96.親子喧嘩
アリシアの手を引き、ユキトが家のドアを開ける。
「とりあえず、中に入るぞ」
アリシアは返事をしなかった。
けれど、拒みもしない。
ユキトに手を引かれるまま、ゆっくりとリビングへ足を踏み入れた。
その瞬間。
投影機から漏れる淡い光が、アリシアの顔を照らした。
映っていたのは、現代日本にいるカイトだった。
テーブルの上には、飲み物と菓子が並んでいる。
椅子の向きも、投影機を囲む家族の位置も、それが今始まったものではないことを物語っていた。
アリシアの足が止まる。
誰も、すぐには声を出せなかった。
アリシアは投影機を見た。
次にヴォルカ。
ネムリア。
ヨルカ。
そして最後に、フローラへ視線を移した。
その目が、そこで止まる。
ヴォルカが耐えきれず、一歩前へ出た。
「アリシア。これは、その……」
「ヴォルカ母さん」
アリシアは彼女を見なかった。
「今は、黙っていてください」
声は静かだった。
だが、ヴォルカの足を止めるには十分だった。
ネムリアが僅かに身を起こす。
「……私たちも――」
「ネムリア母さんもです」
アリシアの視線は、最初からフローラだけへ向けられている。
「覗き見なんて考えを思いつくのは、母さんくらいです」
リビングの空気が凍りついた。
フローラは否定しなかった。
その沈黙だけで、アリシアには十分だった。
「いつからですか」
フローラは答えない。
「私たちが現代日本へ着いた時から?」
「ええ、そうです」
フローラは冷静に娘を見つめた。
「では、全て見ていたのですね」
アリシアの声から、僅かに温度が消えた。
「私がシオンとリオに何を言ったのかも。カイトに何を言われたのかも。その後、私がどんな顔をしていたのかも」
「ええ、見ていました」
フローラは言い逃れをしなかった。
アリシアの指先が、微かに震える。
「随分と楽しかったでしょうね」
「……楽しいわけないでしょう」
アリシアの視線が、テーブルの菓子へ落ちる。
「菓子まで用意して?」
誰も答えられなかった。
投影機の中から、カイトたちの声だけが聞こえている。
アリシアはゆっくりとフローラへ向き直った。
「私は、あの子たちを傷つけました」
「ええ」
「カイトにも拒絶されました」
「ええ」
「今は、自分が間違っていたと言い切れます」
「なら――」
「ですが」
アリシアの声が、フローラの言葉を断ち切った。
「自分が間違える姿を、家族全員に陰から覗かれ、笑いものにされていた。その事実に、私が黙っていると思いますか?」
白い魔力が、アリシアの足元から僅かに漏れ出した。
床が低く軋む。
投影機の映像が一瞬だけ乱れた。
ヨルカが息を呑む。
ユキトも、アリシアの手から静かに指を離した。
自分が一緒に怒られてやると約束していたことさえ、頭から消えていた。
もう、誰かが間に入って収められる空気ではなかった。
フローラは椅子から立ち上がる。
「あなたたちが心配でした」
「便利な言葉ですね」
「何ですって?」
「心配だったと言えば、何をしても許されるのですか」
「許されるとは言っていません」
「では、悪かったと思っていますか」
フローラの唇が僅かに止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、アリシアは見逃さなかった。
「思っていないのですね」
「必要なことだったと思っています」
アリシアの表情から、最後に残っていた迷いが消えた。
「そうですか」
その声は、怒鳴り声よりも冷たかった。
「あなたたちだけで現代日本へ行かせれば、何が起きるか分かりませんでした」
フローラは娘を正面から見据える。
「そして実際に、あなたは取り返しのつかないことをしかけた」
「だから見張っていたと?」
「そうです」
「私が失敗すると思っていたから」
「失敗する可能性があるとは思っていました」
「同じことです」
「違います」
「私には同じです」
アリシアが一歩進む。
フローラは動かない。
