93.戻ってきた
白い光が、家の前に落ちた。
夜のシロネコ島。
海から吹く風が庭の草を揺らし、遠くでは波が静かに砕けている。雲のない空には星が浮かび、その下に見慣れた石造りの家があった。
白い光は、すぐに消えた。
あとに残ったのは、潮の匂いと夜風、そして一人で立つアリシアだけだった。
帰ってきた。
そう思ったのに、足は動かなかった。
目の前には玄関がある。
扉を開ければ、母たちがいる。
母さんも、ヴォルカ母さんも、ネムリア母さんもいる。ヨルカも、おそらく家の中にいるだろう。
そして、アリシアの姿を見れば、全員が同じことを聞く。
カイトは、と。
一緒に現代日本へ向かった弟は、なぜ帰ってこなかったのか。
そこで何があったのか。
どうしてアリシアだけが戻ってきたのか。
答えられる気がしなかった。
カイトを追って現代日本へ行き、彼を救おうとした。
けれど実際には、カイトの意思を確かめることもなく、自分の望む方へ追い込んだ。
そのためにリオとシオンを傷つけ、関係のない母親たちまで踏みつけた。
そして最後には、カイトから家族とは思えないと告げられた。
自分が抱いていたものが、姉としての愛情だけではなかったことも知られてしまった。
何を、どう説明すればいいのか分からない。
アリシアは玄関の前に立ったまま、手を伸ばすことさえできなかった。
扉はすぐそこにある。
それなのに、その僅かな距離がひどく遠かった。
その時、背後から足音が聞こえた。
「おい」
聞き慣れた声に、アリシアの肩が小さく揺れる。
振り返ることができなかった。
足音は少し近づき、やがて止まった。
「お前、アリシアか?」
夜風が二人の間を抜けていく。
アリシアが答えられずにいると、声の主はもう一度尋ねた。
「帰ってきたのか?」
父だった。
寝間着ではない。
家から出てきた様子でもなく、少しくたびれた上着を羽織り、片腕には乾いた枝を何本か抱えていた。
おそらく、ねこいえの近くで火を起こそうとしていたのだろう。
アリシアは、まだ父の顔を見ることができない。
ユキトもすぐには何も言わなかった。
カイトのことを尋ねなかった。
聞きたくないはずがない。
それでも、アリシアが一人で立っている姿を見て、今ここで問い詰めるべきではないと察したらしい。
しばらくして、ユキトは小さく息を吐いた。
「寒いだろ」
返事はなかった。
「火を起こすところだったんだ」
ユキトは抱えている枝を軽く持ち上げた。
「来るか?」
アリシアは動かない。
それでもユキトは急かさなかった。
「家の前で立ってると目立つぞ。母さんたちに見つかりたいなら別にいいけどな」
その言葉を聞き、アリシアは僅かに顔を伏せた。
そして、玄関とは反対の方へ歩き出した父の後を、数歩遅れてついていった。
家には入らない。
窓から漏れる明かりを横目に、庭の端へ向かう。
少し離れた場所には、猫もいないのに作られた妙に立派なねこいえがあった。
今では、父の寝床になっている。
その近くには、以前にも使ったらしい焚火の跡が残っていた。
少しして、赤い火が夜の中に灯った。
乾いた枝が燃え、ぱちぱちと音を立てている。
ユキトは焚火の前に腰を下ろし、アリシアはその向かいに座った。
二人の間には火がある。
顔が見えないほど遠くはなく、手が届くほど近くもない。
その距離が、今のアリシアにはありがたかった。
ユキトは枝を一本、火の中へ入れた。
「俺、まだあそこに住んでるんだよ」
親指でねこいえを示す。
アリシアは一度だけ、そちらへ目を向けた。
「母さんたち、まだ許してくれないんですか」
自分でも驚くほど、声は小さかった。
ユキトは肩をすくめる。
「寝ること以外は許されてる。家には入れるし、飯も食える。風呂もトイレも使える」
「……それは、よかったですね」
「ああ。だいぶ人権が戻ってきた」
僅かに笑ったあと、ユキトの表情から軽さが薄れた。
「まあ、当然だけどな」
焚火の炎が揺れる。
「俺は、カイトに自分の後始末を押しつけた。しかも、あいつが自分で選んだように見える形で」
アリシアの指が、膝の上で僅かに動いた。
ユキトは火を見つめたまま続ける。
「俺が現代日本へ行くべきだったのかって、今でも考える」
「……」
「考えたところで、もう遅いんだけどな」
乾いた枝が弾け、赤い火の粉が浮かび上がった。
