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85.何なの、あの子

昼休みの教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。


原因は、もう物珍しさだけではなかった。


転入してきたばかりの留学生――アリシアは、数日で女子たちの輪に自然と混ざるようになっていた。


最初はその容姿に惹かれて近づいた者が多かった。

けれど今は、話せばきちんと返ってくること、知らないことには素直に驚くこと、好きな話題になると静かに熱を帯びることを、周囲も少しずつ分かり始めている。


だから、女子たちは自然と彼女のそばに集まるようになっていた。


そしてアリシアも、それを拒まなかった。


この教室で何が噂になっているのか。

誰が誰を見ているのか。

誰が、どの名前をどう呼んでいるのか。


そういうものは、一人で席に座っているより、人の輪の中にいた方がよく見える。


アリシアは柔らかく微笑みながら、今日もその輪の中心で話を聞いていた。


その輪の少し離れた場所で、カイトは席に座っていた。


机の上には弁当がない。


今日の昼は、購買へ買いに行く予定だ。


「ユキト、早く行かないと売り切れるよ」


リオが机の横に立って、少し急かすように言った。


「昼の購買、今日も混むと思いますよ」


シオンも静かに付け足す。


「行くなら、早めの方がいいです」


「分かった。行ってくる」


カイトは席を立った。


「パン二つくらい買ってきなよ。足りなかったら私の分けるし」


「分かった」


「飲み物も忘れないでください」


「はいはい。普通に買ってくる」


カイトは少しだけ息を吐き、教室を出た。


その背中が廊下へ消える。


扉が閉まる寸前、リオとシオンはほとんど同時に視線を交わした。


一瞬だけだった。


けれど、それで十分だった。


リオの明るい顔から、少しだけ笑みが薄れる。

シオンも教科書を閉じ、静かに立ち上がった。


「……行く?」


リオが小声で言う。


「ええ。今のうちに」


二人は、何事もなかったように鞄だけを置いたまま廊下へと向かった。


その様子を、アリシアは見ていた。


女子たちの会話に相槌を打ちながら。

手元のスマホに映されたドラマの話を聞きながら。

時折、柔らかく微笑みながら。


それでも視線の端では、ずっと三人を観察していた。


カイトが購買へ向かったこと。

リオとシオンが目で合図したこと。

二人が彼を追わず、別の目的を持って教室を出ようとしていること。


全部、見えていた。


リオとシオンが教室を出ていく。


アリシアは、その背中を追うような視線を一瞬だけ向けた。


すぐに、何もなかったように手元のノートへ目を戻す。


周囲の女子たちは、まださっきの話の続きをしていた。


「でさ、そのドラマの二話が――」


「待って、そこネタバレじゃない?」


「大丈夫、まだ核心じゃないから」


楽しそうな声が重なる。


アリシアは柔らかく微笑みながら相槌を打った。


そして、話が一度切れたところで、自然に席を立つ。


「すみません。少し購買を見てきます」


近くの女子が顔を上げた。


「え、一人で大丈夫?」


「はい。前に案内していただいたので、場所は覚えています」


「ほんと? 昼休みの購買、結構混むよ?」


「少しだけです。迷ったら近くの方に聞きます」


アリシアは、控えめに笑った。


「今日はお昼を用意しそびれてしまって」


「あー、じゃあ早めに行った方がいいよ。人気のパンとかすぐなくなるし」


「そうなんですね」


「うん。人多いから気をつけてね」


「ありがとうございます」


丁寧に一礼して、アリシアは教室を出た。


廊下へ出た瞬間、その柔らかな表情が少しだけ薄れる。


購買へ向かう廊下とは、ほんの少しだけ違う方向へ足を向けた。


購買を見るためではない。


リオとシオンを追うためだ。


歩き方は落ち着いていた。

急いでいるようには見えない。

誰かを追っているようにも見えない。


けれど、廊下へ出た瞬間、彼女の目から柔らかさが少し消えた。


リオとシオンは、人気の少ない階段付近にいた。


そこは購買へ向かう道から少し外れている。

