84.目が離せないよね
歓声は、もう遠かった。
つい数時間前まで、そこには人の熱があった。
照明がステージを焼き、スピーカーが震え、客席の腕が波のように揺れていた。
誰もが最後だと知っていた。
街はすでに終わりかけていた。
外では人が人を噛み、道路には横転した車が並び、ニュースは同じ警告を繰り返すだけになっていた。
それでも、彼らは演奏した。
世界がまともだった頃の最後の名残みたいに、銀河竜アッシュは歌った。
客は泣き、笑い、叫び、そして最後の曲が終わった時、誰かが言った。
これが、ラストコンサートだ、と。
今はもう、楽屋だけが静かだった。
壁の向こうからは、時々、遠くの悲鳴が聞こえる。
それでも楽屋の中には、まだライブの余熱が残っていた。
「……私たちも、音楽なんかやってる場合じゃなかったのかな」
バンドメンバーの女が、床に座り込んだまま呟いた。
名前はミナ。
銀河竜アッシュのサポートギターで、今日のライブでは最後の曲のソロを任されていた。
汗で濡れた髪を後ろに払うその顔には、疲労と興奮と、少しの後悔が混ざっている。
アッシュはソファにふんぞり返り、煙草をくわえたまま笑った。
「いや、こういう時こそ音楽だろ」
「外、ゾンビだらけだよ」
「だからこそだよ。普通の世界で格好つけても、普通に格好いいだけだろ。終わった世界で歌ってこそ伝説になる」
「そういうところ、本当に変わらないね」
「変わらない男ってのは貴重なんだよ」
ミナは呆れたように笑った。
その笑顔は、少しだけ安心していた。
外の世界がどれほど壊れても、アッシュはいつものアッシュのままだったからだ。
軽薄で、調子がよくて、自分勝手で。
それでもステージの上では、誰よりも眩しかった。
「ねえ、アッシュ」
「ん?」
「もしここから出られたらさ」
「出られるって」
「最後まで聞いてよ」
「出られたら?」
ミナは少しだけ視線を落とした。
「今度は、ちゃんとした場所でやろうよ。客席が悲鳴じゃなくて歓声だけで埋まってるところで」
アッシュは煙草をくわえたまま、片目を細めた。
「いいね。じゃあ次はドームだな」
「話が大きい」
「小さい男じゃないんでね」
その時だった。
コン、コン。
楽屋の扉が鳴った。
二人の動きが止まった。
外の悲鳴も、遠くの爆発音も、一瞬だけ聞こえなくなった気がした。
コン、コン。
もう一度、ノック。
ミナが息を呑む。
「……どうしよう。ゾンビかな」
アッシュはゆっくり立ち上がった。
表情だけなら、驚くほど落ち着いている。
「いや、もしかしたら困ってるだけかもしれない」
「でも」
「開けてやれよ。人間だったら見捨てられないだろ」
ミナは不安そうに扉を見る。
「アッシュは?」
「俺は裏で救急箱取ってくる。怪我人だったら必要だ」
その言い方は、妙に頼もしかった。
ミナは一瞬、彼を見直したような顔をした。
この人は、こういう時でも逃げないのだと。
軽い男に見えて、本当はちゃんと誰かを助けようとするのだと。
「……わかった」
ミナは慎重に扉へ近づいた。
アッシュは反対側の通路へ向かう。
扉の前で、ミナが小さく声をかけた。
「誰かいますか?」
返事はない。
ただ、扉の向こうで何かが擦れる音がした。
ミナは息を整え、ロックを外す。
扉が、少しだけ開いた。
その隙間から、腕が伸びた。
「きゃっ――!」
腐った指がミナの肩を掴む。
倒れ込むように入ってきた男の顔は、もう人間のものではなかった。
ミナが床に押し倒される。
「アッシュ! 助けて! アッシュ!」
アッシュは振り返った。
目が合った。
ミナは必死に手を伸ばす。
アッシュは、はっきり頷いた。
「わかった!」
ミナの顔に希望が戻る。
次の瞬間、アッシュは言った。
「人を呼んでくる! ここで待ってろ!」
「え?」
アッシュは裏口へ走った。
「アッシュ!?」
「すぐ戻る!」
戻らなかった。
裏口のドアが開き、冷たい夜風が流れ込む。
アッシュはライブハウスの裏路地へ飛び出した。
遠くで車のクラクションが鳴り続けている。
炎上したゴミ箱の明かりが、濡れたアスファルトを赤く照らしていた。
「いやあ、まずいね」