「俺は、家族に選ばせたつもりになってた」
ユキトは自嘲するように口元を歪める。
「誰にも強制してない顔をしながら、最後には自分の望む方へ話を持っていった」
アリシアは、何も言えなかった。
「悪かったと思ってる」
火の向こうで、父の顔が赤く照らされる。
「カイトにも、お前にも、母さんたちにも」
そこでユキトは、ようやくアリシアを見た。
「だから、お前が俺を怒るなら、黙って聞く」
怒りはあった。
父がカイトの意思を奪い、自分の問題を息子に背負わせたことを許せなかった。
家族に決めさせたように見せながら、結局はカイトが行く形へ誘導したことも。
けれど今、その怒りだけを父にぶつけることはできなかった。
自分も、同じようにカイトの意思を無視したからだ。
いや、むしろ、自分の方がひどかった。
アリシアは焚火を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「父さんは」
声が掠れる。
ユキトは何も言わず、続きを待った。
「自分が竜だと知っていましたか?」
火が燃える音だけが残った。
ユキトはしばらく固まり、やがて心底意味が分からないという顔をした。
「……は?」
アリシアが顔を上げると、ユキトは眉を寄せていた。
「何言ってんだ」
冗談ではなく、本当に理解していない声だった。
「見ての通り、俺には角も尻尾もない。戦闘力一の雑魚だぞ。竜なわけあるか」
あまりにも迷いなく言い切ったため、アリシアにも分かった。
父は、本当に知らない。
自分が竜の血を引いていることを。
アリシアは僅かに目を伏せる。
「現代日本で、調べました」
ユキトの顔から軽さが消えた。
「何を」
「父さんのルーツです」
「俺の?」
「はい」
アリシアは言葉を選びながら続ける。
「父さんの母……私にとって祖母にあたる方の部屋を調べました」
ユキトの眉が動く。
「母さんの部屋を漁ったのか」
「必要だったので」
「必要なら漁っていいわけじゃないだろ」
「父さんにだけは言われたくありません」
「それはそう」
ユキトはすぐに認め、それでも父親らしく取り繕うように咳払いした。
「いや、でも言っておく。人の部屋は勝手に漁るな」
「今さらですか」
「今さらでも言うのが父親だろ」
アリシアは取り合わず、話を戻した。
「母子手帳がありました」
ユキトの動きが止まる。
「そこに、妊娠期間の記録が残っていました」
「……妊娠期間?」
「人間としては、明らかに長すぎました」
焚火の音が、急に大きくなったように感じられた。
ユキトは黙り込む。
「それから、アッシュにも確認しました」
その名前を聞いた瞬間、ユキトの顔色が変わった。
火に照らされていても分かるほど、はっきりと。
「……親父に会ったのか?」
声から温度が消えている。
嫌悪と警戒が、隠しきれず表に出ていた。
アリシアは頷く。
「ええ」
「何してんだ、お前」
「カイトの竜種を調べるために必要でした」
「それで親父に会いに行ったのか」
「ほかのことも含め、調べられるものはすべて調べました」
ユキトは口元を引きつらせた。
怒っているというより、心の底から嫌な予感を覚えている顔だった。
アリシアは淡々と告げる。
「アッシュは、父さんが竜だと認めました」
ユキトはすぐには返せなかった。
「いや」
ようやく出た声は、ひどく乾いていた。
「いやいや、ありえないだろ」
首を横に振り、自分の頭へ手をやる。
角はない。
腰の後ろにも何もない。
握った拳にも、凄い力を出せそうな気配は感じられない。
「俺が竜? どこが?」
「私に聞かれても分かりません」
「竜ならもっと強いだろ。炎を吐いたり、空を飛んだり、岩を砕いたりできるだろう。それに、俺は母さんたちみたいに凶悪でもない」
「母さんたちみたいにって……今の言葉は、聞かなかったことにします」
「いや、何かの間違いだ」
ユキトは焚火へ視線を戻した。
冗談で押し切ろうとしている。
けれど、口元の笑みはすぐに消えた。
心当たりがあった。
夢の中。
白い空間。
神。
あの時、言われた言葉が頭の奥から蘇る。
戦闘力は一に調整したはず。
当時は別のことに気を取られ、深く考えなかった。
だが今になって思えば、おかしな言葉だった。
調整した。
何を。
誰の力を。
