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86/92

86.人気者だったね

放課後の教室に、まだ人の声が残っていた。


机を寄せて話す女子たち。

鞄を肩にかけて廊下へ出ていく男子。

黒板の前で、次のテスト範囲について文句を言い合う声。


その中で、カイトは自分の机に手を置いたまま、少しだけ立ち止まっていた。


リオとシオン。


二人のことを、考えていた。


リオはいつも明るい。

距離が近くて、押しが強くて、笑うと教室の空気まで軽くなる。


シオンは静かだ。

言葉は丁寧で、立ち居振る舞いも綺麗で、こちらの逃げ道を自然に塞ぐような怖さがある。


二人とも、自分を見ている。


けれど、それが本当にカイトへ向いているのか。

この世界にいたユキトへ向いているのか。


それは、まだ分からない。


分からないまま、二人の好意を受け取っている。


それが卑怯だということも、分かっていた。


そして自分も彼女らを好きになれるかどうか分からない。


なら、知ればいい。


リオがどんな場所で生きているのか。

シオンがどんな場所で息をしているのか。


知って、それでも大事にしたいと思えるなら。

そこから、好きになれるのかもしれない。


カイトは鞄を持ち上げた。


まず向かう場所は決まっていた。


リオのバイト先だった。


場所は、もう知っている。


駅前から少し外れた場所にある、そこそこ大きなスーパー。

夕方になると、主婦や学生や仕事帰りの人間で混み始める店。


自動ドアが開くと、冷房の空気と、惣菜の匂いと、床を滑るカートの音がまとめて流れてきた。


カイトは一度、入り口で足を止める。


店の中は明るい。

棚には商品が詰まり、通路には人が行き交い、遠くで店内放送が流れている。


この世界の店は、何度見ても少し不思議だった。


食べ物も、洗剤も、紙も、飲み物も、全部が整って並んでいる。

誰かが作り、運び、値段をつけ、ここに置いている。


その裏側に、働いている人間がいる。


カイトは少し歩いて、飲料の棚の近くでリオを見つけた。


リオは制服ではなかった。


店のエプロンを身につけ、髪を少しまとめ、段ボール箱からペットボトルを取り出して棚に並べている。

腰をかがめ、ラベルの向きを揃え、空いた場所を確認する。


いつものように明るく話している雰囲気ではなかった。


客に声をかけられれば、ちゃんと顔を上げて返事をする。

場所を聞かれれば、すぐに案内する。

通路を塞がないように、人が通れば重い箱を持ったまま横へずれる。


その表情は学校で見るものとは少し違った。


いつもの軽く見せるための笑顔はない。

手を止めず、失敗せず、迷惑をかけないように動くための顔だった。


リオは、ただ笑っているだけの子ではなかった。


軽く見られないように笑っていただけで、本当は誰よりも現実を踏んで立っていた。


カイトは、少しだけ言葉を失った。


リオが箱を持ち上げた時、ふとこちらを見た。


目が合う。


一瞬、リオの動きが止まった。


「……え?」


それから、彼女の顔が分かりやすく変わった。


「ユキト!? なんでいるの!?」


思ったより大きな声だったらしく、近くにいた客がちらりと見る。

リオは慌てて声を落とした。


「ちょ、ちょっと待って。なんで? え、何? 買い物?」


「邪魔じゃないなら、少しだけ」


「邪魔っていうか……」


リオは手元の段ボールを見下ろす。

それから、自分のエプロンを見る。

さらに、棚に並べたばかりの商品を見る。


頬が赤くなった。


「……別に、見に来るようなもんじゃないし」


その声には、照れだけではないものが混ざっていた。


「地味でしょ。品出しなんて」

「見られるの、ちょっと嫌なんだけど」


カイトは首を振った。


「馬鹿にしてない」


「分かってるけど」


「仕事中なら、離れてる」


「だから、別にいいって。すぐ終わるわけじゃないし」


リオは目を逸らしながら、少し早口になった。


「ユキトも帰れば? 見てても面白くないし。私、まだやることあるし」


「バイト終わったら、送っていく」


リオの手が止まった。


「え?」


「終わるまで待つ」


「いや、いらないって」


リオはすぐに断った。


「一人で帰れるし。いつもそうだし。っていうか、待たれる方が気になるから」


「邪魔なら帰る」


「邪魔っていうか」


「でも、邪魔じゃないなら待つ」


カイトは視線を逸らさずに続けた。


「送っていきたい」


リオは、言葉に詰まった。


いつもの彼女なら、もっと軽く返せたはずだった。

からかって、笑って、うまくごまかせたはずだった。


でも、今はそれができない。


働いている姿を見られた。

制服ではない。

学校での自分でもない。


生活のために段ボールを開けて、棚を埋めて、汚れた手で商品を運んでいる自分を見られた。


恥ずかしい。


貧しいところを見られた気がした。

学校で明るく笑って、軽く振る舞って、何でも平気なふりをしている自分の裏側を見られた気がした。


それなのに、カイトは馬鹿にしなかった。


かわいそうだとも言わなかった。

大変だなとも、雑に同情しなかった。


ただ、待つと言った。


送っていきたい、と言った。


