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83.カイト君

アリシアは、教壇の横で静かに一礼した。


「アリシアです。ヴェルシア共和国から来ました。しばらくの間、お世話になります。よろしくお願いします」


短い自己紹介だった。


声は落ち着いていた。

発音も自然だった。

この数週間で覚えたとは思えないほど滑らかで、少なくともこの教室にいる人間には、外国から来た少女が努力して日本語を身につけたように聞こえただろう。


教室の空気が、少し遅れて変わる。


留学生。

美人。

日本語が上手い。

それだけでも目を引く。


だが、それだけではなかった。


濃紺寄りの青い髪。

整った顔立ち。

背筋の伸びた、隙のない立ち姿。


制服を着ている。

この世界の学校の制服だ。


それが、似合っていた。


似合いすぎていた。


シロネコ島の家で見る姉とは違う。

異世界から来た竜の娘ではなく、最初からこの学校に転入してくるために整えられた、美しい留学生のように見える。


カイトだけが、その異常さを知っていた。


何をしているんだ、姉さん。


転入してくるなんて、一言も聞いていない。

最近、一人で動いていることには気づいていたが、その答えがこれだとは思わなかった。


リオも、アリシアを見ていた。


最初に思ったのは、綺麗、だった。


顔立ちが整っている。

立ち姿が綺麗。

声も落ち着いている。


それから、どうしても視線が下がった。


胸元だった。


本人は露骨に見せているわけではない。

所作も、姿勢も、むしろ上品で控えめだ。


けれど制服の上からでも、その存在感ははっきり分かる。


隠しているのに隠れない。

主張していないのに、目に入る。


男子の何人かが、反射的に視線を逸らし損ねた。

女子の何人かも、思わず全体の雰囲気を見てしまう。


美人。

上品。

落ち着いている。

そのうえ、胸まである。


リオは一瞬だけ、自分の胸元へ視線を落とした。


別に、今まで自分の体に不満があったわけではない。

自分は可愛い。

そう思っているし、女として負けているつもりもない。


けれど、目の前のアリシアは違った。


顔も、雰囲気も、立ち姿も整っている。

そのうえ、あの胸元だ。


「……ずる」


声には出さなかった。


けれど、胸の奥では確かにそう思った。


シオンもまた、同じものを見ていた。


表情は変えない。

視線もすぐに外した。


けれど、自分の胸元へ落ちかけた意識までは誤魔化せなかった。


細い体。

整えた服。

上品に見える立ち方。


そこまでは、自分にもある。


でも、ああいう分かりやすい女らしさは、自分にはない。


それを羨ましいとは言いたくなかった。

負けているとも思いたくなかった。


けれど、教室の空気が一瞬でアリシアを中心に回り始めたことだけは、否定できなかった。


シオンは静かに息を整える。


ライバルが増えたわけではない。


まだ、そう決まったわけではない。


けれど、増える予感がした。


それが、ひどく不愉快だった。


カイトは机の下で拳を握った。


リオも、シオンも、教室中も、カイトですらアリシアを見ている。

その中で、アリシアだけがカイトを見なかった。


まるで初対面の生徒の一人でしかないように。


その完璧な他人行儀が、かえって落ち着かなかった。


担任が席を示した。


「席は……そうだな。あそこの空いてる席で」


「はい」


アリシアは静かに頷き、教室の中を歩いた。


その歩き方だけでも、周囲の目を集めた。


足音は大きくない。

だが、無駄がない。

背筋が伸びていて、顔を伏せない。

なのに威圧的ではない。


何人かの男子が小声で言う。


「やば……」


「めっちゃ綺麗じゃん」


「留学生ってマジ?」


女子の方からも声が漏れる。


「髪、綺麗」


「日本語うまくない?」


「ていうかスタイルすご……」


アリシアは何も反応しなかった。


聞こえていないふりをしているのか。

本当に気にしていないのか。

それすら分からない。


ただ、静かに席へ向かう。


カイトは前を向いたまま、拳を緩められなかった。


何を考えてるんだよ。


授業が始まった。


けれど、教室の空気はしばらく落ち着かなかった。


アリシアの話題が、クラス中を小さくざわめかせていた。


休み時間になると、すぐに何人かがアリシアの周囲へ集まった。