アッシュは走りながら呟いた。
「非常にまずい」
背後からミナの悲鳴が聞こえた気がしたが、アッシュは振り返らなかった。
路地の角を曲がる。
そこには一体、ゾンビが立っていた。
アッシュを見るなり、ふらついた足取りで近づいてくる。
「悪い、今ファン対応してる暇ないんだ」
アッシュは横のフェンスを蹴り、細い通路へ逃げ込んだ。
行き先は決まっていた。
近くに、知り合いの女の家がある。
正確には、かつて知り合いだった女。
もっと正確に言えば、きちんと別れていない女。
窓の明かりが見えた時、アッシュは心底安心した。
「生きてたか。さすがレイカ」
アパートの階段を駆け上がり、ドアを叩く。
「レイカ! 俺だ! 開けろ!」
内側で物音がした。
チェーンが外れる音。
鍵が回る音。
ドアが開いた瞬間、アッシュの額に銃口が向けられた。
「……アッシュ?」
レイカは、黒いタンクトップ姿でショットガンを構えていた。
顔は整っているが、目はまったく笑っていない。
アッシュは両手を上げた。
「待て待て待て。落ち着け。銃は人に向けるものじゃない」
「ゾンビには向けるものよ」
「俺、生きてる」
「浮気男にも向けるものよ」
「そこは法的にグレーだな」
「また女のところから逃げてきたんでしょう」
アッシュは一瞬だけ黙った。
「違う」
「嘘」
「俺は君を助けに来たんだ」
レイカの眉がぴくりと動いた。
「私を?」
「そうだ。街はもう駄目だ。ライブハウスも危ない。だけど俺は思ったんだよ。今、最初に助けに行くべき女は誰かって」
「……それで、私のところに来たの?」
「当然だろ」
レイカの銃口が、ほんの少し下がった。
アッシュはその隙を逃さず、部屋の中へ滑り込む。
「水ある? あと包帯。できれば酒」
「怪我してるの?」
「心がな」
「撃つわよ」
「水だけでいい」
レイカはまだ疑っていた。
それでも、完全には拒絶しなかった。
アッシュの言葉には、そういう力があった。
最低だと知っていても、もしかしたら今回は違うのかもしれないと思わせる、嫌な力が。
レイカはドアを閉め、鍵をかけた。
「……本当に、私を助けに来たの?」
アッシュは真面目な顔を作った。
「当たり前だ。俺だって、変わる時は変わる」
レイカは目を伏せた。
その表情には、怒りだけではないものが混ざっていた。
過去に何度も裏切られた。
何度も待たされた。
何度も、もう信じないと決めた。
それでも、終わった世界で最初に自分のところへ来たのだとしたら。
ほんの少しだけ、信じたくなってしまう。
「……馬鹿みたい」
「よく言われる」
「褒めてない」
「知ってる」
その時、窓ガラスが揺れた。
ドン。
何かがぶつかった音。
レイカが即座にショットガンを構える。
アッシュは部屋の奥を見る。
「今のは?」
「外階段」
ドン。
さらに強い音。
窓の向こうに、血に濡れた手が張り付いた。
レイカが舌打ちする。
「来た」
「人気者はつらいな」
「黙って」
窓ガラスにひびが入る。
廊下側からも、複数の足音が近づいてきた。
レイカは銃に弾を込める。
「アッシュ、そこの棚を押して。入口を塞ぐ」
「任せろ」
アッシュは棚に手をかけた。
そのまま、部屋の奥にあるトイレのドアを見た。
「その前に、ちょっとトイレ行ってくる」
レイカが振り返る。
「今?」
「今。こういう時に限って来るんだよ」
「ふざけてる場合?」
「ふざけてない。生命活動だ」
「早くして!」
「すぐ戻る!」
アッシュはトイレに入った。
鍵をかける。
外ではレイカが棚を引きずる音がした。
窓ガラスが割れる。
銃声。
アッシュは便座の上に乗り、小さな窓を開けた。
「よし」
身体をねじ込み、外へ抜ける。
狭い。
かなり狭い。
「俺じゃなきゃ無理だな」
無理やり窓を抜け、裏の配管へ足をかける。
部屋の中からレイカの声が聞こえた。
「アッシュ!? まだ!?」
アッシュは小声で答えた。
「今、人生の大事なところ」
そのまま配管を伝って下へ降りる。
背後でまた銃声がした。
アッシュは地面に着地すると、服の埃を払った。
「ふう」
その時、路地の向こうからよろよろと誰かが歩いてきた。
ミナだった。