「母さんは、初めから私たちを信用していなかった」
「あなたが私たちに何も言わず、勝手にカイトについていったからでしょう」
「だからといって、私たちの意思まで無視していいのですか」
「あなたが無事に帰ってくることの方が重要です」
「私たちのプレイバシーよりも?」
「生きていれば、後からいくらでも怒れます」
「そうやって」
アリシアの声が、初めて揺れた。
「母さんは、いつも自分の正しさで私の気持ちを踏み潰す」
フローラの眉が動く。
「踏み潰しているのは、あなたでしょう」
アリシアの目が止まった。
部屋の空気が、さらに重くなる。
フローラは一歩も退かなかった。
「シオンとリオが最も傷つく言葉を、あなたは正確に選びました」
「……」
「自分が勝つためなら、相手の生まれも、両親も、最も触れられたくない傷も利用した」
アリシアの拳が固く握られる。
「カイトが止めなければ、どこまで続けるつもりだったのですか」
「それは――」
「答えなさい」
フローラの声が、リビングを打った。
大声ではない。
母として諭す声でもなかった。
一人の竜が、目の前の娘へ突きつける声だった。
アリシアは答えられない。
フローラはその沈黙を許さなかった。
「二人が立ち上がれなくなるまでですか」
「違います」
「殺すつもりだったんですか」
「違います」
「では、どこで止めるつもりだったのですか」
「分かりません」
「分からないまま傷つけたのですね」
「母さんにだけは言われたくありません」
アリシアが顔を上げる。
「私の意思を踏みにじっておいて、私が他人を踏みにじったことを責めるのですか」
「責めます」
フローラは即答した。
「私は母親です。自分が間違えたからといって、娘の間違いを見過ごす理由にはなりません」
「自分の間違いを認めてもいないくせに」
「今は、あなたの話をしています」
「逃げないでください!」
アリシアの声が弾けた。
窓ガラスが震える。
テーブルの上の食器が跳ね、ヨルカが反射的に後ずさる。
それでもフローラだけは、微動だにしなかった。
「母さんはいつもそうです。私を正す時だけ母親になる。自分が何をしたのか問われれば、私のためだったと言って終わらせる」
「終わらせてはいません」
「終わらせています」
「では、どうしろというのですか」
「謝ってください」
沈黙が落ちた。
アリシアはフローラを見つめる。
「私の意思を無視して覗き見たことを、悪かったと認めてください」
ヴォルカも、ネムリアも、ユキトも動けなかった。
フローラは長い間、何も答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「それはできません」
アリシアの目から、怒りさえ消えた。
「そうですか」
その一言とともに、足元から漏れていた魔力が消える。
だが、緊張が緩んだ者は一人もいなかった。
むしろ、アリシアが完全に何かを諦めたことが分かった。
「私は、この島を出ます」
ヨルカが目を見開く。
「お姉ちゃん……」
「今夜すぐではありません。荷物をまとめ、明日の朝には出ていきます」
「認めません」
フローラは、アリシアが言い終えるより先に答えた。
アリシアが母を見る。
「誰に認めてもらおうと思って言ったのですか」
フローラの表情が僅かに硬くなる。
「外の世界へ出ること自体を止めるつもりはありません。ですが、今のあなたを一人で送り出すことはできません」
「また子供扱いですか」
「子供だからではありません」
二人の距離が縮まる。
腕を伸ばせば届くほどの距離で、フローラは娘を見据えた。
「今のあなたは、力を持ちながら、その使い方を誤っている」
「母さんに決められることではありません」
「他人が最も傷つく場所を理解し、必要なら躊躇なくそこを突く。勝つためなら卑怯な手段も選ぶ。相手の逃げ道を塞ぎ、立ち上がれなくなるまで追い詰める」
フローラの声には、怒りよりも強いものが込められていた。
恐怖だった。
