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87.黙って退く理由はありません

探偵から連絡が入ったのは、夕方だった。


アリシアは仮住まいの一室で、机の上に広げた書類を見下ろしていた。


窓の外では、日本の街が淡く暮れている。シロネコ島の夕暮れとは違う。海の匂いもない。火を起こす音もない。代わりに、遠くを走る車の音と、どこかの家から漏れる生活音が薄く聞こえていた。


机の上には、数枚の報告書が置かれている。


リオ。


シオン。


カイトを取り巻く二人の少女。


アリシアは、まずリオの資料から読んだ。


母子家庭。

放課後のバイト。

生活費の補助。

人懐っこい性格。

軽く見られることへの反発。

母親の多忙。

明るい態度の裏にある承認欲求。


アリシアは指先で紙の端を押さえた。


「……思ったより、余裕がないんですね」


次に、シオン。


母方の財力。

財閥の娘。

生活上の不自由はほとんどない。

だが、家庭内の空気には偏りがある。

血のつながらない父の派手な女関係。

好きな相手を自分の管理下に置きたがる傾向。

居場所と安全を与えることで、相手を離さないようにする性質。


アリシアは目を細めた。


「こちらは、飢え方が違う」


片方は、見てほしい。

片方は、離れてほしくない。


形は違う。

けれど、どちらも不足から来ている。


アリシアは一枚ずつ紙をめくった。


探偵は有能だった。金はかかったが、結果は出している。


表に出ている交友関係。

学校での評判。

家庭環境。

経済状況。

本人たちの行動パターン。


どれも、カイトの周囲に置いていい相手かどうかを判断する材料にはなる。


だが、アリシアが本当に知りたいのは、もっと奥だった。


リオとシオンは、何を見ているのか。


ユキトなのか。

カイトなのか。

それとも、自分自身の喪失感なのか。


資料を読んだだけでは、そこまでは分からなかった。


その時、机の端に置いた端末が震えた。


探偵からの追加連絡だった。


アリシアは画面を開く。


そこには、短い文章があった。


――追加で確認できた件があります。

――確度は高いですが、取扱注意です。

――特に、対象者周辺へ漏らすことは絶対に避けてください。


添付された資料を開いた。


数行読んだところで、アリシアの指が止まった。


部屋の空気が、一瞬だけ遠のく。


読み間違えたのかと思った。


もう一度読む。


名前。

関係。

過去の記録。

一致する情報。


アリシアはしばらく動けなかった。


やがて、低く呟く。


「……そういうことだったんですね」


声は静かだった。


だが、その瞳には、明らかに別の温度が宿っていた。


驚きはあった。

嫌悪もあった。

そして、それ以上に、妙な納得があった。


アリシアは端末を閉じた。


その口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「なら、私だけが黙って退く理由はありません」


胸の奥で、何かが切り替わった。


カイトを守る。


それは本心だ。


リオとシオンがカイトをユキトとして縛るなら、止めなければならない。


それも本心だ。


けれど、もう一つ。


それを知ったとき自分の恋心を隠し止める理由がなくなっていた。


アリシアは資料を整え、必要なものだけ鞄へ入れた。


次に動く場所は決まっている。


学校。


ただし、カイトの前ではしない。


彼がいない場所で、リオとシオンに会う。


二人が本当に何を見ているのか、直接確かめる必要がある。


アリシアは立ち上がった。


窓の外では、街に夜が降り始めていた。



翌日の体育の授業後、更衣室には、湿った熱気が残っていた。


