 もう、過去へ戻れという響きは聞こえない。


 流れは前へ進んでいる。


 彼女もまた、伯爵令嬢ではない一人の技師として、その流れのそばを歩き始めた。

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