リオは段ボール箱を抱え直し、口元を尖らせる。


「……変なの」


「そうか?」


「ほんと、待たなくていいのに」


それでも、帰れとはもう言わなかった。


カイトは邪魔にならない場所へ移動した。


適当に飲み物を買い、入口近くのベンチに座った。


しばらくして、リオはまた仕事に戻った。


時々、棚の陰からこちらを見てくる。

目が合うと、すぐに逸らす。


それでも手は止めない。


カイトはその姿を見ながら、静かに思う。


この子は、逃げていない。


恥ずかしくても。

見られたくなくても。

生活から、現実から、逃げていない。


学校で笑っているリオだけを見ていたら、分からなかった。


いや、俺は彼女を見ようとすらしていなかった。


やがてバイトが終わった。


裏へ引っ込んでいたリオが、制服姿で戻ってきた。

普段通りに見えるが、髪にはまだ少しだけ仕事中の乱れが残っていた。


「お待たせ」


「お疲れ」


その一言に、リオは少しだけ目を丸くした。


「……うん」


店を出ると、空が暗くなっていた。


二人で歩く。

駅へ向かう人の流れとは少し離れた道。


リオは鞄の紐を指でいじりながら、わざと軽い声を出した。


「ほんとに送ってくれるんだ」


「ああ」


「私、一人で帰れるんだけど」


「知ってる」


「じゃあ、なんで?」


カイトは少しだけ黙った。


理由は、いくつもある気がした。


一人で帰れることは分かっている。

送らなくてもいいことも分かっている。

けれど、何かをしたかった。


リオを知ろうと思った。

知った。

そのうえで、何もせず帰るのは違う気がした。


彼氏なら、こうするべきだ。


そう思った。


そう思えば、そうなれる気がした。


カイトは、少し間を置いてから口を開いた。


「俺は……彼氏だからな」


リオが足を止めた。


カイトも立ち止まる。


リオは、こちらを見ていた。


驚いたような顔だった。

それから、少しだけ笑おうとした。


でも、うまく笑えなかった。


「……そういうの、ちゃんと言うんだ」


声の最後が、わずかに震えていた。


カイトは返事に迷った。


リオはすぐに顔を逸らす。


「いや、別に。変な意味じゃないし。そういうの、急に言われると困るっていうか」


そう言いながら、彼女の耳は赤かった。


ずっと欲しかった言葉だった。


たぶん、今の彼がどういう意味で言ったのかなんて、リオは分かっていない。

分かっていないまま、受け取った。


それでも、欲しかった。


ユキトに、そう言ってほしかった。


自分を彼女だと。

自分がそばにいる理由があるのだと。


だから、嬉しかった。


カイトは、その震えには気づいた。

けれど、その奥までは分からなかった。


ただ、リオが傷つかなかったことに少しだけ安堵した。


二人はまた歩き出した。


リオはいつもより少し静かだった。

でも、時々ちらりとカイトを見る顔は、学校で見る時よりずっと柔らかかった。


別の日の放課後。


カイトは教室を出る前に、シオンへ声をかけた。


「シオン」


「はい?」


シオンは鞄を持ち上げる途中で振り返った。


カイトは少しだけ言いにくそうにしながら続ける。


「前に、家まで送るって言ったのに、逆の方向に行っただろ」


シオンの指が、鞄の持ち手を軽く握った。


「だから今日は、送らせてほしい」


シオンは一瞬だけ黙った。


それから、いつものように落ち着いた顔を作る。


「律儀ですね」


「悪いと思ってた」


「そうですか」


声は冷静だった。

けれど、シオンの胸の奥は少しだけ熱を持った。


あの時のことを、覚えていた。


約束というほど綺麗なものではない。

ただの出来事だった。

流れてしまってもおかしくない、些細なすれ違いだった。


それでも、今になって埋めようとしてくれた。


シオンはそれが嬉しかった。


嬉しいと思ったことを悟られたくなくて、少しだけ視線を外す。


「では、お願いしましょうか」


「いいのか?」


「あなたが言い出したことでしょう」


「そうだな」


二人は学校を出た。


今度はシオンが先を歩いた。


そのままカイトはついていく。


駅前の雑踏から外れ、住宅街を抜け、やがて景色が変わっていく。


家の間隔が広くなる。

塀が高くなる。

門の奥に庭が見える。


カイトは歩きながら、少しずつ違和感を覚えていた。


この世界には王がいない。

貴族もいないはずだ。

少なくとも、学校ではそう聞いている。


なのに、目の前にある家々は、どこか貴族の屋敷に似ていた。


そして、シオンの家はその中でも特に大きかった。


門。

整えられた庭。

停められた車。

玄関へ続く石の道。

人の手が入っていることが分かる植え込み。


カイトは思わず足を止めた。


「……ここか?」


「ええ」


シオンは少しだけ口元を緩める。


「驚きました?」


「かなり」


カイトは正直に答えた。


「王族か?」


シオンが瞬きをする。


「違います」


「なら貴族?」


「いつもの調子が戻ってきたようでよかったです」


その返しに、茶化されたと思いシオンは少しだけ笑った。


けれど同時に、胸の奥で小さな違和感が生まれる。


こういうの、嫌いな人だったよね?