着替えを済ませた女子たちが、次々と教室へ戻っていく。部活の話をする者、汗を気にして髪を直す者、テレビドラマについて騒ぐ者。


その賑やかさが遠ざかっていく中で、最後に残ったのはリオとシオンだった。


リオはロッカーの前で髪を整えていた。鏡を見ているようで、実際には少し別のことを考えている顔だった。


シオンは制服の襟を直し、乱れのないように袖を引いていた。


二人の間に、しばらく沈黙がある。


先に口を開いたのはリオだった。


「やっぱりさ、ユキト……別人みたいじゃない?」


シオンは制服の袖を直す手を止めなかった。


「ええ。以前とは違いますね」


「体育のことだけじゃないよ」


リオは少し苛立ったように言った。


「足が速いとか、動きが変とか、そういうのもあるけど……それだけじゃなくて」


そこで言葉を探す。


前のユキトなら、もっと軽かった。


でも今は違う。


袖を掴めば止まる。

話しかければ聞く。

無理に明るくしようとすると、こちらに合わせて笑う。

シオンが段取りを作れば、逆らわずに乗る。


それが、気味悪いくらい静かだった。


「今のユキトってさ」


リオは低く言った。


「私たちに、合わせてる感じがする」


シオンの手が、そこでようやく止まった。


「……合わせている?」


「うん。前みたいに逃げない。ふざけて誤魔化さない。こっちが言ったことに、ちゃんと乗ってくる」


リオは自分で言いながら、胸の奥が少し重くなるのを感じた。


「それって、いいことなのかもしれないけどさ」


シオンは静かに言う。


「私は、悪い変化だとは思いません」


リオがシオンを見る。


シオンは鏡越しに、自分の襟元を整えながら続けた。


「少なくとも、以前より話は通じます。無責任に笑って逃げることも少なくなりました。こちらの言葉を聞こうとしている」


そこで、少しだけ声が低くなる。


「逃がしにくくなった、とも言えます」


リオの眉が動いた。


嫌な言い方だった。


今のユキトを、弱くなったから捕まえやすい、と言われたような気がした。


けれど、リオはすぐには噛みつかなかった。


今ここでシオンに怒っても、話がずれる。


だけど、自分だって少しは思っている。


前より近くにいられる。

前より強く迫っても逃げない。

前より、こちらの言葉を聞いてくれる。


そのことに安心してしまっている自分もいる。


だから余計に、嫌だった。


「……そういう言い方、好きじゃない」


「でしょうね」


「でも、今はそのことじゃない」


リオは鏡から目を逸らした。


「それよりさ」


声が少しだけ沈む。


「何があったんだろうね、あの一週間」


シオンは答えなかった。


リオも、それ以上は言わなかった。


更衣室の外から、遠くの足音が聞こえた。


もう誰も来ないと思っていた。


だから、二人とも振り返るのが少し遅れた。


「お二人とも、まだいらしたんですね」


柔らかな声だった。


入口に、アリシアが立っていた。


制服姿で、髪も整っている。表情は穏やかで偶然声をかけられたように見えた。


けれど、リオの表情はすぐに硬くなった。


「……アリシアさん」


シオンも、静かに目を細める。


「何かご用ですか」


アリシアは一歩だけ中へ入った。


「少し、お話ししたくて」


「私たちと?」


リオは明らかに警戒していた。


「もう知りたいことは知ったんじゃないの」


アリシアは首を傾げる。


「どういう意味ですか?」


「とぼけなくていいよ」


リオの声が低くなる。


「クラスでは猫かぶってるみたいだけど、私は騙されないから。あんた、最初から私たちのこと探ってたでしょ」


アリシアは否定しなかった。


その沈黙が、答えになった。


シオンはリオよりも冷静だったが、声には温度がなかった。


「関係のない外野なら、これ以上踏み込まないでください」


