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88.愛と言う名の支配

ホームルーム開始のチャイムが鳴った。


けれど、その音は教室の空気を戻してはくれなかった。


甘い花の匂いが、まだ薄く漂っている。


誰も動けない。


誰も話せない。


教室の扉が開く。


「何の騒ぎだ」


担任の声だった。


その瞬間、生徒たちは一斉に前を向いた。


正確には、前を向いたふりをした。


誰も説明しない。


誰も説明できない。


担任は誰か香水をばら撒いたなと訝しむように見回したが、やがて探すのを諦め息を吐いた。


「席につけ。ホームルームを始めるぞ」


その一言で、教室は形だけ日常に戻された。


けれど、戻ったのは本当に形だけだった。


カイトは席に座る。


背中に、いくつもの視線が刺さっていた。


好奇心。


困惑。


疑い。


恐れ。


そのどれもが、直接ぶつかってくることはない。


誰も目を合わせようとはしなかった。


それなのに、見られていることだけは分かる。


何より怖かったのは、ユウナがユキトではなく、自分を見ているように感じたことだった。


昼休みになっても、騒ぎは収まらなかった。


教室のあちこちで、ひそひそと声が上がる。


「今朝のあれ、何だったの?」


「アリシアさん、彼女って言ってたよな」


「じゃあリオとシオンさんは?」


「正直羨ましいわ」


「ていうか、まだ花の匂い残ってない?」


誰も正面から聞きには来ない。


聞きたい。


知りたい。


問い詰めたい。


けれど、近づけない。


アリシアの周囲には、いつものように女子たちがいた。


だが、誰も普段通りには話しかけられなかった。


アリシアは静かに座っている。


勝ち誇っているようにも見える。


何もなかったようにも見える。


そのどちらにも見えるからこそ、余計に誰も踏み込めなかった。


リオはそんなアリシアを睨んでいた。


シオンもまた、冷えた目を向けている。


二人の間に言葉はない。


ただ、苛立ちだけがあった。


カイトは、その空気の中にいられなかった。


席を立つ。


「ねえ、ユキト!」


リオの声が飛んだ。


シオンも顔を上げる。


アリシアも、こちらを見る。


カイトは何も言わなかった。


何か言えば、また間違える。


何か答えれば、誰かを傷つける。


何も言わなければ、全部が悪くなる。


分かっていた。


分かっているのに、足は止まらなかった。


カイトは教室を出た。


廊下を歩く。


階段を下りる。


人の少ない場所まで逃げる。


逃げた。


その言葉だけが、胸の奥で重く沈んだ。


まただ。


また、自分は逃げた。


父の過去を清算するために来たはずだった。


自分はユキトではないと、言わなければならなかった。


リオにも。


シオンにも。


それなのに、何も言えなかった。


カイトは壁にもたれ、強く目を閉じた。


このままでは駄目だ。


これ以上黙っていれば、関係は悪くなる一方だ。


何も選ばないままなら、いずれ全部壊れる。


だから、やる。


放課後。


カイトは三人を呼び出した。


場所は、校舎の裏手にある第二校庭だった。


普段はほとんど使われていない場所だ。


地面は少し荒れている。


隅には古いライン引きや、錆びた器具が置きっぱなしになっていた。


部活動の声も、ここまでは届きにくい。


リオは不安そうに立っていた。


シオンは腕を組み、表情を整えている。


アリシアは、ただ静かにカイトを見ていた。


三人の視線を受けて、カイトは息を吸う。


話す。


今度こそ。


全部。


「俺は――」


だが、その前にアリシアが口を開いた。


「その前に、写真を返してください」


カイトの言葉が止まる。


アリシアの視線は、シオンへ向いていた。


シオンは無言で鞄に手を入れる。


取り出したのは、一枚の写真だった。


アリシアの宝物。


異世界から持ってこられた、家族との記録。


カイトの胸が、嫌な音を立てる。


「それは、返してください」


アリシアの声は穏やかだった。


穏やかすぎて、逆に冷たい。


シオンは写真を見下ろした。


「これが、そんなに大切ですか」


「ええ」


