第4話 閉ざされた水門の理由
翌朝、ヴァルネの空は薄い灰色だった。
雨の気配はない。それでも、旧水路の石壁は夜露に濡れ、ひびの奥から冷たい湿気が滲んでいた。
リゼットは、ユリウスとともに鉄板の前に立っていた。昨夜見つけた地下道へ続く入口である。町の人々は少し離れた場所から、固唾をのんで二人を見守っていた。
「掘削道具はそろいました」
ユリウスが言った。
「ですが、まだ掘りません」
「分かっています」
彼は不機嫌そうに答えたが、反対はしなかった。
リゼットは金属棒を取り出し、鉄板の上に置いた。棒の先から伝わる響きは、昨日より近かった。
とく、とく。
その後に、低く長い震えが続く。
「水は、この下を西へ流れています」
「地下道の先に貯水槽がある」
「いいえ。貯水槽へ落ちる前に、もう一度、止められています」
ユリウスは眉を寄せた。
「二つ目の水門か」
「たぶん。ただ、音が妙です」
リゼットは鉄板の周囲を歩いた。北側では響きが濁り、南側では細く抜ける。西へ近づくほど、金属を擦るような音が混じっていた。
「水門は、閉じているだけではありません。何かで固定されています」
ユリウスがしゃがみ込み、鉄板の縁を調べた。
「固定具は錆びている。十年前から動かしていないなら、当然でしょう」
「錆の音ではありません」
「音で錆の種類まで分かるのですか」
「錆ではなく、石に食い込んでいます。水圧で閉じたまま動かないのではなく、外から楔を打ち込まれた音です」
ユリウスの顔から、わずかに表情が消えた。
「誰かが閉じた」
「はい。そして、開かないようにした」
その言葉が響くと、後ろにいた町人たちがざわめいた。
マルタが近づいてきた。
「十年前の地震のあと、水路は危険だから閉じられたと聞いています」
「誰が閉じたのですか」
ユリウスが尋ねる。
「当時の水利組合長です。名前はグラウス。今は町の穀物商会を束ねています」
その名を聞いた瞬間、ひとりの老人が小さく舌打ちした。
「グラウスなら、崩落の翌日に旧水路へ入ったそうだ」
「翌日に?」
リゼットは振り返った。
「地震の後は誰も近づけなかったはずでは?」
「そう言われていました。でも、あの男と数人の手下だけは入った。戻ってきたときには、もう水門が閉じていた」
老人は濁った目で水路を見た。
「そのあと、町には別の水路を使えと言われた。けれど新しい水路の水は少なくてな。水代も、あのころから急に上がった」
マルタが唇を結んだ。
「グラウス商会が管理する貯水槽から、水を買う仕組みになったのです」
乾いた風が、空の水路を撫でていった。
リゼットは母の手帳を開いた。ヴァルネの記録の横に、母の文字が残っている。
――水門は災害による閉鎖ではない。水量の減少を示す記録と、町の配分帳が一致しない。
その一文の下には、何度も書き直した跡があった。
「母は、これを知っていた」
「何を?」
ユリウスが尋ねる。
「水門が閉ざされた理由です。地震で壊れたのではなく、誰かが水を独占するために閉じた」
リゼットの声は震えなかった。だが、手帳を持つ指には力がこもった。
「母は、そのことを告発しようとしたのだと思います」
ユリウスは黙っていた。
彼は鉄板の隙間へ細い工具を差し込んだ。しばらく探ると、金属が触れ合う音がした。
「楔がある」
「外せますか」
「外側から打ち込まれている。ここからでは無理です」
「では、地下道へ入らなければ」
「危険です」
「それでも入ります」
リゼットが即答すると、ユリウスは彼女を見た。
「水が流れ込んでいる。足場が崩れたら戻れません」
「水の音を聞けば、危険な場所は分かります」
「分かることと、避けられることは違う」
「あなたは行くのでしょう」
「私が行くのは仕事だからです」
「私にとっても仕事です」
ユリウスは何か言い返そうとしたが、やめた。代わりに、持っていた縄を取り出した。
「腰に結んでください。私の合図なしに進まないこと」
「命令ですか」
「事故を防ぐための指示です」
「分かりました」
鉄板を持ち上げると、地下から湿った冷気が吹き上がった。暗い穴の底で、水が細く流れている。
ユリウスが先に降り、リゼットが続いた。
地下道は狭く、二人が並んで歩くこともできなかった。壁には古い刻印が並び、ところどころに赤い塗料の跡がある。母の手帳に記された音紋と同じ場所で、石が低く唸っていた。
「止まってください」
リゼットが囁いた。
ユリウスが足を止める。
「前方の床が空洞です。右側を歩いて」
「根拠は?」
「水の反響が、下から返っています」
彼は疑わずに右へ寄った。次の瞬間、左側の床が崩れ、石片が水の中へ落ちた。
暗闇の底から、長い水音が返ってくる。
ユリウスは崩れた場所を見下ろし、それからリゼットを見た。
「助かりました」
「お礼は後で」
さらに進むと、道は大きな空間へ出た。
そこには、地下水門があった。
石造りの壁いっぱいに設けられた鉄の扉。その前には太い木の楔が三本打ち込まれ、楔の上から新しい釘で金属板が固定されている。十年前のものにしては、釘の表面がほとんど錆びていなかった。
ユリウスが手で触れた。
「最近、補修されている」
「水門を閉じた後も、誰かがここへ来ていた」
水門の脇には、小さな石棚があった。その奥から、紙の束が覗いている。
リゼットが引き出すと、湿気で膨らんだ帳面が現れた。表紙には、かすかに「配水記録」と読める文字が残っている。
「持ち帰ります」
ユリウスが言った。
そのとき、水門の向こうから、低い衝撃音が響いた。
どん、と一度。
続いて、どん、どん、と二度。
水圧が上がっている。
「急いで戻る」
ユリウスがリゼットの腕をつかんだ。
だが彼女は、水門に手を触れた。冷たい鉄の奥から、ひとつの音が聞こえていた。
とく、とく、とく。
母の残した古い歌と同じ調子。
その響きに重なるように、別の音があった。
かすかな金属音。誰かが、向こう側で鎖を動かしている。
「ユリウスさん」
「何です」
「この水門は、閉じたままではありません」
リゼットは暗い扉を見つめた。
「誰かが今も、こちらから水を流せないように見張っています」
遠くで、地上へ続く鉄板が軋んだ。
二人以外の足音が、地下道へ降りてきた。