「外野、ですか」


アリシアが静かに繰り返す。


「ええ。あなたは転入してきたばかりです。私たちと彼の間に、口を挟む立場ではありません」


リオも続ける。


「はっきり言うけど、これ以上あんたと関わりたくない」


アリシアは少しだけ目を伏せた。


傷ついたようにも見える。

だが、それは表面だけだった。


次の瞬間、彼女は顔を上げ、穏やかな声で言った。


「私、ユキト君と一緒に一週間いましたよ?」


更衣室の空気が止まった。


リオの目が大きく開く。


「……は?」


シオンの表情から、完全に柔らかさが消えた。


「今、何と言いましたか」


アリシアは、丁寧に言い直す。


「あなた方が、ユキト君が消えたと思っていた一週間」

「私は、彼と一緒に過ごしていました」


リオは笑おうとした。


失敗した。


「何それ。意味分かんない」


「そのままの意味です」


「嘘でしょ」


「そう思いますか?」


アリシアの声は穏やかだった。


それが余計に不気味だった。


シオンは口元だけで薄く笑う。


「ずいぶん雑な嘘ですね」


「嘘ではありません」


「では、なぜ今まで言わなかったのですか」


「必要がなかったからです」


「今は必要があると?」


「ええ」


リオはアリシアを睨んだ。


「ユキトとは初対面みたいな顔してたじゃん」


「そう見せていただけです」


「何のために」


「彼のために」


その言葉が、二人の胸を刺した。


彼。


アリシアの声には、距離がなかった。


まるで、自分だけが知っている相手を語るような響きだった。


リオは否定したかった。


けれど、思い出してしまう。


教室で、ユキトがアリシアを目で追っていたこと。


綺麗な留学生が気になっている、という目ではなかった。


警戒。

戸惑い。

恐れ。


そして、どこかで繋がっている相手を見る目。


シオンも同じことを考えていた。


ユキトは、アリシアを初対面として扱っていなかった。


少なくとも、完全な他人ではない。


その事実が、二人の中で急に形を持ち始める。


リオの声が震えた。


「ユキト……また、増やしたの?」


シオンの指先が、制服の袖を強く握る。


「……証拠はありますか」


アリシアは鞄へ手を入れた。


一瞬だけ、迷いがあった。


取り出したのは、一枚の写真だった。


白い砂浜。

青い海。

柔らかな日差し。


そこに、少し幼いカイトとアリシアが並んで写っている。


二人とも角はない。

尾もない。

今よりも少し若い顔で、同じ風を受けていた。


リオが息を呑む。


「なに、これ……」


シオンは写真へ手を伸ばした。


アリシアが制止するより先に、彼女の指が写真を奪う。


「見せてください」


一瞬、アリシアの表情が固まった。


その写真は、ただの証拠ではない。


カイトとの時間だ。

家族の目から離れたこの世界で、唯一持ってきた過去の欠片だ。


それを、目の前の女に勝手に取られた。


胸の奥で、鋭い怒りが走る。


けれど、出さない。


アリシアは、すぐに穏やかな顔へ戻した。


「……どうぞ。気が済むまでお調べください」


余裕のある言い方だった。


だが、内心では焦っていた。


シオンは写真を細かく見る。


「確かに、彼にそっくりですが本当ですか?」


リオも覗き込む。


「この場所、どこ……?」


「彼と過ごした場所です」


アリシアはそれだけ答えた。


シオンは写真を返さなかった。


「これは預かります」


リオが驚く。


「ちょっと、シオン」


「調べます」


シオンは冷静に言った。


「写真一枚で信じるほど、私は甘くありません」


アリシアは微笑んだまま頷いた。


「ええ。そうしてください」


だが、その指先は、ほんの少しだけ強張っていた。


シオンはそれを見逃さなかった。


