第2話 伯爵家を出る依頼
リゼットは、朝食室へ戻る前に、納戸へ駆け込んだ。
古びた木箱の中には、彼女が長いあいだ捨てられずにいたものが入っている。母の使っていた細い金属棒、擦り切れた革表紙の手帳、そして水路の音を記すための小さな黒鉛筆。
母が追放された日、伯爵家の役人は部屋中を調べた。水路記録も、測定器具も、ほとんどが持ち去られた。それでも母は、最後の夜にこの箱だけをリゼットへ渡した。
「音を覚えておきなさい。紙を燃やされても、耳に残ったものは消えないから」
母はそう言った。
当時のリゼットには、その言葉の意味が分からなかった。ただ、泣き腫らした母の目を見て、箱を抱きしめた。
今、その箱を開ける手が震えている。
ヴァルネからの依頼は、母の技術を必要としていた。屋敷で無価値だと笑われてきたものが、遠い町では誰かを救えるかもしれない。
だが、伯爵家を出るには許可がいる。
リゼットは手紙を懐へしまい、朝食室へ向かった。
扉を開けると、伯爵と夫人、セシリアがすでに席についていた。王都から来る客を迎えるため、食卓には銀器が並び、焼きたてのパンと果物が山のように置かれている。
「遅いわ」
伯爵夫人が顔を上げた。
「申し訳ありません。庭の井戸で、少し異常が――」
「言い訳は結構よ。紅茶を替えてちょうだい」
リゼットは黙って盆を取りに行った。けれど、胸の中にしまった手紙が、歩くたびに熱を持つ。
伯爵は新聞を広げたまま、リゼットを見ようともしない。屋敷の中で彼女が話しかけても、返事をするのは決まって夫人かセシリアだった。
それでも、今だけは言わなければならない。
「伯爵様」
新しい紅茶を注ぎ終えたリゼットは、盆を抱えたまま立ち止まった。
「何だ」
「ヴァルネの町から、私宛てに依頼が届きました」
伯爵の指が新聞の端で止まった。
「依頼?」
「旧水路の再生を手伝ってほしいと。水路の音を読む者を探しているそうです」
セシリアが吹き出した。
「あなたに? ずいぶん変わった町ね」
「笑い事ではありません」
思わず言い返すと、室内の空気が固まった。
リゼット自身も驚いていた。これまでなら、どんな言葉も飲み込んできた。だが、手紙を読んだあとでは、黙っていることが裏切りのように感じられた。
伯爵は新聞を畳んだ。
「それで、どうしたい」
「行かせてください。町の水が失われれば、多くの人が困ります。私なら役に立てるかもしれません」
「お前はこの家の使用人だ」
「正式な契約はありません」
「恩を忘れたか」
伯爵の声は低かった。
「母親が問題を起こした後も、お前を置いてやったのは誰だと思っている」
胸の奥に、冷たいものが沈んだ。
母が問題を起こしたのではない。何度そう言い聞かせても、伯爵家の人々は十年かけて、その罪を彼女の名前に貼りつけてきた。
「置いていただいたことには感謝しています」
リゼットは顔を上げた。
「ですが、私の耳まで、この家に置いていくことはできません」
セシリアが椅子を鳴らして立ち上がった。
「生意気よ! 雑用しかできないくせに、技師の真似事をして」
「真似ではありません」
「では証明してみなさい。あなたがいなくても、この家は何も困らないわ」
その言葉に、リゼットの脳裏で、地下の音が蘇った。
とく、とく、とく。
貯水槽へ続く流れは細く、途中に不自然な衝撃音があった。もし誰かが水路を塞いだのなら、屋敷の水は数日で止まる。伯爵家が困らないという保証は、どこにもない。
「分かりました」
リゼットは盆を卓上に置いた。
「では、今日付けで辞めさせてください」
夫人が息をのんだ。
伯爵はしばらく黙っていたが、やがて冷笑した。
「行く場所もないくせに」
「あります」
懐の手紙に触れる。
「ヴァルネが、私を必要としています」
言い切った瞬間、足元が揺らいだ。恐ろしい。屋敷の外へ出たことなど、買い物の使いに行ったときくらいしかない。身寄りも、金も、旅の経験もない。
それでも、ここに残れば、何も変わらない。
伯爵は手を振った。
「勝手にしろ。二度とこの家の敷居をまたぐな」
その言葉は、解放の許しというより、追放の宣告に聞こえた。
リゼットは一礼し、食堂を出た。
納戸へ戻ると、持ち物は驚くほど少なかった。母の手帳、金属棒、着替えが二組。それから、これまでの給金として渡されたわずかな銅貨。古い布袋に詰めても、片手で持ち上げられる重さだった。
女中頭は引き止めなかった。庭師の老人だけが、裏門まで見送りに来てくれた。
「本当に行くんだな」
「はい」
「ヴァルネまでは、荷馬車で三日だ。街道の分かれ道で、青い屋根の宿を目印にするといい」
老人は、包みにしたパンを差し出した。
「道中で食べな」
「ありがとうございます」
リゼットが頭を下げると、老人は困ったように笑った。
「戻ってきてもいいんだぞ」
リゼットは屋敷を振り返った。
高い窓。磨かれた石壁。母が歩いた廊下。そこには、彼女の過去が閉じ込められている。けれど未来まで、そこにあるとは限らない。
「戻るときは、私が自分で決めます」
そう答えて、裏門を出た。
街道には、朝の霧がまだ残っていた。遠くの空は淡い青に変わり始めている。リゼットは布袋を抱え、ヴァルネへ向かう荷馬車を探して歩き出した。
背後で、伯爵家の井戸が低く鳴った。
とく、とく、とく。
その音は、別れを惜しむようにも、何かを警告するようにも聞こえた。
リゼットは立ち止まらず、前を向いた。
水路の音が指す先に、母の失われた記録と、自分の知らない世界が待っている。
そして遠い辺境の町では、彼女を迎えるために、ひとりの寡黙な技師が干上がった水路の前で、古い設計図を広げていた。




