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09.碌なお願いじゃない

三カ月が過ぎた。


長いようで、あっという間だった。

いや、たぶん逆だ。

振り返れば一瞬なのに、その最中はやけに長く、毎日が細かく積み重なっていた。


安宿の狭い部屋。

薄い布団。

硬い床。

ぬるい飯。

風呂が使えれば当たりの日。

使えなければ、濡れ布で拭いて寝るしかない日もあった。


毎日安宿暮らしだった。


贅沢なんて何一つない。

だが、今のユキトたちには、それでも十分だった。

屋根があって、夜に眠れて、朝に起きられる。

それだけで、生き延びるには足りた。


そして、その三カ月のあいだに、ユキトたちは何度も失敗した。


森で転んだ。

ゴブリンに石を投げられた。

スライムの体液で服を駄目にした。

ヴォルカが火力を抑え損ねて木の幹を黒く焦がし、ユキトに本気で怒られた。

フローラは「回復役なのに、どうして荷物持ちまで私がやるのですか」と呆れながら、結局ネムリアを背負う形がすっかり定着した。

ネムリアは寝ていた。

だいたいずっと寝ていた。


それでも。


三カ月も一緒にいれば、嫌でも分かってくることがある。


誰が前に出ると危ないか。

誰が無理を隠すか。

誰が怒られるとしょんぼりするか。

誰が何も言わずに一番面倒を見ているか。


不格好なままでも、少しずつ。

本当に少しずつだけ、四人の形は出来始めていた。

その全部が無駄ではなかった。


失敗の数だけ、形が整っていった。


ユキトは無闇に突っ込まなくなった。

盾で受けるだけではなく、木や岩を使って敵の進路を絞るようになった。

ヴォルカは前に出て殴る代わりに、目立たない熱と小さな火で敵の動きを切ることを覚えた。

フローラは一歩引いた位置から、回復と全体観察をほとんど同時にこなすようになった。

ネムリアは――相変わらず眠そうだったが、時々、とんでもなく重要なことだけをぽつりと口にした。


不格好な四人だった。


だが、確実に戦えていた。


そして、その日。


ギルドから呼び出しを受けたユキトは、受付で何枚かの書類を渡された。


「ユキトさん。基礎依頼の達成数が規定に到達していますので、昇格試験の受験資格が出ています」


受付嬢の言葉に、ヴォルカが目を丸くする。


「しょ、昇格試験……?」


「はい。新人向けの基礎依頼を一定数達成した者にのみ与えられる試験です」


ユキトは書類をざっと見た。

そこには、いくつかの選択肢が並んでいた。


Eランク昇格試験。

そして、その下に――条件付きの、Dランク昇格試験。


ユキトの眉がわずかに動く。


「……Dまであるのか」


受付嬢は頷いた。


「通常はEランク昇格試験から受ける方がほとんどです。ただ、達成数と内容が基準を満たしていれば、飛び級でDランク試験を受けることもできます」


ヴォルカが慌てたようにユキトを見る。


「と、飛び級ですか……?」


フローラも書類を覗き込み、静かに言った。


「Eではなく、いきなりDも選べるということですね」


「そうなります」


受付嬢は事務的に答える。

だが、その目には少しだけ興味が混じっていた。

この戦闘力1の少年が、どちらを選ぶのか気になっているのだろう。


ユキトはEランク試験の内容を見る。


討伐対象は弱い。

今の四人なら、まず苦戦しない。

慎重にやれば、安全に通せる。

むしろ三カ月前の時点でも、たぶん勝てた。


だからこそ、ユキトは今まで受けなかった。


