97.静かに終わった(第2部完&最終回)
アリシアが異世界へ帰ってから、数カ月が過ぎた。
こちらの世界では、彼女は突然姿を消した失踪者として扱われた。
当然、警察も動いた。
最後にアリシアと揉めていた人物として名前が挙がったのは、カイト、シオン、リオの三人だった。
三人はそれぞれ別々に呼ばれ、何度も事情を聞かれた。
いつから様子がおかしかったのか。
失踪する直前に何を話していたのか。
アリシアが行きそうな場所に心当たりはないか。
三人で口裏を合わせたのではないか。
だが、誰も本当のことは話さなかった。
話さなかったというより、話せなかった。
アリシアは異世界へ帰りました。
彼女は人間ではなく、竜でした。
そんな説明を警察が信じるはずがない。
下手に口にすれば、ふざけていると思われるか、失踪に関わったことを隠すために荒唐無稽な嘘をついていると疑われるだけだった。
カイトは何を聞かれても、知らないと答えた。
シオンもリオも同じだった。
警察には、三人が何かを隠していることくらい分かっていたのだろう。それでも、アリシアの失踪に直接関わった証拠は見つからなかった。
やがて警察は、三人からこれ以上の証言を引き出すことを諦めた。
捜査の対象は、アリシア本人の経歴へと移っていった。
すると、彼女が日本で使用していた身分証明に不自然な点が見つかった。
戸籍も、在学に必要な書類も、表面上は整っていた。
だが、詳しく調べれば辻褄の合わない部分がいくつもあり、さらに遡っていくと、裏社会の組織が身分を用意していたことが判明した。
そこから捜査は大きく方向を変えた。
アリシアの失踪事件というより、偽造された身分証明と、それを扱う組織の摘発へと発展していった。
アリシアをこの国に紛れ込ませるために関わった者たちが次々と捕まり、関係先にも捜査の手が伸びていく。
皮肉なことに、アリシアが異世界へ帰ったことで、これまで表に出なかったいくつもの犯罪組織が潰されることになった。
警察が学校を訪れる回数も減り、カイトたちへの疑いも、少しずつ薄れていった。
だが、学校の中で広がった噂は、そう簡単には消えなかった。
アリシアは、男女を問わず人気があった。
目立つ容姿をしていたことに加え、学校では誰に対しても優しく接していた。
本当はかなり猫をかぶっていたのだが、彼女の本性を知る者はほとんどいなかった。
クラスメイトたちにとってのアリシアは、少し変わっているが、綺麗で、優しく、誰にでも分け隔てなく接する少女だった。
そんな彼女が突然いなくなった。
しかも、直前にカイトたちと揉めていたのを全員が見ていた。
好奇心を抑えられる者の方が少なかった。
カイトに振られて、傷心のまま故郷へ帰ったらしい。
シオンとリオに嫌がらせを受けていたらしい。
三人でアリシアを追い詰め、学校にいられなくしたのではないか。
噂は日を追うごとに形を変え、本人たちの知らないところで勝手に話が膨らんでいった。
カイトは何度そのことを聞かれたか分からない。
「アリシアさん、本当にどこへ行ったの?」
「お前が振ったって本当か?」
「最後に話したんだろ?」
そのたびに、カイトは同じ答えを返した。
「知らない」
本当のことを知っているからこそ、それ以外のことは言えなかった。
シオンとリオも好奇の目にさらされた。
アリシアと激しく対立していたことを全員が知っていたため、陰では二人が追い出したのだとまで言われていた。
それでも二人は何も話さなかった。
アリシアがどこへ行ったのか。
何者だったのか。
それらはすべて、三人の間だけに残された。
やがて、時間が噂を押し流していった。
新しい話題が生まれ、警察も学校へ来なくなり、アリシアの名前が教室で口にされることも少なくなった。
彼女が使っていた席も、いつの間にかただの空席になっていた。
そんなある日の授業中、教師が黒板に問題を書いた。
説明を終えると、教室を見回し、一人の名前を呼ぶ。
「ユキト。この問題を解いてみろ」
教室の視線が一斉に集まった。
この世界で、カイトはユキトとして生活し続けている。
顔があまりにもよく似ていたため、周囲は誰も疑っていない。