「こんな、解像度の低い合成写真が?」


リオが一瞬、シオンを見る。


これ以上はまずい。


そう思った顔だった。


けれど、止められなかった。


シオンの指に力が入る。


「いらないでしょう。こんなもの」


次の瞬間、写真が破れた。


乾いた音がした。


一度。


二度。


白い砂浜が裂ける。


青い海が千切れる。


そこに写っていた笑顔が、ばらばらに割れる。


切れ端が、第二校庭の砂の上に落ちた。


カイトは青ざめた。


「シオン……」


リオも息を呑んでいる。


シオンは破れた写真を地面に落とし、冷たく言った。


「嘘の証拠なんて、必要ありません」


アリシアの表情から、感情が消えた。


風が止まったように感じた。


カイトだけが分かった。


次に何が起きるか。


アリシアの足が、砂を踏む。


見えたのは、それだけだった。


次の瞬間、彼女の拳はシオンの目前にあった。


リオには見えていない。


シオンにも見えていない。


カイトだけが見えていた。


駄目だ。


当たれば、死ぬ。


カイトは体を投げ出した。


シオンの前に割り込み、アリシアの拳を受け止める。


衝撃が腕に走った。


骨が軋む。


足が砂を削る。


体が後ろへ押し込まれる。


それでも、カイトは倒れなかった。


シオンは、突然目の前に立ったカイトを呆然と見ていた。


何が起きたのか、理解できていない。


リオも同じだった。


ただ、アリシアの動きを、カイトが止めた。


それだけしかわからなかった。


アリシアは、冷めた目でカイトを見た。


「……カイト」


その声に、もう姉の温度はなかった。


「あなたは、そちらを選ぶんですか」


カイトは答えられなかった。


選んだわけではない。


ただ、死なせたくなかった。


それだけだった。


だが、アリシアの目にはそう映らなかった。


しばらく、沈黙が落ちる。


カイトとアリシアは、言葉を交わさなかった。


ただ、視線だけがぶつかっていた。


選んだのですか。


違う。


なら、どいてください


駄目だ。落ち着け。


目線だけのやり取りは、何一つ届かない。


その張り詰めた空気の中、校庭に赤黒い光が落ちた。


空間が歪む。


砂が巻き上がる。


見えない何かが裂けるような音がして、光の中心に小さな影が現れた。


「お姉ちゃん!」


ヨルカだった。


息を切らし、顔を青ざめさせ、それでも必死に声を張り上げる。


「お願い、もう止めて! こんなの間違ってる!」


アリシアの視線がヨルカへ向く。


その目を見た瞬間、ヨルカの体が固まった。


「お姉……ちゃん……」


声が小さくなる。


目の前にいるのは、知っている姉ではない。


けれど、ヨルカはすぐに状況を見た。


アリシアの拳。


その先にいるシオン。


シオンの前に立つカイト。


破れた写真。


血の気を失ったリオ。


まずい。


このままでは、誰かが死ぬ。


今の姉を止めるには、普通にぶつかっても届かない。


自分だけの力では止めきれない。


竜形態で押し切るしかない。


ヨルカの周囲に力が集まる。


竜化しようとした。


その瞬間だった。


赤黒い光が、再び弾けた。


ヨルカの輪郭が揺れる。


その背後に、一瞬だけ別の景色が見えた。


シロネコ島の家。


次の瞬間、ヨルカは光に呑まれた。


「ヨルカ!」


カイトが叫ぶ。


だが、そこにはもう何もなかった。


校庭に、静寂が戻る。


リオもシオンも、完全に動けなくなっていた。


今、何が起きたのか。


あの少女は誰だったのか。


なぜ現れて、なぜ消えたのか。


理解できるはずがなかった。


アリシアは、ゆっくりと二人を見る。


「見ましたか」


静かな声だった。


「次は、あなたたちも消します」


リオの顔から血の気が引く。


シオンも言葉を失っていた。


カイトはアリシアを見た。


違う。


ヨルカを消したのは、アリシアではない。


この世界が、竜化しようとしたヨルカを弾いた。


おそらく、シロネコ島へ送り返したのだ。


カイトには、それが分かった。


けれど、リオとシオンには分からない。


そしてアリシアは、その誤解を利用した。


妹が消えた現象すら、自分の脅しに使った。


カイトは、低く言う。