「ねえ、どこの国から来たの?」


「ヴェルシア共和国ってどこ?」


「日本語めっちゃうまいね」


「なんで日本に来たの?」


アリシアは一つずつ丁寧に答えた。


「ヴェルシアは、海と山の多い国です」


「日本語は来る前に勉強しました」


「日本には、文化的な興味がありました」


嘘ではない。

少なくとも、完全な嘘ではない。


カイトは少し離れた席で、それを聞いていた。


文化的な興味。


便利な言い方だと思った。


実際、アリシアは現代日本に来てから色々と調べていた。

本も読んでいたし、スマホやパソコンも使っていた。

自分が授業についていくのに必死な間、姉は姉でこの世界を吸収していたのだろう。


それでも、あの堂々とした言い方は少し腹立たしい。


「好きな日本のものとかある?」


女子の一人が聞く。


アリシアは少しだけ考えた。


「アニメを、少し見ました」


その瞬間、周囲の温度が変わった。


「え、何見たの?」


「日本アニメ有名だもんね」


「好きな作品ある?」


アリシアは自然に答える。


「『陸の上の人魚姫』は印象に残っています」


その名前に、何人かが反応した。


「あー、あれ泣けるやつ」


「妹の体を怪異が動かすやつでしょ?」


「兄貴が、その怪異のこと好きになっちゃうやつ」


「最後さ、ちょっと投げっぱなしっぽくなかった?」


その言葉に、アリシアの目がほんの少し動いた。


「私は、そうは思いません」


思ったよりはっきりした声だった。


周囲が少し黙る。


アリシアは言ってから、自分の声が強くなりすぎたことに気づいたのか、少しだけ視線を落とした。


けれど、そのまま続ける。


「主人公は最後、もう携帯を見て“何かが起こること”を待たなくなっています」


教室の空気が、少しだけ真面目になる。


「怪異も、帰るべき場所へ帰った」


「妹も、自分の体の自由を取り戻した」


「望んだ形ではなかったかもしれません。でも、結果的には全員が救われていると思います」


言い終えてから、アリシアは少しだけ頬を赤くした。


「……すみません。少し、話しすぎました」


周囲は引いていなかった。


むしろ、少し感心したような顔をしている。


「へえ、そういう見方あるんだ」


「ちゃんと見てるね」


「あれ、友達と見たけどそこまで考えてなかったわ」


「アリシアさん、アニメ好きなんだ」


アリシアは控えめに微笑んだ。


「まだ、少しだけです」


カイトはそれを見ながら、半ば呆れていた。


姉さん、何してるんだ。


普通に馴染んでる。


馴染みすぎてる。


別の男子が聞く。


「他には? 何見た?」


アリシアは少し迷った。


「『ゴーレムプランナーの憂鬱』も見ました」


周囲の反応は、少しだけ薄い。


「何それ?」


「聞いたことあるかも」


「ゴーレム設計のやつ?」


「あー、なんかマイナーなやつだっけ」


アリシアは頷く。


「ゴーレム設計技術者が、悩みながら設計する話です」


「渋くない?」


「戦闘アニメ?」


「戦闘もありますが、主題は設計思想や責任の重さだと思います」


アリシアは言いながら、少しだけ目を伏せた。


「兵器としてのゴーレムを、どう設計するのか。使う人間の都合と、作る者の倫理がずれていくところが……面白かったです」


そこで、また少し恥ずかしそうにする。


「変わった作品かもしれません」


周囲が笑う。


馬鹿にした笑いではない。


「逆に気になる」


「アリシアさん、意外と渋いね」


「普通に詳しいじゃん」


「今度見てみようかな」


アリシアは自然にその会話を受け止めた。


深く踏み込みすぎない。

けれど、薄すぎもしない。


好きなものについて少し熱がある。

でも、周囲に合わせて引くところも分かっている。


その距離感がうまい。


リオは、その様子を見て少しだけ拍子抜けしていた。


アリシアは、ユキトを見ない。

近づこうともしない。

話題もクラスメイトの方へ向いている。


ただの、綺麗で少しアニメ好きな留学生。


少なくとも、今すぐユキトを取ろうとしているようには見えない。


シオンも同じように判断した。


警戒は残る。

だが、優先度は下げてもいい。


そう考えた。


カイトだけは、逆に落ち着かなかった。


アリシアが自分を見ない。


初めの挨拶の際、一度目が合ったきり、見ない。


