10.鉄の街グランデル
夜の街道。
月は高く、道を白く照らしている。
町の喧騒はもう遠く、聞こえるのは草を揺らす風の音だけだった。
ユキトたちは、夜逃げ同然で町を離れて歩いていた。
先頭を歩くユキトの背には、まだ昼間の疲労が少し残っている。
だが足取りは止まらない。
後ろではヴォルカが周囲を警戒し、フローラが静かに道を見ていた。
ネムリアは当然のように半分寝ている。
しばらく歩いたところで、ヴォルカが小さく口を開いた。
「次の街はどうします?」
ユキトが振り返らずに答える。
「候補あるの?」
「あります」
ヴォルカは荷物から簡単な地図を取り出した。
「ここから近いのは、エルフィアです」
その名を聞いた瞬間、ユキトの足がほんの少し止まった。
「……エルフィア」
フローラが補足する。
「森の街です。エルフを中心に栄えている集落群の総称ですね。古い森に守られた土地で、外部の人間にはあまり開かれていませんが……近いのは確かです」
ユキトは月明かりの下で、少しだけ目を細めた。
エルフ中心の森。
転移してきた直後のことを、思い出す。
湿った土の匂い。
見知らぬ森。
そして――妙に存在感のある“何か”が埋まっていた場所。
「……」
ユキトは数秒考えてから言った。
「エルフィアはダメ」
ヴォルカがきょとんとする。
「え?」
フローラも静かに首を傾げた。
「理由を聞いても?」
ユキトはまた少し黙った。
たぶん、説明しない方が面倒は少ない。
だが、説明しないとそれはそれで追及される気がする。
なので、諦めた。
「……ヤバい女が埋まってる」
沈黙。
ヴォルカが瞬きをする。
「はい?」
ネムリアが半分寝たまま呟く。
「……埋まってる?」
フローラは表情を変えなかった。
「詳しくお願いします」
「転移した直後に見つけたんだよ」
ユキトは軽く頭をかいた。
「封印されてるエルフ」
ヴォルカの目が少し丸くなる。
ネムリアも眠そうなまま、ほんの少しだけ興味を示した。
「……封印」
フローラが静かに聞く。
「それで?」
ユキトはあっさり言った。
「ヒロインになりそうだったから埋めた」
また沈黙。
今度は少し長かった。
ヴォルカが、本気で困った顔をした。
「……この人について行って本当に大丈夫なんでしょうか」
「今さらですね」
フローラはそう言ったが、さすがに少しだけ視線が冷たかった。
ネムリアがぼんやりと呟く。
「……ひどい」
「いや、でもさ」
ユキトは軽く弁明する。
「なんかこう、見た瞬間に分かったんだよ」
「こいつ、面倒だなって」
「面倒だから埋めるんですか?」
「面倒だから埋めた」
ヴォルカが小さく頭を抱える。
「倫理観がふわふわしてます……」
フローラが、ふと何かに気づいたように言う。
「……待ってください」
「はい?」
「封印されたエルフを避ける理由がそれだとして」
「うん」
「なぜ“ヒロインになりそうだったから”という発想になるのですか?」
ユキトは当然のように答えた。
「性癖」
三人が止まる。
ユキトは気にせず続けた。
「俺、封印された爆乳ドラゴン娘しか無理なんだよ」
また沈黙が落ちた。
ヴォルカがじわじわ顔を赤くする。
フローラは目を閉じた。
ネムリアだけが半分寝たまま、ゆっくり考えるように首を傾げる。
そして。
三人が、なんとなく同じことを思い出した。
封印。
竜。
女性。
そして、それなりに恵まれた体格。
嫌な理由だった。
ものすごく嫌な理由だった。
だが、妙に納得もできてしまった。
ヴォルカが力なく言う。
「……最低な理由です」
「最低ですね」
フローラも頷く。
ネムリアが小さく言った。
「……でも、わかりやすい」
「だろ?」
「褒めてません」
ユキトは気を取り直すように地図を覗き込んだ。
「じゃあ次」
指先が別の二地点を示す。
「鉄の街グランデル」
フローラが説明を引き取る。
「鍛冶都市です。装備品が高品質なことで有名ですね。周囲には複数の鉱山迷宮があり、冒険者も多いはずです」
ユキトがもう一つを指す。
「港町ルミナス」
ヴォルカがそちらの説明を読む。
「海の街……交易港として栄えていて、船乗りや商人が多いみたいです」
「近海には海モンスターが出るので、護衛や討伐依頼も多い、と……」