何度か、そろそろEを受けてもいいのではないかと周囲に言われたことはある。

ギルドでも、依頼中でも、何なら安宿で同じ顔を合わせる冒険者にまで言われた。


だがユキトは首を縦に振らなかった。


自分が弱いと知っていたからだ。


戦闘力1。

身体能力も、耐久も、正面火力もない。

ヴォルカたちがいなければ、まともに戦えない。

少し慣れてきたからといって、調子に乗れば死ぬ。


それを、ユキトは嫌というほど分かっていた。


だから安全策を取った。

依頼をこなし、金を稼ぎ、連携を固め、勝てる形を身体に覚えさせる。

自信がつくまでは受けない。

焦ってランクを上げても、死んだら意味がない。


それがユキトなりの結論だった。


書類を見たまま、ユキトが言う。


「Eの方、簡単すぎるな」


「今のユキトさんたちなら、そうでしょうね」


フローラが淡々と返す。


ヴォルカは少し不安そうだった。


「でも、簡単な方が安全では……?」


「安全だな」


ユキトはあっさり頷いた。


「俺みたいなザコにはその方が似合ってる」


その言い方に、ヴォルカが少しだけ悲しそうな顔をした。

だがユキトは冗談で言っているわけではなかった。


本気で、自分を弱い側の人間だと理解していた。


そのうえで。


ユキトは次の紙を見た。


そこに書かれていた討伐対象を見て、思わず顔をしかめる。


「ゴブリンキング」


受付嬢が頷く。


「戦闘力推定350前後。通常のゴブリン群れを率いる個体です。これを討伐できれば、Dランク昇格となります」


「……Eよりずいぶん跳ねるな」


「飛び級ですから」


「そりゃそうか」


ユキトは紙をひらひらさせた。


「つまり、雑魚卒業試験ってことだな」


「言い方が最低ですね」


フローラが静かに言う。

だが、その口元は少しだけ和らいでいた。


ヴォルカは逆に緊張していた。


「ご、ゴブリンキングって……普通のゴブリンよりずっと強いのでは……」


「そりゃそうだろ」


ユキトは書類を折りたたむ。


「でも受ける」


即答だった。


ヴォルカが思わず聞き返す。


「Eじゃなくて、ですか?」


「Eは簡単すぎる」


「で、でも……」


ユキトは少しだけ息を吐いた。


「俺はザコだ。そこは分かってる」


その言葉に、三人が黙る。


「だから今まで受けなかった。自信つくまで待った。安全策でな」


誰に言い訳するでもなく、事実だけを並べる声音だった。


「でも、三カ月やった。失敗もした。連携も作った。今の俺たちなら、E取ってからまた次、ってやるより、一回でD狙った方がいい」


フローラが静かに目を細める。


「慎重なくせに、変なところで思い切りがいいですね」


「慎重だからだよ」


ユキトは答えた。


「簡単なのを一個ずつ踏むより、取れる時に取る。金も時間も宿代も浮く」


「結局そこですか……」


ヴォルカが呆れたように言う。


ユキトは真顔で頷いた。


「毎日安宿暮らしなんだぞ。昇格はでかい」


それは本音だった。


少しでも報酬の高い依頼。

少しでもマシな食事。

少しでも柔らかい布団。

そのためのランクだ。


ネムリアはフローラの背中から、眠たげに呟く。


「……受けるなら、寝る前に終わらせて」


「お前は一回ちゃんと起きろ」


受付嬢は書類を受け取りながら、わずかに目を見開いていた。


「Dランク昇格試験で、よろしいのですね?」


「はい」


ユキトは迷わず答える。


「Eは飛ばす。D取る」


その声音に、さっきまでの軽口はなかった。