そのことが、妙に気持ち悪い。


怒っていないのか。

いや、そんなはずはない。


なら、何を待っている。


何を考えている。


午前の授業が進んでも、カイトの緊張はほどけなかった。


アリシアは普通に授業を受けていた。

分からないふりも、分かりすぎるふりもしない。

教師に当てられた時も、少し考える間を置いてから無難に答える。


日本語が上手い留学生として、自然な範囲に収まっている。


カイトは苛立った。


完璧すぎるんだよ。


自分はこの世界に馴染むだけで必死なのに、アリシアは初日から当たり前みたいに教室の空気に溶け込んでいる。

その自然さが、腹立たしかった。


昼休みには、アリシアは女子たちに誘われていた。


弁当や購買の話。

日本の学校の話。

好きなアニメの話。

髪の手入れの話。


男子も遠巻きに気にしている。


リオとシオンは、それぞれ自分の場所から様子を見ていたが、どちらも直接は動かなかった。


カイトは自分の席で、ほとんど黙って昼を済ませた。


アリシアは一度もこちらへ来なかった。


それだけで、妙に疲れた。


放課後になった。


カイトは、まだ身構えていた。


ここで来るのか。

ここで何か言われるのか。

リオとシオンの前で、何か仕掛けるのか。


しかし、最初に動いたのはリオだった。


「ごめん、今日も仕事! また明日ね!」


鞄を掴み、慌ただしく教室を出ていく。


一瞬だけこちらを見た。

本当は何か言いたそうだった。

でも、時間がないのだろう。


すぐに走っていった。


次にシオンも立ち上がった。


「今日は少し用があります。また明日」


落ち着いた声だった。

けれど、彼女も今日はカイトに構わなかった。


鞄を持ち、静かに教室を出ていく。


そしてアリシアは、さっそくできた友人らしい女子たちに囲まれていた。


「アリシアさん、一緒に帰らない?」


「途中までなら」


アリシアは穏やかに答える。


そして、そのまま教室を出ていった。


カイトを一瞥もしなかった。


本当に、何も起きなかった。


教室に残ったカイトは、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。


張り詰めていたものが、急に切れる。


「……何だったんだよ」


思わず呟く。


怒られると思っていた。

責められると思っていた。

リオとシオンとの関係を引っかき回されると思っていた。


何もなかった。


何もなさすぎて、かえって疲れた。


教室にはまだ何人か生徒が残っている。

だが、さっきまでのざわめきは薄くなっていた。


カイトは机に肘をつき、窓の外を見る。


少し余裕ができると、別のことが頭に浮かんだ。


リオのことだった。


彼女は、母親と二人で暮らしていると言っていた。


だから働いている、とも。


最初に聞いた時、カイトは深く考えなかった。

放課後に働くということが、この世界の学生にとってどれだけ大変なのか分からなかったし、リオがどれだけ忙しいのかも知らなかった。


けれど、彼女は毎日のように放課後になるとバイトへ行く。

休日にもシフトが入っているらしい。


朝は明るく迎えに来て、学校では笑って、放課後には別の場所へ走っていく。


もしかすると、あの子は思っているより余裕がないのかもしれない。


母親を助けるために働いているのかもしれない。


そう思った途端、胸が少し重くなった。


自分は、リオのことを何も知らない。


父の二股相手。

終わらせるべき関係。

そういう見方しかしていなかった。


次に、シオンのことを考えた。


彼女は金持ちだ。


専属の使用人が運転する車で迎えに来るほど裕福で、ファミレスでの支払いにも躊躇がなかった。

それは見せびらかしではなく、彼女にとって当たり前の動作に見えた。


だから、リオとはまるで違う。


生活に困っているようには見えない。

何かを諦めて働いているわけでもない。

欲しいものは、だいたい手に入る場所で育ったように見える。


なのに、あの時の言葉だけが引っかかっていた。


――私を捨てないで。


あれは、金を持っている人間の余裕から出た言葉ではなかった。


シオンは、一体何を恐れていたのだろう。


カイトは息を吐いた。


知らない。


何も知らない。


リオのことも。

シオンのことも。


父の過去としてしか見ていなかった。


知れば、切りづらくなる。

