第8話 音紋が示す地下の道
翌朝、東の貯水槽には、薄い水の膜が残っていた。
夜のあいだに流れが止まったわけではない。水は少しずつ、絶えず底へ届いていた。ただ、貯水槽の底には細かなひびが走っており、入った分だけ地下へ染み込んでいるのだと、ユリウスは調べて言った。
「このままでは、町へ配る前に水が逃げます」
貯水槽の縁にしゃがみ込み、彼はひびの一つを指でなぞった。
「底を補修する必要がありますね」
「でも、ひびの向こうから音がします」
リゼットは石壁に耳を寄せていた。
水の音に混じり、低い振動が返ってくる。昨日まで聞こえていた音とは違った。流れが一つではない。遠くから近づき、途中で二つに分かれ、また一つに重なる。
さら、さら、という細い音の下に、かすかな金属音があった。
誰かが地下で鎖を引いているような、長く尾を引く響きだった。
「水路の先に、別の空洞がある」
リゼットが呟くと、ユリウスは眉を寄せた。
「地図にはありません」
「だから、探す価値があります」
工房へ戻ると、リゼットは昨夜の記録と古い配管図を並べた。ユリウスが描いた図では、東の貯水槽から先に水路はない。けれど、貯水槽の底に刻まれた古い線は、東ではなく南東へ向かっている。
その線の端には、見慣れない印があった。
円の中に三本の短い線。音紋を記録する古い職人たちが使った印に似ている。
「これ、母の帳面にもありました」
リゼットは胸元から、母が残した小さな紙片を取り出した。伯爵家を出るとき、荷物の奥から見つけたものだ。紙には水路の断片的な記号と、母の筆跡で一言だけ書かれていた。
――水は、閉じられた場所ほど記憶する。
これまで意味をつかめなかった言葉が、今は地下の響きと結びついていく。
「貯水槽の下に、古い分岐路があるのかもしれません」
ユリウスが図を覗き込んだ。
「だとすれば、崩落している可能性が高い。入るなら、支柱と明かり、それに退路が必要です」
「町人会議に伝えましょう」
二人が工房を出ようとしたとき、入口に黒い外套の男が立っていた。
水門の管理人だった。昨日、東の貯水槽の鍵を持っていると話に出た男である。彼は工房の中を見回し、冷たい声で言った。
「勝手に地下を掘ることは認められない」
「貯水槽は町の共同施設です」
リゼットが答えると、男は鼻で笑った。
「共同施設だからこそ、素人に触らせるわけにはいかん。水が濁れば、責任を取れるのか」
「記録をつけ、危険を確認しながら進めます」
「記録など、いくらでも書き換えられる」
その言葉に、工房の空気が固まった。
リゼットは男を見つめた。母が追放された理由も、記録に記された「管理不備」という一行だけだった。誰が何を見て、何を決めたのか。その前後は、きれいに抜け落ちている。
ユリウスが一歩前へ出た。
「ならば、書き換えられないようにします。作業に立ち会う人間を増やし、確認した全員の名を残す」
「そんなことをしても、グラウス様が許可しなければ――」
「許可を待っていたら、町の水は戻りません」
マルタの声が背後から響いた。いつの間にか、何人もの町人が入口に集まっている。
「水門の鍵を一人で抱え込んでおいて、今さら安全を語るんじゃないよ」
管理人は顔を赤くしたが、周囲の視線に押され、何も言い返せなかった。やがて「勝手にしろ」と吐き捨てて、外へ出ていった。
その日の午後、町人たちは貯水槽の底を調べることにした。
ひびの周囲から石を少しずつ取り除くと、下から鉄の輪が現れた。長い年月、泥に埋もれていたらしい。ユリウスが錆を削り、ダリオがてこを差し込む。
「持ち上げるぞ」
力を合わせると、石板がかすかに動いた。
その瞬間、地下から音が響いた。
低い一音。
続いて、二つ。
さらに三つ。
リゼットは息を止めた。音は偶然ではなかった。一定の間隔で繰り返され、石壁の奥からこちらへ返ってくる。
「聞こえます。これは水路の印です」
彼女は濡れた石の上に指を置いた。
「一音は入口。二音は分岐。三音は……」
そこで音が途切れた。
誰も動かなかった。
やがて、地下の奥からかすかな水音が返る。今度は、はっきりと南東へ流れていた。
「三音は、道が生きている印です」
リゼットは顔を上げた。
石板の下には、人ひとりが通れるほどの暗い空間が口を開けていた。壁には古いレンガが積まれ、ところどころに円と三本線の音紋が刻まれている。
その一つだけ、最近削られたように新しい傷がついていた。
誰かが、ここを知っている。
ユリウスは灯りを地下へ向けた。細い階段が、闇の中へ続いている。
「今夜は入らない」
彼が言った。
「支柱を作り、退路を確保する。それから進みます」
リゼットは頷いた。胸の奥では、地下の音がまだ続いている。まるで彼女を呼ぶように、遠く、規則正しく。
水路の秘密は、貯水槽の下で終わってはいなかった。
母が追放された年に失われたものも、あの暗い道の先に残されているのかもしれない。
工房へ戻る途中、リゼットはユリウスに尋ねた。
「怖くないのですか」
「怖いですよ」
彼は少し間を置いて答えた。
「だから、準備をする」
その言葉に、リゼットは小さく笑った。
夕暮れ、彼女は新しい帳面を開いた。
――東の貯水槽下に、未記録の地下道を確認。
――音紋は三音。分岐の先に、水の流れあり。
――入口の印に、人為的な損傷を確認。
筆を置いたあと、最後の一行を書き加えた。
――明日、地下の道へ入る。