「本気なんだな?」


アリシアは答えなかった。


ただ、破れた写真の切れ端を見る。


そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……何ですか、その顔」


先に口を開いたのは、シオンだった。


声は冷たい。


けれど、わずかに震えていた。


「まるで、こちらが悪いみたいな態度ですね」


アリシアは答えない。


シオンは続けた。


「そもそも、あなたが急に現れて、勝手にユキトの彼女だと言い出したのでしょう」


「私たちは何も知らされていません」


「そんなものを見せられて、信じろと言う方が無理です」


「シオン」


リオが小さく止める。


けれど、シオンは止まらなかった。


「だいたい、彼女だと言うなら、彼の気持ちを考えたことはあるんですか?」


その言葉に、アリシアの指がかすかに動いた。


リオが息を呑む。


「教室であんなことをして、周りを巻き込んで、ユキトに全部押し付けて」


シオンはアリシアを睨む。


「それで愛しているつもりですか」


空気が、薄く軋んだ。


リオは慌てて一歩前に出る。


「もういいよ、シオン。今はそれ以上言わない方がいい」


「どうしてですか」


シオンの声は止まらない。


「言わなければ分からないでしょう、この人は」


「自分だけが正しいみたいな顔をして」


「ユキトのことも、私たちのことも、何も見ていない」


アリシアの視線が、ようやくシオンへ向いた。


リオの背筋が凍る。


その目には、怒りすらなかった。


怒りよりも、もっと冷たいものが沈んでいた。


それでもリオは、名前を呼んだ。


「アリシアさん」


声が少し震えた。


「写真を破ったのは、シオンが悪かったと思う。でも、だからって――」


「リオ」


カイトが低く言う。


止めようとした声だった。


だが、リオも止まれなかった。


怖い。


怖いからこそ、言わなければならない気がした。


「だって、そうでしょ」


リオは唇を噛む。


「いきなり来て、彼女だって言って、昔から一緒だったって言って」


「でも私たちは、そんなこと言われても信じられない」


「それなのに、全部事実みたいに言われても困るよ」


アリシアは、静かにリオを見た。


その顔は綺麗だった。


綺麗で。


穏やかで。


だからこそ、ひどく怖かった。


シオンが息を吐く。


「結局、あなたも私たちと同じです」


「ユキトの過去を持ち出して、彼を縛っているだけ」


「私たちをどうこう言う前に、鏡を見てきたらどうですか」


その瞬間、空気が変わった。


音が遠ざかる。


リオが、そこでようやく気づいた。


踏み越えた。


今の言葉は、踏み越えてはいけない場所を踏んだ。


アリシアは、ゆっくりと口を開いた。


「それを、あなたたちが言うんですね」


風が吹く。


深い紺色の髪が揺れる。


その下の金の瞳だけが、ひどく冴えていた。


「ろくに知らないくせに」


「何も知らないくせに」


「“カイト”が何者で、何を背負って、何を恐れてここに立っているのかも知らないくせに」


シオンが息を詰める。


「カイト?」 


聞き間違えだと思った。


「誰よ、それ」


リオが一歩、足を引きかける。


アリシアは二人を見ていた。


弟を奪う女を見る目ではない。


もっと冷たい。


もっと根の深い怒りだった。


「それでも、あなたたちは平気で口を挟むんですね」


「私の愛まで、笑うんですね」


その声に泣きそうな響きはなかった。


だから余計に怖かった。


感情を押し殺しすぎて、もう割れる手前まで来ている声音だった。


カイトが前に出る。


「アリシア、やめろ」


呼ぶと、アリシアはゆっくり視線を向けた。


その瞬間だけ、表情がやわらぐ。


ほんの一瞬だけ。


痛いほどに。


「……ええ。もういいです」


彼女は言った。


「言葉では足りないなら、私のやり方で決着をつけます」


白い指先が、胸元で静かに組まれる。


次の瞬間、空気そのものが変質した。


圧が落ちる。


いや、落ちたのではない。


濃くなった。


見えない何かが校庭を満たし、呼吸を奪う。


シオンが反射的に膝をつきかける。


リオも顔を歪めた。


アリシアの髪が、ふわりと浮く。


瞳の奥で、竜の瞳が燃えた。


