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水路の音を読む令嬢は、辺境で居場所と恋をつくる  作者: 銀細工ナギ


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第6話 空き工房に灯る明かり

 翌朝、町の南側にある空き工房の扉が、重い音を立てて開いた。


 かつては水車の部品や配管を作っていた場所らしい。壁には錆びた工具が並び、床には木屑と煤が積もっている。窓ガラスは何枚か割れ、屋根の隙間から差し込む光の中で、埃が細かな雪のように舞っていた。


「ここを使っていいのですか」


 リゼットが尋ねると、マルタは腰に手を当てた。


「使われていない場所ですもの。持ち主は町を出て十年になります。水を戻してくれるなら、好きに使えと言っていました」


「好きに、というのは少し違います」


 工房の奥から、ユリウスが声をかけた。


「屋根が崩れかけています。床も補修が必要です。好きに使えば、明日には全員が瓦礫の下です」


 マルタは彼を睨んだ。


「では、直せばいいでしょう」


「材料がありません」


「なら、探せばいいでしょう」


 ユリウスは黙った。マルタは満足そうに鼻を鳴らした。


 そのやり取りを聞きながら、リゼットは工房の中央へ歩いた。土埃の下に、長い作業台が残っている。表面には無数の傷が刻まれ、その一つひとつから、かつてここで交わされた音が浮かび上がってくるようだった。


 金属を叩く音。木を削る音。水を汲む桶の音。


 そして、床下からかすかな響き。


 リゼットは立ち止まり、靴先で床板を軽く叩いた。


 こん。


 返ってきた音は、ほかの場所より低かった。


「下に空洞があります」


「地下室か?」


 ユリウスが近づいてくる。


「分かりません。ただ、何かが響いています」


 彼はしゃがみ込み、床板の隙間を調べた。腐食した釘を工具で抜くと、板が簡単に持ち上がった。


 その下には、古い石造りの溝があった。


 溝の底には、乾いた泥がこびりついている。だが、耳を澄ませば、遠くで水が石を撫でる音がしていた。


「旧水路につながっています」


 ユリウスが言った。


「この工房は、水路の分岐点に建てられていたようです。ここから南の排水溝と、東の貯水槽へ流れを振り分けていた」


「だから、工房の中に音が残っているのですね」


「音が残る?」


 マルタが首をかしげる。


 リゼットは説明しようとしたが、言葉を選んだ。母が教えてくれた音紋の話を、まだ誰にでも話してよいとは思えなかった。


「水の流れには癖があります。石の形や水圧によって、響きが変わるのです。その響きを比べると、どこで流れが止まり、どこへ逃げているか分かります」


 マルタはしばらく彼女を見つめたあと、工房の入口へ振り返った。


「聞いたかい」


 外で待っていた町人たちに呼びかける。


「この工房を片づけるよ。使える木材は選別して、石は南の水路へ運ぶ。若い者は屋根を見ておくれ」


 誰かが返事をし、別の誰かが笑った。


 ほどなくして、工房の中は人でいっぱいになった。古い棚を運び出す者、割れた窓を板で塞ぐ者、泥を掻き出す者。以前なら、身分の高い者が命令し、身分の低い者が黙って従うだけだっただろう。


 けれどここでは、誰もが自分の手で町を直そうとしていた。


 リゼットは作業台の上に帳面を開いた。濡れた頁は乾き始めていたが、文字の一部は滲んでいる。昨日、地下で見つけた記録の中には、水路の分岐を示す古い図があった。


 その図を工房の床下の溝と照らし合わせる。


「この石蓋を外せば、東の貯水槽へ行けます」


 彼女が指を差すと、ユリウスがすぐに工具を取りに向かった。


「待ってください」


「危険ですか」


「いえ。蓋の下に鉄の棒があります。先に外さないと、溝の壁を傷めます」


 ユリウスは足を止めた。


「見えるのですか」


「音で分かります」


 彼は何も言わず、指示された場所へ工具を差し込んだ。鉄棒を抜くと、石蓋は驚くほど軽く持ち上がった。


 その瞬間、地下から冷たい風が吹き上がった。


 風に混じって、水の音が近くなる。


 誰かが息を呑んだ。


「まだ生きている」


 リゼットは呟いた。


 古い水路は、長いあいだ塞がれていても完全には死んでいなかった。泥と根に押さえつけられながら、細い流れを保っていたのだ。


 ユリウスは灯りを溝の奥へ差し入れた。


「この先を清掃すれば、東の貯水槽まで通せるかもしれません」


「でも、貯水槽の入口はグラウスの管理下です」


 町人の一人が不安そうに言った。


「勝手に開ければ、罪に問われるぞ」


「町の水を止めるほうが罪でしょう」


 マルタが言い切った。


 ざわめきが広がる。誰もがグラウスの名を恐れていた。水門や貯水槽を管理する権利を握り、少しでも逆らえば配給を減らされる。記録を見せろと言えば、規則を盾に追い払われる。


 ユリウスは町人たちを見回した。


「誰か一人が開ければ、反逆だと言われます」


 彼は淡々と続けた。


「ですが、町の記録に基づいて、住民全員で清掃と修復を行うなら、誰か一人の勝手な行動ではありません」


 リゼットは彼の横顔を見た。


 地下で自分の判断を信じると言ったときと同じ目をしている。恐れがないわけではない。それでも、恐れを理由に正しいことを諦めない目だった。


「私たちが記録します」


 リゼットは帳面を閉じた。


「どの石を動かしたか、どれだけ水が流れたか、誰が作業したか。すべて書き残します。誰かが後から事実を書き換えようとしても、町の人たちが証人になれます」


 しばらく沈黙があった。


 やがて、年配の男が手を挙げた。


「俺は、東の貯水槽を見たことがある。十年前までは水が満ちていた」


「私は昔の配管図を持っています」


「うちは木材を出せる」


「鍛冶場の炉なら、まだ使える」


 一人、また一人と声が上がった。


 工房の中に、新しい音が生まれていく。


 斧が木を割る音。金槌が釘を打つ音。泥を運ぶ桶の音。誰かの指示に、別の誰かが答える声。


 リゼットはその響きに耳を澄ませた。ばらばらだった音が、少しずつひとつの流れになっていく。


 夕方、ユリウスが工房の入口に小さなランプを吊るした。


「暗くなる前に帰らないのですか」


 リゼットが尋ねると、彼はランプの芯を調整しながら答えた。


「夜も作業できるように」


「あなたは休まないのですね」


「あなたもでしょう」


 図星を突かれ、リゼットは目を逸らした。


 ユリウスはわずかに口元を緩めた。笑ったのかもしれない。ほんの一瞬だったが、ランプの明かりよりも温かく見えた。


「ここを、工房と呼んでもいいでしょうか」


 リゼットが言う。


「まだ屋根も床も直っていません」


「だからこそです。水路を直す場所で、記録を残す場所。町の人が集まって、考えて、手を動かす場所」


 彼女は灯りを見上げた。


「空き工房ではなく、始まりの工房にしたい」


 ユリウスは返事をしなかった。


 ただ、彼女の隣に立ち、同じ明かりを見上げた。


 外では、夜の町を乾いた風が通り抜けている。けれど地下では、細い水が確かに東へ向かっていた。


 その流れはまだ弱く、誰かが手を止めれば消えてしまいそうだった。


 それでも、灯りのともった工房には、人の声が残っている。


 水を取り戻すための声。


 奪われた記録を、もう一度つなぎ直すための声。


 そしてリゼットは初めて、自分の聞き取った音が、町の未来を動かし始めていることを知った。

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