弱いことは分かっている。

自分が無双できる側の人間ではないことも分かっている。

そのうえで、今なら届くと判断した。


それは無謀ではなく、三カ月積み上げた末の選択だった。


受付嬢が静かに頷く。


「承知しました。では、Dランク昇格試験として手続きを進めます」


ユキトは書類を受け取り、軽く肩を回した。


その背後には、いつもの三人。


ヴォルカ。

フローラ。

ネムリア。


最初の頃のようなぎこちなさは、もうなかった。


誰が何をするか。

どこまで出来るか。

どこから危ないか。


三カ月の安宿暮らしと泥臭い依頼の中で、それだけは確かに積み上がっていた。


ユキトは紙を懐にしまう。


「行くぞ」


ヴォルカが小さく頷く。


「……はい」


不安はある。

だが、逃げる理由にはならない。


フローラは落ち着いた声で言った。


「では、卒業試験頑張りましょうね」


「ああ、全力でいく」


ネムリアは眠そうなまま、ぽつりと呟く。


「……ごうかくしたら、やわらかい布団」


「まずそこだな」


そうして試験当日。


戦場は、以前より奥まった森の中だった。

空気は湿っていて、木々の密度も濃い。

見通しは悪く、奇襲には向いている。


ユキトは盾を構え、低く息を吐く。


その背後には、いつもの三人。


ヴォルカ。

フローラ。

ネムリア。


最初の頃のようなぎこちなさは、もうなかった。


誰が何をするか、説明しなくても分かる。


森の奥から現れたのは、普通のゴブリンより頭一つ大きい個体だった。


醜悪な顔。

異様に発達した腕。

粗末ながらも分厚い棍棒。

背後には、従えるように数体のゴブリン。


ゴブリンキングは唸り声を上げた。


「ギギ……ッ!」


圧が違う。


ただ数で押すだけだった雑魚とは別物だ。


ヴォルカが小さく呟く。


「大きい……」


ユキトは前を見たまま言う。


「ヴォルカ、右の進路だけ切れ」


「はい」


「フローラ、回復は俺優先。ネムリアは落とすな」


「承知しました」


「……むにゃ」


ネムリアはすでに半分寝ていた。


次の瞬間、ゴブリンキングの手が動いた。


「っ!」


ユキトが身を捻る。

短剣は肩を掠め、背後の木へ突き刺さった。


「助かった!」


「すやぁ……」


仕事だけして寝るな、とユキトは思ったが、口には出さなかった。


戦いは続く。


重い一撃。

痛む腕。

削られる体力。


だが。


連携は崩れなかった。


ユキトが前で受ける。

ヴォルカが道を切る。

フローラが支える。

ネムリアが時々、致命的な情報だけ置いていく。


不格好だ。

洗練なんて言葉とは遠い。


それでも、最初の頃のような拙さはもう感じられなかった。


それだけの失敗を、繰り返してきたのだから。


やがてゴブリンキングの呼吸が乱れる。


ユキトの息も荒い。

汗が顎を伝う。

腕はもう痺れっぱなしだった。


「そろそろ終わらせるぞ!」


ユキトの声に、ヴォルカが頷く。


「はい!」


ゴブリンキングが最後の突進を仕掛ける。

棍棒を振りかぶり、一直線に来る。


ユキトは真正面に立つ。


逃げない。


盾を構える。


そして最後の瞬間、半歩ずらす。


棍棒が盾を擦り、軌道が逸れる。


そこへ。


ヴォルカの魔法が、地面の落ち葉を一瞬だけ焦がした。

熱に足を取られたゴブリンキングの体勢が崩れる。


「今です」


フローラの声。


ユキトは踏み込んだ。


盾の縁を、全体重を乗せて顎へ叩き上げる。


ゴッ!!