肩口を押さえている。
顔色は悪く、足取りもおぼつかない。
それでもまだ、完全には変わっていなかった。
「アッシュ……」
アッシュは目を丸くした。
「ミナ。生きてたのか」
「助けを……呼んでくるって……」
「ああ」
アッシュは真剣な顔で頷いた。
「呼んできた」
「本当……?」
「本当だ。あの家に行くといい」
アッシュは親指で、今まさに逃げ出してきたレイカの部屋を指した。
「あそこに武装した女がいる。話はつけてきた」
ミナの目に涙が浮かぶ。
「ありがとう……アッシュ……」
「安心しろ……あと、もう少しだ」
ミナはふらつきながら階段へ向かう。
アッシュは胸ポケットから煙草を取り出した。
火をつける。
深く吸い込む。
夜の街は燃えていた。
遠くではまだ悲鳴が聞こえる。
近くではゾンビの足音が増えている。
だが、アッシュは少しだけ満足そうだった。
「人助けも楽じゃないねえ」
ミナがレイカの部屋のドアを叩く音が聞こえた。
すぐに中からレイカの声。
「誰!?」
「助けてください……アッシュが、ここに行けって……」
沈黙。
それから、レイカの声が低くなる。
「アッシュが?」
アッシュは煙草をくわえたまま、そっと一歩下がった。
ドアが開く音。
ミナの安堵した声。
「ありがとう……」
次の瞬間、銃声が響いた。
一発。
間を置いて、もう一発。
アッシュは煙草の煙を吐いた。
そして、心底他人事のように笑う。
「うわ。話つけたつもりだったんだけどな」
また銃声。
アッシュは夜道へ歩き出す。
「修羅場だね~!」
背後では、ゾンビの唸り声と女の怒号と、何かが壊れる音が混ざっていた。
アッシュは振り返らない。
ただ、燃える街の中を歩きながら、煙草を指で弾いた。
「ゾンビより怖いのいたな」
その灰が、暗い路地に落ちた。
そして銀河竜アッシュは、またひとつ、誰かの人生から逃げ延びた。
画面が暗転した。
燃える街。
煙草を吸いながら去っていくアッシュ。
最後の台詞。
『ゾンビより怖いのいたな』
教室の片隅で、ドラマ好きの女子が目元を拭った。
「……やっぱり『彼女ハザード』、この回が一番好き」
その言葉に、周りの女子たちも頷いた。
「わかる。タイトルだけ聞くとふざけてるのに、ちゃんと悲しいんだよね」
「彼女たちがただの被害者じゃなくて、みんなアッシュを信じたかったんだって分かるのがさ……」
「悪い男なのに、目が離せないよね」
アリシアは黙って画面を見ていた。
灰色の髪。
煙草。
女を二人ほど死地へ送り込んだ直後の、妙に絵になる横顔。
少し考えてから、アリシアは口を開いた。
「つまり」
女子たちが振り向く。
「あの方は、今カノを見捨てて、元カノの家へ逃げ込み、そこでも逃げたあと、今カノを元カノの家へ誘導しましたよね?」
空気が止まった。
「……言い方」
「合っていますか?」
「行動だけ見ると合ってるけど!」
アリシアは画面を見たまま続けた。
「そして結果的に、今カノを元カノに処理させましたよね?」
「そこが悲しいんじゃん!」
ドラマ好きの女子が机を叩いた。
アリシアはゆっくり瞬きをした。
「悲しい、とは?」
「だから! 誰も幸せになれないの! アッシュも逃げるしかなくて、女の子たちも信じたかったのに裏切られて、それでもアッシュは生きていくしかなくて!」
「生きていくしかない、というより、一人だけ生き残りましたよね」
「そういう正確な話じゃないの!」
「かなり正確だと思いますが」
「正確だけど情緒がない!」
周囲の女子たちが吹き出した。
別の女子が慌ててフォローする。
「でもさ、アリシアちゃん。これはゾンビドラマでありながら、恋愛ドラマでもあるんだよ」
「恋愛」
「そう。アッシュを好きになってしまった女たちの物語でもあるの」
アリシアは少しだけ首を傾げた。
「では、題名の『彼女ハザード』とは、ゾンビ災害ではなく、あの方の女性関係によって発生する災害を指しているのですか?」
誰もすぐには答えられなかった。
「……否定しきれない」
「やめて。急にタイトルの解像度を上げないで」
「でも、そう言われると全部そう見える」
ドラマ好きの女子は半泣きで首を振った。
