第3話 無愛想な技師と古い歌
ヴァルネへ着いたのは、三日目の夕方だった。
荷馬車を降りたリゼットは、まず風の音を聞いた。乾いた風が、家々の隙間を抜けていく。屋根の上で鳴る風鈴も、軒下に吊された空き瓶も、どこか疲れたような音を立てていた。
町の中央には、大きな水路が走っている。けれど、石造りの底に水はなく、ひび割れた泥が細長く続いていた。
「リゼットさんですか」
声をかけてきたのは、日に焼けた中年の女性だった。依頼の手紙に署名していた、水利組合の書記だという。
「はい。あなたは?」
「マルタです。お待ちしていました。宿を用意していますが、その前に来てください」
マルタは水路の脇を歩き出した。
町の人々は、彼女を見てひそひそと話した。伯爵家から来た娘だと聞いているのか、それとも、ただの若い女が水路を直せるはずがないと思っているのか。視線はどれも、歓迎より不安に近かった。
水路の北端には、古い石門があった。その前にひとりの男が立っている。
背が高く、黒い作業着の袖を肘までまくっていた。灰色の髪は風に乱れている。手には折りたたまれた設計図があり、顔立ちは整っているのに、眉間には深い皺が刻まれていた。
「ユリウスさん」
マルタが呼びかける。
男は設計図から目を上げた。
「この人が、音を読む技師ですか」
「技師ではありません」
リゼットが答えると、ユリウスの眉がわずかに動いた。
「では、何です」
「水路の音を聞き分ける者です」
「肩書きの話ではありません。何ができるのかと聞いています」
ぶっきらぼうな言い方だった。
リゼットは少しだけ背筋を伸ばした。
「水の流れがどこで弱まり、どこに空洞や亀裂があるか、音から推測できます。古い記録が残っていれば、音の変化と照合することも」
「推測、ですか」
「聞けば分かります」
「聞いて外れたら?」
「外れた理由を調べます」
ユリウスは黙った。やがて、石門の前から横へ退いた。
「聞いてください」
門の向こうには、封鎖された旧水路が続いていた。入口には厚い鉄格子がはめられ、錆びた鎖が幾重にも巻かれている。水路の脇には、古い測量杭が並んでいた。
リゼットは鞄から母の金属棒を取り出した。
「それは……」
「測定器具です」
「ずいぶん古い」
「母の形見です」
ユリウスはそれ以上聞かなかった。
リゼットは石門の柱に手を添えた。冷たい石の向こうから、微かな振動が伝わってくる。
最初は何も聞こえなかった。
風が鳴り、遠くで荷車が軋み、町の誰かが咳をした。その下に、かすかな響きがあった。
とく。
間を置いて、とく。
さらに長い沈黙。
とく、とく。
リゼットは目を閉じた。
「水は完全には止まっていません」
ユリウスが腕を組む気配がした。
「見れば、底は乾いています」
「表面は、です。地下の細い流れが残っています。ただし、途中で何かにぶつかっている」
「崩落でしょう」
「違います」
リゼットは金属棒の先を石門の根元に当てた。低い音が棒を伝い、指先へ返ってくる。
「崩落なら、音はもっと散ります。これは硬いものに、一定の間隔で水が当たっている音です」
「堰がある?」
「たぶん。けれど自然にできたものではありません」
ユリウスは設計図を開いた。
「旧水路は十年前の地震で崩れたと記録されています。ここから南へ百二十歩の地点で天井が落ち、その先は埋没した」
「記録では、そうなっているのですね」
「ええ」
「でも音は、南へ進んでいません」
リゼットは水路の奥を見つめた。
「流れは西へ曲げられています。誰かが、途中で水を分けたのでしょう」
周囲にいた町人から、ざわめきが起こった。
ユリウスは設計図を見下ろし、指で線をなぞった。
「この図には分岐がない」
「だから、古い記録が必要なのです」
リゼットは母の手帳を取り出した。擦り切れた革表紙を開くと、細い文字と音符に似た記号が並んでいる。母が水路の響きを記した音紋だった。
その中に、ヴァルネという地名があった。
「母は、この町の水路を調べたことがあります」
「いつです」
「十年以上前です」
ユリウスの目が初めて、はっきりと彼女へ向けられた。
「名前は?」
「エレノア・フェルン」
その名を口にした瞬間、風が止まったように感じた。
マルタが息をのむ。
「フェルン……あの記録官の?」
「ご存じなのですか」
「昔、町の水路を直そうとしていた人です。でも、調査の途中で問題を起こしたと聞いています」
リゼットの胸が固くなる。母を追放した理由と同じ言葉だった。
ユリウスは手帳を見た。
「その記号は、設計図の代わりになりますか」
「音の記録です。水路の形を直接示すものではありません。でも、ここにある音紋と今の響きを比べれば、流れの変化が分かります」
「比べてください」
短い言葉だった。
リゼットは石門の柱を何度も叩き、音を聞き分けた。高い返響、鈍い反響、石の奥で消える音。母の手帳に記された印とひとつずつ照らし合わせる。
やがて、ある一点で手が止まった。
「ここです」
水路の脇に立つ、苔むした測量杭だった。
「この下に空洞があります。水は西へ流され、そこから地下の貯水槽へ落ちている」
ユリウスが杭の周囲を調べた。土を掘ると、すぐに平らな鉄板が現れた。錆びついた取っ手を引くと、地下から湿った空気が吹き上がる。
町人たちが声を上げた。
ユリウスは身を屈め、穴の中を覗いた。暗闇の底で、水が小さく跳ねている。
「……本当に流れている」
「言ったでしょう」
「誰も、ここを調べなかったのですか」
「地震で崩れたと決めつけていたのでしょう」
ユリウスは鉄板を閉じ、立ち上がった。
「明朝、掘削を始めます」
「待ってください」
リゼットは手帳を開いたまま言った。
「先に水の行き先を確かめるべきです。無理に開けば、下流の壁が崩れます」
「では、どうする」
「音を追います。分岐の先に、まだ別の栓があるはずです」
ユリウスは彼女を見た。無愛想な顔に、ほんのわずかな変化が浮かんだ。
「あなたは、音だけでそこまで分かるのですか」
「音だけではありません。記録と、石の返事と、今ここにいる人たちの話を合わせます」
「なるほど」
それが褒め言葉なのかどうか、リゼットには分からなかった。
ユリウスは設計図を畳んだ。
「明日から、私と一緒に来てください」
「雇っていただけるのですか」
「町が費用を出します。私は監督するだけです」
「私を信用していないのですね」
「会ったばかりですから」
あまりにも率直で、リゼットは思わず彼を見返した。
ユリウスは表情を変えずに続けた。
「ですが、今の判断は正しかった。だから、次も聞きます」
夕暮れの水路に、乾いた風が戻ってきた。
リゼットは母の手帳を胸に抱いた。長いあいだ、誰にも価値を認められなかった記号が、初めて未来へ続く道を示している。
そのとき、地下の奥から音が聞こえた。
とく、とく、とく。
母の手帳に残された古い歌と、同じ調子だった。
リゼットは息を止めた。
この水路のどこかに、母が最後に残したものがある。
そして隣では、無愛想な技師が暗い水路を見つめていた。言葉は少なかったが、その目にはもう、彼女を追い返す色はなかった。