昼休みでも人通りは少なく、声を抑えれば周囲にはほとんど聞こえない。


二人は向かい合っていた。


リオは腕を組み、少し苛立ったような顔をしている。

シオンはいつものように落ち着いていたが、目元には疲れがあった。


「最近、少し落ち着いてきたよね」


リオが言った。


「ユキトのこと」


シオンはすぐには答えない。


「……ええ。前よりは」


「体育で目立った時とか、正直、別人かと思ったもん」


「本人は、目立つつもりではなかったのでしょう」


「だよね。すごかったのに、本人が一番困ってる顔してたし」


リオは少しだけ目を伏せる。


「前とは違うけどさ」


「ええ」


「でも、今のユキトを見ようっていうのは、間違ってないと思う」


言葉にするのは、少しだけ悔しかった。


シオンと同じ方向を向いているみたいで嫌だった。


だが、それでも言わずにはいられなかった。


「前みたいに笑ってほしいって、まだ思うよ」

「でも、そればっかり言ったら、また追い詰めるかもしれないし」


シオンは静かに聞いていた。


「あなたにしては、考えていますね」


「褒めてる?」


「半分は」


「残り半分は?」


「少し意外だと思っています」


「ほんと嫌な女」


リオが睨む。

けれど、本気で噛みつくほどではなかった。


シオンも、そこで強く返さなかった。


二人とも、分かっている。


嫌いだ。

好きになれない。

互いが邪魔だと思っている。


けれど、ここでまた正面からぶつかれば、ユキトがまた遠ざかる。


それだけは嫌だった。


「あなたも」


リオは少しだけ声を落とす。


「最近、前より強く言わなくなったよね」


「必要以上に刺激するべきではないと判断しただけです」


「そういう言い方」


「事実です」


「でも、ありがと」


シオンが少しだけ目を瞬かせた。


リオは視線を逸らしたまま続ける。


「この前、私が変なこと言いかけた時、止めたでしょ。腹立ったけど……まあ、あれは私も悪かったから」


「……あなたに礼を言われるとは思いませんでした」


「私だって言いたくないよ」


リオはぶっきらぼうに返す。


それでも、言葉は嘘ではなかった。


シオンは小さく息を吐く。


「私も、少し言いすぎました」


「え?」


「あなたが以前の彼を求めていると決めつけました。それは……少し、急ぎすぎました」


リオは意外そうにシオンを見る。


「謝ってる?」


「訂正しているだけです」


「はいはい」


二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。


仲が良くなったわけではない。

信頼し合ったわけでもない。


ただ、ユキトを失いたくないという一点だけで、二人は細い橋の上に立っていた。


その時だった。


「お二人とも、こちらにいらしたんですね」


柔らかな声がした。


リオとシオンが同時に振り向く。


階段の少し手前に、アリシアが立っていた。


制服姿。

穏やかな表情。

驚いたようでもあり、偶然会ったことを喜んでいるようでもある。


完璧な、転入生の顔だった。


リオが先に反応した。


「えっと、アリシアさん? どうしたの?」


シオンもすぐに表情を整える。


「何か分からないことでもありましたか?」


アリシアは控えめに微笑んだ。


「いえ。お二人の姿が見えたので、少しだけ声をかけさせていただきました」


リオとシオンは、一瞬だけ目を見合わせた。


「でも、クラスの子たちはいいの?」


リオが少し首を傾げた。


「さっきまで、一緒に話してたよね」


「ええ。少し席を外すと伝えてきました」


「……わざわざ?」


「はい」


アリシアは、困ったように目を細める。


「まだ、この学校のことも、このクラスのことも分からないことばかりですから。お二人にも、少しお話を聞いてみたかったんです」


シオンが静かに目を細める。


「私たちに、ですか」


「はい。ユキト君と親しい方だと聞いていましたので」


その名前が出た瞬間、空気がほんの少し変わった。


アリシアは一歩近づいた。


「この学校は、思っていたより賑やかですね。休み時間になると、皆さんすぐに移動されますし」