自分の娘が、このまま取り返しのつかない存在になることへの恐怖。
「その歪みを抱えたまま、あなたを外へ出すわけにはいきません」
「歪んでいると?」
「ええ」
「私が?」
「そうです」
アリシアの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「では、その歪んだ娘を育てたのは誰ですか」
ヴォルカが息を呑んだ。
フローラの顔から、僅かに血の気が引く。
アリシアは止まらなかった。
「私が卑怯なら、それを教えたのは誰ですか。勝つためなら何でも利用すると思っているのなら、私に勝つことを求め続けたのは誰ですか」
「アリシア」
ユキトが終わらせようとする。
「母さんでしょう」
「それ以上は――」
ユキトが宥めるもアリシアは聞かなかった。
「都合が悪くなれば止めるのですか」
アリシアが、さらに半歩詰める。
「私は母さんの娘です」
その言葉が、刃のように落ちた。
「母さんが今、最低だと断じているものは、どこから生まれたのでしょうね」
フローラの瞳が揺れた。
だが、それは一瞬だけだった。
すぐに母親としての顔を取り戻す。
「だからこそ、私には正す責任があります」
「正す?」
「ええ」
「私の性格まで、母様の望む形に作り替えるつもりですか」
「作り替えるのではありません」
フローラは娘の目を見たまま、はっきりと言った。
「矯正します」
誰も息をしなかった。
アリシアの表情が凍りつく。
「必要ありません」
「必要です」
「私はもう、母様の教育を受ける年齢ではありません」
「あと八十年ほどは必要だと思っていました」
今度ばかりは、ユキトすら口を挟めなかった。
冗談ではない。
フローラは本気だった。
「……八十年」
アリシアは、その数字を確かめるように繰り返した。
「その間、私が何を望んでも、母様が間違っていると思えば従わせるのですか」
「必要なら」
「力ずくでも?」
「必要なら」
「私が何歳になっても?」
「あなたが私の娘である限り」
アリシアの瞳に、白い光が灯る。
フローラの周囲にも、同じ色の魔力が漂い始めた。
実の親子だからこそ、よく似ていた。
怒り方も。
一度決めれば退かないところも。
自分こそが相手を正さなければならないと思っているところさえ。
「そういうところが、大嫌いです」
アリシアが告げた。
フローラの目が僅かに見開かれる。
だが、アリシアはもう言葉を戻さなかった。
「私がどれだけ強くなっても、母様は最後には言うことを聞かせられると思っている」
「間違ってはいません」
「間違っています」
「なら、証明しなさい」
フローラが静かに言った。
アリシアの魔力が膨れ上がる。
「何をですか」
「あなたがもう、私に従わせられるだけの子供ではないことを」
二人の視線がぶつかる。
話し合いで終わる道は、その瞬間に消えた。
アリシアはゆっくりと踵を返す。
「……家が壊れます、外でやりましょう」
フローラも迷わず歩き出した。
ヴォルカが、ようやく声を取り戻す。
「待ってください。二人とも、どこへ行くつもりですか」
アリシアもフローラも答えなかった。
玄関の扉が開く。
冷たい夜風がリビングへ吹き込んだ。
アリシアが外へ出る。
フローラも続く。
扉が閉じた。
その音が響いてからも、残された者たちはしばらく動けなかった。
やがてネムリアが立ち上がる。
「海岸」
ヨルカが青ざめた顔を向ける。
「どうして海岸なのですか」
ネムリアは閉じられた扉を見つめながら、短く答えた。
「殴る場所」
ユキトが両手で顔を覆った。
「やっぱり、殴るのか……」
誰も否定しなかった。
シロネコ島の海岸には、夜の波音だけが響いていた。
月明かりを受けた砂浜を、アリシアとフローラが無言で進んでいく。
二人は波打ち際で立ち止まった。
向かい合う。
最後まで言葉はなかった。
アリシアの体を白い光が包む。
人の輪郭が崩れ、膨れ上がり、巨大な翼が夜空へ広がる。
白い鱗。
長い尾。
鋭い角。
シロネコ島の海岸に、一頭の白竜が現れた。