鈍い音。


巨体がよろめく。


そのまま木の幹へ激突し、崩れ落ちた。


ユキトはしばらく動かなかった。


本当に終わったのか、確認するように息を整える。


そして。


「……勝った?」


ヴォルカが目をぱちぱちさせる。


フローラが静かに頷いた。


「勝ちました」


その瞬間。


「やったぁぁぁ!!」


ヴォルカが一番に声を上げた。


ユキトもその場にへたり込みそうになる。


「っし……!」


ネムリアはフローラの背中から、


眠そうなまま手を上げる。


「……かち」


「寝ながら言うな!」


それでも、嬉しかった。


ギリギリだった。

泥臭かった。

格好良くなんてない。


だが、自分たちの形で勝った。


それが何より大きかった。


その時だった。


ぱち、ぱち、ぱち。


ゆっくりした拍手が背後から響いた。


四人が振り返る。


そこに立っていたのは、以前森で観察していたあの男だった。


長身。

茶髪。

軽く流した前髪。

軽薄そうな笑み。

ローブの男。


けれど、その目だけは笑っていない。


「おめでとう」


男は、いかにも芝居がかった調子で言った。


「面白い戦い方だね」


ユキトの空気が一瞬で冷える。


男はさらに続けた。


「戦闘力1でドラゴンを使う人間か」


ヴォルカがぴくりと反応する。


「……誰です」


男は肩をすくめた。


「通りすがりの観察者さ」


ネムリアはぼんやりと首を傾げる。


「……気づかなかった」


フローラも目を細める。


索敵できなかった。


それは異常だった。


だが同時に、竜である自分たちが“気配を隠す者”を探るのが得意ではないことも事実だった。

強すぎる存在は、そもそも探る必要がない。 だから、そういう方向に鈍い。


男はその反応を見て、少しだけ嬉しそうに笑う。


「いやあ、気づかれないのは得意でね」


その時。 ユキトが三人に小声で言った。


「ああいう変態には話しかけられても答えちゃダメ」


「変態」


ヴォルカが思わず繰り返した。


「よし帰るぞ」


何事もなかったようにユキトは踵を返した。


ヴォルカたちも一瞬遅れてついていく。


男が目を丸くする。


「おや?」


「無視?」


「ねえ、待ってくれない?」


だがユキトは振り返らない。


そのまま森を抜け、ギルドへ戻る道を選ぶ。


男は片眉を上げたままだったが、さすがにそれ以上は追わなかった。


ただ、その笑みだけは消えなかった。



森をしばらく進んだところで、ユキトは足を止めずに一度だけ背後を振り返った。

木々の隙間、気配、足音――追ってくる者がいないことを確かめてから、低く言う。


「もしローブの男がいても無視しろ」


「なんでですか……?」


ヴォルカが聞く。


ユキトは即答した。


「簡単だ。竜を連れてるやつに声をかけるなんて、碌なお願いじゃない」


フローラが少しだけ感心したように言う。


「偏見では?」


「偏見でもいい」


ギルドへ戻ったあと、討伐確認と試験結果の通達が出た。


受付嬢が書類を確認し、わずかに目を見開く。


「ゴブリンキング討伐確認。新人卒業試験、合格です。ユキトさんは本日付でDランク冒険者へ昇格となります」


「Dランク!」


ヴォルカが目を輝かせた。


「すごいです、ユキトさん!」


「これで宿の飯が少しマシになるな……!」


ユキトの第一声がそれだった。


フローラが小さく笑う。


「夢が小さいですね」


「現実的って言ってくれ」


ネムリアがぽつりと呟く。


「……やわらかい布団」


「そこも上がるといいな」


「……肉」


「飯だな。肉だ」


「風呂」


「生活の質向上しかし考えてないな!?」


だが、四人とも少し浮かれていた。


それだけの達成だった。


その時だった。


町の外から鐘の音が響く。


緊急鐘。


ギルドの中がざわつく。


誰かが叫ぶ。


「ワイバーンだ! ワイバーンが来たぞ!!」


一瞬で空気が変わった。


ベテラン冒険者たちが駆け出す。

武器が鳴る。

受付嬢たちも走り回る。


ヴォルカが反応する。


「行きましょう!」


フローラも静かに頷きかけた。


だが。


「キャンセル」


ユキトの声は、妙に冷静だった。


ヴォルカが固まる。


「……え?」


「新人が目立つのはよくない」


「でも町が……!」


「強い人に任せればいいだろ」


あまりにも真顔だった。


ネムリアがぼんやりと聞く。


「……いかないの?」


「行かない」