そして元のユキトといえば、学年でも最低に近い成績だった。
異世界から来たばかりのカイトも、日本の勉強などほとんど分からなかった。
最初は文字を読むことすら満足にできず、授業で何を説明されているのかも理解できない。
元のユキトが勉強できなかったことも重なり、周囲からは完全に、運動以外何をやらせてもできない生徒だと思われていた。
カイトが席を立つと、教室に微妙な空気が流れた。
また答えられないのだろう。
教師も、少しくらいは勉強するようになったか確認するつもりで指名したのかもしれない。
カイトは黒板の前に立った。
問題を見る。
以前なら、何を求められているのかさえ分からなかった。
だが今は違う。
必要な式を書き、計算を進め、答えを出す。
迷いはなかった。
教室が静まり返る。
教師は黒板の答えを見た後、教科書へ視線を落とし、もう一度カイトを見た。
「……正解だ」
教師の声には、隠しきれない驚きが混じっていた。
「席へ戻っていいぞ」
カイトはチョークを置き、自分の席へ戻った。
短期間で日本の勉強へ追いつくことができたのは、ユウナのおかげだった。
放課後も、休みの日も、ユウナは毎日のようにカイトの勉強に付き添った。
分からないところを一つずつ見つけ、簡単な部分まで戻り、カイトが理解できるまで根気よく教え続けた。
ユウナはカイトがこの世界で困らないように、陰から支え続けた。
席へ戻る途中、カイトはユウナと目を合わせた。
ユウナは、自分が問題を解いた時よりも嬉しそうに、ほんの少し笑った。
カイトも、わずかに口元を緩める。
二人は言葉を交わさなかった。
それでも、その一瞬の視線だけで十分だった。
ユウナがどれほどカイトの成功を喜んでいるのか。
カイトが真っ先にその喜びを伝えたい相手が誰なのか。
二人がただのクラスメイトではないことは、誰の目にも明らかだった。
その様子を、シオンとリオが横目で眺めていた。
二人がカイトとユウナの交際を知った時は、揃って呆然とした。
ずっとアリシアばかりを警戒していた。
あれほど強引で、力も容姿も圧倒的なアリシアこそが、最大の恋敵だと思っていた。
だが、実際にカイトの隣に残ったのは、誰とも争わず、目立とうともしないユウナだった。
後になって考えれば、最初から一番の脅威だったのは、アリシアではなくユウナだったのかもしれない。
今では、そのことを二人で笑えるくらいには、気持ちも落ち着いていた。
シオンとリオは、アリシアを巡る騒動を通して、お互いの事情を知った。
かつては顔を合わせれば衝突していた。
ユキトを巡って張り合い、相手よりも自分の方がふさわしいと本気で思っていた。
だが今では、ユキトがどれだけ最低だったかという話で愚痴をこぼし、最後には二人の実父であるアッシュの悪口で盛り上がるようになっていた。
「私たちがいるのに異世界で結婚してるって何なのよ。しかも奥さん三人って、節操なさすぎでしょ!」
リオが吐き捨てるように言う。
「同意します。しかも、その子に私たちとの関係の清算まで押しつけるなんて、酷すぎます」
シオンも珍しく強い口調で続けた。
勿論、ユキトは酷い。
だが、アッシュはそれ以上だった。
世界へ羽ばたいてからも、派手な女関係は相変わらない。
「私、あの男がテレビに映るたびに血圧が上がるんだけど」
「私はそれが嫌で、テレビを見なくなりました」
アッシュに関しては2人とも、地獄に落ちればいいのにと思った。
そして何より腹立たしいのは、アッシュと比べると、ユキトが少しだけまともに見えてしまうことだった。
どちらがより最低かを真剣に語り合い、最後には二人とも嫌だという結論に辿り着く。
二人にしか分からない家族への不満があり、二人だからこそ笑い話にできる傷があった。
犬猿の仲だった二人は、いつの間にか親友になっていた。
それでも、カイトが教室を歩けば、二人とも時折その姿を目で追ってしまう。
今でも好きなのだと思う。
完全に気持ちが消えたわけではない。
だからこそ、二人はもうカイトを奪おうとはしなかった。
ユウナの隣にいる時のカイトが、一番穏やかな顔をしていると分かってしまったからだった。
「大学に行ったら、もっといい男を探そうよ」