「違うの! もっとこう、終末世界でむき出しになる人間の弱さとか、愛とか、執着とか、そういう話なの!」
アリシアは頷いた。
「なるほど。つまりこの国では、顔と声と雰囲気がよければ、女性関係の処理失敗も人間ドラマとして鑑賞されるのですね」
「言い方あ!」
「でも否定できない!」
「やめて! アッシュのこと嫌いになりたくない!」
アリシアは最後にもう一度、停止した画面のアッシュを見た。
「少なくとも、家族にはいてほしくないタイプですね」
一瞬、周囲の女子たちが黙った。
それから、ドラマ好きの女子が真顔で言った。
「え、私はいてほしいけど」
アリシアはゆっくり瞬きをした。
「……今、何と?」
「だから、家族にいたら嬉しいかもって」
「今カノを元カノで処理した方ですよ?」
「でも帰ってきたら嬉しくない?」
「帰ってきますか?」
「たぶん帰ってこない」
「では、駄目なのでは?」
「でも、いつかふらっと帰ってきそうじゃん!」
別の女子も頷いた。
「分かる。お金がない時だけ、急に帰ってきそう」
「それは帰ってきたと言えるのですか?」
「言える言える。顔を見せたらオッケー」
「さすがに酷くないですか?」
「酷いけど、アッシュだから!」
その言葉に、周囲の女子たちが一斉に頷いた。
「分かる。アッシュなら仕方ない」
「逃げてもアッシュだし」
「最低でもアッシュだし」
「女を不幸にしても、なんか絵になるんだよね」
「そうそう。普通の男がやったら最悪だけど、アッシュがやると物語になる」
アリシアは、少しだけ眉を寄せた。
「つまり、あの方は何をしても許されるのですか?」
「許されるっていうか、許したくはないんだけど」
「でも許しちゃう」
「怒りながら許す」
「泣きながら許す」
「最終的に、まあアッシュだしってなる」
アリシアは無言になった。
教室の女子たちは、なぜかとても楽しそうだった。
今カノを見捨てた。
元カノを騙した。
二人を死地へ送り込んだ。
自分だけは生き残った。
その事実を理解したうえで、それでも彼女たちはアッシュを嫌いになっていない。
むしろ、最低さまで含めて愛でている。
「……この国の恋愛観は、かなり複雑なのですね」
「違う違う。恋愛観じゃなくてアッシュ観」
「アッシュは別枠」
「倫理で見る男じゃない」
「天災みたいなものだから」
「来たら困るけど、来なかったら寂しいタイプ」
アリシアは停止した画面のアッシュを見る。
灰色の髪。
煙草。
女を二人ほど死地へ送り込んだ直後の、妙に絵になる横顔。
それを見つめながら、女子たちはうっとりとした顔をしている。
アリシアは、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
少しだけ分かった気がした。
この世界の女子たちは不思議だった。
危険な男を危険だと理解している。
最低な行動を最低だと把握している。
被害を受けた女たちにも、ちゃんと同情している。
そのうえで。
それでも、アッシュだから許すと言う。
アリシアには、まったく理解できなかった。
けれど、ひとつだけ分かった。
この教室にいる彼女たちは、危険な男を見抜けないのではない。
見抜いたうえで、喜んで火傷しにいく種類の人間なのだ。
アリシアは、何気ない仕草で教室の中を見渡した。
カイトの席を見る。
いない。
先ほどまで、確かにいたはずだ。
自分の方へ来るかどうか迷っているような気配もあった。
けれど、今は席が空いている。
ついでに、朝から彼の近くにいた二人の女子の姿もなかった。
アリシアは、少しだけ瞬きをした。
「あれ? ユキト君、さっきまでいませんでしたか?」
声はあくまで自然だった。
転校二日目の留学生が、同じクラスの男子の姿を何となく気にしただけ。
その程度に聞こえるように。
だが、周囲の反応は思ったよりも早かった。
「え、アリシアちゃん、ユキト君気になるの?」
「やめときなよ、あの男」
「顔はいいけどね。顔は」
「軽いっていうか、女の敵っていうか」
「最近ちょっと大人しいけど、前は普通にチャラかったし」
アリシアは、少しだけ瞬きをした。