ユキトはくるりと方向を変えた。


そのまま別の掲示板へ向かう。


「次の依頼見よう」


「ええ!?」


ヴォルカが素で叫ぶ。


ユキトは紙札を見て目を輝かせていた。


「Dランクになったしな……」


「どれくらい上がったかな……」


「報酬……」


「生活の質、どれくらい向上できるかな……」


「わくわくしてる場合ですか!?」


受付嬢がぽかんとした顔で見ている。


周囲はワイバーンの話題一色だというのに、ユキトだけが空気を読まずに依頼書をめくっていた。


「これ受けます」


「い、今ですか?」


「今です」


「いや、でも……」


「町の防衛は町の上澄み戦力がやるでしょ?」


その理屈自体は間違っていない。

間違っていないのだが、言い方がひどかった。


少し離れた場所から、視線を感じた。


ユキトは見ない。


見なくても分かる。


さっきのローブの男だ。


気が付かれないようについてきていたのだろうが、もう気配の癖を覚えていた。


「みんなワイバーンに夢中だけど、いいの?」


軽い声が飛んでくる。


ユキトは完全に無視した。


「冷たいなあ」


男は笑う。


「君のこと、知っているんだが」


におわせるような一言。

普通なら足を止めてもおかしくない。


だがユキトは止まらない。


止まるどころか、三人を連れてさっさとギルドを出ていく。


男の笑みが、一瞬だけ消えた。


「……予定が狂うな」


小さく舌打ちする。


その声には、さっきまでの軽薄さがなかった。

本性が少しだけ覗く。


ギルドを出たあと、四人はしばらく無言で歩いた。


町の空気が、もう昼間とは違っていた。


人が走っている。

武器を抱えた冒険者たちが怒声を飛ばし合い、荷車が道を急ぎ、家々の窓が慌ただしく閉まっていく。

さっきまで酒や笑い声の混じっていた通りは、今は落ち着かないざわめきに塗りつぶされていた。


それでもユキトは、足を止めなかった。


早足でもない。

焦っているようにも見えない。

ただ、町の喧騒とは切り離されたみたいに、一定の歩幅で宿へ向かっている。


ヴォルカが何度か口を開きかけて、やめた。


フローラは黙ってついてくる。

ネムリアは眠そうな顔のまま、ユキトの背中を見ていた。


やがて、人通りの少ない路地に入る。


そこでようやく、ヴォルカが耐えきれずに言った。


「……本当に、行かないんですか」


ユキトは振り返らない。


「行かない」


「でも」


「今行って、俺に何ができる」


言い方は淡々としていた。

怒っているわけでもない。

説得しようとしているわけでもない。

ただ、確認するみたいな声だった。


ヴォルカが言葉に詰まる。


ユキトはそのまま続けた。


「目立つ」

「強い奴に見つかる」

「面倒に巻き込まれる」

「最悪、人の生活できなくなる」


一つずつ、指を折るみたいに並べる。


「何度も言うが町を守るのは町の戦力の仕事だ」

「新人がしゃしゃり出る場面じゃない」


「でも……!」


「でもじゃない」


そこで初めて、ユキトが少しだけ足を止めた。


振り返った顔は冷静だった。

冷静すぎて、ヴォルカは逆に何も言えなくなる。


「助けたいだけで飛び込んで、どうにかなる強さがあるなら最初から苦労してない」


言って、また前を向く。


その背中に、ヴォルカは何も返せなかった。


言っていることは、分かる。

正しいとも思う。

でも、それでも胸のあたりがざらついた。


ユキトは、そういう時に迷わない。

迷わないように切る。

それが分かるから、なおさら苦しい。


宿に戻るまで、誰ももう喋らなかった。


部屋に入るなり、ユキトは荷物へ手を伸ばした。


躊躇がなかった。


小袋をまとめる。

水筒を確かめる。

携帯食を集める。

無駄なものを捨て、必要なものだけを黙々と選んでいく。


ヴォルカが目を丸くする。


「えっ」


フローラが静かに尋ねた。


「……まさかとは思いますが」


ユキトは顔も上げないまま答えた。


「今夜出る」


ヴォルカの声が裏返る。


「今夜!?」


「そうだ」


「急すぎます!」


「急じゃない」


荷物を縛る手は止まらない。


「むしろ遅いくらいだ」


ヴォルカが呆然とする。

フローラは少しだけ目を細めた。


「理由を聞いても?」


「聞かなくても分かるだろ」


短い返事だった。


部屋の空気が少しだけ重くなる。


ユキトはそこでようやく手を止め、低く言った。


「ワイバーンじゃない」


ヴォルカが瞬く。