リオが言うと、シオンも頷いた。
「そうですね。少なくとも、あの家族より面倒ではない男がいいです」
「条件が緩すぎない?」
「世の中には、その条件すら満たせない男性がたくさんいるんですよ」
二人はそんなことを話しながら、まだ見ぬ大学生活に期待を抱いた。
やがて高校を卒業する。
カイトは、ユウナと同じ大学へ進学した。
そこへ辿り着くまで、文字どおり死ぬほど勉強した。
元のユキトが積み重ねた最下位に近い成績と、異世界から来たカイトの知識不足。
その両方を背負った状態から、同じ大学に合格できるところまで追いついた。
ユウナに教えられ、自分でも何度も問題を解き、分からないことを一つずつ潰していった。
合格通知を見た時、カイトよりも先にユウナが泣いた。
大学へ入ってから、二人はようやく、普通の恋人らしい時間を持てるようになった。
同じ講義を受ける。
学食で一緒に昼食を取る。
帰りに店へ寄り、休日には二人で出かける。
カイトにとって、それは異世界にいた頃には想像もしなかった穏やかな日々だった。
大学へ通いながら、カイトは建築現場でアルバイトも始めた。
生活費に困っていたわけではない。
実際には祖母であるアヤカから、十分すぎるほどの援助を受けていた。
学費も生活費も惜しむことなく出されていた。
だがカイトは、ユウナと過ごすための金まで、アヤカに出してもらうつもりはなかった。
食事へ連れていく金。
二人で出かけるための金。
ユウナへ贈り物を買うための金。
それくらいは、自分で稼ぎたかった。
「ユウナに使う金まで、ばあ……母さんに出してもらうのは違う」
危うく祖母と呼びそうになりながら、カイトはそう考えていた。
肉体労働は、カイトにとってまったく苦ではなかった。
竜であるカイトの体は、人間とは比べものにならないほど頑丈だった。
本気を出せば、重い資材も片手で持ち上げられる。
何時間働いても、ほとんど疲れない。
もっとも、それをそのまま見せれば騒ぎになるため、人間として不自然に見えない程度に力を抑えていた。
それでも現場では、異常に体力のある新人としてすぐに重宝された。
初めは、ただ体を動かす仕事だと思っていた。
しかし、実際に働いてみると違った。
道具の名前と扱い方。
資材ごとの特徴。
図面の読み方。
作業の順番。
周囲との連携。
何より、事故を起こさないための安全管理。
覚えなければならないことは、いくらでもあった。
学校で習う知識とは違う。
覚えたことが、その日の仕事ですぐに役立つ。
自分が手を動かした分だけ、何もなかった場所に建物ができていく。
カイトは、それを生きた知識だと思った。
教えられたことを覚えれば、任される仕事が増える。
できることが増えれば、給料も上がる。
給料が上がれば、ユウナにしてやれることも増えた。
仕事は思っていた以上に面白かった。
カイトなら、スポーツの世界へ進むこともできた。
竜の身体能力を使えば、オリンピックでさえ簡単に勝てる。
だが、そうして得た勝利を、カイトは素直に喜べないと思った。
選手たちは、何年も努力を積み重ね、一秒や数センチのために人生を懸けている。
そこへ竜の肉体を持つ自分が混ざり、生まれつきの力で上回る。
それでは、どれだけ規則を守っていても、どこかにずるをしている感覚が付きまとう。
建築の仕事なら違った。
力を使っても、誰かの記録を奪うことはない。
自分が多く運べば、周りの負担が減る。
自分が早く覚えれば、仕事が進む。
自分の力が、誰かの努力を踏みにじるのではなく、誰かが暮らす場所を作るために使われる。
カイトには、その方が合っていた。
大学生活が始まってしばらく経った頃、ユウナがカイトを呼び出した。
いつもとは様子が違っていた。
顔が青く、何度も口を開いては閉じている。
「どうした?」
カイトが尋ねると、ユウナは視線を落とした。
「あのね」
「うん」
「私……妊娠したみたい」
その瞬間、カイトの頭が真っ白になった。
大学。
仕事。
住む場所。
ユウナの両親。
生まれてくる子供。
人間なのか。
竜なのか。
何から考えればいいのか分からない。
ユウナは、黙り込んだカイトの顔を不安そうに見つめた。
「……どうしようか」