もしかすると、自分の中にある竜としての力を、最初から封じられていたのではないか。
だから、ユキトは自分を人間だと思って生きてきた。
何も知らず、何も疑わずに。
「心当たりがあるようですね」
アリシアの声に、ユキトは顔をしかめる。
「嫌な言い方するな」
「ありますか?」
「……ある」
認めるしかなかった。
「夢で会った神に、戦闘力は一に調整したはずって言われたことがある」
アリシアの目が僅かに細くなる。
「……なぜ今まで黙っていたのですか」
「その時は、それ以上に気になることを言われたんだよ」
「それでも普通は忘れないと思います」
「俺だからな」
「そうですね」
短く肯定され、ユキトは少しだけ傷ついた顔をした。
だが、すぐにそれどころではなくなる。
アッシュ。
親父の名前はアキトだった。
少なくとも、ユキトはそう認識していた。
以前、フローラの投影機でアッシュという名を見た時も、親父が新しく名乗り始めた芸名のようなものだと思っていた。
銀河竜アッシュ。
馬鹿みたいに派手な名前だと、深く考えもしなかった。
けれど。
その名を、こちらの世界でも聞いたことがある。
ミラ。
封印柱。
灰竜族。
弟に似ていたからかな。
あの時、ミラはそう言った。
弟。
灰竜族ミラの弟。
アッシュ。
ユキトの喉が、かすかに鳴った。
嘘だろ。
頭の中で、線が繋がっていく。
親父がアッシュ。
アッシュがミラの弟。
息子は灰竜。
なら。
ミラは。
俺の叔母。
ユキトの顔から、さらに色が抜けた。
思い出す。
俺の馬鹿な提案で封印された灰竜の少女。
自分を見て、アッシュと呼んだミラ。
一年待っていたと言ったミラ。
泣きそうな顔で、約束を覚えていたと言ったミラ。
そして、自分はその相手に、これ以上愛せないと言った。
全部が、今になって違う意味を持つ。
「……嘘だろ」
声が漏れた。
ユキトの顔から、血の気が引いていった。
アリシアは、父が何か重大なことに気づいたのだと察した。
父の出自も、アッシュの正体も、カイトが灰竜として生まれた理由に繋がるのだろう。
本来なら詳しく聞くべきなのかもしれない。
けれど、今のアリシアには、それより先に言わなければならないことがあった。
焚火の炎が揺れている。
アリシアは、膝の上で両手を握った。
「私は」
ユキトが顔を上げる。
「父さんに怒っていました」
「……だろうな」
「カイトの選択肢を奪ったからです」
ユキトは否定しなかった。
「それが、許せなかった」
「ああ」
「でも、現代日本で、私もカイトの意思を無視しました」
声が僅かに震える。
アリシアは首を横に振った。
「いいえ。同じではありません」
火の光が横顔を照らしている。
「……私の方が、もっとひどかった」
ユキトの表情が変わる。
けれど口を挟まず、黙って続きを待った。
「カイトを救うつもりでした」
アリシアは言葉を止めなかった。
ここで止まれば、二度と言えなくなる気がした。
「父さんの代わりにされているカイトを、本当に理解しているのは自分だけだと悦に浸っていました」
カイトがユキトではないと知っている。
父の代用品ではなく、カイト自身を見ている。
そう思うことに、優越感さえ覚えていた。
「カイトが苦しんでいることも、名前から逃げたがっていることも知っているつもりでした」
「……」
「だから、私だけがカイトの隣に立てると思った」
言葉にするたび、自分の思い上がりが露わになっていく。
「でも、私はカイトに尋ねませんでした」
自分に来てほしいのか。
隣にいてほしいのか。
一緒に生きることを望んでいるのか。
そのどれも、確かめなかった。
「聞けば拒まれると、分かっていたからです」
ユキトは目を伏せる。
その言葉が、自分にも刺さっているのだろう。
「私は、カイトのためだと言いながら、自分が正しいと思う形へ押し込めました」
アリシアの指先に力が入る。
「本当は、救いたかったのではありません」
認めるのが怖かった。
けれど、もう目を逸らすことはできない。
「カイトを、自分の方へ向かせたかっただけです」
喉が詰まる。
声が細くなる。
「私は……父さんより、ひどいです。理解しているふりをして、最後にはカイトに自分を選ばせようとしました」
沈黙が落ちた。
焚火の音だけが、二人の間を満たしている。
アリシアは顔を伏せた。