「まあ、普通じゃない?」


リオが答える。


「購買とか自販機とか、行く人多いし」


「自販機は驚きました。人がいないのに飲み物が買えるんですね」


「そこからなんだ」


リオが少し笑う。


「ヴェルシア共和国にはないの?」


「似たようなものはありません」


「へえ。じゃあ、今度教えてあげるよ」


「助かります」


アリシアは丁寧に頷く。


シオンは、そのやり取りを静かに見ていた。


まだ普通の会話だ。


留学生らしい反応。

学校の話。

生活の違い。


だが、どこか薄い違和感がある。


この少女は、話しながらこちらを見ている。


ただ見るのではない。

測っている。


シオンはそう感じた。


アリシアは自然な流れで話題を変えた。


「ユキト君のことも、少し聞いていいですか?」


その名前が出た瞬間、空気がほんの少し変わった。


リオの笑みが止まる。

シオンの目が細くなる。


アリシアは気づかないふりをした。


「お二人は、ユキト君と仲が良いんですよね?」


リオはすぐには答えられなかった。


「まあ……うん」


曖昧な返事になる。


シオンはリオより少し硬い声で言った。


「少なくとも、他の方よりは」


「そうなんですね」


アリシアは頷く。


そして、次の言葉を置いた。


「付き合っている、ということですか?」


一瞬、階段付近の空気が止まった。


リオの顔が赤くなる。


「いきなり聞く!?」


シオンの表情は崩れない。

だが、声が一段冷えた。


「ずいぶん率直に聞くんですね」


アリシアはすぐに軽く頭を下げた。


「すみません。この学校の距離感が、まだよく分からなくて」

「失礼でしたら、答えなくて大丈夫です」


その言い方は丁寧だった。

本当に無知な留学生が、踏み込みすぎたことを詫びているように見えた。


リオは少しだけ気勢を削がれる。


「いや……まあ、聞かれて困るっていうか」


言葉に詰まる。


付き合っている。


そう言い切れるのか。


以前なら言い切りたかった。

自分こそが彼女だと、シオンに見せつけたかった。


でも今は違う。


ユキトは変わった。

何かを抱えている。

自分たちも、無理に決着を迫らないと決めた。


だから、答えが濁る。


シオンも同じだった。


「簡単に説明できる関係ではありません」


それが、彼女の答えだった。


アリシアは、静かに二人を見た。


「そうですか」


いったん引いたように見せる。


だが、終わらなかった。


「ただ、少し噂を聞いたんです」


リオの眉が動く。


シオンの視線も鋭くなった。


「噂?」


リオが低く聞き返す。


アリシアは、言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。


「ユキト君が、お二人それぞれに特別な態度を取りながら、どちらにもはっきりした答えを出さなかった、と」

「それで、お二人が揉めていたと聞きました」


言葉は丁寧だった。


だが、内容は鋭かった。


リオの顔から笑みが消える。


「誰がそんなこと言ってたの」


「何人かの方から、少しずつ」


「へえ」


リオの声が低くなる。


「みんな暇なんだね」


シオンも、静かな怒りを含んだ声で言った。


「くだらない噂です」


アリシアは二人を見る。


「では、違うんですね?」


二人は即答できなかった。


完全な嘘ではないからだ。


ユキトが不誠実だったこと。

リオにもシオンにも特別な態度を取り、最後の答えを出さないまま消えたこと。

そのせいで二人が傷ついたこと。


それは事実だった。


けれど、それを外から面白がって語られるのは違う。


リオは唇を噛み、感情を抑えきれない声で言った。


「全部違うって言いたいけど……でも、私たちが軽いみたいに言われるのは違う」


シオンも続ける。


「彼が不誠実だったことは否定しません」


その言葉は冷たい。

だが、切り捨ててはいなかった。


「ですが、それを面白がって語る人達に、私たちの何が分かるのですか」


アリシアは黙って聞いていた。


怒る。

そこは怒るのですね。


彼女は内心で、二人の反応を整理する。


自分たちの尊厳を踏まれたことに怒っている。

だが、それだけではない。