続いて、フローラも竜の姿へ変わる。
二頭の白竜が、狭い砂浜で向かい合った。
アリシアにとっては、自分が母親に従うだけの子供ではないと示すための戦いだった。
フローラにとっては、歪んだまま外へ出ようとする娘を叩き直し、家へ連れ戻すための教育だった。
先に動いたのは、どちらだったのか。
二頭の巨体が激突した瞬間、轟音が島全体を揺らした。
砂が爆発するように舞い上がる。
衝撃が海面を走り、波が大きく退いた。
少し離れた山の上。
海岸を見渡せる場所まで移動したヴォルカ、ネムリア、ヨルカ、ユキトは、揃って二頭の白竜を見下ろしていた。
一方が尾を振るい、もう一方が翼で受ける。
爪が鱗を掠め、二頭が砂浜の上を滑る。
ユキトは目を細めた。
「なあ」
誰も答えない。
「どっちがどっちだ?」
ヴォルカが、信じられないものを見るように振り向いた。
「あなた、それでも夫ですか?」
ネムリアも続ける。
「父親でしょ?」
「いや、分かんねえよ」
ユキトは海岸を指さした。
「二人とも白いし、でかいし、ほとんど同じ体格じゃねえか」
成長したアリシアは、すでにフローラと並ぶほどの大きさになっていた。
遠目では、角の形や鱗の微妙な違いまで判別できない。
動きまでよく似ている。
一方が前脚を振るえば、もう一方が同じ角度から受け流す。
翼で間合いを外せば、その動きを読んで尾が追う。
「それでも、普通は分かります」
「どこで見分けてるんだよ」
「雰囲気です」
「雰囲気で妻と娘を見分けろっていうのか?」
ネムリアが短く答える。
「愛」
「曖昧な言葉で片づけるな」
二頭の白竜が再び激突する。
今度は片方が押し負け、岩壁へ叩きつけられた。
岩が崩れ落ちる。
しかし、白竜はすぐに瓦礫を跳ね飛ばし、相手の首へ食らいつくように飛びかかった。
ヨルカの顔から血の気が引く。
「本当に、止めなくていいのでしょうか……」
「今入ったら、まとめて殴られるぞ」
ユキトが言う。
「それに、あの二人は止めたら余計こじれる」
ヴォルカも不安そうに胸元へ手を添えながら、頷いた。
「今は、見届けるしかありません」
砂浜では、フローラが経験の差を見せ始めていた。
正面から力をぶつけるだけではない。
アリシアの爪を僅かな動きでかわし、体勢が崩れたところへ肩からぶつかる。
続けて尾を脚へ絡め、砂浜へ引き倒そうとする。
だが、アリシアは倒れながら翼を広げた。
巻き上がった砂がフローラの視界を覆う。
その一瞬を使い、フローラの腹へ後脚を叩き込んだ。
フローラの巨体が浮く。
アリシアはすぐさま追いかけた。
体当たりを受けたフローラが、海面を削りながら吹き飛ばされる。
大量の海水が夜空へ舞った。
「互角……」
ヨルカが呟く。
ネムリアは二頭を見つめたまま答える。
「少し、フローラ」
まだ経験ではフローラが上回っている。
だが、アリシアも母親の戦い方を知り尽くしていた。
幼い頃から何度も見てきた。
どちらの脚へ重心を置くのか。
攻撃の前に翼がどう動くのか。
相手を誘う時、どれほど間合いを空けるのか。
アリシアはそれを利用する。
フローラもまた、娘が自分の癖を知っていると理解していた。
攻撃を途中で止め、予測して動いたアリシアの逆を突く。
読み合いが何度も入れ替わる。
二頭がぶつかるたび、海岸の形が変わっていった。
砂浜には巨大な爪痕が刻まれ、岩壁には深い亀裂が走る。
海へ突き出していた岩が折れ、波の中へ沈む。
ヨルカは山の地面へ手をついた。
「島が揺れています……」
「親子喧嘩としては、少し激しいですね」
ヴォルカが言う。
ユキトが横目で見る。
「少しか?」
ネムリアが呟く。
「竜なら普通」
「普通にするな」
地上での攻防では、決着がつかなかった。
二頭はほとんど同時に翼を広げる。
砂煙を残し、夜空へ飛び立った。
空中で白い影が交差する。
翼がぶつかるたびに、空気が破裂するような音を立てた。
片方が上を取れば、もう片方が急上昇して追う。
雲の下まで昇り、絡み合うように落下する。