以前のユキトなら、こういう家を見た時、もっと面倒くさそうな顔をした気がする。

豪華さを素直に褒めるより、距離を取るか、居心地が悪そうに笑うか。


でも今の彼は、嫌悪より先に驚いていた。


知らないものを見る目だった。


シオンは、その違和感を深く掘らなかった。


今は、それでいい。


驚いてくれた。

自分の世界を、彼が見ている。

そのことが少し嬉しかった。


玄関に入ると、使用人が静かに頭を下げた。

カイトは一瞬、どう返せばいいのか分からず、軽く会釈を返す。


シオンはその様子を見て、また少し笑った。


「緊張しています?」


「少し」


「珍しいですね」


「慣れてない」


「でしょうね」


案内された部屋は、シオンの私室だった。


広い。

綺麗に整っている。

家具も高価そうで、窓からは庭が見える。


だが、不思議と落ち着かなかった。


乱雑なものがない。

出しっぱなしのものがない。

生活の気配が薄い。


綺麗すぎる部屋だった。


カイトは部屋の端に置かれた本棚を見る。

シオンはそれに気づく。


「気になりますか?」


「本が多いな」


「勉強用がほとんどです」


「趣味の本は?」


「ありますよ。少しだけ」


シオンは棚の一角を指す。

そこには小説や雑誌が数冊だけ並んでいた。


「本当に少しだけなんだな」


「多すぎると、散らかるでしょう?」


「散らかってもいいと思うけどな」


シオンは少しだけ目を細める。


「あなたの部屋は散らかっていそうですね」


「たぶん」


「否定しないんですね」


「今の俺の部屋は、俺の部屋って感じがしないからな」


言ってから、カイトは少しだけ口を閉じた。


シオンも、そこに気づいた。


空気がわずかに沈む。


彼女は、本当は聞きたかった。


あの一週間、何があったのか。

どこへ行っていたのか。

なぜ変わったのか。


なぜ、今のユキトは、前のユキトと同じ顔で、違う目をしているのか。


「あの、一週間は――」


言葉が出かける。


けれど、シオンはそこで止めた。


カイトがそれに気が付きこちらを見る。


シオンは静かに息を吐いた。


「今のあなたは、変わった」

「それなら、私も……今のあなたを見るべきなのでしょう」


シオンは微笑んだ。


カイトは何も返せなかった。


優しい言葉に聞こえた。

受け入れる言葉に聞こえた。


でも、胸の奥が痛んだ。


シオンは真実に近づきかけて、自分でやめた。


今のユキトを見る。

そう言った。


けれど、目の前にいるのはカイトだった。


シオンはそれを知らない。


知らないまま、受け入れようとしている。


それが、苦しかった。


しばらく二人は、学校の話をした。

中間テストの範囲。

先生の癖。

カイトが苦手そうな科目。

シオンが当然のように勉強を見ようとすること。


その時間だけなら、普通だった。


少し不器用で、少し距離が近くて、少し気まずいだけの、放課後の会話だった。


だが、家の中の空気が変わった。


廊下の向こうが、急に静かになった。


完全に音が消えたわけではない。

むしろ、足音は増えた。

人の気配も増えた。


けれど、空気が硬くなった。


シオンの顔色が、わずかに変わる。


「……どうした?」


カイトが聞く。


シオンはすぐには答えなかった。


普段なら、この時間に帰ってくるはずがない。


だから、不覚だった。


この家の流れは把握しているつもりだった。

誰がいつ帰るのか。

どの時間に、どの部屋へ人が通るのか。

何を見せてはいけないのか。


本来なら、カイトに絶対見せないようにできた。


なのに、今日に限って。


よりによって、彼がいる日に。


シオンは立ち上がった。


「少し、こちらへ」


カイトを部屋の奥へ戻そうとした。


だが、遅かった。


階下の玄関付近が見える位置に、カイトは出ていった。


男が入ってきた。


年齢は、アヤカより少し上に見える。

身なりは整っている。

落ち着いた歩き方で、当然のように家の中へ入ってくる。