その言葉には、子供をどうするかという問いだけではない意味が込められていた。
ユウナは、ずっと怖かった。
カイトは、自分の知らない世界から来た。
アリシアが突然この世界から消えたように、カイトもいつか、何も言わずに帰ってしまうのではないか。
自分には追いかけることもできない場所へ行ってしまうのではないか。
この人は、いつか自分の知らない世界へ帰ってしまうのではないか。
その不安は、恋人になってからも、完全には消えていなかった。
子供ができたと知れば、重荷だと思われるかもしれない。
責任を押しつけられたと感じ、離れていくかもしれない。
カイトは、そんなユウナの不安に気づかないまま笑顔で答えた。
「大丈夫だ。俺が責任を持つ」
ユウナの表情が、わずかに曇った。
「責任があるから、一緒にいてくれるの?」
カイトは、そこで初めて自分の言葉が足りなかったことに気づいた。
「違う」
ユウナが顔を上げる。
「子供ができたから一緒にいるんじゃない」
カイトは、今度は迷わずに言った。
「できる前から、俺はお前とずっと一緒にいたかった」
「カイト……」
「ユウナは、どうしたい?」
ユウナはしばらく答えられなかった。
目に涙を浮かべ、両手を腹の前で重ねる。
「怖い」
「うん」
「ちゃんと育てられるか分からないし、大学だってあるし、お父さんとお母さんにも怒られると思う」
「うん」
「でも……産みたい」
カイトは頷いた。
「分かった」
ユウナの手を取る。
「なら、三人で生きる方法を考える」
それから二人は、何度も話し合った。
カイトは大学を辞め、建築の仕事へ専念すると決めた。
ユウナは強く反対した。
自分と同じ大学へ入るために、カイトがどれほど努力したのかを知っていたからだった。
「私のせいで、辞めないで」
「お前のせいじゃない」
「あれだけ頑張ったのに」
「俺の目的は、大学へ行くことじゃなかった」
カイトは静かに言った。
「お前と同じ場所で生きられるようになることだった」
大学へ入るために覚えたことは、無駄にならない。
日本語も、計算も、社会の仕組みも、今では仕事の中で役に立っている。
将来、必要になればまた学び直すこともできる。
だが今は、ユウナと子供のそばにいることを選びたかった。
犠牲になるつもりはなかった。
カイト自身が望んで、その道を選んだ。
ユウナも、最後にはその意思を受け入れた。
二人は、ユウナの両親へ妊娠を報告した。
当然、激しく怒られた。
大学へ入ったばかりの娘を妊娠させたこと。
二人ともまだ若いこと。
今後の生活を、本当に支えられるのかということ。
ユウナの父親は、カイトを怒鳴りつけた。
母親も泣きながら、どうしてもっと考えなかったのかとユウナを責めた。
カイトは言い返さなかった。
頭を下げ、何を言われても受け止めた。
その日だけではなかった。
翌日も、カイトはユウナの家へ行った。
さらにその翌日も訪れた。
仕事を始めること。
現在の収入。
これから取る資格。
ユウナには、可能な限り大学を続けてもらうこと。
家賃も生活費も、出産に必要な費用も、自分が支払うこと。
生まれてくる子供から、絶対に逃げないこと。
カイトは、仕事が終わるたびに、毎日のように誠意を示しに通った。
怒鳴られても、追い返されても、次の日にはまた来た。
やがて、ユウナの父親が玄関に立つカイトへ言った。
「もう毎日来なくていい」
カイトは、完全に拒絶されたのだと思った。
だが父親は、苦い顔のまま続けた。
「今度からは、玄関に突っ立ってないで家に上がれ」
その日を境に、両親の態度は少しずつ変わった。
口だけではない。
本当に大学を辞め、毎日働き、ユウナを大切にしている。
体調が悪ければ病院へ付き添い、重い物はすべて持ち、必要なものがあればすぐに用意する。
最初は認めようとしなかった父親も、次第にカイトへ仕事のことを尋ねるようになった。
母親も、食事を勧めるようになった。
出産を迎える頃には、カイトは義理の息子として完全に受け入れられていた。
ユウナの父親など、親戚を前にすると、
「若いが、あいつは立派な旦那だ」
と口にするまでになっていた。
やがて、ユウナとカイトは一緒に暮らし始めた。
