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89/98

89.答えられますか?


夜の校庭には、まだ竜の気配が残っていた。


抉れた土。

裂けた白線。

遅れて吹き抜ける風。


さっきまでここにあったものは、もう人間の恋愛ではなかった。


アリシアは膝をついていた。


肩で息をしている。

乱れた紺色の髪が頬に張りつき、口元には血が滲んでいた。

求愛モードの残滓が、まだ身体の奥でくすぶっている。


正面にはカイトが立っていた。


制服の袖は裂け、頬にも浅い傷が走っている。

一目みただけで重症だ。

それでも、立っていた。


人の姿のまま。

アリシアの求愛を叩き落とし、拒絶し、終わらせた。


少し離れた位置で、シオンとリオが息を呑んでいた。


二人とも顔が青い。

アリシアが人間ではない何かだと見せつけられたことも、その暴走を目の前の男が真正面から止めたことも、まだうまく飲み込めていない顔だった。


でも、一つだけは分かる。


何かがおかしい。


それだけは、もう誤魔化せなかった。


最初に口を開いたのはシオンだった。


「……もう、やめなさい」


髪が風に揺れる。

声は震えていなかったが、張りつめていた。


「あなたがどれだけ本気でも、こんな形で押しつけていい理由にはなりません」


リオも続いた。


「そうだよ」


「好きなら何してもいいわけじゃないでしょ」


アリシアが、そこで小さく笑った。


ひどく静かな笑みだった。

熱ではなく、冷たさで切る女の笑み。


「綺麗なことを言いますね」


カイトの眉がわずかに寄る。

嫌な流れを察した顔だった。


「アリシア」

「黙っていてください」


掠れた声だったが、鋭かった。


アリシアはゆっくり顔を上げ、シオンとリオを見る。

その目には、もう負けた悔しさより、別のものが強かった。


心の底からの軽蔑だった。


「本当に、この男と付き合っていたつもりなんですか?」


空気が止まる。


シオンの目が細くなる。

リオが一瞬言葉を失う。


アリシアは容赦なく続けた。


「長い時間を積み重ねてきたつもりで?」


「理解し合っていたつもりで?」


「笑わせないでください」


リオがやっと言い返す。


「何それ……」


「何って、そのままです」


「私たちは……!」


「どうせ都合よく言葉を捻じ曲げて」


「っ」


「自分に見たいものだけ見て」


「っ……」


「認識も歪めて、付き合っていることにしたかっただけでしょう」


シオンの声が低くなる。


「あなたに、何が分かるんです」


「分かりますよ」


アリシアは即答した。


「少なくとも、あなたたちよりはずっと」


「だって父が、人間の女を好きになるわけがないでしょう」


その一言に、二人の表情が揺れた。


リオが先に掴みかかるような声を出す。


「は?」


「聞こえませんでしたか?」


「そういう問題じゃなくて」


「いえ、そういう問題です」


アリシアはふらつきながら立ち上がった。


一度負けた身体だ。

足元は安定していない。

それでもまだ倒れない。


そのまま自分の鞄のところまで歩き、拾い上げる。

ファスナーを開ける。


シオンの背筋に嫌なものが走った。


「……何をするつもりですか」


「見せてあげるんですよ」


アリシアの声は穏やかだった。

穏やかすぎて、逆にぞっとする。


「あなたたちが、何を相手に“付き合っていたつもり”だったのかを」


次の瞬間。


ばさり、と。


何冊もの本が、夜の校庭へぶちまけられた。


紙が土の上に散り、表紙が開く。

街灯の薄い光が、それをやけに生々しく照らした。


リオが息を呑む。

シオンの顔が凍る。


そこに描かれていたのは、全部女だった。


だが、人間ではない。


角がある。

翼がある。

尾がある。


爆乳のドラゴン娘ばかり。


しかも、そのどれもが異様だった。


鎖で繋がれている。


封印柱に固定されている。


拘束具を嵌められている。


檻に入れられている。


自由を奪われ、不自由を強いられている構図ばかり。


一冊ではない。

二冊でもない。


ぶちまけられた全部がそうだった。


そして、その中に人間の女が表紙の本は、一冊もなかった。


リオが震える手で一冊を拾う。


「……なに、これ」


シオンも別の一冊を見る。


表紙の竜女は、巨大な封印陣に四肢を固定されていた。

煽るような文句。

露骨な構図。

