90.極めて不道徳です
抉れた土の匂いが、まだ夜気の中に残っていた。
散らばった本。
裂けた白線。
踏み荒らされた校庭。
誰も、すぐには動けなかった。
カイトは立っている。
立ってはいるが、ただ突っ立っているだけだった。
父の名。
灰竜の血。
自分がここに立っている意味。
今まで噛み合わなかった違和感が、最悪の形で一本に繋がってしまったせいで、思考そのものが止まっていた。
シオンも、リオも、同じだった。
異世界。
竜。
一週間のはずの時間。
父と息子の入れ替わり。
何ひとつ飲み込めていない。
なのに、目の前のアリシアだけが、それらすべてを知った上で立っているように見えた。
そのことが、ひどく気味悪かった。
先に息を吸ったのはシオンだった。
震えてはいない。
だが、張りつめた声だった。
「仮に、あなたの言うことが本当だったとして」
リオが隣で小さく顔を向ける。
シオンは目を逸らさない。
「そこにいるのがユキトではなく、その息子のカイトさんだったとして」
「それならあなたは、自分の血縁者を愛していることになります」
夜風が、ゆっくりと髪を揺らした。
「それがどういうことか分からないほど愚かには見えません」
「極めて不道徳です」
「そこに、何も感じないのですか」
リオも遅れて言葉を継いだ。
「そうだよ」
「さっきからこっちばっかり滅茶苦茶にして」
「でも、それ一番おかしいの、あんた自身じゃん」
アリシアは二人の顔を順に見た。
それから、ふっと口元だけで笑った。
「それで?」
「言いたいことは、それだけですか?」
リオが眉をひそめる。
アリシアは続けた。
「極めて不道徳、ですか」
「ずいぶん綺麗な言葉を使うんですね」
その声音は静かだった。
静かなまま、人を小さく見下ろす冷たさだけが濃かった。
「では、甥を愛することも同じでは?」
一瞬、意味が通らない。
先に反応したのはリオだった。
「は?」
露骨に苛立った声だった。
「何それ」
「今、そんな話してないんだけど」
「していますよ」
「まさに今、その話をしているじゃないですか」
「してない」
「はぐらかさないで」
リオの声が一段強くなる。
「血縁者を愛するのが不道徳だって話でしょ」
「甥だろうが何だろうが同じだし」
「それに今、あんたの話をしてるんだって言ってるの」
横でシオンも低く言う。
「甥を愛することも不道徳です」
「ですが、今はそこを論じているのではありません」
「論点をずらしてまで、答えたくないのですか」
アリシアがぴたりと動きを止める。
ほんの数秒、静かになった。
それから。
「……ふふっ」
笑いが漏れた。
肩が揺れる。
喉の奥で押し殺すような笑いが、一度、二度と零れる。
それだけでも十分異様だったのに、次にはもう駄目だった。
「あはっ……」
「あははははっ……!」
アリシアは堪えきれずに笑い出した。
腹の底からだった。
冷笑ではない。
見下しだけでもない。
壊れたみたいに。
救われたみたいに。
笑いが止まらない。
シオンもリオも、その意味が分からず凍りつく。
アリシアは片手で口元を押さえながら、それでもなお笑った。
「……そっか」
「私だけが、狂っているように見えたんだ」
ぞくりとしたものが走る。
笑っているのに、目だけはひどく冷たかった。
「本当に?」
「本気でそう思っていたんですか?」
シオンが声を低くする。
「何が言いたいんです」
「何が言いたいのか、ですか?」
「鈍いあなたたちにも分かるように、ちゃんと教えてあげますよ」
アリシアはゆっくり二人を見る。
その視線は刃のように細かった。
「アキトという男を知っていますか?」
「あるいは、銀河竜アッシュを」
その名が落ちた瞬間だった。
シオンの目つきが変わった。
リオの顔から、血の気が引いた。
呼吸の仕方まで、同時に変わる。
アリシアは見逃さなかった。
「隠せていないですよ?」
「その顔」
二人とも、ほんの一瞬だけ。
目の前のアリシアへ、はっきりと殺意を向けた。
シオンが先に、その横の気配に気づく。
リオも、同じ瞬間にシオンを見る。
目が合う。
言葉はない。
だが、そこに浮かんだ感情だけは隠しきれなかった。
まさか。
こいつも。
母親から聞かされていた。
女関係が最悪だった男。
子供の顔すら見ないで消えた男。
名前を出すだけで空気が悪くなる類の男。
その輪郭が、互いの顔を通して一瞬で繋がる。
アリシアはそれを見て、また笑った。
今度ははっきりと、嘲るように。