月明かりの中、白い鱗が何度も閃いた。
一頭の尾が、もう一頭の翼の付け根を捉えた。
体勢を崩した白竜へ、追撃の体当たりが入る。
弾き飛ばされた巨体が、山側へ落ちてくる。
「こっちへ来るぞ!」
ユキトが叫んだ。
白竜は山の木々を薙ぎ倒しながら落下した。
地面を何度も跳ねる。
そして、その先にはユキトが丹精込めて育てていた畑があった。
白い巨体が畑の中央へ突っ込む。
畝が吹き飛んだ。
植えられていた作物が土ごと宙を舞い、木の柵が砕け散る。
しばらくして、土煙の中から白い尾だけが見えた。
ユキトは両手で頭を抱えた。
「ああ、俺の畑が!」
ヴォルカとネムリアが同時にユキトを見る。
「畑よりアリシアを心配してください!」
「娘」
「落ちたの、アリシアなのか?」
ユキトが慌てて畑を見る。
「だから、俺にはどっちがどっちだか――」
「今は分かるでしょう!」
「土まみれで余計に分かんねえよ!」
畑へ落下したのはアリシアだった。
崩れた地面へ爪を立て、ゆっくりと巨体を起こす。
翼の一部が裂け、白い鱗の間から血が流れている。
立ち上がることはできた。
だが、足元は揺れていた。
呼吸も荒い。
瞳の奥で、冷静さとは別の光が強くなり始めている。
竜は大きな傷を負うほど、本能が表へ出やすくなる。
痛み。
怒り。
目の前の相手を倒せという衝動。
それらが理性を押し流す。
上空にいるフローラには、娘の変化が分かった。
アリシアの首が不自然に揺れる。
爪が地面を抉る。
まだ自分を見上げている。
だが、その目がいつまで母親を母親として認識していられるかは分からなかった。
これ以上続けてはいけない。
フローラ自身も無傷ではない。
戦いを長引かせれば、自分まで理性を失う可能性がある。
早く止めなければ。
フローラは翼を大きく広げた。
一度だけ上昇し、そこで翼を畳む。
白い巨体が、一直線に畑へ向かって落ち始めた。
速度が増していく。
空気が唸る。
アリシアを地面へ押さえ込み、動きを封じそのまま竜化を解除させる。
戦いの流れはまだ自分が支配している。
残った体力も、自分の方が多い。
この一撃で終わらせる。
そう判断した。
畑の中で、アリシアは動かなかった。
傷ついた翼を下げ、ふらつきながらフローラを見上げている。
逃げる様子はない。
山の上から見ていたヨルカが息を呑んだ。
「お姉ちゃん!」
フローラの爪が届く直前だった。
アリシアの体が沈む。
倒れたのではない。
自ら姿勢を低くした。
次の瞬間、傷ついていたはずの翼が強く地面を打った。
土と砕けた作物が舞い上がる。
アリシアはフローラの突進を紙一重でかわし、その側面へ潜り込んだ。
待っていた。
自分を早く止めなければならないと、フローラが焦ることを。
母親が、理性を失いかけた娘を放置できないことを。
アリシアの尾が、急降下するフローラの首へ巻きつく。
その勢いを殺さず、横へ引いた。
フローラの軌道が大きく逸れる。
避ける時間はなかった。
白い巨体が地面へ叩きつけられた。
島全体を揺らすような轟音が響く。
畑の隣に、巨大な窪みが生まれる。
土煙がすべてを覆った。
しばらく、何も見えなかった。
やがて風が煙を運んでいく。
窪みの中央に、フローラが倒れていた。
翼は地面へ投げ出され、すぐには起き上がれない。
意識が大きく揺れている。
体の奥から、熱が膨れ上がってくる。
立ち上がれ。
目の前の敵を倒せ。
噛み砕け。
そんな本能が、フローラの理性を侵食していた。
殺したい相手ではない。
あれは自分の娘だ。
そう理解できているうちに、終わらせなければならない。
フローラの巨体が白い光に包まれる。
鱗が消え、翼が縮み、人の輪郭へ戻っていく。
窪みの中に残ったのは、傷だらけのフローラだった。
それを見たアリシアも動きを止めた。
追撃はしない。
荒い息を吐きながら、ゆっくりと竜化を解除する。
白い光が消える。
服も髪も土に汚れ、体中に傷を負ったアリシアが、自分の足で立っていた。