「人間の恋愛って、面倒ですね」


アリシアは、静かに言った。


「彼女だとか。証拠だとか。順番だとか。過去だとか」


そして、カイトを見る。


「そんなものに、何の意味があるのですか」


カイトの喉が鳴った。


アリシアは続ける。


「それなら、私たちは私たちのやり方で決着をつけましょう」


求愛モード。


それは、本来なら弱い竜が強い竜へ伴侶として迫る時の最終手段だった。


想いを言葉で伝えるのではない。

ただ願うのでもない。


力で示す。


勝てば、相手の拒絶を踏み越え、伴侶としての主導権をすべて奪う。


愛情行為と呼ばれている。

だが、実際には決闘に近い。


母さんたちは、昔それを笑い話のように語っていた。


ユキトに使ってみたかったなあと。

けれど、戦闘力1のユキトに使えば確実に死ぬ。

だからできなかった。

残念だったと。


笑い話として。


けれど最後だけは真顔だった。


もし、自分の意に沿わない相手が使ってきたら。


逃げなさい。


母たちは、そう言っていた。


カイトは、アリシアを見た。


本来、求愛モードは弱い竜が強い竜へ迫るためのものだ。

自分より強い相手へ、命を賭けて届くための最後の手段。


だが、今それを使っているのはアリシアだった。


相手はカイト。


模擬戦ですら、一度も勝てたことがない。

本気のアリシアなど、見たこともない。


これは、本来の形ではない。


弱い者が強い者へ届くための求愛ではない。

強い者が弱い者から逃げ道を奪うための、支配だった。


アリシアは静かに笑った。


「私の想い、受け取ってください。好きです、大好きです、愛してます」


美しい言葉だった。


けれど、そこに逃げ道はない。


カイトは奥歯を噛む。


逃げるべきだ。


この求愛を受けてはいけない。


呑まれれば、一生主導権を奪われる。


自分の意思すら、塗り替えられる。


本能が叫ぶ。


けれど、逃げられない。


後ろには、リオとシオンがいる。


ここで自分が逃げれば、二人は間違いなく殺される。


カイトは息を吐いた。


腕が痛い。


足も震えている。


勝てる理由など、どこにもない。


それでも。


逃げるわけにはいかなかった。


カイトは構える。


「勘違いするな」


アリシアの目が細くなる。


「俺は、姉さんの求愛を受けるために立つんじゃない」


一拍置く。


「姉さんを止めるために立つ」


アリシアは笑った。


綺麗な笑みだった。


壊れそうなほど、優しい笑みだった。


「私より弱い癖に、本気で守り切れると思っているんですか?」


その声は、ひどく優しかった。


優しいのに、冷たかった。


「大丈夫ですよ、カイト」


アリシアは一歩踏み出す。


「次に目を開ける時、あなたは私を愛していますから」


カイトは答えなかった。


答える代わりに、拳を握る。


アリシアが消えた。


いや、速すぎて見えなかっただけだ。


次の瞬間、カイトは咄嗟に腕を上げていた。


直後、衝撃が骨まで叩き込まれる。


重い。


速い。


そして何より、迷いがない。


一撃目で左腕が痺れた。


二撃目で脇腹が軋む。


三撃目で後退を強いられる。


模擬戦で何度も見た動きだ。


知っている。


知っているはずなのに、今はまるで別物だった。


踏み込みの圧。


拳の重さ。


体幹の強さ。


全部が一段上にある。


求愛モード。


理屈では知っていた。


だが、実際に相手をするのは話が違う。


アリシアは強い。


真正面から殴り合えば、勝てない。


一度も勝ったことがないという事実が、そのまま現実として襲いかかってくる。


それでもカイトは退かなかった。


後ろにシオンとリオがいる。


横へ流せば巻き込む。


下がればそのまま押し潰される。


だから受け続けるしかない。


崩されながら、前を残すしかない。


アリシアの膝が跳ねる。


顎を狙った一撃を、カイトは首を捻ってずらした。


それでも頬骨が鳴る。


視界が白く弾けた。


普通なら、ここで止まる。


竜同士の基準でも、一瞬動きが鈍る。


呼吸が乱れる。


そこをさらに詰められて落とされるはずだった。


だが、カイトは気力だけで立ち続けた。


倒れるわけにはいかない。


足が痛い。