ユキトをただの加害者として雑に扱われることにも、同時に反発している。


思ったより単純ではない。


アリシアは柔らかな表情を崩さないまま、さらに踏み込んだ。


「それは失礼しました、ですが、外から見ると、不思議に見えます」

「お二人は、互いに好意的ではないように見えました」


リオがむっとする。


「まあ、好きではないけど」


「率直にいいますね」


「そっちが聞いたんでしょ」


シオンは表情を変えずに言う。


「私も、リオさんと親しいつもりはありません」


「こっちもないし」


二人は互いに視線を向ける。

火花が散る一歩手前だった。


しかし、アリシアが静かに言葉を続ける。


「それなのに、最近は彼の前で喧嘩しないようにしている」

「そう見えました」


二人の表情が変わった。


アリシアは止まらない。


「噂が本当なら、もっと争ってもおかしくないと思いました」

「本当に好きなら、自分だけを見てほしいと思うものではありませんか?」


リオの目が鋭くなる。


「ユキトのこと、噂だけで決めつけないで」


シオンも、同じ方向を向いた。


「ええ。彼を語るなら、せめて本人を見てからにしてください」


初めて、二人の声が重なった。


リオとシオンは仲が悪い。

互いに嫌っている。

それでも、外からユキトを雑に扱われた瞬間だけは、同じ側に立つ。


アリシアは、それを見逃さなかった。


なるほど。


ここでは組むのですね。


彼女は内心で、ひとつ判断を修正した。


思ったより、脆くない。


「すみません」


アリシアは素直に頭を下げた。


「決めつけるつもりはありませんでした」

「ただ、気になったんです」


「何が」


リオが警戒を隠さずに聞く。


アリシアは、ほんのわずかに視線を伏せた。


「カ――」


言いかけて、止まる。


リオの目が動いた。


シオンも逃さなかった。


「今、何て言いかけた?」


リオが聞く。


シオンは冷静に言う。


「カ、と聞こえましたが」


アリシアはすぐに微笑んだ。


「んん、すみません。まだ発音に慣れていなくて。こちらの名前は少し難しいですね」


「ユキトって、そんな難しい?」


リオの声には、まだ疑いが残っている。


「私の国の発音とは少し違うので」


アリシアは自然に返した。


表面上は誤魔化せた。


だが、二人の中に小さな違和感が残ったのは分かった。


アリシア自身も、自分の中の焦りを自覚していた。


いけない。


まだ、その名前を出す段階ではない。


カイトをカイトとして呼べるのは、自分だけ。


その意識が、思ったより口元に出かけている。


アリシアは気持ちを整え、改めて二人を見た。


「ユキト君は、最近少し疲れているように見えます」


今度は間違えなかった。


「それは分かってる」


リオの声が少し沈む。


「だから、無理に聞かないようにしてる」


シオンも頷く。


「本人が話すまでは、問い詰めるべきではないと判断しています」


「では」


アリシアの声は柔らかい。


だが、その問いは鋭かった。


「お二人は、ユキト君のことが本当に好きなのですか?」


リオはすぐに言った。


「好きに決まってるでしょ」


シオンも、迷わず答えた。


「当然です」


アリシアは静かに頷く。


「では、それは今の彼に対してですか?」

「それとも、以前の彼に戻ってほしいという気持ちですか?」


二人が黙った。


アリシアは続ける。


「あるいは、好きなのではなく、もう一度失うのが怖いだけではありませんか?」


リオの表情が険しくなる。


「何それ」


シオンの声も冷えた。


「失礼ですね」


「すみません」


今度の謝罪は、形だけだった。


「けれど、不思議だったんです」

「本当に好きなら、普通は自分だけを見てほしいと思うのではありませんか?」

「私なら、好きな人を他の女性と共有するなんて……耐えられません」


その言葉は、二人に向けたものだった。


同時に、自分自身にも刺さっていた。


アリシアは、その痛みを顔に出さない。


リオは拳を握った。


「嫌に決まってるじゃん」


声が震えていた。


「シオンと仲良くしたいわけじゃない」

「一緒にいたいわけでもない」

