第19話 工房の名と、伝えたい言葉
工房の改修が始まってから、三週間が過ぎた。
崩れかけていた南側の倉庫は、今では大きな窓から朝の光を取り込み、壁には測定器具を掛ける棚が並んでいる。床には新しい石板が敷かれ、中央には長い作業台が置かれた。水路から引いた細い管が壁際を走り、音紋を確かめるための共鳴筒へつながっている。
入口の上には、まだ看板がなかった。
「今日、組合の代表が来るそうです」
リゼットは帳簿から顔を上げた。
向かいで弁の部品を磨いていたユリウスが頷く。
「正式な契約書を持ってくる」
「水利組合との契約が決まれば、ここは町の公認工房になりますね」
「そうなる」
短い返事だったが、ユリウスの指がわずかに止まったのを、リゼットは見逃さなかった。
公認されるということは、これまでのように住民の厚意だけで仕事を続けるのとは違う。工房が調査を請け負い、修理の費用を受け取り、記録を保管する責任を持つということだ。二人の名が、町の水路台帳に正式に記される。
その重さを、リゼットも感じていた。
正午前、水利組合の代表たちが工房へやって来た。老水門番のマルタを先頭に、石工の親方、染物職人、穀物商、それに各地区の水路を管理する者たちが続く。
マルタは机の上へ厚い書類を置いた。
「読んでおくれ。わしらは字が細かいと目が疲れていかん」
リゼットは契約書を手に取った。
工房の名称、所有と運営の方法、依頼の記録、修理費の明細、調査結果の公開。それぞれの項目が、分かりやすい言葉で記されている。以前の台帳にあった曖昧な表現や、誰か一人に権限が集まる条文はない。
「異議はありません」
リゼットが言うと、ユリウスも頷いた。
「この契約なら、記録を組合と工房の双方で保管できる」
「そうだ。もう一人の懐へしまい込ませたりはしない」
穀物商が笑った。
「それに、工房の名も決めた。看板に書く名だ」
彼が取り出した木板には、すでに文字が刻まれていた。
――リゼット・ユリウス共同水路工房。
リゼットは息を止めた。
そこには、彼女とユリウスの名が並んでいた。姓も、肩書きも、順番さえも、誰かが決めたものではない。ただ二人の名前が、同じ大きさの文字で刻まれている。
「リゼット・ヴェルナーと、ユリウス・アーベルではないのですね」
彼女が尋ねると、石工の親方が答えた。
「町の者は、もう二人を別々に呼ばない。水路を直した二人の工房だ。それで十分だろう」
リゼットは木板にそっと触れた。
ヴェルナーという姓には、母を追放した家の記憶もあった。けれど、その名を捨てる必要はないと思えた。母が残した技術も、自分が積み重ねた仕事も、過去の誰かに独占させるものではない。
「この名前でお願いします」
ユリウスが隣で言った。
契約書へ署名をする。
最初にリゼットが書き、その隣へユリウスが名を記した。二つの署名は、書類の上で静かに並んだ。
マルタが印を押すと、工房の正式な誕生が決まった。
住民たちが帰ったあとも、リゼットはしばらく看板を見つめていた。
「嬉しいです」
「そうか」
「はい。けれど、少しだけ不思議です。以前の私は、自分の名前が記録に残るなんて考えたこともありませんでした」
「記録に残るのが嫌か」
「いいえ。残したかった。でも、誰かに認められるためではなく、自分がここにいたと証明するために」
ユリウスは返事をしなかった。
夕暮れが工房へ差し込み、作業台の上に長い影を落としていた。水路の音が窓の外から聞こえる。昼の放流が終わったあとも、細い流れは絶えることなく、石の間を進んでいた。
「リゼット」
いつもより低い声だった。
彼女が振り向くと、ユリウスは作業台の端に手を置いたまま、こちらを見ていた。
「私は、君に伝えたいことがある」
「仕事の話ですか」
「違う」
ユリウスが言葉を探すように、視線を一度落とした。
「君が来る前、私は一人で工房を持つつもりだった。必要な修理をして、記録を残して、それで十分だと思っていた」
「知っています」
「君が来てから、予定が変わった」
胸が、わずかに速く打ち始める。
「君は音を聞き分ける。壊れたものの奥にある原因を見つける。誰かに命じられたからではなく、守るべきものを自分で決めて動く。私は、その判断を信頼している」
それは、これまで何度も聞いた言葉に似ていた。
けれど今のユリウスの声には、仕事の評価だけではない何かがあった。
「私は、君と工房を続けたい」
「共同経営者として、ですね」
リゼットが尋ねると、ユリウスは少し困ったように眉を動かした。
「それだけではない」
彼は作業台を離れ、彼女の前まで歩いてきた。
「君が朝、窓を開ける音を聞くのが好きだ。君が水路の音を聞いているときの顔を見るのが好きだ。君が帰ってくる場所を、私もここにしたいと思っている」
リゼットは息を吸った。
ユリウスは不器用に、しかし一つ一つ確かめるように言葉を続けた。
「私は君を、身分や功績で見ているのではない。リゼット、私は君自身を大切に思っている。これからも、隣にいてほしい」
工房の中に、水の音だけが残った。
リゼットは、伯爵家から届いた封書を思い出した。そこに書かれていた席は、家が用意したものだった。けれど今、目の前に差し出されているのは、二人で作り続ける場所だった。
「ユリウス」
「急がせるつもりはない」
「分かっています」
リゼットは微笑んだ。
「私も、あなたとここにいたいです。あなたとなら、明日の水路を聞きに行きたい。壊れた弁も、消えた記録も、一緒に直していきたい」
ユリウスの目が、静かに揺れた。
「それは……」
「私も、あなたを大切に思っています」
言葉にすると、心の奥まで明るくなった。
彼はすぐには手を伸ばさなかった。だからリゼットのほうから、作業で傷の残る彼の手に自分の手を重ねた。
大きくて、少し冷たい手だった。
ユリウスはその手を、壊れやすいものに触れるように包んだ。
窓の外で、水路が新しい流れを刻んでいる。
翌朝、看板が入口へ掲げられた。
陽を受けた木板の文字が、通りを歩く人々の目に入る。
リゼット・ユリウス共同水路工房。
その名の下を、子どもたちが駆け抜けていく。住民たちは足を止め、誇らしげに看板を見上げていた。
工房の中で、二人は次の調査表を広げていた。
守るべき水路は、まだ残っている。
けれど、もう一人で向き合う必要はない。
流れの音を聞きながら、リゼットは隣にいるユリウスの手を、そっと握り直した。