家賃も食費も、出産の準備も、赤ん坊のための品物も、カイトが喜んで支払った。
自分が働いて得た金を、ユウナと子供のために使える。
それが嬉しかった。
アヤカからの援助も、変わらず続いていた。
実際には祖母であるアヤカは、今でもカイトを自分の息子であるユキトだと思っている。
カイトも、もう訂正するつもりはなかった。
この世界では、ユキトとして生きていく。
学校でも、仕事でも、家族の前でも、カイトはユキトだった。
それで構わないと思っていた。
本当の名前を知り、二人きりの時にカイトと呼んでくれるのはユウナだけでいい。
それだけで十分に幸せだった。
アヤカは、元夫であるアキトとカイトを比べながら、何度も褒めた。
「あの人は妻も子供も捨てて逃げ続けたのに、あなたは逃げなかったのね」
アヤカは、カイトの手を握った。
「あの人の息子なのに、責任を取って偉いわ。立派になったわね、ユキト」
カイトは否定しなかった。
自分はアッシュの息子ではなく、その孫であることも。
ユキト本人ではなく、その息子であることも。
今さら説明する必要はないと思っていた。
ただ、責任を取るためだけにユウナのそばにいるわけではない。
責任と言われることに不満はなかったが、それだけではなかった。
カイトは、自分からユウナを選んだ。
自分から、この子の父親になると決めた。
アヤカの援助には感謝し、必要なものを揃えるために使わせてもらった。
カイトは建築会社で正式に働き始めた。
アルバイトだった頃よりも、覚えなければならないことは増えた。
先輩に頭を下げ、図面を読み、資格の勉強もした。
力だけではどうにもならないことが多かった。
だからこそ、面白かった。
一つ覚えれば、一つできることが増える。
任される仕事が増えれば、給料も上がる。
カイトは稼いだ金で、ユウナに必要なものを買った。
自分では欲しいと言わないユウナのために、体を冷やさない服を選び、寝やすい寝具を用意し、出産前には赤ん坊のための小さな服を何枚も買った。
買いすぎだとユウナに笑われても、カイトはやめなかった。
恋人だった二人は、少しずつ家族になっていった。
そして、出産の日を迎えた。
無事に生まれたと聞き、カイトは病院へ駆けつけた。
病室へ入る。
ユウナはベッドの上で、赤ん坊を抱いていた。
だが、顔が青い。
出産で疲れているだけではない。
何かに怯え、ひどく慌てているように見えた。
「ユウナ、どうした?」
カイトが近づくと、ユウナは唇を震わせた。
「あの……」
「何かあったのか?」
「えっと、その……」
うまく説明できないまま、ユウナは腕の中の赤ん坊へ視線を落とした。
「と、とにかく、赤ちゃんを見て」
カイトはベッドのそばへ寄り、赤ん坊を覗き込んだ。
黒に近い深緑の髪。
わずかに開いた瞳は緑色で、生まれたばかりだというのに、どこか眠たげに見える。
カイトにも、ユウナにも似ていない。
ユウナは焦ったまま言った。
「私の家族には、こんな髪の色の人はいないの」
「カイトの家族にはいる?」
カイトは答えなかった。
赤ん坊から目を離せなかった。
その沈黙を、ユウナは別の意味に受け取った。
出産を終えたばかりで、疲労と不安が重なり、まともに考えることができていなかった。
カイトに、他の男の子供ではないかと疑われる。
そう思った瞬間、恐怖が膨らんだ。
「違うの」
「私、本当に浮気なんてしてないから」
カイトは、まだ赤ん坊を見つめていた。
「信じて。お願い。この子は絶対にカイトの子で――」
カイトの目から、涙がこぼれた。
ユウナの顔がさらに青くなる。
「カイト……」
だがカイトは、泣きながら笑っていた。
「ありがとう」
ユウナは目を瞬かせる。
「……何が?」
カイトは、赤ん坊から目を離さないまま呟いた。
「俺、ちゃんと母さんの子だった」
ユウナの頭の中に、さらに疑問が増えた。
カイトが何を言っているのか分からない。
なぜ赤ん坊を見て泣いているのか。
なぜ突然、母親の話を始めたのか。
カイトは、黒に近い深緑の髪と、眠たげな緑の瞳を見つめ続けた。
母であるネムリアと同じだった。
カイトは灰竜だった。
ネムリアは幻夢竜種だったが、カイトは母の竜種を受け継げなかった。