けれど、何も言わない。


アリシアはリオとシオンを見比べた。


そこで、別の違和感が胸に浮かぶ。


そもそも。


父は、本当にこの二人を選んだのだろうか。


アリシアの知る母たちが脳裏に浮かぶ。


ヴォルカ。

フローラ。

ネムリア。


優しく、穏やかで、父の弱さも汚さも受け止めてしまう女性たち。


もちろん、重いところはある。

怒れば怖いし、愛情は深すぎるほど深い。

だが、アリシアから見れば、母たちは父を包み込む側の存在だった。


目の前の二人は違う。


リオは感情が近い。

熱で押してくる。


シオンは相手のためといいながら、逃げ場を消してくる。


母たちとは違う。


そして、もう一つ。


アリシアの視線が、ほんの一瞬だけ二人の胸元を通った。


リオもシオンも、少女としては可愛い。

魅力がないわけではない。


けれど、父の傾向からすると、どうにも合わない。


母たちとは、明らかに違った。



アリシアは内心で呟く。


やはり、何かが引っかかります。


その時、現代日本に来た次の日の記憶がよぎった。


ユキトの部屋。


ベッドの下。


見つけてしまい、カイトと共に即座に見なかったことにしたもの。


あれを、もう一度確認する必要がある。


あの時は、見てはいけないものだと思った。


今も、できれば見たくない。


だが、父の好みと過去を見極めるには、避けて通れないかもしれない。


アリシアは冷静に判断した。


忘れ物を取りに行く、という形なら、ユキトの家へ戻る理由は作れる。


もう一度、あの部屋を見る。


そう決めた。


リオが警戒したまま言う。


「それで? 言いたいことはそれだけ?」


アリシアは顔を上げる。


「はい。今日は、それだけです」


「最低」


リオが吐き捨てた。


「いきなり出てきて、一週間一緒にいたとか、彼女みたいな顔して」


「みたい、ではありません」


アリシアは静かに言う。


「私は、彼の特別です」


シオンの表情がさらに冷えた。


「その言葉の真偽は、すぐに分かります」


「そうですか」


アリシアは一礼した。


「では、また明日」


リオとシオンは、返事をしなかった。


アリシアは更衣室を出る。


廊下に出た瞬間、彼女の表情から微笑みが消えた。


写真を取られた。


それは痛かった。


だが、得たものもある。


リオは傷つきやすい。

シオンは疑い深い。

そして、二人ともユキトを信じきれていない。


揺さぶるには、十分だった。


翌朝。


ホームルーム前の教室は、まだ空気が整っていなかった。


登校してきた生徒たちが、席に鞄を置き、友人に声をかけ、スマホを覗き、眠そうに机へ突っ伏している。


教師はまだ来ていない。


その短い空き時間に、事件は起きた。


アリシアは自分の席で、数人の女子に囲まれていた。


昨日見たドラマの話。

日本語の言い回し。

次に見るアニメの話。


彼女はいつも通り、柔らかく微笑んでいる。


カイトは少し離れた席で、その様子を見ていた。


昨日から、リオとシオンの様子がおかしい。


普段以上に張り詰めている。

話しかければ普通に返すが、目の奥に苛立ちがある。


何かあった。


おそらく、アリシアが何かした。


カイトはそれを感じていたが、確かめる勇気がなかった。


そんな中アリシアへ、シオンが歩いてきた。


いつもより背筋が伸びている。


その顔には、はっきりとした勝ち誇りがあった。


教室のざわめきが少しだけ薄くなる。


シオンはアリシアの机の前で止まった。


「アリシアさん」


アリシアは顔を上げる。


「おはようございます、シオンさん」


「昨日の写真を調べました」


その一言で、近くにいた女子たちが反応した。


「写真?」


「何の話?」


「昨日?」


カイトの体が固まる。


写真?