膝が痛い。


歯の隙間から血を吐きながら、それでも立ち続ける。


ここで倒れれば全てが終わると、分かっているからだ。


アリシアの呼吸が、そこで初めてわずかに乱れた。


求愛モードは強い。


だが、消耗も激しい。


しかも、この世界では竜化できない。


魔法も、どこまでなら弾かれないか分からない。


ヨルカの一件で、露骨に竜の力を振るえば、この世界に弾かれることは分かった。


それだけは避けなければならない。


だから格闘で落とす。


それが最適解のはずだった。


そのはずだった。


なのに、落ちない。


アリシアが距離を切る。


靴裏が土を裂き、数歩分だけ後ろへ滑った。


その動きで、カイトは悟る。


来る。


直後、アリシアの周囲に土塊が浮いた。


拳大の弾丸が十。


二十。


さらに増える。


土弾。


大技ではない。


この世界に弾かれるほどでもないと踏んだのだろう。


一斉に放たれた。


カイトは距離を詰めようとして、違和感に気づく。


弾道が、自分だけを向いていない。


二発。


三発。


明らかに後ろへ抜ける軌道が混ざっている。


シオンとリオ。


ここで殺す気だ。


思考より先に身体が動いた。


「伏せろッ!」


叫びながら、カイトは横へ跳ぶ。


振り向く余裕すらない。


背中を二人の前に差し込んだ瞬間、土弾が叩き込まれる。


肩。


背中。


脇腹。


腿。


鈍い衝撃が連続で突き刺さり、骨ごと身体を揺らした。


痛みが熱になって走る。


リオが悲鳴を呑む。


シオンがその場に崩れながら、反射的に身を伏せる。


カイトの声を聞いて、二人とも咄嗟に頭を抱え込んだ。


その上を、さらに土弾が走る。


地面が抉れる。


白線が吹き飛ぶ。


アリシアの顔から、もう理性は半分消えていた。


「黙って、大人しく身を引けばよかったんです」


連射の合間に、ひどく冷たい声が落ちる。


「何も知らないまま、諦めればよかった」


「分からないくせに、笑うから」


「軽い言葉で、私の愛まで汚すから」


また弾丸が走る。


カイトは二人の前に立ったまま、一歩踏み出した。


被弾する。


それでも進む。


肩口に一発。


腹に一発。


膝に一発。


それでも止まらない。


土弾の雨を浴びながら、カイトは前へ出る。


ただ一歩ずつ。


泥の中を押し切るみたいに。


アリシアの目が揺れた。


おかしい。


削れている。


通っている。


効いていないわけがない。


血が流れている。


呼吸も荒い。


脚ももう重いはずだ。


なのに、まだ来る。


ここまでくれば魔法は不要だと判断した。


アリシアが距離を詰める。


迷わず踏み込む。


体ごと圧をかけた全力の拳が、真正面からカイトの重心を潰しに来る。


カイトは受けようとした。


だが、腕が上がりきらない。


アリシアの拳が肩を捉え、同時に膝が脚の内側を払う。


次の瞬間、カイトの身体が崩れた。


土の匂いが近づく。


背中からではない。


膝からでもない。


前のめりに、地面へ伏せさせられた。


アリシアの手が、カイトの背を押さえる。


重い。


カイトは動こうとした。


指が土を掻く。


肘が震える。


だが、起き上がれない。


アリシアは、そこでようやく息を吐いた。


勝った。


そう思った。


カイトは動けない。


自分の下で、地面に伏せている。


その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが甘くほどけた。


終わった。


これで終わった。


もう、誰にも渡さなくていい。


「……カイト」


アリシアの声が、少しだけ揺れた。


さっきまでの冷たさは、もうなかった。


勝利の昂りと、安堵と、抑えきれない喜びが混ざっていた。


「もう、大丈夫です」


「すぐに治します」


カイトは答えない。


アリシアはそれを、抵抗する力も残っていないのだと思った。


当然だった。


あれだけ受けた。


あれだけ庇った。


あれだけ立ち続けた。


普通なら、とっくに倒れている。


それでもここまで残ったのだから、十分だった。


もう戦わなくていい。


もう苦しまなくていい。


これからは、自分がそばにいる。


ずっと。