姿も、ほとんど似ていなかった。
一方で、父であるユキトとは、生き写しと言われるほど顔が似ていた。
父の子であることだけは、疑いようがなかった。
だが、当時のカイトは、ユキトを普通の人間だと思っていた。
人間である父と瓜二つの顔を持ちながら、なぜ自分は灰竜なのか。
なぜ、母であるネムリアの特徴を何一つ受け継いでいないのか。
以前、一度だけ考えてしまった。
自分は、本当はネムリアの子供ではないのではないか。
父がよその女との間に作った子供を、母さんに育てさせているのではないか。
そんな疑いが、何度も頭をよぎった。
けれど、ネムリアはカイトを実の息子と変わらないほど大切にし、惜しみなく愛情を注いでくれた。
疑う理由など、どこにもなかった。
それでも、不安は消えなかった。
アリシアの言葉を信じるなら、父さんは本当は灰竜だったらしい。
それなら、自分が灰竜として生まれたことにも説明がつく。
だが、あのいい加減な父親なら、よその女との間に作った子供をネムリアに育てさせていたとしても、絶対にありえないとは言い切れなかった。
その疑いは、今までずっと心の奥に残っていた。
だからカイトは、ユウナにこれまで母親のことを詳しく話したことがなかった。
話せば、自分が本当の息子ではないかもしれないと疑っていることまで、打ち明けなければならなくなる。
本当のことを口にした瞬間、恐れていたことが現実になるような気がしていた。
だが、目の前の赤ん坊には、ネムリアの面影があった。
カイト自身には現れなかった母親の特徴が、一世代を飛び越えて息子に現れている。
黒に近い深緑の髪。
眠たげな緑色の瞳。
間違いなく、母のものだった。
自分は、ちゃんと母の子供だった。
母から何も受け継いでいなかったわけではない。
カイトの中に確かに残っていたものが、息子へ渡った。
父親になった喜びと、自分もまた母親の息子だったという安堵が重なり、涙が止まらなかった。
数日が過ぎた。
出産直後の混乱も落ち着き、ユウナの顔色も戻り始めた頃。
病室には、カイトとユウナ、赤ん坊の三人だけがいた。
カイトは、これまで避けてきた母親の話をした。
「母さんの髪は、この子と同じだった」
ユウナは、腕の中で眠る赤ん坊を見る。
「黒く見えるくらい濃い緑で、目も緑だった」
「そうなの?」
「ああ。いつも眠そうな顔をしてた。何を考えてるのか、あんまり分からない竜だった」
カイトは少し笑った。
それから、母とは竜種も姿も違ったこと。
そのせいで、ネムリアの本当の子供ではないのではないかと疑っていたことを、初めてユウナへ打ち明けた。
「母さんは、ずっと俺を大切に育ててくれた」
カイトは眠る赤ん坊を見つめた。
「疑う理由なんてなかった」
「でも、怖かったんだ」
ユウナは何も言わず、カイトの話を聞いていた。
すべてを聞き終えると、空いている方の手でカイトの手を握った。
「じゃあ、この子が教えてくれたのね」
カイトが顔を上げる。
「カイトは、ちゃんとお母さんの子だったって」
カイトは、小さく頷いた。
赤ん坊が生まれたことで、カイトは父親になった。
同時に、もう一度ネムリアの息子に戻ることができた。
ユウナは、赤ん坊を優しく抱き直した。
「この子の名前、どうしよっか?」
カイトは少し考えた。
異世界から来た自分が、この世界で初めて作った家族。
ユウナと共に育て、この世界で生きていく子供。
しばらく悩んだ末に、カイトは答えた。
「男の子だから……マキト」
「マキト?」
「ああ」
ユウナは、その名前を確かめるように繰り返した。
「マキト」
呼ばれたことが分かったわけでもないだろう。
それでも、赤ん坊の小さな手が、わずかに動いた。
ユウナはマキトを胸元へ抱き寄せる。
それから幸せそうに笑い、マキトを見つめた。
「マキト。愛してるわ」
カイトはユウナとマキトをまとめて抱きしめた。
「俺もだ」
もう、自分が誰の子供なのかを疑う必要はなかった。
これからは、ユウナの夫として。
そしてマキトの父親として、この世界で生きていく。
ユキトが逃げて始まった物語は、カイトが新しい家族を得たところで、静かに終わった。