その瞬間、使用人たちの空気が変わった。


丁寧になったのではない。


怯えに近いものが、作法の形をして並んだ。


誰も大声を出さない。

誰も慌てているようには見せない。

けれど、全員がその男の機嫌を損ねないように動いている。


男の隣には、若い女がいた。


シオンの母ではない。


誰も驚かなかった。

誰も咎めなかった。

誰も不自然だと言わなかった。


まるで、それがこの家では予定された配置であるかのように。


カイトには、分からなかった。


あれは客なのか。

家族なのか。

接待なのか。

この家では、金も立場も女も、同じように並べられるものなのか。


分からない。


ただ、一つだけ分かった。


シオンは、これを見せたくなかった。


心底、嫌がっている。


シオンはカイトの横で、指先を握りしめていた。

顔は笑っていない。

怒っているのとも違う。

恥ずかしさと嫌悪と諦めが、薄い膜の下で混ざっているような顔だった。


「……見ました?」


声は静かだった。


カイトは答えられない。


シオンは、薄く笑った。


「すごいでしょう?」

「うちでは、これが普通なの」

「毎回よ。毎回、ああやって家が回ってる」


カイトは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。


けれど、シオンが自分を傷つけるために言っていることだけは分かった。


自分の家を笑っている。

自分の母を笑っている。

その家にいる自分自身も、同じように笑っている。


シオンは視線を落とす。


昔は、母が何を怖がっているのか分からなかった。


どうして男を失うことを、あそこまで恐れるのか。

どうして逃げられないように家を整え、若い女を用意し、機嫌まで取り続けるのか。


馬鹿みたいだと思っていた。


惨めだと思っていた。


そんなことをしてまで、そばに置く価値があるのかと思っていた。


でも、今なら少し分かってしまう。


失うのは怖い。

捨てられるのは怖い。

自分だけでは足りないと思い知らされるのは怖い。


だから、自分はリオを許している。


許したくない。

本当は嫌だ。

自分だけを見てほしい。

他の女と並びたくなんてない。


それでも、ユキトを失うくらいなら。

いなくなられるくらいなら。

リオとの共有を受け入れている。


母と同じだ。


そう思うと、吐き気がした。


けれど、母を許せるわけでもない。


怖かったのは、今なら分かる。

男を失うことが、どれだけ怖いのかも少し分かる。


でも。


それを娘の目に入る場所でやるのは違うでしょう。


シオンは、奥歯を噛んだ。


カイトは、何も言えなかった。


事情を知らない。

あの男が誰なのかも知らない。

あの女がどういう立場なのかも知らない。

この家で何が起きているのかも知らない。


だから、分かったふりはできない。


大変だったな、とは言えない。

君は悪くない、とも簡単には言えない。


何も知らないまま、綺麗な言葉だけを投げることはできなかった。


それでも、シオンが震えていることは分かった。


見せたくなかったものを見られた。

隠していた場所を覗かれた。

それでも、自分を失うことの方が怖い。


その恐怖だけは、分かった。


カイトはゆっくり口を開いた。


「シオン」


彼女は顔を上げなかった。


カイトは少しだけ迷って、それでも言った。


「大丈夫だ」


シオンの指が止まる。


「俺は、もういなくならない」


その言葉が、どこまで届くのか。

カイトには分からなかった。


自分は何も知らない。

シオンの事情も、隠していることも知らない。


でも、もう勝手に消えるつもりはなかった。


この世界で、ユキトとして生きることから逃げるつもりはなかった。


少なくとも、今ここでシオンを置いて消えるつもりはない。


カイトは、そういう意味で言った。


けれど、シオンには違う意味で刺さった。


ユキトが言ってくれた。


逃げないと。

いなくならないと。

自分の前から消えないと。