画面の中の災害には寛容で、隣の席の火種には妙に厳しいらしい。
アリシアは困ったように笑った。
「そんなつもりじゃないよ。ただ、同じクラスの人のことを少し知っておきたいだけ」
「ほんとに?」
「うん。まだ分からないことばかりだから」
それは嘘ではない。
この学校のことも。
この国のことも。
この教室の人間関係も。
そして、カイトがこの場所でどんな名前を背負わされているのかも。
まだ分からないことばかりだった。
アリシアは、ほんの少しだけ声を落とした。
「そうそう。彼を好きな女の子が二人いるって噂で聞いたんだけど、どんな子なの?」
その表情は、柔らかかった。
けれど、目だけは笑っていなかった。
女子たちは顔を見合わせる。
「え、それ聞く?」
「まあ、有名だしね」
「リオちゃんとシオンさんのこと?」
アリシアは微笑んだまま、続きを待った。
そこで、昼休みの教室のざわめきが少し遠くなる。
彼女たちの声が、自然と低くなった。
アリシアは相槌を打つ。
驚きすぎず、食いつきすぎず、ただ興味があるように。
転校してきたばかりの少女として。
何も知らない顔で。
必要な情報だけを、静かに拾っていった。
場面は、昨夜へ戻る。
カイトはユウナの家からの帰り道、ずっとアリシアのことを考えていた。
学校へ来た理由。
自分を避けるように振る舞った理由。
祖母に学校に行くことを話したのか。
どこまで知っていて、どこまで黙っているのか。
分からないことが多すぎる。
けれど、聞かなければ分からない。
そう思って、家の扉を開けた。
「ただいま」
玄関の明かりはついていた。
奥から珍しくアヤカが顔を出す。
「あら、おかえり。遅かったのね」
「少し、用があって」
「そう」
アヤカは深く追及しなかった。
その代わり、思い出したように言う。
「アリシアちゃんなら、もう帰ったわよ」
カイトは靴を脱ぐ手を止めた。
「帰った?」
「ええ。あなたが帰るのを待っていたみたいだけど、少し遅くなるかもしれないからって」
「どこに」
「家に」
「……家?」
その一言を繰り返した瞬間、カイトの中で違和感が膨らんだ。
この世界に、アリシアの家などない。
少なくとも、カイトは知らない。
あるはずがない。
異世界から来たばかりの姉が、どうやってこの国で家を用意したのか。
そもそも、正式に留学するとはどういうことなのか。
カイトの表情を見て、アヤカは少し不思議そうにした。
「あなたの学校に通うことになったって言っていたわ。手続きも済んだから、今日からそちらへ戻るって」
済んだから。
そんな簡単な話ではないはずだった。
戸籍。
住所。
保護者。
学校の受け入れ。
言語の問題。
この世界の仕組みに詳しくないカイトでも、それが普通ではないことくらい分かる。
姉さん、何をした。
そう聞きたい。
けれど、アヤカは穏やかに微笑んでいた。
「でも、よかったわ」
「何が?」
「アリシアちゃん、もう自殺なんて考えないって言ってくれたの」
カイトは、言葉を失った。
アヤカは本当に安心している顔だった。
「最初は心配だったの。あんな場所で涙を流していたから。でも今日は、ちゃんと前を向くって言ってくれたのよ」
「……そう、なんだ」
「あなたの学校に通うことになったのも、いいきっかけになるといいわね」
カイトは何も言えなかった。
姉が何を考えているのかは分からない。
だが、少なくとも祖母を安心させる言葉を選んだ。
それが嘘か本音かは別として、祖母は救われている。
なら、今ここで疑うようなことは言えなかった。
「今日、教室に来たんでしょう? どうだった?」
アヤカが嬉しそうに聞いた。
カイトは少しだけ視線を落とし、当たり障りのない答えを探した。
「……目立ってたよ。留学生ってことで、みんな話しかけてた」
「そう。アリシアちゃん、綺麗だものね」
「うん」
「ちゃんと馴染めそう?」
「たぶん」
それ以上は続かなかった。
カイトは階段へ向かう。
背中にアヤカの安心した空気を感じながら、胸の中だけが重くなる。
話すつもりだった。
今度は逃げずに。
けれど、アリシアは先にいなくなっていた。
そして今日。
昼休みになっても、カイトはすぐには席を立てなかった。