何の写真だ。


シオンは、鞄から一枚の写真を取り出した。


カイトは見た瞬間、息が止まった。


シロネコ島の砂浜。


そこに写っている自分とアリシア。


おい……


声には出さなかった。


だが、頭の中が真っ白になった。


シオンは周囲にも聞こえるように言う。


「結論から言います。この写真は信用できません」


アリシアは黙っている。


シオンは続けた。


「ヴェルシア共和国は寒冷地だと聞いています。けれど、この写真の背景はどう見ても南国の海岸です」


教室がざわつく。


「え、何の検証?」


「ヴェルシアって寒い国なの?」


「写真って何?」


シオンは止まらない。


「さらに、写っている植物は既知の植物と一致しません。専門家にも確認しましたが、この場所が現代日本、あるいは既知の海外のどこかで撮られた可能性は低いそうです」


アリシアの周りにいた女子が戸惑う。


「え、専門家?」


「そんな大ごと?」


「ちょっと待って、何でそんなこと調べたの?」


シオンの声は冷たかった。


「つまり、この写真は合成、あるいは加工の可能性が高い」


そして、アリシアをまっすぐ見た。


「あなたは、この写真で私たちを騙そうとしましたね」


教室の空気が急に重くなる。


リオは自分の席で、唇を噛んでいた。


彼女も昨夜、写真のことは聞いている。

だが、シオンがここまで公衆の前で暴くとは思っていなかった。


クラスメイトたちは混乱している。


「え、アリシアさんが嘘ついたってこと?」


「でもシオンさん、言い方きつくない?」


「何でユキト絡みっぽいの?」


「またお前?」


「写真って、誰の写真?」


アリシアは静かにシオンを見ていた。


怒っているようには見えない。


むしろ、少しだけ笑っていた。


「そうですか」


たったそれだけだった。


その反応に、シオンの眉が少し動く。


「随分と落ち着いていますね」


「ええ。予想の範囲内でしたから」


「では、認めるのですか。写真が信用できないものだと」


アリシアは微笑んだまま、教室全体を見るように顔を上げた。


「皆さんには、まだ言っていませんでしたね」


カイトの背筋が凍った。


嫌な予感がした。


今すぐ止めるべきだ。


けれど、体が動かない。


アリシアは静かに言った。


「私は、ユキト君の彼女です。彼を追ってここに来ました」


教室が止まった。


本当に、一瞬だけ音が消えた。


次の瞬間、空気が爆発した。


「は?」


「え、彼女?」


「アリシアさんが?」


「リオちゃんとシオンさんは?」


「三股?」


「ユキト、冗談きついぞ」


カイトは椅子から立ち上がりかけた。


「アリシア、やめろ」


言った瞬間、教室がさらに静まった。


カイトは自分の失言に気づいた。


初対面のはずの留学生を、怒鳴り声で呼んだ。


関係があると、自分で証明してしまった。


クラスメイトの視線が一斉に刺さる。


「今、呼び捨てで呼んだ?」


「やめろって何?」


「初対面じゃないの?」


「マジで何かあるじゃん」


リオの顔から血の気が引いた。


シオンも、写真を持つ手に力を込める。


アリシアは、カイトを一度だけ見た。


その目は、逃げないで、と言っているようにも見えた。


あるいは。


もう遅い、と言っているようにも。


そして、続けた。


「彼が一週間失踪していた間、私たちは一緒にいました」


ざわめきが膨らむ。


アリシアは、さらに言葉を落とした。


「私たちは、あの一週間、確かに愛し合っていました」


カイトの頭が真っ白になった。


「はあ!?」


叫びに近い声が出た。


教室の男子たちが、一斉にカイトを見る。


「お前、またやったのか?」


「いや、またっていうか、今回は規模が違うだろ」


「一週間消えた最中、留学生と?」


「リオとシオンさん抱えてそれは人としてどうなの?」


「俺、アリシアさん好きだったのに……」


女子たちも混乱している。


「アリシアさん、本気で言ってる?」


「でも嘘なら言わないよね?」


「いや、でもさすがに……」


「ユキト君、何か言いなよ」


カイトは何も言えなかった。


違う。


違う違う違う。


アリシアは姉だ。

恋人ではない。

愛し合っていた、なんてそんなことはありえない。


いや、そもそも姉がどういう意味で言っているのか分からない。


これはリオとシオンを切るための嘘か。

それとも、自分への裁きか。

あるいは、姉は本気で――。


そこまで考えて、カイトは強く首を振りたくなった。


そんなはずがない。


姉が自分に恋愛感情を抱いているなんて、ありえない。


ありえないはずだ。


ユウナも、少し離れた席で呆然としていた。


彼女だけは、カイトがユキトではないと知っている。


だから、周囲とは違う混乱に陥っていた。


アリシアさんは、カイト君の何?


彼女。

愛し合っていた。


それはユキト君のことではない。

カイト君のこと?。


もしもそうなら。


胸が痛む。


ユウナは自分の指先を握った。


ああ、そうか……私。


私、カイト君のことが好きなんだ。


そう気づきかけた直後に、別の感情が押し寄せる。


でも、普通に最低じゃない?


リオちゃん。

シオンさん。

アリシアさん。


三人同時。


でも、リオちゃんとシオンさんが好きなのはユキト君のはず。


なら、アリシアさんは何を言っているの?