普通ならただ下品で終わるもののはずなのに、笑えなかった。


偏りすぎている。


「異世界へ来る前の部屋にあったものです」


アリシアは説明するように言った。


「こちらの世界で」


「人間の本は一冊もなかった」


「ドラゴン娘だけ」


「しかも、全部こういうものです」


彼女は一冊を拾い上げる。


「拘束されている」


「封じられている」


「逃げられない」


「自由を奪われている」


「なぜだと思います?」


答えを待たず、アリシアは続けた。


「娘である私に、こんな最低な証拠を残していくとは」


「本当に、どこまでも最悪な父です」


「幼い頃に十分な愛情を与えられなかった」


「本来は灰竜としてある側のものだった」


「でも、そう生きられなかった」


「自分でも知らないまま、本来の側を押し込められていた」


風が吹く。

散らばった本のページがめくれ、紙の擦れる音がやけに大きく響く。


「だから無意識に」


「封じられたものを求めた」


「閉じ込められたもの」


「自由を奪われたもの」


「不自由を強いられたもの」


アリシアは足元の本を見下ろす。


「そして、ドラゴン娘しかなかった理由も同じです」


「本人は分かっていなかった」


「でも、本能の方は知っていた」


「人間ではなく、竜を求めていた」


「最初からずっと」


シオンの喉が小さく動く。


アリシアはそこで、冷たく笑った。


「これでもまだ、父が人間の女を好きになると思いますか?」


「これでもまだ、自分たちが恋人だったと胸を張れますか?」


「この男の欲望の向きも知らずに」


「人間の女を一冊も求めなかったことすら知らずに」


「よく“付き合っていた”なんて口にできましたね」


リオの顔が引きつる。


「そんなの……」


「何です?」


「そんなの、ただの趣味じゃ」


「趣味」


アリシアは鼻で笑った。


「そこまで浅く見られるんですね」


「っ……」


「表紙だけ見れば、下品なエロ本でしょう」


「でも、これだけ偏っていて」


「しかも人間の女が一冊もない」


「それでもまだ、“たまたま”で済ませるんですか?」


シオンが低く言う。


「……そんな話、信じられません」


「でしょうね」


「竜だの灰竜だの」


「ええ」


「そんなもの、普通は信じません」


「普通、ですか」


アリシアはカイトを見た。

それから二人へ視線を戻す。


「なら、さっき見たものは何です?」


「私を止めたあれは」


「人間の男の動きでしたか?」


「普通、でしたか?」


二人とも答えられない。


異世界なんて信じない。

竜もまだ受け入れない。


でも。

目の前の男が、普通ではない。

それだけは、もう否定できなかった。


アリシアはそこでさらに踏み込む。


「父は、灰竜として生きられなかった」


「でも、この子は違う」


「あなたたちも見たでしょう」


「人間のままで、私を止められるはずがない」


シオンの表情が硬くなる。

リオが息を浅くする。


“この子”。


その呼び方に違和感が走った。


しかし、その違和感を処理する前に、アリシアは次の刃を落とした。


「父には妻が三人いる」


「私たちはその子供です」


「あちらでは、もう二十年経っている」


今度こそ、リオが強く否定した。


「嘘だよ」


「そんなの嘘」


「こっちじゃ、失踪してから戻ってくるまでまだ一週間じゃん!」


「そうですね」


「一週間で妻三人、子供三人なんてありえない!」


「そうでしょうね」


「そんな話、信じるわけない!」


シオンも強く重ねる。


「時間が合いません」


「ええ」


「こちらでは一週間です」


「ええ」


「そんな話を、どう信じろと」


アリシアはそこで、初めて少しだけ笑った。


勝ち誇った笑いではない。

見下す笑みだった。


「あなたたちの知っている一週間が、そんなに絶対なんですか?」


「見えているものだけで、全部を測るんですね」


「だから、その程度の理解で“長い時間を積み重ねた”つもりになれる」


シオンは言葉を返せない。


異世界なんて信じない。

二十年の話も受け入れない。


それでも、アリシアの目は嘘をついているようには見えなかった。


そこが気味悪かった。


リオが小さく首を振る。


「違う」


「何がです?」


「だって……」


「だって?」


「……そんなの」


言えない。


“結婚してるように見えない”

“子供がいる男に見えない”

“でも普通の人間にも見えない”