「どうしました?」
「今さら、何が繋がったんですか?」
シオンもリオも答えられない。
アリシアは楽しそうに続ける。
「今頃気づいたんですかぁ?」
「どんな気分ですか?」
「血縁者を愛するのは、極めて不道徳でしたっけ?」
「それで?」
「半分血の繋がった兄弟を愛していた気分は」
リオの喉がひくりと震えた。
「嫌ですか?」
「気持ち悪いですか?」
「それとも、今は甥でしたっけ?」
言葉より先に、胃の奥がせり上がる。
吐き気だった。
息を吸おうとしてもうまく入らない。
頭の中で関係が繋がりかけて、身体の方が先に拒絶していた。
「っ……」
漏れた声は、もう反論にもならない。
隣では、シオンの顔からすっと熱が消えていた。
かろうじて張っていた理性の膜が、一枚剥がれたみたいに。
整えていた表情が崩れる。
否定しようとしているのに、その否定の言葉すら間に合わない。
アリシアはその二人を見て、愉快そうに目を細めた。
「さっきまで、私だけを化け物みたいに見ていましたよね」
「でも違った」
「知らなかっただけで、あなたたちもちゃんと同じ側に立っていた」
「どうしました?」
「今さら、自分たちが兄弟や甥に手を伸ばしかけていたのだと分かって、気持ち悪くなりましたか?」
リオが一歩よろめく。
白線の上に落ちた本が、靴先に触れた。
「不思議ですね」
「私だけを化け物みたいに見ていたのに」
アリシアは首を傾げる。
「ほんの少し角度を変えただけで、そんな顔をするんですから」
「やめて」
リオの声は途中で掠れた。
アリシアは止まらない。
「そうそう」
「私から見たら、あなたたち二人は叔母になるんでしたね」
その一言で、リオの肩がびくりと跳ねた。
シオンも、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
閉じたところで消える現実ではないと、分かっている顔だった。
「それなら、姪である私のことも愛してくれますか?」
ぞっとするほど柔らかい声だった。
「どうせ血が繋がっていても、本物の恋なんでしょう?」
リオの唇が震える。
シオンの表情も、さすがに崩れた。
それでも、まだ終わらない。
「それとも、自分が踏み越えかけたものを、今さら気持ち悪いとでも言いますか?」
返せる言葉はなかった。
そんな二人を見て、アリシアはふと笑みを消した。
その切り替わりが、むしろ怖かった。
「アキトは私の祖父です」
静かな声だった。
「あの最低の男ですら、祖母には多少の情があったようですが」
わずかな間。
「あなたたちの母親には、それすらなかったんですね」
空気が止まった。
リオが息を呑む。
シオンの指先が、目に見えて強く握られる。
今度のそれは、アリシアに対する嫌悪だけではなかった。
母親を侮辱された怒りと、否定しきれない何かが混じっていた。
そこが、何より最悪だった。
「母のことを」
シオンが低く言う。
だが声は少しだけ掠れていた。
「侮辱?」
「していませんよ」
アリシアは即座に返す。
「事実を言っただけです」
「むしろ、被害の差分を説明してあげたんです」
「それとも、あなたたちの母親は大事にされていたんですか?」
その問いに、シオンは返せない。
沈黙だけで十分だった。
アリシアは薄く笑う。
「ほら」
「答えられない」
リオが顔を上げる。
目はもう、怒りで潤んでいた。
「だからって」
「だからって、それで母さんたちを馬鹿にしていい理由にならない」
「ええ、そうですね」
「それで、馬鹿にしていい理由にはならない」
「その通りです」
妙に素直な声だった。
その素直さが余計に嫌だった。
「でも」
「あなたたちは、私だけを化け物みたいに言った」
「自分たちは安全な場所に立ったまま」
「私だけが壊れているみたいに」
「気持ちよく裁こうとした」
そこで一度、アリシアはカイトを見る。
フリーズしたままの横顔。
まだ何も言えない男。
その視線に、ほんの一瞬だけ執着が滲んだ。
だがすぐ、またシオンとリオへ戻る。
「違ったでしょう?」
「あなたたちも、同じだった」
「知らなかっただけで」
「気づいていなかっただけで」
アリシアはそこで、わずかに笑った。
冷たいというより、確信している顔だった。
「踏み外した先は、ちゃんとこちら側に続いていた」
夜風が吹く。
裂けた白線が微かに鳴る。
そして、アリシアはさらに言葉を足した。
「……それにしても、少し不思議でした」