「前は、父さんを憎んでいました」
「……ああ」
「今、一番憎いのは」
言葉が途切れる。
それでも、最後まで口にした。
「……私自身です」
ユキトは、すぐには答えなかった。
安易に慰めなかった。
大丈夫だとも、仕方なかったとも言わなかった。
その沈黙が、アリシアにはありがたかった。
やがてユキトは火を見たまま、低い声で言った。
「詳しいことは、よく分からない」
アリシアは何も言わない。
「でも、お前が悪いことをしたと思ってるのは分かった」
「はい」
「なら、悪いことをした奴として戻れ」
アリシアが顔を上げる。
「……え」
「逃げてもいい」
ユキトは焚火を見つめたまま言った。
「俺もよく逃げるからな」
「……」
「でも、何も言わずに消えるな」
その言葉に、胸を掴まれたような感覚があった。
ユキトは枝を一本、火へくべる。
「俺は偉そうなことを言える立場じゃない」
「はい」
「即答するな。ちょっと傷つくだろ」
ユキトは苦笑した。
それから、真面目な顔でアリシアを見る。
「俺も逃げてばかりだ」
アリシアは黙って聞いている。
「自分が悪いと分かってても、怒られるのが嫌で、都合のいい形にしてきた」
炎が二人の間で揺れる。
「だから、お前を立派に叱れる父親じゃない」
ユキトは僅かに視線を落とした。
「でも、同じように失敗した奴としてなら言える」
夜風が吹き、火の粉が舞い上がる。
「悪いことをしたなら、謝りに行け」
アリシアの喉が震えた。
「母さんたちに、ですか」
「まずはな」
「……カイトには」
「今は無理だろ」
ユキトの声は、意外なほど穏やかだった。
「向こうにいる。連絡の方法も分からない。お前とも、今すぐ顔を合わせられる状態じゃないだろ」
アリシアは、何も言えなかった。
「でも、母さんたちには言えるな」
「……怒られます」
「怒られるだろうな」
「軽く言わないでください」
ユキトは少しだけ笑う。
「たぶん、めちゃくちゃ怒られる」
アリシアの顔が、わずかに強張る。
「でしょうね」
「ヨルカにまで怒られるかもしれない」
「……それは」
少しだけ、アリシアの声が沈む。
ユキトは肩をすくめる。
「仕方ないだろ」
「はい」
「でも、怒られに行け」
焚火の向こうで、ユキトの目が静かに光っていた。
「家族だからな」
その言葉は、許しではなかった。
救いでもなかった。
けれど、締め出す言葉でもなかった。
悪いことをした。
それでも、家の前で立ち尽くしているだけでは何も変わらない。
戻ってきたのなら、戻ったことを言わなければならない。
自分がしたことを、言わなければならない。
アリシアは、ゆっくり頷いた。
「……はい」
声は震えていた。
でも、逃げるための声ではなかった。
ユキトはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「よし」
ユキトは立ち上がった。
「帰ってきた報告をしに行くぞ」
アリシアは顔を上げる。
「……今ですか」
「今だろ。後に回すと、俺みたいになるぞ」
アリシアは何も言えなかった。
ユキトは少しだけ笑う。
「大丈夫だ。俺も一緒に怒られてやる」
「父さんは、もう怒られているのでは」
「なら、もう一度だ」
そう言って、ユキトは手を差し出した。
アリシアは、その手を見た。
子どもの頃、何度も取った手。
家族として。
娘として。
父に導かれるものとして。
でも今、その手を取るのは少し違った。
許されたからではない。
守られるためでもない。
悪いことをしたまま、家族の前へ戻るために。
アリシアは、ゆっくりと手を伸ばした。
ユキトの手が、彼女の手を掴む。
少しだけ温かかった。
焚火の火を消し、二人は家へ向かって歩き出す。
玄関の明かりが近づく。
扉の向こうには、母たちがいる。
何を聞かれるのか。
何を言われるのか。
想像するだけで、足が止まりそうになる。
けれど、ユキトの手は離れなかった。
「アリシア」
扉の前で、ユキトが言った。
「はい」
「言えるところからでいい」
アリシアは、少しだけ息を吸う。
「……はい」
ユキトは扉を開けた。
暖かい光が、夜の庭へ漏れる。
家の中から、誰かの足音がした。
そして。
帰ってきたアリシアは、父に手を引かれたまま、家族のいる場所へ戻っていった。