少し紙をめくる。
「あと、最近は海賊問題もあるそうです」
フローラが補足する。
「陸の迷宮とは違って、海は逃げ場が少ないですからね」
「船上戦や水上戦に慣れた者でないと厳しいでしょう」
ネムリアが背後で、寝言みたいに呟いた。
「……夏……うみ……」
「寝ながら反応すんな」
ヴォルカが地図を見たまま聞く。
「どっちに行きます?」
ユキトはほとんど迷わなかった。
「グランデル」
「理由は?」
「装備強化したい」
その一言に、フローラが小さく頷く。
「妥当ですね」
「海も気になるけどな」
ユキトは肩をすくめた。
「今の俺に必要なのは夢じゃなくて現実だ」
その言葉は、以前よりずっと自然に出てきた。
そして翌日。
鉄の街グランデルは、遠目にも分かるほど異質だった。
灰色の外壁。
黒い煙突。
金属を打つ甲高い音。
街全体が熱を持っているみたいだった。
門の周辺だけでも人が多い。
鎧姿の冒険者。
武器を背負った旅人。
荷車を引く商人。
中でも目立ったのは、大会の告知看板だった。
あと二週間と少し。
グランデル闘技大会。
門番がユキトたちを見る。
正確には、ユキトの後ろにいる三人を見た。
「観光か?」
「え?」
「大会目当ての客が多いんだよ」
門番は少し面白そうに言う。
「美女三人連れってのも、まあ目立つしな」
ユキトは即答した。
「観光じゃないです」
「じゃあ何しに?」
「盾買いに」
門番は一瞬だけ真顔になり、それから妙に納得した顔をした。
「……ああ、そういうタイプか」
「どういうタイプだよ」
ともあれ、通してはもらえた。
グランデルに入ると、まず音が違った。
金属を叩く音。
炉の唸る音。
人の怒鳴り声。
鉄と油と煤の匂い。
ユキトは少しだけ口元を上げる。
「いいな」
ヴォルカが周囲を見回す。
「暑い街ですね……」
フローラは煙突の並ぶ景色を見て言う。
「人の営みの熱が、そのまま町の温度になっている感じですね」
ネムリアはぼんやりと呟く。
「……ねむい」
「環境の感想がゼロだな」
迷うまでもなかった。
この街で一番の鍛冶屋は、街の中心近くにある大きな工房だった。
人も多い。
店の前には冒険者が列を作り、武器の持ち込みや注文をしている。
中に入ると、巨大な体の親父がいた。
腕は丸太のように太く、髭は無精というより金属屑みたいだった。
「いらっしゃい」
ぶっきらぼうな声。
ユキトは今の盾をカウンターに置いた。
「これ、強化したいんですけど」
親父は盾を持ち上げ、表裏を確認し、鼻を鳴らした。
「無理だな」
「早いな」
「ボロボロだ。鉄屑にしかならん」
ユキトは少しだけ残念そうな顔をした。
だが反論はしない。
実際、盾はかなり痛んでいた。
ゴブリン戦、ゴブリンキング戦、何度も受けて、何度もぶつけた。
親父が言う。
「買い取りならしてやる」
「じゃあお願いします」
やり取りはすぐ終わった。
次に、親父はいくつか盾を持ってきた。
丸盾。
軽盾。
やや厚めの中盾。
金属補強の入ったもの。
縁が特殊加工されたもの。
ユキトは順番に見る。
重さ。
腕への収まり。
動きやすさ。
「参考までに」
親父が聞く。
「戦闘力はいくつだ」
「1」
親父の動きが止まった。
「……は?」
「1です」
今度は周囲の客まで静かになった。
「1?」
「1って赤ん坊か?」
「盾選ぶ以前の問題じゃねえか?」
親父が本気で眉をひそめる。
「そんな奴に売れる盾なんぞない」
その時だった。
後ろから女の声が飛ぶ。
「おい、あとが詰まってるんだ。さっさとどけ」
振り返ると、一人の女剣士が立っていた。
赤みがかった長髪を後ろでまとめ、無駄のない装備に身を包んでいる。
腰には実戦用の剣。
立ち姿だけで、場数を踏んでいるのが分かった。
レイナ。
グランデル闘技大会の出場予定者らしい。
彼女はユキトを見て、次に後ろの三人を見た。
そして状況を、勝手に解釈した。
「……なるほど」
その声には、明らかな軽蔑があった。
「冒険者か」
ユキトが答える。
「一応」
「戦闘力1で?」
「そうだけど」
レイナは鼻で笑うことはしなかった。
その代わり、本気で嫌そうな顔をした。
「たまにいるんだよ」
低い声で言う。