だから知ろうとしてこなかったのかもしれない。


強く出ればいい。


父の代わりに、終わらせればいい。


そう思っていた。


けれど、もう無理だった。


リオにも事情がある。

シオンにも傷がある。


それを少しでも考えてしまった時点で、カイトは二人を雑に突き放せなくなっていた。


その考えが胸に落ちた時、後ろから声がした。


「まだ残ってたんだ」


振り返ると、ユウナが立っていた。


黒髪は飾り気なく整えられていて、表情も穏やかだった。

目を引くほど派手ではない。

けれど、近くに立たれると、不思議と意識がそちらへ向いてしまう。


ただ、そこにいる。


カイトは少しだけ肩の力を抜いた。


「……まあ」


「今日はリオちゃんだけじゃなくシオンさんも早かったね」


「そうだな」


ユウナは少しだけ教室を見回し、それからカイトを見る。


「部活、入ってなかったよね?」


「入ってないけど」


「ごめん。欠員が出ちゃって」


ユウナは少し申し訳なさそうに笑った。


「少し手伝ってほしいんだ」


ユウナは胸の前で小さく手を合わせた。

少し困っているように見えた。


「……何をするの?」


「子供たちへの読み聞かせ」


カイトは思わず聞き返した。


「読み聞かせ?」


「うん。幼稚園で絵本を読むの。私は後ろで演奏するから、読んでくれる人が必要で……」


「俺でいいのか?」


本気で聞いた。


カイトはこの世界の学校についていくのもやっとだ。

文字は読めるようになってきたが、速く読むのはまだ苦手だ。

人前で何かをする余裕があるかと言われると、自信はない。


だが、ユウナはあっさり頷いた。


「うん、大丈夫」


「大丈夫って……」


「もし下手くそでも、私がフォローするから」


その言い方が、妙に気楽だった。


失敗してもいい。

うまくなくてもいい。

足りないところは後ろで支える。


そう言われているようで、カイトは少しだけ返事に迷った。


「……前に助けてもらったしな」


ぽつりと出た言葉に、ユウナが目を瞬いた。


「助けたってほどじゃないよ。缶コーヒー奢っただけ」


「でも、助かった……」


その時のことを思い出す。


ファミレスを出たあと、頭がぐちゃぐちゃになっていた。


そんな自分を見て

あの時、ユウナは何も聞かずに缶コーヒーをくれた。

その距離が、確かに助かった。


だから。


「俺でよければ、手伝うよ」


ユウナは安心したように笑った。


「ありがとう」


その笑顔は、何かを求めるものではなかった。


ただ、頼みごとを聞いてもらえてほっとした顔だった。


カイトはそれを見て、少しだけ思った。


自分にも、できることがあるのかもしれない。


父の代わりではなく。

ユキトの役割ではなく。

ただ、今ここにいる自分に頼まれたこと。


それなら、やってみてもいい。


ユウナは鞄を肩にかけ直した。


「じゃあ、行こっか」


「今から?」


「うん。今日の放課後枠だから」


「急だな」


「ごめんね」


「いや、いい」


カイトは席を立った。


教室の外へ出る。


廊下には、もう人が少ない。

窓から入る光は少し赤くなっていた。


カイトは横を歩くユウナを見た。


この子は、何も聞かない。


けれど、必要な時だけ声をかけてくる。


その距離が、今は不思議と悪くなかった。










放課後の空は、少しずつ夕方の色に変わり始めていた。


校門を出たあと、カイトはユウナの隣を歩いていた。


行き先は幼稚園。


頼まれた内容は、子供たちへの絵本の読み聞かせだった。


「ごめんね、急に頼んじゃって」


ユウナが横から言った。


「いつも一緒に行ってくれる子が、今日だけ来られなくなっちゃって。先生は大丈夫って言ってくれたんだけど、できれば誰かにいてもらえると助かるなって」


「別にいい」


カイトは短く答えた。


実際、嫌ではなかった。


誰かに頼られること自体、この世界に来てからほとんどなかった。

学校では知らないことばかりで、文字を追うのも遅い。教科書を開いても、周りの生徒が当然のように理解しているものが、自分には一つずつ壁に見えた。


けれど、読み聞かせなら経験がある。


ヨルカが小さかった頃、何度も絵本を読んだ。

同じ本を何度も持ってきて、同じ場面で笑い、同じ場面で怖がる妹に、カイトは声色を変えながら読んでやった。


だから、まったく不安はない。


……とは、言い切れなかった。


