89.答えられますか?
夜の校庭には、まだ竜の気配が残っていた。
抉れた土。
裂けた白線。
遅れて吹き抜ける風。
さっきまでここにあったものは、もう人間の恋愛ではなかった。
アリシアは膝をついていた。
肩で息をしている。
乱れた紺色の髪が頬に張りつき、口元には血が滲んでいた。
求愛モードの残滓が、まだ身体の奥でくすぶっている。
正面にはカイトが立っていた。
制服の袖は裂け、頬にも浅い傷が走っている。
一目みただけで重症だ。
それでも、立っていた。
人の姿のまま。
アリシアの求愛を叩き落とし、拒絶し、終わらせた。
少し離れた位置で、シオンとリオが息を呑んでいた。
二人とも顔が青い。
アリシアが人間ではない何かだと見せつけられたことも、その暴走を目の前の男が真正面から止めたことも、まだうまく飲み込めていない顔だった。
でも、一つだけは分かる。
何かがおかしい。
それだけは、もう誤魔化せなかった。
最初に口を開いたのはシオンだった。
「……もう、やめなさい」
髪が風に揺れる。
声は震えていなかったが、張りつめていた。
「あなたがどれだけ本気でも、こんな形で押しつけていい理由にはなりません」
リオも続いた。
「そうだよ」
「好きなら何してもいいわけじゃないでしょ」
アリシアが、そこで小さく笑った。
ひどく静かな笑みだった。
熱ではなく、冷たさで切る女の笑み。
「綺麗なことを言いますね」
カイトの眉がわずかに寄る。
嫌な流れを察した顔だった。
「アリシア」
「黙っていてください」
掠れた声だったが、鋭かった。
アリシアはゆっくり顔を上げ、シオンとリオを見る。
その目には、もう負けた悔しさより、別のものが強かった。
心の底からの軽蔑だった。
「本当に、この男と付き合っていたつもりなんですか?」
空気が止まる。
シオンの目が細くなる。
リオが一瞬言葉を失う。
アリシアは容赦なく続けた。
「長い時間を積み重ねてきたつもりで?」
「理解し合っていたつもりで?」
「笑わせないでください」
リオがやっと言い返す。
「何それ……」
「何って、そのままです」
「私たちは……!」
「どうせ都合よく言葉を捻じ曲げて」
「っ」
「自分に見たいものだけ見て」
「っ……」
「認識も歪めて、付き合っていることにしたかっただけでしょう」
シオンの声が低くなる。
「あなたに、何が分かるんです」
「分かりますよ」
アリシアは即答した。
「少なくとも、あなたたちよりはずっと」
「だって父が、人間の女を好きになるわけがないでしょう」
その一言に、二人の表情が揺れた。
リオが先に掴みかかるような声を出す。
「は?」
「聞こえませんでしたか?」
「そういう問題じゃなくて」
「いえ、そういう問題です」
アリシアはふらつきながら立ち上がった。
一度負けた身体だ。
足元は安定していない。
それでもまだ倒れない。
そのまま自分の鞄のところまで歩き、拾い上げる。
ファスナーを開ける。
シオンの背筋に嫌なものが走った。
「……何をするつもりですか」
「見せてあげるんですよ」
アリシアの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、逆にぞっとする。
「あなたたちが、何を相手に“付き合っていたつもり”だったのかを」
次の瞬間。
ばさり、と。
何冊もの本が、夜の校庭へぶちまけられた。
紙が土の上に散り、表紙が開く。
街灯の薄い光が、それをやけに生々しく照らした。
リオが息を呑む。
シオンの顔が凍る。
そこに描かれていたのは、全部女だった。
だが、人間ではない。
角がある。
翼がある。
尾がある。
爆乳のドラゴン娘ばかり。
しかも、そのどれもが異様だった。
鎖で繋がれている。
封印柱に固定されている。
拘束具を嵌められている。
檻に入れられている。
自由を奪われ、不自由を強いられている構図ばかり。
一冊ではない。
二冊でもない。
ぶちまけられた全部がそうだった。
そして、その中に人間の女が表紙の本は、一冊もなかった。
リオが震える手で一冊を拾う。
「……なに、これ」
シオンも別の一冊を見る。
表紙の竜女は、巨大な封印陣に四肢を固定されていた。
煽るような文句。
露骨な構図。
普通ならただ下品で終わるもののはずなのに、笑えなかった。
偏りすぎている。
「異世界へ来る前の部屋にあったものです」
アリシアは説明するように言った。
「こちらの世界で」
「人間の本は一冊もなかった」
「ドラゴン娘だけ」
「しかも、全部こういうものです」
彼女は一冊を拾い上げる。
「拘束されている」
「封じられている」
「逃げられない」
「自由を奪われている」
「なぜだと思います?」
答えを待たず、アリシアは続けた。
「娘である私に、こんな最低な証拠を残していくとは」
「本当に、どこまでも最悪な父です」
「幼い頃に十分な愛情を与えられなかった」
「本来は灰竜としてある側のものだった」
「でも、そう生きられなかった」
「自分でも知らないまま、本来の側を押し込められていた」
