98.蛇足編『サービス終了した嫁が帰ってきたらしいけど誰だよお前ら』
自分の家を、自分の手で建てる。
それは、カイトがこの世界で生き始めてから抱いた、最初の夢だった。
建築会社へ入り、現場で働き、図面の読み方から材料の癖まで一つずつ覚えた。初めは言われた仕事をこなすだけだったが、経験を重ねるうちに任される範囲も増え、気づけば後輩へ指示を出す立場になっていた。
そうして働き続けた末に、カイトは自分たちの家を建てた。
断熱性能や耐震構造には、その時点で導入できる最新の技術を使った。間取りにも妥協しなかった。ユウナが使いやすい高さに合わせたキッチン。朝の光がよく入るリビング。家族三人が並んでも窮屈にならない玄関。マキトの部屋には、幼い頃から大人になるまで使えるように十分な収納を設けた。
庭には小さな木も植えた。
ユウナとマキトが選んだ木だった。
図面を何度も引き直し、会社の同僚にはこだわりすぎだと笑われた。それでも、完成した家を初めて見上げた時、カイトは胸を張った。
誰かから与えられた城でも、親から受け継いだ屋敷でもない。
ユウナとマキトと暮らすために、自分で考え、自分で建てた自慢の家だった。
マキトを産んだ後、ユウナは休学していた大学へ戻った。
育児と勉強を両立させるのは簡単ではなかった。それでも卒業まで通い続け、資格を取り、保育園の先生として働き始めた。
朝早く家を出て、夕方には疲れた顔で帰ってくる。それでも園児の話をする時だけは、いつも楽しそうだった。
言うことを聞かない子がいた。
給食を嫌がる子がいた。
昼寝の時間になっても眠らず、隣の子へ話しかけ続ける子がいた。
「今日も大変だった」
そう言いながら笑うユウナを、カイトは何度も見てきた。
マキトも元気に育った。
泣いてばかりいた赤ん坊が歩けるようになり、言葉を覚え、学校へ通い、友人を連れて家へ帰ってくるようになった。
反抗期には、カイトの言葉へいちいち言い返した。
進路を決める頃には、親へ相談する前に自分でほとんど調べ終えていた。
そして今では大学も卒業し、新卒の会社員として働いている。
毎朝、眠そうな顔で階段を下りてきて、食卓へ座る。
「朝早すぎるだろ」
パンをかじりながら文句を言う。
「満員電車って、絶対に人間を運ぶ方法じゃない」
ネクタイを締めながら文句を言う。
「昨日頼まれた仕事、今日の朝までっておかしくないか?」
靴を履きながら、やはり文句を言う。
それでも遅刻はしなかった。
時間になると鞄を持ち、電車へ乗るため家を出ていく。
「行ってきます」
「行ってこい」
玄関の扉が閉まる。
かつては、道路へ飛び出さないか心配しながら手を引いていた。
忘れ物をしていないか確認し、帰りが遅ければ迎えに行った。
だが、もうその必要はない。
マキトは一人で起き、一人で働き、自分で稼いだ金を使って生きている。
もう、俺が面倒を見る必要はない。
そう思うと、安心するより先に、ほんの少しだけ寂しくなった。
二十年以上。
過ぎてしまえば、あっという間だった。
その間に、失った者もいる。
アヤカは、すでに亡くなっていた。
人間として考えても、少し早い死だった。
長い間、無理を重ねて働いてきたことが、身体へ残っていたのかもしれない。
最後の頃には、ベッドから起き上がることも難しくなっていた。
カイトは最後まで、ユキトとして彼女のそばにいた。
自分は本当のユキトではない。
アヤカが産んだ息子ではない。
それでも、その事実を告げることはなかった。
弱っていく手を握り、呼ばれれば返事をし、昔の思い出を聞いた。
アヤカは何度もユキトの名前を呼んだ。
そのたびに、カイトはそばにいると答えた。
そして最期の時、カイトは彼女の手を両手で包み込んだ。
「今までありがとう、母さん」
その言葉だけは、偽りではなかった。
アヤカが息を引き取った後も、カイトはしばらく手を離せなかった。
人間の命は短い。
分かっていたはずだった。
だが、実際に見送ると、その短さは想像していたよりもずっと重かった。
カイトの姿は、若い頃からほとんど変わっていない。
ユウナは少しずつ年齢を重ねた。
目元に薄い皺が増え、昔よりも疲れが顔に出やすくなった。
マキトも、もう子供ではない。
そして、マキトは竜ではなかった。
初めの頃は、非竜だった、と考えていた。
だが、今ではその言い方を思い浮かべるたびに、違和感を覚える。
違う。
マキトは人間として生まれた。
ただ、それだけのことだった。
自分よりも早く老い、いつか先に死ぬ。
そう考えるたび、カイトは思う。