問題は、この国の文字だった。


ひらがななら読める。

少し遅くても、何とかなる。

だが、漢字が多いと怪しい。


子供向けの絵本なら大丈夫だろう。

そう思いたい。


だが、絶対とは言えない。


カイトは黙ったまま、かなり真剣に考えていた。


子供の前で詰まったらどうする。

読み間違えたらどうする。

ユウナに迷惑をかけたらどうする。


「……ユキト君?」


ユウナが少し首を傾げた。


カイトは我に返る。


「何だ」


「ううん。すごく真剣に考えてくれてるんだなって思って」


ユウナは、少しだけ嬉しそうに目を細めた。


カイトはそれに気づかなかった。


彼はただ、絵本が全部ひらがなでありますようにと、かなり真剣に祈っていた。


幼稚園は、学校から少し離れた住宅街の中にあった。


門の前には、小さな動物の絵が描かれている。

塀も低く、色も柔らかい。中からは、まだ残っている子供たちの声が聞こえた。


高校とは空気が違った。


建物の中に入ると、低い棚が並んでいた。

小さな椅子。

丸い机。

壁に貼られた絵。

ひらがなで書かれた名前。

積み木やぬいぐるみ、色とりどりの絵本。


カイトは少しだけ肩の力を抜いた。


ここは、子供が安心できるように作られた場所なのだと思った。


高校では、ずっと息が詰まっていた。


黙っていれば、変わったと言われる。

何かを間違えれば、疑われる。

うまく答えられなければ、ユキトらしくないと言われる。


何をしても、結局はユキトとして処理される。


だが、ここは少し違った。


目の前にいるのは、小さな子供たちだ。

こちらを見上げてくる目に、疑いや探るような色はない。


失敗しても、すぐには責められないかもしれない。


そう思えただけで、胸の奥が少し軽くなった。


「今日は、この本を読んでもらおうかな」


ユウナが一冊の絵本を差し出した。


カイトは受け取って、表紙を見る。


勇者が剣を掲げている。

その向こうに、黒い竜が翼を広げていた。


『ゆうしゃとわるいりゅう』


カイトは少しだけ苦笑した。


この世界では、勇者は裁定者ではなく、普通に英雄らしい。


その感覚差は、少し面白かった。


ただ、竜が悪者として描かれていることには、わずかに引っかかった。


竜だって、いろいろいるんだけどな。


そう思ったところで、母たちの顔が浮かんだ。


優しい竜。

怖いけれど、誰よりも愛情深い竜。

いつも眠そうなのに、大事なところだけは絶対に外さない竜。


そして、母たちに怒られて小さくなっている父の姿も浮かんだ。


……やっぱり怖い奴ばかりかもしれない。


カイトは小さく息を漏らした。


「大丈夫?」


ユウナが聞いた。


「いや。ちょっと知ってる竜を思い出しただけだ」


「知ってる竜?」


「……たとえ話だ」


「ふうん?」


ユウナは深く聞かなかった。


その距離が、少しありがたかった。


読み聞かせは、遊戯室の一角で行われることになった。


小さな子供たちが、床に座ってこちらを見ている。

先生が何人か後ろに立ち、ユウナはピアノの前に座った。


カイトは椅子に腰を下ろし、絵本を開いた。


幸い、文字はひらがな中心だった。


ところどころ読みにくい言葉はある。

だが、何とかなる。


「えっと……むかしむかし、あるところに」


最初の声は、少し硬かった。


自分でも分かるくらい、ぎこちなかった。

声の大きさも、読む速さも、子供たちの反応の拾い方も、まだ掴めない。


何人かの子供が身を乗り出す。

一人が隣の子に何かを言う。

小さな笑い声が混じる。


カイトは一度だけ息を吸った。


思い出せ。


ヨルカに読んでいた時のことを。


怖い場面では、少し声を落とす。

明るい場面では、声を弾ませる。

でも、怖がりすぎる子がいるなら、怖い相手を少しだけ間抜けにする。


カイトは次のページをめくった。


「そのりゅうは、とてもおおきなこえでいいました」


そこで、カイトは低い声を作った。


「ぐおー。おれさまは、わるいりゅうだぞー」


子供たちが笑った。


思ったより反応が良かった。


一人が「こわくない!」と言った。

別の子が「へんなりゅう!」と笑った。


カイトは少しだけ口元を緩める。


その時、背後からピアノの音が入った。


軽い音だった。

竜が歩く場面では、少し重く。

勇者が走る場面では、弾むように。

