第1話 水路の音が、嘘を告げた
夜明け前の伯爵邸は、眠っているふりをしていた。
石造りの廊下には冷気が溜まり、壁に掛けられた歴代当主の肖像画だけが、薄明かりの中で目を開けている。召使いたちの足音も、厨房から漂うパンの匂いもまだない。けれど、庭の地下を走る水路だけは、ずっと目を覚ましていた。
リゼットは裏庭の井戸のそばにしゃがみ、耳を石蓋へ押し当てていた。
とく、とく、とく。
遠くで小石を転がすような音がする。その奥に、細い金属を爪ではじくような響きが混じっていた。
水路の音は、誰にでも同じように聞こえるわけではない。
流れが速ければ低く太く鳴り、分岐に異物が詰まれば、音の端が濁る。古い石組みがずれれば、一定の間隔で小さく震える。リゼットは幼いころから、その違いを聞き分けてきた。
「またそんなところにいるのね」
背後から声がして、リゼットは立ち上がった。
伯爵家の長女、セシリアが、侍女を二人連れて庭へ出てきたところだった。淡い桃色の外套を肩に掛け、泥のつく場所など見たこともないような顔をしている。
「申し訳ありません。すぐに仕事へ戻ります」
「仕事ですって? あなたの仕事は、朝食室の灰を捨てることでしょう。水路の番人ではないわ」
「はい」
「それなのに毎朝、井戸に耳をつけている。気味が悪いと思われても仕方ないでしょう」
セシリアは笑った。侍女たちも、声を抑えて笑った。
リゼットは俯いた。笑われることには慣れている。母が屋敷を追われてから、彼女の身分はますます曖昧になった。正式な使用人でもなく、客人でもない。ただ、伯爵夫人が「置いておけばいい」と言ったから、古びた納戸の隅で寝起きし、誰もやりたがらない仕事を引き受けている。
それでも、水路の音だけは嘘をつかなかった。
リゼットはもう一度、井戸へ目を向けた。
とく、とく、とく。
やはりおかしい。
「奥の貯水槽へ続く流れが、細くなっています」
思わず口にすると、セシリアの眉が跳ね上がった。
「誰がそんなことを聞いたの?」
「音が……」
「音ですって?」
セシリアの声が高くなる。
「水路は使用人が管理するものよ。あなたのような雑用係が勝手なことを言って、父上を不安にさせたらどうするの?」
「ですが、今日の昼までに詰まりを除かないと、北棟の水瓶が空になります」
「黙りなさい」
短い言葉が、冷たい水のように落ちた。
リゼットは唇を閉じた。セシリアは満足そうに踵を返す。
「それに、今朝は王都からお客様がいらっしゃるの。目障りなものは片づけておいて。あなたも、できるだけ人前に出ないでちょうだい」
去っていく足音が、石畳の向こうへ消えていく。
リゼットはしばらく動かなかった。
水路の音が、また響いた。
とく、とく、とく。
だが今度は、その間に別の音が入った。
ごん。
地下のどこかで、重いものがぶつかったような音だった。
リゼットは息を止めた。
貯水槽の詰まりではない。水の流れを塞ぐなら、音はもっと長く濁るはずだ。今の音は、一度きりで、しかも流れの上流からではなく、横合いから聞こえた。
誰かが水路の中に、何かを落とした。
そう考えた瞬間、裏門のほうから荒い足音が近づいてきた。庭師の老人が、帽子を押さえながら駆けてくる。
「リゼット、お前さん、ここにいたか」
「どうしました?」
「東の街道から使いが来た。辺境の町、ヴァルネの役所からだそうだ」
老人は息を整え、封蝋のついた一通の手紙を差し出した。
「お前さん宛てだ」
「私に?」
「珍しいこともあるもんだ。伯爵様宛ての間違いじゃないのか?」
リゼットは封筒を受け取った。宛名には、確かに自分の名が書かれている。
リゼット・アーヴェル。
その姓を見た途端、胸の奥がきしんだ。
母がまだ屋敷にいたころ、母は水路の記録をつけていた。どの季節に、どの水路が、どの音を立てるのか。古い記録の読み方を知っている人は少なく、母はその技術を買われて伯爵家に仕えていた。
けれど十年前、母は「水利記録を改ざんした」と обвин? Need Japanese no foreign. 「罪を着せられ」. 追放された。母は最後まで何もしていないと言ったが、誰も耳を貸さなかった。
手紙の封を切る。
中には、短い依頼文が入っていた。
――ヴァルネの旧水路が枯れ、町の貯水池も底を見せている。水路の音を読む者がいると聞いた。どうか、再生の手を貸してほしい。
末尾には、町の印章が押されていた。
リゼットは読み終えても、すぐには顔を上げられなかった。
遠くで、屋敷の鐘が鳴る。朝食の時間を知らせる鐘だ。今日も彼女には、空になった灰皿を運び、冷えた暖炉を掃き、客人の靴の泥を落とす仕事が待っている。
その一方で、地下の水路は誰かの手によって塞がれ、伯爵家の記録には残らない異常を告げている。
リゼットは井戸の石蓋に手を置いた。
水の音は、一定の間隔で震えていた。
まるで、急げ、と繰り返しているように。
「行くのかい?」
庭師が尋ねた。
「まだ、分かりません」
そう答えながら、リゼットは手紙を胸元へしまった。
そのとき、屋敷の二階から女中頭の怒鳴り声が飛んできた。
「リゼット! どこにいるの! 朝の仕事が山ほどあるんだよ!」
いつもの声だった。いつもの一日が、彼女を待っている。
けれど、水路の音は初めて、屋敷の外を指していた。
リゼットは石蓋から手を離し、手紙を握りしめた。
水は低いところへ流れる。
人の言葉がどれほど高い場所から落とされても、真実だけは、最後には流れ着く場所を知っている。
そしてこの朝、水路の音が告げた嘘は、彼女の人生を閉じ込めていた記録そのものだった。