その全部が喉につかえて、言葉にならない。


アリシアはその顔を見て、冷たく言った。


「今、目の前にいるユキトが本当に父だと、あなたは言いたいんですか?」


一拍。


シオンとリオが同時に顔を上げる。


アリシアの声は、今まででいちばん静かだった。


「ですが、全くそのような気配はない」


「妻が三人いて」


「子が三人いて」


「二十年を生きた男の気配が」


「この人には、まるでない」


リオの手から本が滑り落ちる。

シオンの瞳が見開かれる。


アリシアは唇の端だけを吊り上げた。


「当然です」


「だって今、ユキトとして立っているものの正体は」


「ユキトの息子である、カイトですから」


風が止まった気がした。


リオの手から本が滑り落ちる。

シオンの瞳が見開かれる。


言葉が、すぐには意味を結ばない。


ユキトとして立っているもの。

正体。

息子。

カイト。


全部が一瞬遅れて繋がり、繋がった瞬間に、今までの前提を根こそぎ壊した。


「……は?」


リオの声は、かすれていた。


「何、言って」


「聞こえなかったんですか?」


「だって、じゃあ」


「ええ」


「じゃあ、今まで……」


「あなたたちが追っていたのは、父の代わりにここへ立たされた息子です」


そして。


そこで初めて、カイトの表情が止まった。


今まで一言も挟まず、

最後までユキトの替え玉として立ち続けていた男が、

その瞬間だけ、完全に動きを失った。


正体を暴かれたこと。


それだけでも十分最悪だった。


けれど、それ以上に。


アリシアの言葉が、別の場所へ刺さっていた。


父はただの人間だと思っていた。


だから、自分が母と同じ幻夢竜ではなく、灰竜だった理由が分からなかった。

ずっと、どこかで噛み合わなかった。


だが今、

目の前で父の名と、自分の名と、灰竜という血が一本に繋がった。


父が人間ではなく、

本来は灰竜としてあるはずの側だったのなら。


自分が幻夢竜ではなく灰竜だったことにも、

ようやく辻褄が合ってしまう。


その理解が、

カイトの中で何よりも重かった。


目が、わずかに見開かれる。


言葉が出ない。


怒りでもない。

呆れでもない。


もっと底の方から来る、乾いた絶望だった。


「……」


何か言うべきなのに、

何も出てこない。


ずっと分からなかった違和感が、

最悪の形で繋がってしまった。


その現実を突きつけられて、

カイトはただ、その場で凍りついた。


アリシアはそこへさらに刃を入れる。


「それで?」


シオンとリオが、同時に彼女を見る。


アリシアの声はひどく冷たかった。


「あなたたちは、カイトとユキト、どちらが好きなんですか?」


「父の影を追っていたんですか?」


「それとも、今目の前にいる息子ですか?」


「どちらです?」


「答えられますか?」


リオの唇が震える。


シオンは言葉を探す。

だが、ない。


どちらも違うかもしれない。

どちらも混ざっていたのかもしれない。

でもその曖昧さを、今この場で言葉にした瞬間、自分たちの恋が何だったのか認めることになる。


アリシアは嗤った。


「答えられないんですね」


「当然です」


「だってあなたたちは、誰を見ていたかすら分かっていなかったんですから」


「都合よく優しくされた相手に、都合よく物語を貼りつけて」


「都合よく“恋”と呼んでいただけでしょう」


「哀れですね」


「父に惹かれたのか、息子に惹かれたのかも分からないまま」


「よくそこまで、自分たちの気持ちを本物だと思えたものです」


それからアリシアは、ゆっくりカイトへ視線を向けた。


そこだけ、声色が変わる。


冷たいだけではない。

もっと湿った、執着の色だった。


「でも、私は違う」


カイトの眉が寄る。


アリシアはボロボロのまま、それでも一歩だけ前へ出た。


「私は知っている」


「あなたが父ではないことも」


「それでもユキトとして立っていることも」


「その嫌な現実ごと知っている」


カイトは何も言わない。


アリシアは続ける。


「姉である私だけが」


「あなたを心から愛せる」


「家族であることも」


「父の代わりにここへ立たされたことも」


「その重さも、みっともなさも、全部分かった上で」


「それでもなお、あなたを欲しいと言える」


シオンが息を呑む。

リオが顔を上げる。


アリシアは、フリーズしたカイトをまっすぐ見つめた。


その沈黙すら拒絶ではなく、まだ届く余地として見ている目だった。


「今からでも遅くない」


「こちらへ来なさい」


「あなた達のように、父と息子の区別もつかず」


「自分が誰に恋をしていたのかすら分からない女たちではなく」


「最初から最後まで、全部知っている私のところへ」


校庭の空気が、またひりついた。


だがカイトは動かない。


アリシアはさらに、低く言った。


「あなたたちとは違うんですよ」


その言葉は、シオンとリオへ向けられていた。


「一週間の顔だけ見て」


「優しくされた記憶だけで」


「勝手に恋人面をして」


「父か息子かも分からない相手に執着して」


「それで“好き”なんて、滑稽なんです」


「本当にみっともない」


「何も知らないくせに」


「何一つ見えていないくせに」


「よくもまあ、そこまで“特別な女”の顔ができましたね」


リオが唇を噛む。

シオンが目を伏せる。


アリシアは容赦なく笑った。


「哀れですね」


「自分たちが何を好きだったのかも分からないまま」


「勝手に物語を作って」


「その中で恋をしていたつもりだった」


「その程度の恋に、私が負けると本気で思っていたんですか?」


長い沈黙が落ちた。


だが、今度は誰も動かなかったのではない。


動けなかったのは、カイトだった。


正体を暴かれた。

そこまではまだいい。


いつかは来る破綻だったのかもしれない。


けれど。


力で拒絶し、

正面から叩き落とし、

これ以上はないほどはっきりと「違う」と示したはずなのに、

それでもなお姉が諦めていない。


その事実だけが、

何よりも救いがなかった。


「……」


呼吸だけが浅くなる。


目の前のアリシアは、

壊れているのに、はっきりしていた。


終わっていない。

まだ来るつもりだ。

まだ諦めないつもりだ。


そこまで理解した瞬間、

カイトの中で、何かが完全に止まった。


フリーズしていた。


シオンも、リオも、その横顔を見ることしかできない。


アリシアだけが、その沈黙を拒絶ではなく、まだ届く余地として見ていた。


夜の校庭には、まだ風が吹いていた。


異世界も、竜も、一週間のはずの時間も、何ひとつ整理はつかない。


それでも。


散らばった本の異様さと、

目の前の男の説明のつかなさと、

アリシアが暴いた“正体”だけは、

どうしても嘘みたいには見えなかった。

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