シオンは顔を上げた。


その目には、まだ嫌悪も恥も残っていた。

けれど、その奥に、確かな熱が戻っていた。


「……そうですか」


声は平静を装っていた。


「なら、信じます」


カイトは頷いた。


シオンは目を伏せる。


やっぱり。


やっぱり、私はユキトが好きだ。


その思いだけが、胸の中で静かに強くなっていった。


別の日の放課後。


保育園の門を出ると、夕方の風が少し冷たかった。


カイトの手には、子供たちから渡された折り紙があった。

何の形なのかは、よく分からない。

竜だと言われたが、どちらかというと鳥に見える。


ユウナはそれを見て、柔らかく笑った。


「人気だったね」


「そうか?」


「うん。今日も、また読んでって言われてた」


「そんなに俺の声、変だったか?」


「変だったよ」


「そこは否定しろよ」


「でも、みんな楽しそうだった」


ユウナは普通に答えた。


「だから、褒めてる」


カイトは少しだけ顔をしかめた。


「分かりにくい褒め方だな」


「カイト君ほどじゃないよ」


それが、カイトには少しおかしかった。


リオといる時は、彼氏としてどうするべきか考えていた。

シオンといる時は、安心させる言葉を探していた。


でも、ユウナといる時だけは、あまり考えなくてよかった。


何かの役を演じなくていい。

ユキトらしく振る舞おうとしなくていい。

彼氏らしくあろうとしなくていい。


ただ話しているだけで、息がしやすい。


そのことに気づいて、カイトは少しだけ戸惑った。


ユウナは歩きながら、ふと思い出したように言う。


「そういえば、来週の水曜日なんだけど」


「水曜日?」


「中間テスト、近いでしょ。よかったら勉強しない?」


カイトは足を止めかけた。


「俺と?」


「うん」


ユウナは自然に頷いた。


「カイト君、授業追いついてないもんね」


カイト君。


その呼び方だけで、胸の奥が少し静かになった。


ユウナは続ける。


「それに、あの二人に知られると、少し嫌でしょ?」


カイトは返事に詰まる。


ユウナは責めるような顔をしなかった。


「リオちゃんとシオンさんに聞きにくいこともあると思う」

「別人だって、バレるかもしれないし」


軽い声だった。

けれど、ちゃんと考えている声だった。


秘密を握って近づこうとしているのではない。

カイトが困らないように、先に逃げ道を作ってくれている。


「だから、待ち合わせしよっか」


「待ち合わせ?」


「うん。前に行った公園はどうかな?」


カイトは、その場所を思い出した。


あの公園。


少しだけ立ち止まれた場所。


思い出して少し笑えた。


「……助かる」


「うん。じゃあ、水曜日の放課後」


ユウナは笑った。


その笑顔が、カイトには一番苦しかった。


苦しいのに、嬉しかった。


帰り道、カイトは一人で歩いた。


リオのことを思い出す。


スーパーの棚の前で、段ボールを開けていた姿。

見られて恥ずかしそうにしていた顔。

それでも仕事から逃げなかった背中。

「彼氏だからな」と言った時、泣きそうに震えた声。


シオンのことを思い出す。


大きすぎる家。

綺麗すぎる部屋。

聞きかけて飲み込んだ一週間。

階下に現れた男。

母ではない若い女。

自嘲する声。


すごいでしょう。

うちでは、これが普通なの。

毎回よ。毎回、ああやって家が回ってる。


二人とも、傷つけたくないと思った。


ちゃんと見たいと思った。

知りたいと思った。

好きになれるかもしれないと思った。


それは嘘ではない。


けれど。


ユウナとの約束を思い出すと、胸が少しだけ軽くなった。


リオとシオンを、好きになろうと努力している。


けれど、ユウナのことは。


好きになろうとしていない。


そう気づいた瞬間、カイトは足を止めた。


好きになろうとする前に。


もう、好きだった。

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