勝負は決した。
山から下りてきていた家族は、畑の手前で立ち止まった。
すぐには近づけなかった。
母娘の間に、まだ終わっていないものがあると分かっていた。
地面に横たわったフローラは、しばらく夜空を見上げていた。
悔しさはあった。
娘を教育するつもりで戦いを始め、最後には完全に読み負けた。
けれど、それ以上に胸を満たしていたものがある。
やがてフローラは小さく息を吐いた。
「強くなりましたね」
アリシアの肩がわずかに動く。
フローラはゆっくりと上体を起こした。
「負けました」
遠くでユキトが目を見開く。
ヴォルカが小声で尋ねた。
「どうしました?」
「あのフローラが、自分から負けを認めた」
ネムリアが答える。
「事実だから」
フローラは目の前の娘だけを見る。
「それから」
一度、言葉を切った。
アリシアは黙ったまま待っていた。
「覗き見をして、悪かったわ」
ユキトの口が開いた。
今度は声も出なかった。
ヴォルカも驚いてフローラを見る。
ネムリアだけが、小さく頷いた。
フローラは続ける。
「あなたたちが心配でした。失敗してほしくなかった。傷ついてほしくなかった。たとえ何かが起きても、こちらからは見ていることしかできない。それでも、何が起きているのかだけは把握しておきたかったのです」
「だから見ていたのですか」
「そうよ」
「菓子まで用意して?」
フローラの視線が僅かに逸れた。
「……それは」
フローラは咳払いをした。
「理由が何であっても、あなたたちの意思を無視してよいことにはなりませんでした」
アリシアはすぐには答えなかった。
母が自分から謝る姿など、見たことがない。
間違いを認めても、言い方を変え、理由を並べ、最後まで完全には頭を下げない。
それがフローラだった。
その母親が、土に汚れ、娘に負けたまま謝っている。
アリシアは目を伏せた。
「……母様こそ、本気ではなかったじゃないですか」
フローラは否定しなかった。
「最初は、そのつもりでした」
「やはり、子供を叱る程度のつもりだったのですね」
「ええ」
フローラは立ち上がる。
足元が少し揺れたが、自分で踏みとどまった。
「深い傷を負わせるつもりはありませんでした。少し痛い目を見せて、家へ連れ戻すつもりでした」
「随分と余裕だったのですね」
「途中までは」
フローラは微かに笑う。
「途中からは、手加減したまま勝てる相手ではないと分かりました」
アリシアが顔を上げる。
「最後は本気でした」
「それでも、私が勝ちました」
「はい」
フローラは素直に頷いた。
「子供だと思っていたのに、いつの間にか追い越していたんですね」
その声には、喜びだけではないものが混じっていた。
寂しさ。
戸惑い。
自分の手から娘が離れていくことへの恐れ。
フローラは、アリシアを守るべき子供だと思っていた。
間違えば正し、危険へ向かえば止め、自分の後ろへ置いておかなければならない娘だと。
けれど、アリシアはもう、自分と同じ場所に立っている。
それどころか、今夜自分を越えた。
フローラは一歩近づき、アリシアを抱きしめた。
アリシアの体が固まる。
「何のつもりですか」
「成長した娘を抱きしめたいだけです」
「説明されなくても分かります」
「なら、少しじっとしていてください」
アリシアは腕を下ろしたまま動かなかった。
フローラの服も、髪も、土に汚れている。
互いの傷が触れ、少し痛んだ。
それでもフローラは離れなかった。
「もう、力であなたを家へ閉じ込めることはできません」
「初めから、できると思わないでください」
「思っていました」
「……知っています」
アリシアは小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと腕を上げる。
フローラの背へ回した。
強くはない。
けれど、拒絶でもなかった。
母と娘であることは変わらない。
ただ、この瞬間。
教育する母親と、従わされる娘という関係だけが終わった。
