第5話 あなたの判断を信じる
地下道に、濡れた靴音が近づいてきた。
ひとつではない。少なくとも三人。足音は急いでいるようでいて、道に慣れた者の歩き方だった。崩れた床の前で一度止まり、石を蹴る音がする。
ユリウスはすぐに灯りを消した。
闇の中で、彼の手がリゼットの肩に触れる。
「声を出さないでください」
囁きは、耳元でかすかに震えた。
「でも、帳面が」
「こちらへ」
彼は水門脇の石棚を押した。棚の奥に、人ひとりが身を隠せるほどの隙間が開く。古い点検用の空洞らしい。ユリウスが先に入り、リゼットを引き入れた。
背後で、明かりが揺れた。
「誰かいるのか」
男の声がした。
「水門の様子を見ろ。さっき、鎖が動いた」
「グラウス様に知られたら、俺たちまで責任を取らされるぞ」
グラウス。
その名前を聞いた瞬間、リゼットの胸の奥で、母の手帳の文字がひとつにつながった。
水門の閉鎖。配水記録の食い違い。何度も書き直された告発。母が追放された理由。
すべての背後に、同じ男がいる。
ユリウスの指が、彼女の手首を軽く押さえた。動くな、という合図だ。
足音が近づく。隙間の前を通り過ぎた男の靴から、水滴が落ちる音まで聞こえた。リゼットは息を止めた。
そのとき、水門の奥で、再び衝撃音が鳴った。
どん。
地下全体が震え、天井から細かな砂が落ちてくる。
「水圧が限界だ」
誰かが叫んだ。
「楔を確認しろ!」
男たちが水門へ駆け寄る。鉄扉を叩く音と、鎖を引く音が重なった。
リゼットは目を閉じた。
水の流れが聞こえる。水門の向こうから押し寄せる大きな流れ。その一部が、右下の亀裂へ逃げている。けれど、亀裂の先には古い空洞があり、そこへ水が溜まり続けていた。
このままでは、水門が崩れる。
崩れれば、地下道も町の南側も水に呑まれる。
彼女はユリウスの袖を引いた。
「右下の石を外してください」
彼は黙って彼女を見た。
「水が逃げています。あの石を抜けば、地下道ではなく西の排水溝へ流せます」
「排水溝は封鎖されています」
「音が聞こえます。完全には塞がっていません」
「失敗すれば、ここが崩れる」
「成功すれば、水門の圧力を下げられます」
ユリウスは一瞬だけ、水門と彼女を見比べた。
その間にも、鉄扉は軋み続けている。
「分かりました」
彼は小さく答えた。
「あなたの判断を信じます」
その言葉が、暗闇の中で不思議なほど鮮明に響いた。
リゼットは胸の奥が熱くなるのを感じた。伯爵家では、彼女の判断など聞かれたことがなかった。音を聞き分けても、記録を読めても、女中の勘だと笑われた。正しいかどうかではなく、誰が言ったかだけで価値を決められていた。
けれど今、ユリウスは身分でも肩書きでもなく、彼女の聞いた音を信じた。
二人は男たちに気づかれないよう、隙間の奥から反対側へ回った。リゼットが石に耳を当てると、低い水音の中に、ひとつだけ乾いた響きが混じっていた。
「ここです」
ユリウスが工具を差し込む。石は固くはまっていたが、周囲の土がすでに水で緩んでいる。彼が力を込めると、石がわずかに動いた。
その瞬間、水門の前で男が叫んだ。
「誰かいる!」
灯りがこちらへ向く。
「急いで!」
リゼットが囁く。
ユリウスは工具を捨て、両手で石をつかんだ。肩の筋肉が張り、息が荒くなる。石が数寸動いた。
細い水が噴き出した。
次の瞬間、石の奥から大量の水が流れ出し、地下道の床を一気に走った。水は西側の溝へ吸い込まれ、閉ざされた排水路の奥へ消えていく。
水門を押していた圧力が、明らかに弱まった。
鉄扉の軋みが止まる。
「何をした!」
男たちが駆けてくる。
ユリウスはリゼットの手をつかんだ。
「戻ります」
「帳面を」
「私が持っています」
彼の胸元から、濡れた帳面の端が覗いていた。
二人は崩れた床を避け、地下道を走った。背後から怒声が追ってくる。リゼットは音に意識を集中させた。左の壁は空洞、前方の天井はひび割れ、右の足元にはまだ崩れていない石の列がある。
「右です!」
ユリウスは迷わず方向を変えた。
背後で、追ってきた男の足元が崩れる音がした。怒鳴り声が水音に飲まれる。
やがて、地上から薄い光が差し込んできた。
鉄板を押し上げると、外ではマルタと数人の町人が待っていた。彼らの顔には不安と驚きが浮かんでいる。
「何があったのですか」
マルタが駆け寄る。
「グラウスの手の者が、水門を見張っていました」
ユリウスが答えた。
「それに、これを」
彼は帳面を差し出した。
リゼットは濡れた表紙に指を触れた。紙の奥から、古い水路の音がかすかに響いている。記録はまだ死んでいない。
「水門は、すぐには開けられません」
彼女は言った。
「でも、圧力は逃がせました。今日中に排水路を調べれば、安全に開く方法が見つかります」
町人たちは互いの顔を見た。誰も、彼女の言葉を笑わなかった。
ユリウスが隣に立つ。
「彼女の判断に従います」
短い言葉だった。
それだけで、集まっていた人々の空気が変わった。
遠く、町の中心から鐘が鳴った。乾いた鐘の音に重なって、地下の水が西へ流れ始める音が聞こえる。
リゼットはその響きを聞きながら、初めて思った。
この町でなら、自分の声を失わずにいられるかもしれない。
そして隣に立つ人のことを、もう単なる協力者とは呼べないことにも、気づき始めていた。