フローラの視線が、静かに上がる。


「昼のあいつだ」


それだけで十分だった。


あのローブの男。


にやにや笑って、知っているような口ぶりで、勝手に距離を詰めてきた男。

妙にこちらを値踏みする目。

軽いくせに、底の見えない態度。


ユキトは顔をしかめた。


「面倒の匂いがする」


吐き捨てるみたいな声だった。


「こういうのは、目をつけられた時点で負けなんだよ」


部屋の中に沈黙が落ちる。


ヴォルカは、少し迷ってから言った。


「……でも、まだ何かされたわけじゃ」


「される前に逃げるんだよ」


即答だった。


「何かされてからじゃ遅い」


あまりにも迷いがない。

だからこそ、ヴォルカは逆に息を呑んだ。


ユキトは荷を背負いながら続ける。


「俺は強くない」

「お前らがいるから何とかなってるだけだ」

「だから、変な奴に目をつけられたら終わる」


その言葉に、ヴォルカの表情がわずかに揺れた。


フローラは何も言わない。

ネムリアだけが、眠そうなままぽつりと聞く。


「……にげるの?」


「逃げる」


「……すぐ?」


「すぐ」


ネムリアは少しだけ考えるみたいに目を瞬かせてから、


「……わかった」


とだけ言った。


それが合図みたいだった。


フローラが静かに荷物をまとめ始める。

ヴォルカはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、結局飲み込んで、自分の荷へ手を伸ばした。


外は少しずつ暗くなっていく。


窓の外を、武装した冒険者たちが何度も駆けていくのが見えた。

町全体が落ち着かない熱を帯びている。


その熱から距離を取るみたいに、部屋の中では準備だけが進んでいった。


誰も大きな声を出さない。

誰ももう、行くべきだとは言わない。


ただ、荷の擦れる音だけが小さく続く。


日が落ち切るころには、もう出られる状態になっていた。


ユキトは最後に部屋を見回した。

忘れ物がないか確認するというより、ここを本当に切るかどうか、自分の中で最後の線を引くみたいな目だった。


それから扉へ向かう。


ヴォルカが、背中に向かって小さく言った。


「……本当に、これでよかったんでしょうか」


ユキトの足が一瞬だけ止まる。


だが、振り返らない。


「よくなくても、こっちだ」


それだけ言って、扉を開けた。


夜の空気が流れ込む。


そのまま四人は、静かに宿を出た。



月明かりの下、門を抜ける。

祭りの余韻も、ワイバーン騒ぎのざわめきも、もう遠い。


静かな街道。

草が風に揺れる音だけが耳につく。


ユキトは先頭を歩いていた。

右手に荷物。

左手はいつでも盾に触れられる位置。

その背中には、昼間よりもずっと強い警戒があった。


そして。


町を少し離れたところで、前方に人影が見えた。


月明かりの中に、ローブの男が立っていた。


まるで最初から、そこで待っていたみたいに。


「……逃げるのかい?」


軽い声だった。


けれど、昼間までの軽薄さとは少し違う。

試すような色が混じっている。


ヴォルカが息を呑んだ。


「……!」


ネムリアがうっすら目を開ける。


「いた……」


フローラは無言のまま男を見つめた。


ユキトだけが、足を止めたあと、特に驚いた様子もなく言う。


「やっぱりな」


男の眉が、ほんのわずかに動く。


「予想通り?」


それは本当に意外そうな顔だった。


もっと簡単に引っかけられると思っていた。

少し気になることを匂わせて、少し下手に出れば、向こうから寄ってくると思っていた。


だがユキトは違った。


最初から、面倒そのものとして処理していた。


男は一歩だけ前に出る。


「もう一度聞くよ」


「逃げるのかい?」


今度は、少しだけ声音が低かった。


ユキトは数歩だけ進み、三人の少し前に立つ。


そして、男を真正面から見た。


「逃げるよ」


あっさり言う。


「面倒だからな」


男は肩をすくめる。


「つれないな」


「つれなくて結構」


「少しくらい話を聞いてくれてもいいだろう?」


「嫌だ」


即答だった。


空気が冷える。


男はまだ笑っていた。


だが、笑みの奥で目だけがじっとユキトを見ている。

観察する目。

値踏みする目。

相手の反応を拾って、使えるものを探す目。


ユキトは、その目が嫌いだった。


ひどくよく知っている気がした。


男が言う。


「そんなに警戒しなくてもいい」


「僕はただ、君たちに興味があるだけだ」