マキトは、人間として生まれて幸せだったのかもしれない。
少なくとも、自分のように愛する者たちを見送り続けずに済む。
そう思えば、羨ましくさえあった。
昔は、姉や妹と異なり自分だけが竜ではないことを恐れていた。
だが、今ではむしろ、自分が竜であることを恨んでいる。
きっと自分は、長く生きる。
ユウナも、マキトも、いつか自分を残していく。
それでもカイトは、まだ訪れてもいない別れに捕らわれることをやめた。
別れを恐れるあまり、今ある時間まで悲しいものにしたくなかった。
未来への恐怖を、ユウナやマキトとの大切な思い出へ混ぜたくなかった。
いつか終わるからこそ、今できることを先送りにしない。
そう考えるようになった。
だからカイトは、もう一つの夢を叶えることにした。
世界を見て回る。
こちらの世界へやって来るよりも前から、いつか自分の力で世界中を旅したいと思っていた。
本来なら、故郷の世界にある国々を巡るはずだった。
それが現代の世界を旅することになるとは、当時のカイトには想像もできなかっただろう。
けれど、行き先が変わっただけだ。
地図を見れば、名前も知らない国がいくつもある。
見たことのない建物。
食べたことのない料理。
聞いたことのない言葉。
知らないものを自分の目で見たいという気持ちは、今も変わっていなかった。
マキトが就職し、家を離れても困らない程度には自立したのを機に、カイトとユウナは仕事を休むことにした。
会社や保育園と何度も相談し、一年ほどの休職期間を取った。
豪華客船を使い、各国を巡る長い旅だった。
二人はインドに立ち寄った。
白い大理石で造られた巨大な建物を見上げ、観光客に交じって何枚も写真を撮った。
カイトの胸元には、こちらの世界に来てから一度として外していない黒い首飾りが下がっていた。
ユウナは屋台で勧められた料理を食べ、あまりの辛さに涙を流した。
「もう絶対に食べない」
そう言った翌日には、別の店で同じような色の料理を注文していた。
道路の真ん中に牛が居座り、車がまったく動かなくなった時には、初めこそ驚いていたが、最後には二人で笑った。
市場では、ユウナが値段を交渉しようとして、店員の勢いに負けた。
必要のない置物までいくつも買い、船へ戻ってからカイトに呆れられた。
「だって、すごく勧めてくるんだもん」
「いらないなら断ればよかっただろ」
「カイトくんが断ってくれればよかったのに」
「俺は買うのかと思って見てた」
そんなやり取りさえ、旅の思い出になった。
インドを離れる際、係員がカイトのパスポートを確認した。
そこに書かれている名前を見て、片言の日本語で告げる。
「ユキト。いい旅を」
カイトは、その名前に何の反応も示さなかった。
かつては呼ばれるたびに、自分ではない誰かの名前だと思っていた。
だが、二十年以上その名で生きてきた今では、訂正しようという気持ちさえ起こらない。
「ああ。ありがとう」
パスポートを受け取り、ユウナのもとへ向かう。
ユウナは土産の入った袋を抱えながら、楽しそうに笑った。
「カイトくん、インド楽しかったね」
「市場でいらない置物まで買わされてたけどな」
「それも含めて楽しかったの」
二人は肩を並べ、船へ戻った。
客室へ入ってからも、ユウナは撮った写真を何度も見返していた。
カイトはソファへ座り、何となくテレビをつけた。
現地の番組が流れた後、日本語放送のニュース番組へ切り替わる。
初めは、旅先から日本の様子を眺める程度のつもりだった。
だが、画面に映ったアナウンサーの表情を見て、カイトは手にしていた飲み物を置いた。
『政府は本日午前六時、全国を対象とした非常事態宣言を発令しました』
ユウナも写真を見る手を止めた。
『昨夜未明より、サービスを終了したスマートフォン向けゲームアプリ《ラグナロク・オーダー》に登場していたキャラクターと酷似する存在が、国内外で相次いで確認されています』
画面が切り替わる。
道路の中央に立つ、騎士らしき女。
商業施設の屋上で翼を広げる少女。
炎に包まれた交差点。
逃げ惑う人々が撮影した、激しく揺れる映像。
どれも作り物には見えなかった。
建物が壊れ、人が吹き飛ばされ、道路には砕けた車が転がっている。
『さらに、実体化したキャラクターとは別に、正体不明の怪物の出現も各地で確認されています』
アナウンサーの声が低くなる。
『これらの怪物は、ゲーム内に登場していたモンスターと酷似しているとの情報もありますが、現在、詳細は確認中です。都市部の道路、地下施設、商業施設周辺などから突如出現し、通行人や車両を襲撃する事例が相次いでいます』