アリシアはカイトの背から手を離した。


そして、少しだけ姿勢を低くする。


倒れたカイトを抱き起こそうと、腕を伸ばした。


白い光が、指先に灯る。


回復魔法。


この世界で大きな魔法を使うのは危険だった。


けれど、これは攻撃ではない。


目の前の“夫”を治すためのものだ。


それに、もう勝負は終わった。


終わったのだから。


「もう、無理をしなくていいんです」


アリシアは囁く。


「これからは、私が――」


その時だった。


カイトの腕が動いた。


弱々しく、震えながら。


それでも、確かに。


アリシアの背に回る。


一瞬、アリシアの思考が止まった。


抱きしめられた。


そう思った。


カイトが、自分から触れてくれた。


自分を受け入れてくれた。


敗北を認めて、それでも最後に、自分へ手を伸ばしてくれた。


胸の奥が、どうしようもなく熱くなる。


「カイト……」


名前を呼んだ。


その瞬間、背に回った腕の力が変わった。


甘い抱擁ではなかった。


逃がさないための固定だった。


「――っ」


アリシアが反応するより早く、カイトの身体が跳ねた。


倒れていたはずの身体が、土を噛みながら起きる。


半ば抱きつくように、アリシアの懐へ潜り込む。


肩を押し込む。


腰を捕まえる。


足を絡める。


綺麗な技ではない。


泥臭い。


無理やりだ。


力任せですらない。


ただ、離さない。


それだけの動きだった。


アリシアの身体が傾く。


求愛モードの消耗で、足が残っていなかった。


勝ったと思って、重心も甘くなっていた。


何より、カイトが自分に触れた一瞬、心が完全に緩んでいた。


それが致命的だった。


「待っ――」


言葉は最後まで出なかった。


カイトが体重ごと倒れ込む。


アリシアは受け身を取りかけたが、腰と肩を固定されている。


逃げられない。


地面が迫る。


鈍い音がして、二人の身体が校庭に転がった。


土が舞う。


白線の粉が散る。


アリシアはすぐに起き上がろうとした。


だが、できない。


カイトが上から押さえていた。


腕は震えている。


息も荒い。


血も流れている。


まともに立てる状態ではない。


それでも、離さない。


アリシアの肩を押さえ、腰を封じ、動けば喉元へ届く位置に手を置いている。


いつでも殺せる位置だった。


アリシアの瞳が見開かれる。


「……どうして」


声が漏れる。


信じられない、というより。


まだ受け入れられない声だった。


「どうして、私を拒絶するんですか……」


カイトは答えられなかった。


喋る余裕がない。


呼吸するだけで肺が焼ける。


それでも、指だけは離さなかった。


アリシアは動こうとする。


だが、動けない。


力ではまだ自分の方が上のはずだった。


本来なら、振り払えるはずだった。


なのに身体が言うことを聞かない。


求愛モードの消耗。


勝利を確信した油断。


回復しようと身を寄せた姿勢。


そして、カイトの最後の拒絶。


すべてが重なっていた。


アリシアの唇が震える。


その目に、遅れて理解が落ちる。


カイトに否定された。


「……本当に」


アリシアがかすかに笑った。


乾いた、壊れたみたいな笑いだった。


「嫌になりますね」


声が震えている。


一瞬、脳裏をよぎったのは、忌々しい父の顔だった。


「最後まで」


「そういうところが」


カイトは何も言わない。


ただ、アリシアを押さえたまま、荒い息をしていた。


勝った顔ではなかった。


受け入れた顔でもなかった。


ただ、終わらせるために、まだそこに残っている顔だった。


アリシアは、その顔を見上げる。


求愛を拒まれた女の目だった。


負けた姉の目だった。


それでもまだ、諦めきれていない竜の目だった。


そしてその奥に、ほんの一瞬だけ抱きしめられたと信じてしまった痛みが、消えずに残っていた。


校庭に、荒い呼吸だけが残る。


勝敗は、決まっていた。


土煙が、ゆっくりと落ちていく。


抉れた校庭。


砕けた白線。


土弾に穿たれた跡が、校庭を無残に刻んでいた。



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