「本当は、私だけ見てほしいに決まってる」


シオンは何も言わなかった。


リオは続ける。


「でも、またユキトがいなくなる方がもっと嫌なんだよ」


アリシアは目を細める。


リオの声には怒りがある。

嫉妬もある。

だが、その奥に、はっきりとした恐怖があった。


「前みたいに笑ってほしいって思った」

「でも、それが今のユキトを見てないことなのかもしれないって、ちょっと思った」

「だから……どうしたらいいのか分かんないんだよ」


その言葉のあと、シオンが静かに口を開いた。


「私は、耐えているわけではありません」


リオがちらりと見る。


シオンは、アリシアから視線を逸らさなかった。


「耐えざるを得ないだけです」

「今の彼を強く責めれば、また消えるかもしれない」

「なら、今は感情をぶつけるべきではない」


「それは、愛情ですか?」


アリシアが問う。


シオンは一瞬だけ黙った。


「正しい愛情ではないかもしれません」


声は静かだった。


「けれど、私は彼を逃がしたくありません」

「それが醜い執着だとしても」

「いなくなられるよりは、ましです」


リオは何も言わなかった。


この瞬間だけは、否定できなかったからだ。


アリシアは二人を見た。


独占欲はある。

嫉妬もある。

嫌悪もある。


なのに、壊れない。


なぜなら、二人は愛情だけで踏みとどまっているのではない。

喪失の恐怖で繋がっている。

捨てられる不安で、互いへの嫌悪を押さえ込んでいる。


思ったより、粘る。


アリシアは静かに理解した。


二人が見ているのは、誰なのか。


ユキトなのか。

カイトなのか。

それとも。


失踪した一週間で傷ついた自分自身なのか。


もう置いていかれたくないという恐怖なのか。


今度こそ選ばれたいという執着なのか。


前の関係を取り戻したいという願望なのか。


まだ結論は出せない。


ただ、問いは生まれた。


あなたたちが好きなのは、彼自身ですか。

それとも、彼を失った時の痛みから逃げたいだけですか。

あるいは、彼を通して別の何かを守ろうとしているのですか。


アリシアはそこで、少しだけ息を吐いた。


これ以上、ここで押しても崩れない。


むしろ、二人を団結させるだけだ。


だから、引く。


「分かりました」


リオが警戒したまま聞く。


「何が?」


シオンも目を細める。


「分かった、とは?」


アリシアは柔らかく微笑んだ。


「お二人のことを、少し誤解していたようです」


「それ、上から言ってない?」


リオがむっとする。


シオンも冷たく言う。


「誤解が解けたのなら、何よりです」


「ええ」


アリシアは丁寧に頷いた。


「とても参考になりました」


その言葉は、やけに不気味に響いた。


リオは眉を寄せる。


「……何なの、あの子」


シオンはアリシアから目を離さなかった。


「少なくとも、ただの留学生ではありませんね」


アリシアはそれ以上何も言わず、軽く一礼した。


「お時間を取らせてすみませんでした」

「それでは」


そして、静かに廊下を戻っていく。


背中に二人の視線を感じながら、アリシアは内心で結論を修正していた。


火種を投げれば、すぐ割れると思っていた。


けれど、割れなかった。


リオ。

シオン。


二人は互いに嫌っている。

独占したいと思っている。

けれど、今は壊れない。


失踪の恐怖。

捨てられる不安。

ユキトを失いたくないという一点。


それが、二人を歪な形で結びつけている。


脆い。

けれど、思ったより粘る。


なら、次に見るべき場所は決まっている。


調べましょう。


リオさん。

シオンさん。


あなたたちが本当に見ているものを。


カイトなのか。

ユキトなのか。

それとも、別の何かなのか。


この世界では、金を積めばかなりのことが調べられる。

アリシアは、すでにそれを知っている。


リオの家庭環境。

放課後働いている理由。

母との関係。

軽く見られたくないというプライド。


シオンの家。

金に困らない暮らし。

それでも何かを恐れる理由。

相手を囲い込むことで安心しようとする歪み。


今はまだ分からないことばかりだ。


けれど、分からないなら調べればいい。