シオンもリオも、もう返せない。
それでもその声だけは耳に入ってしまう。
「あなたたちも、あの男の血を引いているのでしょう?」
「それなのに、竜ではない」
リオの顔が強張る。
シオンの目つきもわずかに変わる。
だが二人には、その意味が分からない。
分からないまま、それが侮辱だということだけは分かる。
「ユキトは違った」
「あの人は最初から純竜だった」
アリシアの声は静かだった。
静かなまま、淡々と急所を抉っていく。
「成長も遅かった」
「だから、あの男にも分かったんでしょうね」
「同じ側の子だと」
シオンが眉をひそめる。
リオも息を止める。
意味は分からない。
だが、言われていることが決して良いものではないとだけは、肌で伝わる。
「勘違いしないでください」
「特別に愛されていた、なんて話ではありませんよ」
アリシアの目が細くなる。
「ただ、純竜だった」
「だから反応した」
「それだけです」
その一言の方が、かえって残酷だった。
「でも、お前たちは違った」
リオの肩がぴくりと震える。
「血は引いている」
「なのに竜ではない」
「だから、数えられなかった」
「父親に、子供として数えられなかったんです」
その瞬間、二人とも何かが刺さった顔をした。
理屈の全部は理解できない。
それでも、それが自分たちと母親をまとめて下へ叩き落とす言葉だということだけは分かった。
アリシアは止まらない。
「分かりますよ」
「嫌だったでしょうね」
「自分たちの母親が、あの男にとって“その程度”だったと突きつけられるのは」
リオが歯を食いしばる。
シオンの指先が白くなる。
「でも、違いますか?」
「……言葉を選びなさい」
シオンが低く言った。
抑えている。
だがもう、抑えきれてはいなかった。
アリシアは即座に返した。
「言葉を選べ、ですか?」
その唇がつり上がる。
「選んでいますよ」
「かなり丁寧に」
「でなければ、もっとはっきり言っていました」
アリシアの目が、冷たく細くなる。
「お前たちは竜の出来損ないだと」
空気が凍った。
意味をすべて理解できたわけではない。
それでも、それが侮辱だということだけは分かる。
自分たちに向けられたものだということも。
母親にまで届く刃だということも。
リオの顔が引きつる。
シオンの指先がさらに強く握られる。
アリシアはその反応を見て、ほんの少しだけ首を傾げた。
「何も間違っていないでしょう?」
「同じ男の血を引いているのに、竜にはなれなかった」
「父親にも、子供として数えられなかった」
「そのくせ、こっちを裁くんですか?」
「滑稽ですね」
「……だから、お母様は捨てられたのでは?」
リオの喉が引きつった。
シオンの目が見開かれる。
「違いますか?」
アリシアはなおも続ける。
「それとも何です?」
「愛されていたとでも?」
「大事にされていたとでも?」
「だったら、どうしてお前たちは非竜なんですか?」
「どうして、何ひとつ残せなかったんですか?」
「血だけもらって、肝心なものは届かなかった」
「その結果が、お前たちじゃないですか」
「黙れ!」
最初に声を上げたのはリオだった。
掠れていた。
怒鳴ったというより、喉の奥から無理やり引きずり出した声だった。
「母さんを、そんなふうに言うな!」
一歩、踏み出す。
今にも掴みかかりそうだった。
だが、その横でシオンが腕を掴む。
強く。
止めるためというより、自分も飛び出さないために。
シオンはアリシアから目を逸らさなかった。
「撤回なさい」
静かな声だった。
その静けさの下で、感情は完全に煮え立っていた。
「今すぐ」
アリシアの顔から、薄い笑みが消えた。
代わりに、もっと露骨な感情が滲む。
「ふざけないでください」
その一言だけ、感情が剥き出しだった。
「お前たちに、私を裁く資格なんて最初からない」
「同じ男の血を引いて」
「同じだけ汚れて」
「同じだけ歪んでいるくせに」
「それでも自分たちはまともだと思っていたんですか?」
リオも、シオンも言葉を失う。
アリシアは一歩だけ踏み込む。
「竜にもなれない」
「父親にも数えられない」
「その出来損ないが」
その声が、鋭くなる。
「何を根拠に、私より上の顔をしてるんですか?」
校庭にその声が裂けた。
誰も動けなかった。
誰もすぐには返せなかった。
アリシアは息を荒げていない。
だが、その目の奥だけがひどく熱かった。
「黙れ?」
その熱が、ふっと冷える。
「黙るのはそっちでしょう」