「自分じゃ何もできないくせに、金か立場で他人を雇って解決する奴が」
ヴォルカの眉がぴくりと動く。
フローラの目が細くなる。
ネムリアは眠そうだが、一応聞いていた。
レイナは続ける。
「奴隷やら、雇われ護衛やら。自分は後ろで偉そうにして、前に立つのは別の誰か」
その視線が、ヴォルカたちへ向いた。
「だが……金があるようには見えないな」
ユキトの身なりを軽く確認した。
「……」
「弱みでも握ったか?」
ヴォルカの空気が変わる。
怒るより先に、少し傷ついた顔だった。
フローラの気配も冷える。
ネムリアだけがぼそっと言う。
「……感じわるい」
ユキトは、そこで初めて本気で目を細めた。
自分を馬鹿にされるのは、慣れている。
戦闘力1。
弱い。
後ろにいるだけ。
それは、半分は事実だ。
だが。
後ろにいる三人を、その枠に押し込めて侮辱されるのは違う。
ユキトはゆっくり振り返って、レイナを見た。
「おい」
レイナが睨み返す。
「好き勝手言いやがって」
「事実だろ」
「俺のことなら否定しない」
ユキトは一歩前に出た。
「でも、こいつらを侮辱したのは気に入らねえ」
その一言で、空気が変わる。
親父が少しだけ目を上げた。
ヴォルカが驚いてユキトを見る。
フローラは黙ったまま、その背中を見ていた。
ユキトは言った。
「普段なら安い喧嘩は買わない」
「じゃあどけ」
「今日は特別だ」
レイナの目が細くなる。
ユキトは盾を指した。
「親父、裏庭借りるぞ」
周囲がざわつく。
レイナが低く言う。
「……本気か?」
「かかって来い」
内心では、完全に冷静だった。
ちょうどいい。
今までの成長を試す。
対人戦の経験を積む。
その相手として、これ以上ない。
それに。
彼女たちを侮辱されたまま引くのは、ユキトの中の何かが許さなかった。
レイナは少しだけ顎を引いた。
「戦闘力がすべてじゃない」
その言い方は、ただの煽りではなかった。
経験に裏打ちされた断言だった。
「だがな」
彼女は続ける。
「世の中には、どうやっても覆せない差ってやつがある」
裏庭の訓練場には、あっという間に野次馬が集まった。
レイナは訓練用の剣。
ユキトは工房で借りた盾。
それだけ。
開始と同時に、レイナが踏み込む。
速い。
エリックの時より、明らかに速い。
ユキトは盾を出す。
ガンッ!!
重い。
だが、防いだ。
次も。
その次も。
何回かは防げた。
三ヶ月と少し。
無駄ではなかった。
受ける角度。
半歩引く判断。
足の置き方。
木や地形は使えないが、それでも以前の自分ではない。
野次馬の空気が少し変わる。
「おい、防いだぞ」
「戦闘力1だろ?」
「驚いているぞ、あの女」
だが。
差は消えなかった。
レイナは冷静だった。
一度、わざとテンポを変える。
今までと同じ打ち込み。
今までと同じように見せて、ほんのわずかに速さを落とす。
ユキトの意識が、そこで一瞬だけ前に出た。
(取れる)
そう思った瞬間だった。
レイナの踏み込みが変わる。
速い。
ユキトの盾が一拍遅れる。
剣が走る。
次の瞬間、鈍い衝撃が首元に叩き込まれた。
「がっ――!?」
呼吸が詰まる。
視界が揺れる。
体がそのまま地面へ倒れ込んだ。
土の感触。
遠のく意識。
耳鳴り。
ヴォルカが悲鳴に近い声を上げる。
「ユキトさん!!」
ネムリアが目を見開く。
「……っ」
フローラの回復が、すぐに入る。
目立たない、静かな癒やし。
途切れかけた意識が戻る。
首の激痛が引き、呼吸が繋がる。
ユキトは咳き込みながら、地面に手をついた。
「ごほっ……!」
レイナの目が、そこで初めてわずかに動く。
驚いていた。
さっきの一撃は、訓練用の剣で加減したものだ。
それでも首を狙った。
普通の新人なら、しばらくは立てない。
なのに。
ユキトは、また立ち上がろうとしていた。
膝が震える。
視界はまだ揺れている。
それでも、盾を拾おうとする。
エリック戦の時みたいに。
何度も倒れて、何度も立って、どうにか掴むために。
まだ終わっていないと、体が勝手にそう動いていた。
「まだ……」
掠れた声。
「まだ、いける……」
盾を構えようとする。
その瞬間。
レイナが剣先をわずかに上げた。