カイトが一瞬だけ文字に詰まりそうになると、ユウナは音を少し伸ばした。


子供たちの視線が、自然に音の方へ流れる。


その間に、カイトは次の文字を拾えた。


自分は助けられている。


一人で読んでいるようで、後ろから自然に支えられている。


それに気づいた瞬間、声が少し楽になった。


カイトは、絵本を読み進めた。


勇者が森を進む。

村人が困っている。

竜が宝物を奪ったことになっている。

勇者は剣を持って竜の住処へ行く。


内容は単純だった。


だが、子供たちは真剣に聞いていた。


カイトは、竜の声を少しずつ変えた。

最初は悪そうに。

途中から少し慌てたように。

最後に勇者に追い詰められる場面では、妙に情けなく。


子供たちは笑った。


ユウナのピアノが、その笑いに合わせて軽く跳ねる。


読み終える頃には、カイトの緊張はほとんど消えていた。


「こうして、ゆうしゃは、わるいりゅうをこらしめました。むらには、へいわがもどりました。めでたし、めでたし」


本を閉じる。


一瞬、静かになった。


次の瞬間、子供たちが拍手した。


「もういっかい!」


「りゅうのこえ、もういっかいやって!」


「ぐおーって!」


カイトは少し驚いた。


失敗しなかった。


それどころか、ちゃんと届いていた。


ユウナがピアノの前から立ち上がり、こちらに歩いてくる。


「ありがとう。助かった。なかなかうまかったよ」


「昔、妹に読んでたことがあるだけだ」


カイトは視線を逸らして答えた。


照れくさかった。


ユウナは笑った。


「そっか。でも、ちゃんと伝わってたと思う」


その言葉が、胸に残った。


この世界に来てから、カイトはできないことばかりだった。


授業についていけない。

文字を読むのが遅い。

日常の言葉も、ときどき分からない。

父の顔で、父の過去を背負わされる。


だが、ここでは違った。


自分の経験が役に立った。


ヨルカに絵本を読んでいた時間が、この世界の子供たちにも届いた。


カイトは、初めて少しだけ思った。


自分にも、できることがある。


幼稚園を出る頃には、すっかり夜になっていた。


住宅街の道に街灯が点き、家々の窓には明かりが灯っている。

昼間とは違う静けさがあった。


少し歩いたところで、カイトは言った。


「送る」


ユウナが瞬きをした。


「いいの?」


「遅いから」


「ありがとう」


ユウナは素直に受け入れた。


二人は並んで歩いた。


しばらく、会話はなかった。

けれど、その沈黙は嫌ではなかった。


リオといる時は、いつも先に腕を引かれる。


シオンといる時は、気づけば逃げ道がなくなっている。


アリシアの前では、何も言わなくても見透かされている気がする。


けれど、ユウナは隣にいた。


先に歩きすぎない。

後ろに下がりすぎない。

カイトが言葉を探している間、同じ速さで歩いていた。


それが、思っていたより楽だった。


「ピアノ」


カイトは自分から口を開いた。


ユウナがこちらを見る。


「うまかった」


一瞬、ユウナは驚いたような顔をした。


それから、少し照れたように笑う。


「ありがとう」


「子供たち、よく聞いてた。俺が詰まりそうになった時も、音でごまかしてくれただろ」


「気づいてたんだ」


「気づく」


「そっか」


ユウナは前を向いた。


街灯の下を通るたび、黒い髪に淡い光が乗る。


「昔、ピアノ習ってたんだ」


「今は?」


「やめた」


カイトは何も言わなかった。


ユウナは少しだけ考えるようにしてから、続けた。


「嫌いになったわけじゃないよ。ただ、競争として続けるほどの才能とか熱量は、自分にはないなって思ったの」


「……才能がなかったのか?」


「うん。少なくとも、そこに人生を全部乗せられるほどではなかったかな」


声は湿っていなかった。


諦めた人間の声ではない。

自分で決めたことを、もう一度確かめるような声だった。


「でも、周りは言うんだよね。才能あるよ、とか。もったいない、とか。続ければいいのに、とか」


ユウナは小さく笑った。


「善意なのは分かってた。でも、自分で納得して決めたことに、外からずっと意味をつけられるのは、ちょっと苦しかった」


カイトは、黙って聞いていた。


「だから、競争としてのピアノはやめた。でも、今日みたいなのは好き」


「今日みたいなの?」


「誰かの声を、後ろから支えるみたいな弾き方」