風が吹く。
散らばった本のページがめくれ、紙の擦れる音がやけに大きく響く。
「だから無意識に」
「封じられたものを求めた」
「閉じ込められたもの」
「自由を奪われたもの」
「不自由を強いられたもの」
アリシアは足元の本を見下ろす。
「そして、ドラゴン娘しかなかった理由も同じです」
「本人は分かっていなかった」
「でも、本能の方は知っていた」
「人間ではなく、竜を求めていた」
「最初からずっと」
シオンの喉が小さく動く。
アリシアはそこで、冷たく笑った。
「これでもまだ、父が人間の女を好きになると思いますか?」
「これでもまだ、自分たちが恋人だったと胸を張れますか?」
「この男の欲望の向きも知らずに」
「人間の女を一冊も求めなかったことすら知らずに」
「よく“付き合っていた”なんて口にできましたね」
リオの顔が引きつる。
「そんなの……」
「何です?」
「そんなの、ただの趣味じゃ」
「趣味」
アリシアは鼻で笑った。
「そこまで浅く見られるんですね」
「っ……」
「表紙だけ見れば、下品なエロ本でしょう」
「でも、これだけ偏っていて」
「しかも人間の女が一冊もない」
「それでもまだ、“たまたま”で済ませるんですか?」
シオンが低く言う。
「……そんな話、信じられません」
「でしょうね」
「竜だの灰竜だの」
「ええ」
「そんなもの、普通は信じません」
「普通、ですか」
アリシアはカイトを見た。
それから二人へ視線を戻す。
「なら、さっき見たものは何です?」
「私を止めたあれは」
「人間の男の動きでしたか?」
「普通、でしたか?」
二人とも答えられない。
異世界なんて信じない。
竜もまだ受け入れない。
でも。
目の前の男が、普通ではない。
それだけは、もう否定できなかった。
アリシアはそこでさらに踏み込む。
「父は、灰竜として生きられなかった」
「でも、この子は違う」
「あなたたちも見たでしょう」
「人間のままで、私を止められるはずがない」
シオンの表情が硬くなる。
リオが息を浅くする。
“この子”。
その呼び方に違和感が走った。
しかし、その違和感を処理する前に、アリシアは次の刃を落とした。
「父には妻が三人いる」
「私たちはその子供です」
「あちらでは、もう二十年経っている」
今度こそ、リオが強く否定した。
「嘘だよ」
「そんなの嘘」
「こっちじゃ、失踪してから戻ってくるまでまだ一週間じゃん!」
「そうですね」
「一週間で妻三人、子供三人なんてありえない!」
「そうでしょうね」
「そんな話、信じるわけない!」
シオンも強く重ねる。
「時間が合いません」
「ええ」
「こちらでは一週間です」
「ええ」
「そんな話を、どう信じろと」
アリシアはそこで、初めて少しだけ笑った。
勝ち誇った笑いではない。
見下す笑みだった。
「あなたたちの知っている一週間が、そんなに絶対なんですか?」
「見えているものだけで、全部を測るんですね」
「だから、その程度の理解で“長い時間を積み重ねた”つもりになれる」
シオンは言葉を返せない。
異世界なんて信じない。
二十年の話も受け入れない。
それでも、アリシアの目は嘘をついているようには見えなかった。
そこが気味悪かった。
リオが小さく首を振る。
「違う」
「何がです?」
「だって……」
「だって?」
「……そんなの」
言えない。
“結婚してるように見えない”
“子供がいる男に見えない”
“でも普通の人間にも見えない”
その全部が喉につかえて、言葉にならない。
アリシアはその顔を見て、冷たく言った。
「今、目の前にいるユキトが本当に父だと、あなたは言いたいんですか?」
一拍。
シオンとリオが同時に顔を上げる。
アリシアの声は、今まででいちばん静かだった。
「ですが、全くそのような気配はない」
「妻が三人いて」
「子が三人いて」
「二十年を生きた男の気配が」
「この人には、まるでない」
リオの手から本が滑り落ちる。
シオンの瞳が見開かれる。
アリシアは唇の端だけを吊り上げた。
「当然です」
「だって今、ユキトとして立っているものの正体は」
「ユキトの息子である、カイトですから」
風が止まった気がした。
リオの手から本が滑り落ちる。
シオンの瞳が見開かれる。
言葉が、すぐには意味を結ばない。
ユキトとして立っているもの。
正体。
息子。
カイト。
全部が一瞬遅れて繋がり、繋がった瞬間に、今までの前提を根こそぎ壊した。
「……は?」
リオの声は、かすれていた。
「何、言って」
「聞こえなかったんですか?」
「だって、じゃあ」
「ええ」
「じゃあ、今まで……」
「あなたたちが追っていたのは、父の代わりにここへ立たされた息子です」
そして。
そこで初めて、カイトの表情が止まった。
今まで一言も挟まず、
最後までユキトの替え玉として立ち続けていた男が、
その瞬間だけ、完全に動きを失った。
正体を暴かれたこと。
それだけでも十分最悪だった。
けれど、それ以上に。
アリシアの言葉が、別の場所へ刺さっていた。