アリシアの周りには、昨日より自然に人が集まっていた。
転校初日の物珍しさではない。
二日目になって、彼女が話しても大丈夫な相手だと判断されたのだろう。
女子たちは机を寄せるほどではないが、近い距離で輪を作っていた。
「昨日言ってたドラマ、これだよ」
「アリシアさん、絶対こういうの見たことないでしょ」
「タイトルはふざけてるけど、意外と面白いから」
「最初の方だけでも見てみて」
スマホの画面がアリシアの前に置かれる。
アリシアは少し困ったように笑いながらも、拒まなかった。
「では、少しだけ」
その様子を、カイトは自分の席から見ていた。
今なら近づけるかもしれない。
だが、女子の輪に割って入ることになる。
しかも、アリシアは今、この学校の生徒として自然に振る舞っている。
そこで自分が声をかければ、何かがずれる気がした。
姉さん。
そう呼べるはずもない。
アリシア。
と呼ぶのも不自然だ。
ユキトとして話しかけるなら、何を言えばいい。
考えている間に、タイミングは過ぎていく。
「ユキト」
横から声がした。
リオだった。
明るい声。
いつもの距離。
けれど、今日はその隣にシオンもいた。
「お昼、行こ」
リオが言う。
シオンは鞄を持ったまま、当然のように続けた。
「今日は外で食べましょう。教室だと落ち着きませんし」
カイトはアリシアの方を見た。
その視線に、リオが先に気づいた。
「……ユキト?」
声は明るいままだった。
けれど、ほんの少しだけ呼び止めるのが早い。
シオンも、遅れてアリシアの方へ目を向けた。
表情は崩さない。
だが、指先が鞄の持ち手を軽く握り直す。
二人とも、何かを言ったわけではない。
それでもカイトには分かった。
今、見られた。
アリシアを気にしていることを、気づかれた。
「……何でもない」
カイトは小さく首を振った。
リオは笑った。
「なら行こ。お腹空いたし」
シオンも静かに頷く。
「ええ。早くしないと昼休みが終わってしまいます」
女子たちはもう動画を再生しようとしている。
画面を覗き込む人。
感想を言う人。
アリシアの反応を楽しみにしている人。
そこに入る余地はなかった。
「……分かった」
カイトは立ち上がった。
リオが少し嬉しそうに笑う。
シオンも、満足したように目を細めた。
二人は仲良くなったわけではない。
それはカイトにも分かる。
リオの笑顔はシオンへ向けるときだけ少し硬い。
シオンの丁寧な声も、リオへ向けるときだけ温度が下がる。
それでも、二人は並んでいた。
目的が同じ時だけは、奇妙に足並みが揃う。
カイトを一人にしない。
それだけのために。
三人は教室を出た。
向かったのは、校庭の裏手にあるベンチだった。
校舎の影になっていて、昼休みでも人通りは少ない。
風は通るが、賑やかな声は遠い。
リオは弁当を広げながら言った。
「そういえばさ、もうそろそろ中間試験じゃん。勉強、大丈夫?」
あまりにも普通の話題だった。
だからこそ、カイトは一瞬だけ反応が遅れた。
「中間試験?」
「え、そこから?」
リオが笑う。
「やばいじゃん。ちゃんと覚えてた?」
「一応」
「その返事、絶対怪しいやつだ」
シオンが小さく息を吐いた。
「しっかり勉強しなさい。私に恥をかかせないで?」
冗談のような言い方だった。
実際、リオは笑った。
「出た、お嬢様圧」
「圧ではありません。常識的な忠告です」
「常識的かなあ」
「少なくとも、試験日程を忘れている人よりは常識的です」
「それはそう」
二人の会話は軽かった。
普通の昼休み。
普通の同級生。
普通の試験前の雑談。
そのはずなのに、カイトは少しだけ息苦しかった。
自分が返すべき言葉を探している。
ユキトならどう答えるか。
この場が壊れない返事は何か。
考えてから、カイトは笑った。
「頑張るよ」
それだけ言った。
リオは満足そうに頷く。
「うんうん。分かんないところあったら聞いて」
シオンがすぐに口を挟む。
「リオさんに聞くより、私に聞いた方が効率的だと思いますけど」
「何それ。私だって教えられるし」
「では、まずご自分の成績を安定させてからですね」
「うわ、感じ悪」