教室の中で、名前だけがずれている。


そのずれを知っているのは、ユウナだけだった。


シオンが、混乱を押し殺して声を出す。


「……ありえません」


その声には、かすかに震えがあった。


「あなたの国は寒冷地です。写真は南国。撮影場所も不明。既知の植物でもない。さらに、ユキト君の失踪期間は一週間」


シオンは一歩前へ出る。


「その一週間で、どうやってあなたの国へ行き、あの写真の場所へ行き、また日本へ戻ったのですか」


アリシアは静かに答える。


「信じていただけないと思いますが」


一拍。


「異世界です」


教室が沈黙した。


そして、誰かが吹き出した。


「……異世界って!」


「アリシアさん、返し強すぎ」


「アニメ好きだからってそこで異世界ネタ?」


「ヴェルシア共和国より遠いじゃん!」


「シオンさんへの煽り方、意外とえぐい」


笑いが広がる。


アリシアの周りにいた女子たちは、彼女が冗談でシオンの理詰めをかわしたと思った。


リオは笑えなかった。


シオンも笑えなかった。


カイトは、完全に青ざめていた。


ユウナも、カイトの顔を見て理解する。


彼女はカイトと関係があると。


アリシアは、教室の笑いをしばらく聞いていた。


その笑いは、彼女には別の意味で刺さった。


異世界を冗談として処理される。


自分とカイトが過ごした場所を、笑い話にされる。


写真を偽物と言われ、過去を否定され、今度は真実を冗談扱いされる。


アリシアは静かに息を吸った。


「では、証拠をお見せしましょう」


カイトが叫ぶ。


「おい、やめ――」


もう遅かった。


アリシアの指が、机の上でほんの少し動いた。


派手な光はない。

花びらも散らない。

何かが浮かび上がることもない。


ただ、空気が変わった。


ふわりと、花の香りが教室中に満ちた。


一箇所から漂っているのではない。


窓の外から入ったのでもない。


誰かの香水でもない。


教室そのものが、見えない花畑に変わったように、甘く清らかな匂いが一瞬で広がった。


笑っていた生徒たちが、次々に黙る。


「え……何?」


「花の匂い?」


「誰か香水つけた?」


「いや、今いきなり」


「窓閉まってるよね」


「どこから?」


「手品?」


「手品で匂いって出せるの?」


リオは強がるように言った。


「くだらない手品でしょ」


だが、その目は揺れていた。


シオンは周囲を見る。


仕掛けを探す。

香料を撒いた痕跡。

何かの機械。

誰かの協力。


ない。


一瞬で、教室全体に、均一に広がった。


説明できない。


ユウナはカイトを見た。


彼の顔は、怒りと恐怖で歪んでいた。


それだけで十分だった。


これは本物だ。


カイトは震える声で言った。


「……何やってんだよ」


また、失言だった。


ユキトが何かを知っているという事実だけが教室中に共有され、空気は今度こそ理解不能なものへ変わった。


「いや、待って。何が起きてる?」


「ユキト、説明しろよ」


リオは呆然としている。


シオンも、今度ばかりは言葉を失っていた。


ユウナは、胸の奥で痛みが広がるのを感じていた。


アリシアは、静かに微笑んでいる。


その笑顔は、もう転校してきたばかりの留学生のものではなかった。


カイトは立ち尽くす。


父の二股を清算しに来たはずだった。


リオを切れなかった。

シオンを切れなかった。

ユウナに名前を呼ばれて救われた。

アリシアを放置していた。

そして今、姉が教室で恋人だと名乗り、魔法を使った。


何一つ、終わっていない。


終わらせるどころか、全部を同じ場所へ集めてしまった。


教室には、まだ花の匂いが残っていた。


その中心で、誰もがカイトを見ている。


説明を求める目。


責める目。


疑う目。


傷ついた目。


そして、アリシアだけが静かに笑っていた。


ホームルーム開始のチャイムが鳴った。


けれど、誰も動かなかった。

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