表向きは、カイトを守るため。


父の過去に潰されないようにするため。

この歪な関係が、彼をさらに壊す前に見極めるため。


それは嘘ではない。


けれど、胸の奥では別の感情が、静かに熱を持っていた。


カイトを渡したくない。


アリシアは、その感情をすでに知っている。


恋だと。


廊下の角を曲がる。


その顔には、また柔らかな留学生の微笑みが戻っていた。






昼休みも半ばを過ぎた頃、カイトは購買から教室へ戻ってきた。


手には袋がある。


昼の購買は、本当に混んでいた。

リオの言った通り、パンの棚の前は戦場に近かった。

横から押され、前から流され、何を選ぶか迷っているうちに列が動く。


それでも、どうにか買えた。


パンを二つ。

飲み物。

ついでに、見たことのない甘い菓子。


シオンに見つかったら何か言われそうだな、と思いながら席へ戻る。


だが、席の近くに二人はいなかった。


リオがいない。

シオンもいない。


弁当も荷物もある。

だから帰ったわけではない。


二人だけでどこかへ行った。


それだけなら、まだ分かる。


最近、二人がカイト抜きで話している気配はあった。

何を話しているのかも、薄々分かっている。


自分のことだ。


それに気づいても、もう深く考えなくなっていた。


だが、次の瞬間、カイトの中で嫌な予感が走った。


アリシアもいない。


女子の輪の中にもいない。

席にもいない。

廊下側にも見えない。


「……まさか」


いや、まさか。


でも、姉さんならやる。


カイトは教室の扉を見た。


追いかけるほどの確証はない。

けれど、何かが起きている気がした。


胸の奥が落ち着かない。


その様子を、少し離れた席からユウナが見ていた。


ユウナは一人で弁当を食べていた。


別に、カイトを監視していたわけではない。

ただ最近、自然と目で追ってしまっている。


本人の中では、まだそれに大した意味はない。


少し気になる。

危なっかしい。

放っておくと、またどこかで立ち尽くしていそう。


その程度のつもりだった。


だからこそ、気づいた。


カイトが席の前で固まっていることに。


「どうしたの?」


声をかけると、カイトは少し遅れて振り向いた。


「……三人がいない」


「リオちゃんとシオンさん?」


「あと、アリシアも」


「アリシアさんも?」


ユウナの反応は軽かった。


「先生に呼ばれたとか?」


「いや……そういうのじゃない気がする」


「そう?」


ユウナは首を傾げる。


彼女にとって、アリシアは上品で落ち着いた留学生だ。

クラスにも自然に馴染んでいて、周囲への気遣いもできる。

少し大人びているが、変なことをする人には見えない。


「アリシアさんに何か用事でもあったの?」


カイトは一瞬、返事に詰まった。


用事。


そう言われると、違う気がした。

話さなければならないことはある。

聞かなければならないこともある。


けれど、それは教室で軽く声をかけられるような用事ではなかった。


「……いや」


カイトは小さく首を振った。


「用事ってほどじゃない」


「そっか」


ユウナはそれ以上、踏み込まない代わりに自分の前の席を軽く示した。


「そこ、空いてるよ」


カイトは少し迷う。


「……いいのか?」


「うん。三人が戻ってくるまで」


カイトはしばらく迷ってから、席に座った。


購買の袋を机に置く。


ユウナは弁当の蓋を少し寄せながら、いつもの調子で言った。


「この前の読み聞かせ、好評だったよ」


カイトは顔を上げる。


「本当か?」


「うん。子供たちが言ってたよ」


ユウナは少し楽しそうに目を細めた。


「あのお兄ちゃんに、また読んでほしいって」


カイトは一瞬、言葉を失った。


ユキトではなく。

父の代わりでもなく。

ただ、あの日に絵本を読んだ自分を、子供たちは覚えていた。


「あれ、そんなに良かったのか」


「うん。竜の声が面白かったみたい」


「……変だっただけだろ」


「変というより、楽しそうだった」


カイトは少しだけ口元を緩めた。

自分でも気づかないくらい、自然に。


「ヨルカにも、ああいう読み方してたからな」


「妹さん?」