少し離れたところから見ていたヴォルカは、目元を押さえた。
「いいですね……」
ヨルカも、姉とフローラを見つめていた。
その横で、ヴォルカが涙を拭いながら笑顔を向ける。
「ねえ、ヨルカ」
「はい?」
「私たちも一度やりましょうか」
ヨルカが首を傾げる。
ヴォルカはとても優しい笑顔のまま続けた。
「本気の親子喧嘩を」
ヨルカの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「絶対に嫌です!」
「どうしてですか? こうして互いの成長を確かめるのも、大切だと思います」
「母さんと私が本気で戦ったら、こんなものでは済みません!」
ヨルカは地形の変わった海岸と、消滅した畑を指さす。
「島が跡形もなく消えてしまいます!」
ユキトも青ざめた。
「駄目。絶対に駄目だ」
ヴォルカが振り向く。
「ですが、フローラさんたちは――」
「駄目だ。もう親子喧嘩は禁止。家族は仲良くするのが一番だ」
ネムリアが短く言う。
「今さら」
「今からでも遅くない」
夜が明ける頃には、島に静けさが戻っていた。
そして翌朝。
アリシアは荷物をまとめ、家の前に立っていた。
大きな荷物ではない。
必要な衣類と、旅に使う道具。
しばらく島へ戻らずに済むよう、必要最低限のものだけを選んだ。
昨夜受けた傷は、回復魔法を使っても完全には消えていない。
頬には薄い痣が残り、腕にはまだ包帯が巻かれていた。
それでも、その表情は昨夜よりずっと穏やかだった。
フローラはもう、旅立ちを止めなかった。
ヴォルカ、ネムリア、ヨルカ、ユキトも、家の前へ集まっている。
アリシアは家族を一人ずつ見た。
「世界を見て回ろうと思います」
ヴォルカが寂しそうに微笑む。
「どれくらいの旅になるのですか?」
「決めていません。行きたいところへ行き、見たいものを見ます」
「危険な場所へ行く時は、手紙を出してくださいね」
「考えておきます」
「連絡してください」
「……分かりました」
ネムリアが頷く。
「それがいい」
アリシアは少しだけ笑った。
それから、表情を改める。
「私は、竜です」
誰も口を挟まない。
「父さんと母さんたちの娘です。そして――」
僅かに言葉が止まる。
「カイトには、もう姉だとは思わないと言われました」
ヨルカの目が伏せられる。
カイトの言葉は正しかった。
アリシア自身も、それを否定できない。
姉として越えてはいけない線を越えた。
愛を理由に、弟を自分のものにしようとした。
拒絶されて当然だった。
「ですが、それでも私は、カイトの姉です」
フローラが静かにアリシアを見る。
「今すぐ、あの子に認めてもらおうとは思いません。許してほしいとも言いません。私には、そんなことを求める資格はありませんから」
アリシアは自分の胸へ手を置いた。
「カイトへの気持ちも、もう完全に終わったとは言えません」
ユキトの眉が動く。
アリシアは気づかず続けた。
「ですが、終わらせるように努力します。今度あの子の前に立つ時は、愛する相手としてではなく、きちんと姉として向き合いたい」
ヨルカが顔を上げる。
「お姉ちゃん……」
「そのためにも、一度ここを離れます。まずはここから離れて、自分が何をしたいのかを考えます」
アリシアは背負った荷物を軽く持ち直した。
「誰かの娘や、誰かの姉であることを捨てるつもりはありません。ですが、それだけが私のすべてでもありませんから」
重い沈黙にはならなかった。
寂しさはある。
不安もある。
それでも、昨日までとは違う。
アリシアは逃げようとしているのではない。
戻ってくるために、離れようとしている。
そしてアリシアは、家族へ笑顔を向けた。
「カイトよりいい男を探すことにします」
「え?」
ユキトの声が裏返った。
全員の視線が集まる。
ユキトはアリシアとヨルカを交互に見た。
「ちょっと待て。お前、カイトのことをそういう意味で――」
左右から手が伸びた。
ヴォルカとネムリアが、同時にユキトの脇腹をつねる。