割れたアスファルトが映る。
その隙間から、青黒い獣のような怪物が這い出していた。
悲鳴を上げながら逃げる人々。
横転した車。
噛み砕かれた街灯。
『政府は、これら一連の異常事態が国民の生命、身体、財産に重大な危険を及ぼしているとして、全国を対象とした非常事態宣言の発令に踏み切りました。不要不急の外出を控え、安全な場所で待機してください』
カイトはすぐには言葉を出せなかった。
ゲーム。
実体化。
キャラクター。
聞こえてくる単語は理解できる。
だが、それらが何を意味しているのか分からない。
「ゲームって……なんだよ」
ようやく口から出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「実体化って、何だ。それまでいなかったものが、急に出てきたのか?」
ユウナも答えられない。
映像の中には、明らかに人間ではない姿の者がいた。
角を持つ者。
翼を持つ者。
巨大な武器を手にした者。
一瞬、カイトの故郷が頭をよぎった。
だが、すぐに否定する。
違う。
俺のいた世界とは関係ない。
あの世界の人間たちが、ゲームのキャラクターなどと呼ばれるはずがない。
そう思い込もうとした。
「マキトは?」
ユウナの声で、カイトは我に返った。
すぐにスマートフォンを取り出し、マキトへ電話をかける。
呼び出し音すら鳴らず、通信できないという表示が出た。
もう一度かける。
結果は同じだった。
メッセージも送った。
返事はない。
「大丈夫なのか?」
誰に聞いたのか、自分でも分からなかった。
「マキトは、大丈夫なのか?」
さっきまで、もう自分が面倒を見る必要はないと思っていた。
一人で働き、一人で生きていける大人になったのだと認めていた。
それでも、連絡が取れなくなった瞬間、そんな考えはすべて消えた。
今すぐそばへ行かなければならない。
無事かどうか、自分の目で確かめなければならない。
だが、二人は日本から遠く離れた海の上にいる。
カイトにどれほど力があっても、船や飛行機が動かなければ、すぐには帰れない。
ニュースでは、通信が集中していること、各地で交通機関が停止していること、空港や港でも混乱が起きていることが繰り返し伝えられていた。
カイトとユウナは、画面から目を離せなかった。
やがて放送は、昨夜から今朝にかけて確認された主な事件の一覧へ移った。
『昨夜午後十時四十分頃、都内住宅街の民家一棟が不自然に倒壊。爆発物や火災の痕跡は確認されておらず、壁面や柱の一部が、巨大な刃物で切断されたような状態になっているということです』
画面に瓦礫が映った。
屋根がない。
二階部分もない。
玄関付近だけが、形を残している。
庭には、昨日まで室内にあったと思われる家具が散らばっていた。
カイトは息を止めた。
壊れた壁の位置。
玄関脇に残っている窓。
庭の隅に立つ小さな木。
一つずつ、自分で決めたものだった。
ユウナが、震える声で呟く。
「これ……」
「ああ」
見間違えるはずがなかった。
「俺たちの家だ」
カイトが何度も図面を引き直した家。
ユウナとマキトが暮らしてきた家。
家族三人の時間を守ってきた、自慢の家だった。
そのすべてが、瓦礫になっていた。
『近隣住民によりますと、倒壊直後、住宅で二人の若い女性が争っている様子が目撃されていました』
映像が、顔をぼかされた年配の女性への取材に切り替わる。
カイトには、すぐに誰か分かった。
近所に住んでいる女性だった。
ゴミを出す時間が重なれば必ず話しかけてきた。
庭の木が少し大きくなったことにも気づき、よく声をかけてくれた。
『ええ、見ましたよ。もう、本当に信じられないくらい綺麗なお嬢さんが二人いてねえ。白い服の子と、黒い服の子。二人とも、とんでもなく大きな刃物みたいなものを持っていて……光ったとか爆発したとかじゃないんです。普通に、こう、ガンッ、ガンッて切り合って。そしたら家が、ばらばらっと……』
再び、自宅の映像へ戻る。
巨大な刃物で斬られたような柱。
裂けた壁。
押し潰された家具。
『警察は、この件についても実体化したゲームキャラクターによる事件の可能性が高いと見て、周辺住民への聞き取りを進めています』
カイトは、自分の家だったものを見つめ続けた。
家が壊されたことへの怒りより、マキトの姿が映っていないことへの恐怖が勝っていた。
ニュースでは、確認された負傷者や犠牲者の名前も読み上げられた。
その中に、マキトの名前はなかった。