ユウナは少しだけ手を動かした。

鍵盤を押す仕草に似ていた。


「主役じゃなくていいの。勝たなくてもいい。誰かが話している時に、その声が届きやすくなるように弾くのは、今でも好き」


その言葉は、なぜかカイトの胸に深く刺さった。


勝手に意味をつけられる苦しさ。


自分で決めたことより先に、周りが役割を置いてくる感覚。


カイトは今、それを嫌というほど味わっている。


ユキトの顔。

ユキトの家。

ユキトの学校。

ユキトの過去。

ユキトを好きだった女たち。


誰も、カイト自身から始めてはくれない。


でも、ユウナは違った。


少なくとも今日、ユウナはカイトに何かを押しつけなかった。


読み聞かせを頼んだ。

後ろから支えた。

うまくできたことを、ちゃんと見てくれた。


カイトはしばらく黙った。


ユウナも急かさなかった。


このまま黙っていれば、ユウナも自分をユキトとして扱い続けるかもしれない。

その方が楽だと思う。


でも、今日のユウナには、それをしたくなかった。


缶コーヒーをくれた時。

今日、頼ってくれた時。

読み聞かせで支えてくれた時。

ピアノの話をしてくれた時。


ユウナは、ユキトを押しつけてこなかった。


だから、カイトは足を止めた。


「ユウナ」


「うん?」


ユウナも立ち止まる。


カイトは、少しだけ迷った。


それでも、言った。


「俺は、ユキトじゃない」


ユウナの目が、わずかに見開かれた。


驚いてはいた。


けれど、叫ばなかった。

後ずさりもしなかった。


少しの沈黙のあと、ユウナは静かに言った。


「……そっか」


カイトは逆に戸惑った。


「……信じるのか?」


「全部は分からないよ」


ユウナは正直に言った。


「でも、そう言うなら、そうなんだと思う」


「……普通、疑うだろ」


「疑うより先に、納得したかな」


「……なんで」


ユウナは少しだけ首を傾けた。


「前に会ったとき、君が落ち込んでたでしょ」


「あの時か」


「うん。たぶん、ユキト君なら笑って誤魔化してたと思う。軽口を言って、こっちがそれ以上踏み込めないようにしたんじゃないかな」


カイトは何も言えなかった。


父なら、確かにそうしただろう。


相手の心配を茶化す。

自分の弱さを見せない。

それ以上踏み込まれる前に、空気ごと変える。


「でも、君は違った」


ユウナは続けた。


「何を言えばいいか分からない顔をしてた。誤魔化す余裕もないみたいに、ただ困ってた」


責める声ではなかった。

決めつける声でもなかった。


ただ、自分が見たものをそのまま言っているだけだった。


「だから、違うのかなって。少しだけ思ってた」


カイトは小さく息を吐いた。


そして、名前を言った。


「俺の名前は、カイト」


ユウナは、その名前を受け取るように、少しだけ間を置いた。


それから、静かに呼んだ。


「カイト君」


胸の奥が、強く揺れた。


この世界に来てから、初めてだった。


自分を知らない誰かが、自分をカイトと呼んだ。


自分の名前で。


カイトは目を伏せた。


「……変な話だろ」


「変だね」


ユウナはあっさり言った。


カイトが顔を上げる。


ユウナは少し笑っていた。


「でも、変だから嘘とは限らないでしょ」


「普通は逆だと思う」


「そうかも」


ユウナは否定しなかった。


その軽さに、カイトは少し救われた。


しばらく歩いてから、ユウナが聞いた。


「……本物のユキト君は、元気にしている?」


カイトは少しだけ目を伏せた。


父の顔が浮かんだ。


猫小屋で反省している姿。

母たちに怒られて、いつもの調子を出せずにしぼんでいる姿。

それでも、どうせ腹が減ったなどと言いながらしぶとく生きている姿。


カイトは呆れたように言った。


「……すごく元気だよ」


その言い方で、ユウナは少し笑った。


「そっか。ならよかった」


本当に安心したような声だった。


カイトは横目でユウナを見た。


ユウナは、ユキトに何かを求めているようには見えなかった。


ただ、無事ならよかった。


そのくらいの、静かな優しさだった。


それが、少し眩しかった。


だからこそ、カイトは聞いてしまった。


「……ユウナは」


声が少し詰まる。


ユウナがこちらを見る。


「ユキトのこと、好きだったのか?」


聞いた瞬間、自分でも分かった。