「事実です」
二人は言い合う。
けれど、本気で喧嘩にはならない。
カイトの前だからだ。
リオもシオンも、それを分かっている。
互いに嫌っていても、今は壊さない。
カイトも、それを分かってしまう。
だから、また笑った。
これでいいのかもしれない。
リオは悪い子じゃない。
明るくて、強引で、距離が近くて、でも根は真っ直ぐだ。
シオンも、悪意だけで動いているわけではない。
怖いところはある。
逃げ道を塞ぐような優しさもある。
それでも、彼女なりにこちらを気にしているのは分かる。
なら、自分が合わせればいい。
自分が受け入れれば、二人は傷つかない。
祖母も悲しまない。
この学校での居場所も壊れない。
リオを好きになってもいい。
シオンを好きになってもいい。
そういうことにすれば、きっと全部が丸くなる。
カイトは弁当の中身を見下ろした。
味は、あまり分からなかった。
食事を終えて、三人は校舎へ戻った。
リオはまだ試験の話をしていた。
「ていうかユキト、国語は本当に見といた方がいいよ。最近、授業中ちょっと顔死んでるし」
「そこまで?」
「そこまで」
シオンも頷く。
「英語も怪しいですね」
「全部じゃん」
「否定できますか?」
カイトはまた笑う。
「……頑張るよ」
同じ言葉しか出なかった。
その時、廊下の向こうからユウナが歩いてきた。
手には数冊の本を持っている。
どこかへ運ぶ途中なのだろう。
視線が合った。
ほんの一瞬。
ユウナは、立ち止まらなかった。
ただ、小さく会釈した。
リオとシオンがいるから。
ここでは、自分をカイトとは呼ばない。
昨日、そう決めたから。
ユウナはその約束を守っているだけだった。
カイトも、何も言えなかった。
「……」
すれ違う。
ユウナは何も言わなかった。
ただ、小さく会釈しただけだった。
それだけで、胸が痛んだ。
自分が合わせればいい。
我慢すればいい。
好きになればいい。
そう言い聞かせていたものが、一瞬で嘘っぽくなった。
カイトは振り返らなかった。
振り返れば、何かを認めてしまいそうだった。
リオが横から聞く。
「どうかした?」
カイトは首を振った。
「何でもない」
声は普通に出た。
たぶん、普通に聞こえた。
シオンがこちらを見たが、何も言わなかった。
三人はそのまま教室へ戻る。
その少し前。
アリシアは窓の外を見つめた。
カイトの左にリオがいる。
右にシオンがいる。
二人とも笑っていた。
カイトも笑っていた。
けれど、アリシアには分かった。
あれは、楽しい時の顔ではない。
周囲を荒らさないための顔。
誰かを傷つける前に、自分の形を変えてしまう時の顔。
家で何度も見た。
母たちの前で。
父の前で。
自分たち姉妹の前で。
カイトは今、自分で逃げ道を狭めている。
大切にされている。
心配されている。
求められている。
だから応えなければならない。
そう考えている。
そして、応えるために。
あの子は、カイトという名前を捨てようとしている。
この世界のユキトとして。
祖母の子として。
リオとシオンが待っていた男として。
誰かの望む形に、自分を合わせようとしている。
アリシアは、窓枠に添えた指に力を込めた。
かわいそうに。
胸の奥で、静かに何かが沈んだ。
怒りではなかった。
嫉妬でもなかった。
もっと深く、もっと暗い場所から湧いてくる感情だった。
弟が、自分の名前を諦めようとしている。
それを見て、何もせずにいられるほど、アリシアは優しい姉ではなかった。
リオ。
シオン。
先ほど聞いた話の断片が、頭の中で整理されていく。
明るく距離を詰める少女。
丁寧な言葉で逃げ道を塞ぐ少女。
どちらも、弟を見ていないわけではない。
けれど、彼女たちが見ているのは、この世界のユキトだ。
カイトではない。
アリシアは、静かに微笑んだ。
待っていてください。
声には出さない。
けれど、その言葉だけは、胸の中で確かに形になった。
私が、必ず助けますから。
窓の外で、カイトがまた笑った。
アリシアはその笑顔を見つめたまま、もう一度だけ思った。
大丈夫です。
あなたが自分の名前を忘れても。
私だけは、覚えています。