そして、自分の首元を、横にすっとなぞる。
斬る仕草。
無駄のない、短い動きだった。
だが、それだけで十分だった。
ユキトの動きが止まる。
レイナが言う。
「いや、実戦だったら終わりだ」
静かな声だった。
怒ってもいない。
見下してもいない。
ただ、現実を言っていた。
「今ので、お前は一回死んでる」
ユキトは息を荒くしたまま、レイナを見る。
レイナは続ける。
「立ち上がれたのは訓練だからだ」
「私が止めたからだ」
「運が良かったからだ」
その目は鋭い。
「でも、本物なら違う」
「首が飛んだら終わりだ」
「そのあと何度立ち上がるつもりだった?」
言葉が、真正面から刺さる。
ユキトは何も言えなかった。
悔しい。
情けない。
でも、反論できない。
エリック戦では、それで通じた。
何度も立った。
何度も試した。
相手が気味悪がって、折れた。
だが、それは訓練相手が“そうだった”だけだ。
殺意があって。
経験があって。
終わらせることを知っている相手には通じない。
立ち上がる前に終わる。
根性より先に、首が落ちる。
その単純な事実を、ユキトはそこでようやく骨身に染みて理解した。
自分の覚悟は、まだ甘かった。
“何度でも立つ”では足りない。
“立てなくなる一撃”をどう防ぐかまで考えて、初めて前に立てる。
そこまで届いていなかった。
レイナは何も言わず、剣を引いた。
背を向ける。
その時。
「待てよ」
ユキトが言った。
レイナは止まる。
ユキトは一瞬だけ顔をしかめ、それから言い直した。
「……いや、待ってください」
屈辱だった。
自分でも分かるくらい、声が変わった。
だが、引けなかった。
「訓練でいいので」
ユキトは頭を下げる。
「もう一度お願いします」
地面すれすれまで、頭が下がる。
野次馬がざわついた。
レイナも少しだけ目を見開いた。
ユキトは続ける。
「俺は弱い」
「知ってる」
「知ってるけど、それで終わりたくない」
「……」
「教えてください」
そこで、膝がつく。
ほとんど地面に頭を擦りつけるような姿だった。
格好悪い。
情けない。
でも、必要だった。
レイナはしばらく無言だった。
それから、短く息を吐く。
「……ガッツだけは認めてやるよ」
もう一度、訓練が始まった。
今度は決闘ではない。
本当に訓練だった。
レイナは容赦しない。
だが、殺しに来るのではなく、教えるために斬る。
盾の角度が悪い。
足が開きすぎる。
首が甘い。
視線が剣だけを追っている。
倒れるたびに、ユキトは立つ。
また倒れる。
また立つ。
ついには気絶するまで、それは続いた。
日が落ちかける頃。
ユキトは土の上に倒れていた。
呼吸はある。
体はもう動かない。
ヴォルカは心配そうに寄りかかり、ネムリアはしゃがみ込んで顔を覗き込み、フローラは静かにその全てを見ていた。
レイナは剣を肩に担いだまま言う。
「今のままじゃ話にならない」
「……はい」
ヴォルカが代わりに返事をするみたいに頷く。
レイナは少しだけユキトを見る。
「でも、折れないなら伸びるかもしれない」
それだけ言って、去っていった。
野次馬も散っていく。
残ったのは、夕方の光と、土埃と、倒れたユキトだけだった。
フローラはその姿を見下ろす。
泥だらけで、格好悪くて、弱くて、痛い目を見て、頭まで下げて、それでも前に進もうとしている男。
助けたいと思った。
その感情は、もう隠しようがなかった。
ただ。
それが何なのかは、まだ分からなかった。
友として見ているのか。
守るべき人間として見ているのか。
それとも――男として、惹かれ始めているのか。
フローラは静かに目を伏せる。
竜の加護。
気に入った者に与える祝福。
命を支え、戦う資格を底上げする力。
与えるべきかもしれない。
でも。
それは、ただ便利だから渡すようなものではない。
もっと深いところで、相手を認めた時にだけ渡すものだ。
「……困りましたね」
小さく呟く。
ヴォルカが振り返る。
「フローラさん?」
フローラはすぐに表情を戻した。
「いえ。何でもありません」
その声は穏やかだった。
だが心の奥では、確かに揺れていた。
夕暮れの風が吹く。
土の上で気絶したユキトの前髪が、わずかに揺れた。