これは、ただの確認ではない。


怖かった。


もしユウナもユキトを好きだったなら。

自分はまた、父を好きだった女の前に立つことになる。


リオやシオンの時と同じように、誰かを傷つけることになるかもしれない。


だが、それだけではなかった。


ユウナが誰を見ているのか、気になった。


ユウナが優しくしてくれたのは、ユキトだと思っていたからなのか。

それとも、今ここにいる自分を見てくれていたのか。


知りたい。


でも、直接は聞けなかった。


ユウナはすぐには答えなかった。


少しだけ考え、それからほんの少し楽しそうに笑った。


「それ、私がユキト君を好きだったら困るってこと?」


カイトは固まった。


「そういう話じゃないだろ」


「じゃあ、どういう話?」


「……それは」


言葉が出てこなかった。


リオやシオンに好意を向けられた時の動揺とは違った。


あれは受け止めきれない重さだった。

向こうから押し寄せてくる感情に、どう応えればいいか分からなかった。


だが、今のこれは違う。


自分の中から出てきたものだった。


ユウナにどう思われているのか気になる。

ユウナが誰を見ているのか知りたい。

ユウナに、ユキトではなくカイトとして見られたい。


そこまで考えかけて、カイトはさらに混乱した。


ユウナはそんなカイトを見て、少しだけ笑った。


「どう思う?」


「質問に質問で返すな」


「じゃあ、今は内緒」


「何でだよ」


「カイト君が、困った顔をしてるから」


「性格悪くないか」


「少しだけね」


ユウナは悪びれずに言った。


けれど、詰め寄ってはこなかった。


答えを押しつけない。

逃げ道を塞がない。

ただ、カイトが自分で気づきかけたものを、軽く指で触れるだけ。


それがユウナらしかった。


「でも」


ユウナは前を向いた。


「少なくとも、今話してるのはカイト君だと思ってるよ」


カイトは黙った。


その一言で、十分だった。


やがて、ユウナは少し考えてから言った。


「じゃあ、二人きりの時はカイト君って呼ぶね」


カイトは一瞬、言葉を失った。


この世界で、ユキトではなくカイトとして呼ばれる場所ができる。


それは小さい。


学校全体ではない。

リオやシオンの前でもない。

アヤカの前でもない。


けれど、ユウナと二人きりの時だけ、自分はカイトでいられる。


それだけで、息がしやすくなった。


カイトは短く頷いた。


「……うん」


ユウナの家に着いた。


門灯がついている。

窓の向こうから、かすかに生活の気配がした。


ユウナは玄関の前で立ち止まり、振り返った。


「送ってくれてありがとう」


「別に。遅かったから」


「うん」


ユウナは少し笑った。


そして、声を少しだけ柔らかくして言った。


「また明日ね、カイト君」


二人きりだから、その名前だった。


カイトは一瞬だけ視線を逸らした。


胸の奥が、落ち着かない。


「……また明日」


ユウナは軽く手を振って、家の中へ入っていった。


扉が閉まる。


カイトはしばらく、その場に立っていた。


胸の奥が、さっきまでより軽い。


けれど、少しだけ落ち着かない。


ユウナのことを考えていた。


ユウナとの過去の出来事が一つ一つが、頭の中に残っている。


カイトはまだ、それを恋だとは認めなかった。


認めるには、今の自分はあまりにも面倒なものを抱えすぎている。


それでも、ユウナの声が耳に残っていた。


また明日ね、カイト君。


カイトは小さく息を吐き、夜道を歩き出した。


足取りは、さっきまでより少しだけ軽い。


けれど胸の奥には、別の重さが残っていた。


アリシア。


学校に来た理由を、まだ聞いていない。


自分を責めるためなのか。

監視するためなのか。

それとも、別の理由があるのか。


今までは、怖くて聞けなかった。


怒られると思っていた。

責められると思っていた。

父のように、アリシアも自分を誘導しようとしているのではないかと疑っていた。


けれど、今日ユウナと話して、少しだけ思った。


聞かなければ分からない。


自分も、勝手に決めつけていたのかもしれない。


カイトはユキトの家へ向かって歩きながら、静かに息を吐いた。


帰ったら、姉さんと話そう。


今度は、逃げずに。


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