「痛っ!」
「今、余計なことを言わないでください」
「黙って」
「いや、でも、あいつ弟――痛い痛い、分かった! 黙る!」
アリシアは呆れたように父親を見る。
「父さんには、最後まで知られたくありませんでした」
「もう知った」
「忘れてください」
「それは無理だろ」
ヴォルカとネムリアの指へ、さらに力が入る。
「忘れます」
ユキトは即座に訂正した。
アリシアの口元が、ほんの少し緩む。
ユキトは脇腹をさすりながら、娘を見る。
失恋から完全に立ち直ったわけではないのだろう。
けれど、前を向こうとしている。
そのことには安心した。
同時に、別の不安も浮かんでくる。
「変な男は連れて帰ってくるなよ」
「少なくとも、父さんとは違う方にします」
「それなら大体まともな男になるな」
ヴォルカが冷たい目で見る。
「自分で言うのですか?」
「否定したら怒るだろ」
ネムリアが頷く。
「正解」
ヴォルカの目には、すでに涙が浮かんでいた。
「本当に、行ってしまうのですね」
「はい」
「いつでも帰ってきてください」
「分かっています」
ネムリアはアリシアの前へ立つ。
「気をつけて」
「ネムリア母様も」
「うん、私たちのことは大丈夫」
ネムリアは少し考え、もう一度頷いた。
最後に、ヨルカがアリシアの前へ出る。
言いたいことが多すぎるのか、なかなか声が出なかった。
アリシアも急かさず待つ。
やがてヨルカは、姉の荷物の端を小さく掴んだ。
「今度は、一人で抱え込まないでください」
アリシアの目が揺れる。
「何かあったら、話してください。すぐには帰れなくても、連絡だけでもしてください」
「ヨルカ」
「それから……」
ヨルカは泣きそうな顔で笑った。
「ちゃんと、帰ってきてください」
アリシアはしばらく妹を見つめた。
そして、ヨルカの頭へ手を置く。
幼い頃から何度もしてきたように、優しく撫でた。
「ええ。帰ってきます」
ヨルカは姉の胸へ抱きついた。
アリシアも妹の背へ腕を回す。
昨日までなら、こんなふうに素直に抱きしめ返せなかったかもしれない。
ヨルカが離れると、最後にフローラがアリシアの前へ立った。
母と娘は、しばらく何も言わず向かい合う。
昨夜、互いを傷だらけになるまで殴り合った。
それでも、今は穏やかだった。
フローラが言う。
「もう、子供扱いはしません」
アリシアは僅かに目を細める。
「本当ですか」
「努力します」
「そこは言い切ってください」
「八十年の予定を一晩で変更したのです。少しくらい時間をください」
「やはり、まだ八十年も教育するつもりだったのですね」
「昨日までは」
フローラは微笑んだ。
「ですが、あなたはもう、自分で道を選べます」
アリシアは返事をしなかった。
代わりに、静かに母の言葉を待つ。
「ただし」
やはり条件がつくのかと、アリシアの眉が動く。
フローラは家を振り返った。
「どこへ行っても、この島があなたの帰る場所であることだけは変わりません」
アリシアの表情から、警戒が消えた。
「それは、子供扱いではありませんか」
「家族扱いです」
フローラは答えた。
アリシアは少しだけ黙り、やがて頷く。
「それなら、構いません」
家族へ背を向ける。
島の外へ続く桟橋へ向かい、アリシアは歩き出した。
数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
ユキト。
ヴォルカ。
ネムリア。
ヨルカ。
そしてフローラ。
誰も、アリシアを引き止めなかった。
だからアリシアも、もう迷わなかった。
カイトに選ばれなかったから去るのではない。
愛を捨てられずに逃げるのでもない。
いつか、姉として弟の前へ戻るため。
誰かの娘や姉だけではない、自分自身の人生を見つけるため。
アリシアは家族へ笑いかけると、今度こそ前を向いた。
朝の光の中で、その身体が白い竜へと変わっていく。
大きな翼が広がる。
次の瞬間、白い竜は地を蹴り、家族の声が届かない空へ飛び立っていった。