父はただの人間だと思っていた。
だから、自分が母と同じ幻夢竜ではなく、灰竜だった理由が分からなかった。
ずっと、どこかで噛み合わなかった。
だが今、
目の前で父の名と、自分の名と、灰竜という血が一本に繋がった。
父が人間ではなく、
本来は灰竜としてあるはずの側だったのなら。
自分が幻夢竜ではなく灰竜だったことにも、
ようやく辻褄が合ってしまう。
その理解が、
カイトの中で何よりも重かった。
目が、わずかに見開かれる。
言葉が出ない。
怒りでもない。
呆れでもない。
もっと底の方から来る、乾いた絶望だった。
「……」
何か言うべきなのに、
何も出てこない。
ずっと分からなかった違和感が、
最悪の形で繋がってしまった。
その現実を突きつけられて、
カイトはただ、その場で凍りついた。
アリシアはそこへさらに刃を入れる。
「それで?」
シオンとリオが、同時に彼女を見る。
アリシアの声はひどく冷たかった。
「あなたたちは、カイトとユキト、どちらが好きなんですか?」
「父の影を追っていたんですか?」
「それとも、今目の前にいる息子ですか?」
「どちらです?」
「答えられますか?」
リオの唇が震える。
シオンは言葉を探す。
だが、ない。
どちらも違うかもしれない。
どちらも混ざっていたのかもしれない。
でもその曖昧さを、今この場で言葉にした瞬間、自分たちの恋が何だったのか認めることになる。
アリシアは嗤った。
「答えられないんですね」
「当然です」
「だってあなたたちは、誰を見ていたかすら分かっていなかったんですから」
「都合よく優しくされた相手に、都合よく物語を貼りつけて」
「都合よく“恋”と呼んでいただけでしょう」
「哀れですね」
「父に惹かれたのか、息子に惹かれたのかも分からないまま」
「よくそこまで、自分たちの気持ちを本物だと思えたものです」
それからアリシアは、ゆっくりカイトへ視線を向けた。
そこだけ、声色が変わる。
冷たいだけではない。
もっと湿った、執着の色だった。
「でも、私は違う」
カイトの眉が寄る。
アリシアはボロボロのまま、それでも一歩だけ前へ出た。
「私は知っている」
「あなたが父ではないことも」
「それでもユキトとして立っていることも」
「その嫌な現実ごと知っている」
カイトは何も言わない。
アリシアは続ける。
「姉である私だけが」
「あなたを心から愛せる」
「家族であることも」
「父の代わりにここへ立たされたことも」
「その重さも、みっともなさも、全部分かった上で」
「それでもなお、あなたを欲しいと言える」
シオンが息を呑む。
リオが顔を上げる。
アリシアは、フリーズしたカイトをまっすぐ見つめた。
その沈黙すら拒絶ではなく、まだ届く余地として見ている目だった。
「今からでも遅くない」
「こちらへ来なさい」
「あなた達のように、父と息子の区別もつかず」
「自分が誰に恋をしていたのかすら分からない女たちではなく」
「最初から最後まで、全部知っている私のところへ」
校庭の空気が、またひりついた。
だがカイトは動かない。
アリシアはさらに、低く言った。
「あなたたちとは違うんですよ」
その言葉は、シオンとリオへ向けられていた。
「一週間の顔だけ見て」
「優しくされた記憶だけで」
「勝手に恋人面をして」
「父か息子かも分からない相手に執着して」
「それで“好き”なんて、滑稽なんです」
「本当にみっともない」
「何も知らないくせに」
「何一つ見えていないくせに」
「よくもまあ、そこまで“特別な女”の顔ができましたね」
リオが唇を噛む。
シオンが目を伏せる。
アリシアは容赦なく笑った。
「哀れですね」
「自分たちが何を好きだったのかも分からないまま」
「勝手に物語を作って」
「その中で恋をしていたつもりだった」
「その程度の恋に、私が負けると本気で思っていたんですか?」
長い沈黙が落ちた。
だが、今度は誰も動かなかったのではない。
動けなかったのは、カイトだった。
正体を暴かれた。
そこまではまだいい。
いつかは来る破綻だったのかもしれない。
けれど。
力で拒絶し、
正面から叩き落とし、
これ以上はないほどはっきりと「違う」と示したはずなのに、
それでもなお姉が諦めていない。
その事実だけが、
何よりも救いがなかった。
「……」
呼吸だけが浅くなる。
目の前のアリシアは、
壊れているのに、はっきりしていた。
終わっていない。
まだ来るつもりだ。
まだ諦めないつもりだ。
そこまで理解した瞬間、
カイトの中で、何かが完全に止まった。
フリーズしていた。
シオンも、リオも、その横顔を見ることしかできない。
アリシアだけが、その沈黙を拒絶ではなく、まだ届く余地として見ていた。
夜の校庭には、まだ風が吹いていた。
異世界も、竜も、一週間のはずの時間も、何ひとつ整理はつかない。
それでも。
散らばった本の異様さと、
目の前の男の説明のつかなさと、
アリシアが暴いた“正体”だけは、
どうしても嘘みたいには見えなかった。