「それが嫌だって言ってんだよ」


ユキトの声が、一段低くなる。


ヴォルカが小さく息を呑む。


フローラは黙ったまま、その変化を見ていた。


ユキトはローブの男を睨んだ。


「俺はお前が嫌いだ」


はっきりと言った。


夜の街道に、その一言だけがまっすぐ落ちた。


男の笑みが、そこで初めて止まる。


ユキトは続けた。


「自分では何もやらないくせに、他人を見て、使えそうかどうか測ってる」


「自分では何もできないから、他人に頼る」


「自分は安全な場所に立ったまま、誰かを前に出す」


言いながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。


それは相手を刺す言葉であると同時に、

そのまま自分にも返ってくる言葉だったからだ。


今までの自分も、そうだった。


ヴォルカに守られて。

フローラに支えられて。

ネムリアに助けられて。

なのにどこかで、自分は違うと思いたかった。


違うふりをして、格好だけつけていた。


だからこそ。


目の前の男のやり方が、他人事に思えなかった。


似ているから嫌だった。

似ているかもしれないと思うから、もっと嫌だった。


ユキトは少しだけ自嘲気味に笑う。


「俺を見てるみたいで嫌になる」


その一言には、さっきまでの拒絶とは違う重さがあった。


ただの悪態ではない。

本当に、心の底から出た言葉だった。


男は黙る。


何か言い返そうとしたように見えた。

けれど、言葉が出なかった。


その通りだと認めたわけではない。

だが、どこかに刺さったのだと分かる沈黙だった。


ユキトはそれ以上、何も続けなかった。


もう十分だった。


「行くぞ」


短く言って、背を向ける。


ヴォルカたちも続く。


ヴォルカは一度だけ不安そうに振り返ったが、ユキトが止まらないので、すぐに前を向いた。


フローラは最後に、男を一瞥だけして去る。

その目には警戒と、ほんの少しの軽蔑があった。


ネムリアはぼんやりした声で、


「……しつこい人、きらい……」


とだけ呟いて、また半分眠そうに歩き出した。


四人の背中が、月明かりの道を遠ざかっていく。


誰も振り返らない。


やがて、その姿が夜の闇に溶けて見えなくなった。


静寂が戻る。


ローブの男は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


笑っていなかった。


表情の抜けた顔で、四人が消えた先を見ている。


風が吹く。

ローブの裾が揺れる。


その時になって、ようやく男は小さく舌打ちした。


「……最悪だ」


吐き捨てるような声だった。


軽薄さも余裕もない。

完全に、本心だった。


「舐めてた」


ぽつりと零す。


少し煽てて、少し匂わせれば、望み通り動いてくれると思っていた。

不相応なものを抱えた子供なら、たいていはそうだと甘く見ていた。


それなのに違う。


揺れない。

乗らない。

会話の輪にすら入ってこない。


あの男は、弱いくせに妙に勘がいい。

面倒と危険を嗅ぎ分ける鼻だけは、一流だった。


しかも最後のあの一言。


“俺を見てるみたいで嫌になる”


男はゆっくりと目を伏せる。


胸の奥が、妙にざらついていた。


腹が立つ。


見透かされたことが。

図星を突かれたことが。

そして何より、言い返せなかった自分に。


悔しかった。


本心から。


「あーあ……」


乾いた笑いが漏れる。


「感じ悪いなあ」


誰に向けたものでもない独り言。


だが、次の瞬間にはもう、その顔から悔しさが薄れ始めていた。


切り替えが早い。

それがこの男の厄介なところだった。


男はゆっくりと口元を吊り上げる。


今度の笑みは、さっきまでの軽薄な笑みとは少し違う。

冷たくて、打算的で、いかにも“商売”の顔だった。


「……まあ、いいか」


月を見上げる。


戦闘力1の男。

竜を三体連れた異物。

ワイバーン騒ぎすら無視して夜逃げする危機察知。


十分すぎるほど面白い。


十分すぎるほど、価値がある。


「この情報は、高く売れる」


男は静かに笑った。


その声だけが、夜の街道に薄く溶けた。


そしてローブの裾を翻し、闇の中へ歩き出す。


まるで最初から、誰かに報告しにいくことまで決まっていたみたいに。


月だけが、その背中を白く照らしていた。


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