「自分たちだけ安全な顔をして」
「私だけを化け物扱いして」
「それで満足したでしょう?」
「今さら被害者の顔をしないでください」
「お前たちもこっち側です」
「知らなかった?」
「だから何です?」
「知らなかったなら仕方ない、で済ませるつもりですか?」
その時だった。
「アリシア、黙れ!」
張り裂けるみたいな声だった。
誰の声か、一瞬遅れて理解が追いつく。
アリシアが振り向く。
シオンも、リオも、息を止めたようにそちらを見る。
カイトだった。
顔色はまだ悪い。
立っているだけで精一杯みたいだった。
頭の中も整理しきれていないのが見て取れた。
それでも、今だけははっきりとアリシアを見ていた。
「これ以上二人を傷つけるな!」
アリシアの唇がわずかに開く。
カイトは震えていた。
怒りだけじゃない。
混乱も、痛みも、まだ全部残っていた。
それでも目だけは逸らさなかった。
「そんなやり方でしか人と向き合えないなら」
喉が掠れる。
「俺はお前を家族だとは思わない!」
夜気が凍る。
「姉としても、受け入れられない!」
その言葉は、はっきりとアリシアを裂いた。
初めてだった。
アリシアの顔が、本当に傷ついたみたいに動いた。
「ちが……」
掠れた声だった。
さっきまでの余裕はなかった。
「私は、あなたのために」
「違わない」
カイトの声は、もう怒鳴っていなかった。
その分だけ冷たかった。
「お前が何を知ってても」
「何を抱えてても」
「そんなふうに人を傷つけていい理由にはならない」
アリシアが一歩、にじる。
今までの余裕はどこにもなかった。
縋るように、すがりつくように、声だけが細くなる。
「知らなかったなら仕方ない、で済ませるつもりですか?」
息が震える。
「なら、大丈夫です」
その声は柔らかいのに、必死だった。
「私は知っていますから」
カイトの背筋に冷たいものが走る。
「あなたが何を嫌がっていたのか」
「何に傷ついていたのか」
「何を見られたくなかったのか」
アリシアはもう、シオンもリオも見ていなかった。
まっすぐカイトだけを見ていた。
「私は全部、知っています」
「この人たちとは違います」
もう一歩、近づく。
「私はあなたを父親の代わりになんて見ません」
「私は最初から、あなただけを見ています」
その声には熱があった。
執着と祈りと、どうしようもない独占が混ざっていた。
「あなたが何者でもいい」
「純竜でも、姉弟でも、そんなことはどうでもいい」
「私だけは、ちゃんとあなたを見ているんです」
カイトはそれを、まっすぐ見返した。
アリシアはさらに続ける。
「私は、あなたのために言ったんです」
「あなたがどれだけ迷惑していたか、分かっていたから」
「どれだけ嫌だったか、どれだけ傷ついたか知っていたから」
声が細くなる。
「それなのに」
「私を責めるんですか?」
誰も動けなかった。
誰も口を挟めなかった。
カイトだけが、静かに息を吸う。
そして言った。
「俺はお前を選ばない」
静かな声だった。
だからこそ、残酷だった。
アリシアの唇が震える。
「選ばない?」
その声は、もう震えていた。
「……私を?」
「この人たちじゃなくて」
「私を?」
カイトは答えない。
答えないまま、目だけは逸らさない。
それが何より答えだった。
アリシアの顔から血の気が引いていく。
「本気で言ってるんですか?」
乾いた笑いにもならない声だった。
「こんな連中の方を庇っておいて?」
「血も知らない」
「何も知らない」
「あなたを見てもいなかった女たちを?」
声が掠れる。
「それでも、私じゃないんですか」
カイトの表情は変わらない。
それが、アリシアには一番きつかった。
しばらくして、アリシアはゆっくり息を吐いた。
笑おうとしたみたいだった。
けれど、もううまく笑えなかった。
「そうですか」
その声だけが、妙に静かだった。
「じゃあ、あなたも同じですね」
目の奥だけが、凍りつく。
「結局」
「私を理解したふりをして」
「最後には切り捨てる」
唇がわずかに歪む。
「あなたも、あの男と同じだ」
その言葉のあと、誰もすぐには動けなかった。
リオは何も言えない。
シオンも、もう先ほどまでの冷静な顔はできていない。
アリシアもまた、完全には立ち直れていなかった。
校庭には、夜風だけが細く吹いていた。
散らばった本のページがめくれる音が、やけに大きく響く。
もう誰も、簡単には元の場所へ戻れなかった。