無事だと決まったわけではない。
どこかへ避難しているだけかもしれない。
怪我をしていて、まだ身元が確認されていない可能性もある。
それでも、名前がないという事実へすがるしかなかった。
「マキトは、生きてる」
ユウナが、自分へ言い聞かせるように呟いた。
「きっと、会社にいたんだよ。家にはいなかった。だから……」
「ああ」
カイトも頷いた。
「生きてる。あいつは生きてる」
その時だった。
ユウナが、カイトの顔を見たまま動かなくなった。
目を大きく開き、何かを確かめるように視線を上へ動かす。
「カイトくん」
「どうした」
「頭……」
カイトは、言われるまま自分の頭へ手を伸ばした。
指先へ、硬い感触が触れた。
髪の間から、角が出ていた。
驚いて立ち上がった瞬間、腰の後ろで布が裂ける音がした。
振り返る。
ズボンを破り、尾が伸びていた。
痛みはなかった。
熱も、痺れも、違和感さえない。
新しく生えてきた感覚ではなかった。
ずっとそこにあったものが、今まで見えなくされていただけだった。
失われていたのではない。
この世界に押し込められ、形を現せずにいたものが、何の前触れもなく元の場所へ戻った。
角も。
尾も。
カイトにとっては、本来あるべき身体の一部だった。
「どうして……」
ユウナが、角へ触れる。
「どうして今になって戻ったの?」
「分からない」
カイトは自分の尾を見た。
動かそうと思えば、以前と同じように動いた。
長い間使っていなかったはずなのに、ぎこちなさはない。
まるで昨日まで当たり前に使っていたかのようだった。
父であるユキトが神から聞いた話が正しいなら、この世界では竜としての姿も、力も、表には出ないはずだった。
だからカイトは、角も尾も持たない人間として二十年以上生きてこられた。
父の二股をめぐる清算も終わったはずだった。
異世界との縁も、過去になったと思っていた。
それなのに、存在しないはずの者たちが現れた。
ゲームのキャラクターと呼ばれる者たちが街を破壊し、怪物が人間を襲い、自分が建てた家まで壊した。
そして今、消えたはずの竜の姿まで戻っている。
何が起きているのか。
なぜ、今なのか。
自分の故郷と、このゲームに関係があるのか。
マキトはどこにいるのか。
カイトには、何一つ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、自分が異世界へ戻ったのではないということだった。
この世界の方が、異世界になろうとしていた。
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最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
連載中、皆さまに読んでいただけたことが、とても大きな励みになりました。ここまで書き続けることができたのも、読んでくださった皆さまのおかげです。心より感謝いたします。
『封印された爆乳ドラゴン娘しか興味がない』は、これにて完結となります。
今後、気が向いたときに幕間としてギャグ回などを投稿するかもしれませんが、物語本編については、ひとまずここで終了とさせていただきます。
次回作では、カイトの息子であるマキトが主人公を務めます。
基本的には今作のキャラクターを前面に出さず、次回作から読んでも楽しめる物語として連載する予定です。ただ、今作を読んでくださった方にだけ分かるような形で、彼らが少しだけ登場することもあります。
あまり登場させすぎると、新しい物語やキャラクターたちの出番を奪ってしまうため、描写は控えめになると思います。
次回作のタイトルは、
『サービス終了した嫁が帰ってきたらしいけど誰だよお前ら』
です。
かつて愛したゲームキャラクターの嫁たちが、現実世界に現れる物語となっています。
それぞれのキャラクターが、自分を愛してくれたプレイヤーのもとへ帰ってくる一方で、現実世界はゲームに侵食され、少しずつ混乱へと飲み込まれていきます。
やがて人の世は終わりを迎えることになりますが、それでも最後まで、楽しく描き切りたいと思っています。
今作の第二部ほど重い物語には、なるべくしない予定です。
次回作も楽しんでいただけましたら幸いです。
改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
愉快な災厄より
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