「ああ」


言ってから、少しだけ言葉を止める。


この世界で、その名前を出すのは少し怖かった。


けれどユウナは、深く踏み込まなかった。


「そっか。慣れてる感じした」


「慣れてるってほどじゃない」


「でも、子供たちは喜んでたよ」


その言葉は、すんなり胸に落ちた。


カイトとして、もう一度求められている。


それだけのことなのに、少しだけ息がしやすかった。


ユウナは続ける。


「よかったら、また来ない?」


「俺でいいのか?」


「うん。子供たち、喜ぶと思う」


カイトは少し考えた。


「……時間が合えば」


「うん。それで大丈夫」


ユウナは笑った。


その時、教室の扉が開いた。


カイトは顔を上げる。


戻ってきたのは、アリシアだった。


少し遅れて、リオとシオンも入ってくる。


三人とも、表面上は普通だった。


リオはいつものように明るい顔をしている。

シオンも落ち着いている。

アリシアは、何もなかったように微笑んでいた。


だが、カイトには分かった。


絶対に何かあった。


聞きたい。

聞きたくない。


聞けば、何かが始まる気がした。


三人は、カイトがユウナの前の席に座っていることに気づいた。


一瞬だけ、空気が止まる。


リオの目が、ほんの少しユウナを見る。

シオンも同じように視線を向ける。

アリシアは表情を変えなかったが、目だけが少し細くなった。


ユウナは、その空気に気づいたのか、気づかないふりをしたのか、いつも通りに笑った。


「あ、戻ってきたよ」


そして、カイトに向けて軽く言う。


「三人で食べるんでしょ? 行っておいで」


それは自然な言葉だった。


自然すぎるくらいだった。


カイトは一瞬、返事に詰まる。


引き留められると思っていたわけではない。

そんなことを望んでいたつもりもない。


けれど、あまりにも自然に送り出されて、胸の奥が少しだけ沈んだ。


ユウナも、自分で言ってからほんの少しだけ違和感を覚えた。


行っておいで。


当然だ。

カイトは、もともとリオとシオンと昼を食べるつもりだった。

自分がそこに口を挟む理由はない。


なのに、言い終えたあと、胸の奥がかすかに痛んだ。


数日前にも、似た感覚があった。


リオとシオンに挟まれるように歩いているカイトと、廊下ですれ違った時だ。

ユウナはただ軽く会釈した。

カイトも、ほんの少しだけ目を伏せて会釈を返した。


それだけだった。


そのまま通り過ぎただけなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


あの時も、深く考えなかった。

考えないようにした。


今回も同じだ。


ユウナは、それを気のせいだと思うことにした。


カイトは席を立つ。


「……また」


「うん」


ユウナは短く返し、弁当に視線を戻した。


カイトは購買の袋を持って、リオとシオンのいる方へ戻る。


リオとシオンは、一瞬だけユウナを見た。


ユウナは引き留めなかった。

何か言いたそうな顔もしなかった。

ただ、いつもの穏やかな顔でカイトを送り出しただけだった。


だから、二人はすぐに判断した。


ユウナは違う。


少なくとも、こちらへ踏み込んでくる相手ではない。


リオはそう思った。

シオンも、ほぼ同じ結論を出した。


あの子は、ユキトを奪いに来るタイプじゃない。

距離を取る。

待つ。

押してこない。


なら、今見るべき相手ではない。


問題は、別にいる。


アリシア。


綺麗で。

落ち着いていて。

何を考えているのか分からない留学生。


しかも、自分たちが席を外した直後に、彼女も教室から消えた。


偶然にしては、出来すぎている。


やはり追ってきたのだろうか?


リオはアリシアを見る。


あの留学生、何か変。


シオンも、同じ方向へ視線を向けた。


ただの転入生ではない。


二人の視線が、一瞬だけ合う。


互いに嫌いだ。

信用もしていない。

できれば同じ方向など見たくない。


それでも、この一点だけは一致していた。


ユウナではない。


問題は、あの留学生だ。

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