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08.この世で俺より弱い奴なんていない

次の日の朝。


目を覚ましたユキトが最初に思ったのは、狭い、だった。


昨日の露天風呂付き大部屋とは比べものにならない。

安宿の一室は、寝返りを打てば壁に肘が当たりそうなほどこぢんまりとしていた。

薄い布団。軋む床。窓から入る朝の光も、どこか頼りない。


だが、それでも。


野宿よりはずっとマシだった。


「……現実って感じだな」


小さく呟き、ユキトは体を起こす。


部屋の隅では、ヴォルカがきちんと座って身支度を整えていた。

フローラは窓辺で朝の光を見ている。

ネムリアは当然のようにまだ寝ていた。


しかも、荷物の山に寄りかかって。


「そこ寝床じゃないだろ」


「……寝られればいい」


「生き方が雑なんだよ」


ネムリアは眠そうな目を少しだけ開けて、また閉じた。


フローラが振り返る。


「資金を確認しますか?」


「ああ」


ユキトは昨夜のうちに分けておいた袋を手に取った。


中身は、軽い。


本当に軽い。


ジジイの遺産をほぼ使い切ったあとだ。

祭り。宿。服。雑費。安宿代。冒険者登録。


残った金は、もうほとんどなかった。


ユキトは袋の口を覗いて、しばらく黙る。


「……終わってんな」


ヴォルカがおそるおそる聞く。


「だ、大丈夫なんでしょうか……」


「大丈夫じゃない」


即答だった。


「だから使う」


「え?」


ユキトは袋を握って立ち上がる。


「残り全部、俺の装備に突っ込む」


ヴォルカが目を丸くする。


「ぜ、全部ですか!?」


「全部」


「ご飯とかは……」


「仕事して稼ぐ」


それだけ言うと、ユキトは軽く肩を回した。


昨日、訓練場で何度も叩きのめされた感覚がまだ体に残っている。


痛かった。

情けなかった。

でも、無駄ではなかった。


何がダメで、何が少しだけマシだったか。

それだけははっきり分かった。


「武器屋、行くぞ」


そうして四人は朝の町を歩き、冒険者向けの装備屋へ向かった。


店先には剣、槍、革鎧、短弓、斧。

新米向けの安価な装備がずらりと並んでいる。


店主がユキトたちを見るなり、少しだけ眉を上げた。


「お、昨日登録した坊主か」


「もう噂になってんの?」


「そりゃ戦闘力1でギルド来りゃな」


「やめて」


ユキトは真顔で言ってから、並んだ品を見た。


剣は違う。

あれは振り回す側の武器だ。

今の自分には重いし、届く前に潰される。


槍も違う。

間合いの管理なんてできる気がしない。


斧は論外。

振るう前に終わる。


短剣も考えたが、あれは近づきすぎる。

今の自分がやることではない。


残るのは。


「盾、見せてください」


店主が少しだけ意外そうな顔をした。


「盾か」


「昨日いろいろ試して、一番マシだった」


「ほう」


店主は店の奥からいくつか盾を持ってきた。


大きなタワーシールド。

丸盾。

小型のバックラー。

革張りの軽盾。


ユキトは順番に持ってみる。


重い。


大きい。


守れそうではある。

だが、その分、自分が持たない。


「うわ……」


「でかいのは安心感あるだろ?」


「安心する前に腕が死ぬ」


結局、ユキトが選んだのは小回りの利く円形の軽盾だった。

木と金具で補強された簡素なもの。

最低限の耐久と、最低限の軽さ。


店主が言う。


「もっとでかいのの方が守れるぞ」


「今はこれでいい」


ユキトは盾を腕に通して、軽く構えた。


「守る前に動けなくなったら意味ない」


フローラが静かに頷く。


「賢い判断です」


ヴォルカはまだ少し不安そうだった。


「本当に、それで……」


「たぶんな」


ユキトは苦笑する。


「たぶんの連続で生きてるから、今さらだろ」


残りの金で最低限の予備布と簡単な革の手袋まで買う。

袋の中身は、ほぼ空になった。


ユキトは財布をひっくり返して、笑う。


「はい、終わり」


「終わりましたね……」


「終わったから働く」


その足でギルドへ向かった。


Fランク冒険者の掲示板には、選べる仕事がそう多くない。

紙の端が少しめくれた依頼札がいくつも並んでいる。


薬草採取。

荷物運び。

畑荒らしの小動物駆除。

迷子犬捜索。

スライム処理。

ゴブリン討伐。


ユキトは腕を組んで悩んでいた。


「……うーん」


ヴォルカが横から覗き込む。


「薬草採取の方が安全では……?」


「安全そう」


ネムリアがぼんやり言う。


「寝れるし……」


「働け」


ユキトは札を見比べる。


薬草採取は堅実だ。

でも冒険者っぽくない。

荷物運びは生活のためならありだが、今欲しいのは経験だ。

スライムはトラウマで選びたくない。

ゴブリンは――


「ゴブリンか」


よくある雑魚、という印象があった。


昨日のエリックより弱いだろう。

訓練場であれだけ叩かれたあとだ。

さすがにゴブリン相手なら何とかなるんじゃないか。


そんな慢心が、少しだけあった。


フローラがユキトを見る。


「それを選ぶのですね」


「うん。経験としてちょうどよさそう」


ヴォルカは少しだけ眉を下げた。


「本当に……?」


「たぶんいける」


「また“たぶん”……」


結局、ユキトはゴブリン討伐の札を取った。


依頼内容は、町外れの森で目撃された小規模群れの排除。

数は三から五。

新米向けの討伐任務だった。


そうして昼前。


四人は森へ入った。


木漏れ日がまだらに差し込む、湿った土の匂いのする森だった。

枝葉が風に揺れ、鳥の声が遠くで鳴いている。


ユキトは盾を腕に通し、慎重に足を進めた。


「確認しとくぞ」


後ろの三人へ言う。


「基本、手は出すな」


ヴォルカがすぐに反応する。


「ですが――」


「基本、だ」


ユキトは振り返らないまま言った。


「俺が死にそうなら別。けど、最初から頼る気はない」


ネムリアはフローラの背中で揺れていた。

今日も当然のように背負われている。


フローラが小さくため息をつく。


「この形、定着しそうですね」


「すやぁ……」


「本人に否定する気がありません」


ヴォルカは不安げに拳を握った。


「……分かりました」


その声には、納得よりも我慢が多かった。


しばらく進んだところで、物音がした。


ガサ。


低い茂みの向こう。

小さな影。


緑色の肌。

不格好な短剣。

汚れた布切れのような装備。


ゴブリンだ。


一体。


「お」


ユキトは少しだけ口元を上げた。


思ったより小さい。

思ったより貧相だ。

昨日のエリックの方がよほど怖かった。


いける。


そう思った次の瞬間。


左右の茂みが動いた。


ガサガサッ。


二体。

三体。

四体。


一気に囲まれる。


「え」


その瞬間、ユキトは悟った。


この世で俺より弱い奴なんていない。


本当に、いない。


ゴブリンたちは決して強そうには見えない。

一体一体の圧は、昨日のエリックに遠く及ばない。


なのに。


数がいるだけで、もうダメだった。


前。横。後ろ。

どこを見ても敵がいる。

一体に意識を向ければ、別の一体が動く。


「キィッ!」


一体が飛び込んでくる。


ユキトは反射的に盾を出す。


ガンッ。


短剣が盾に当たる。


防げた。

だが次の瞬間、横から棒が足に叩きつけられた。


「っ!」


体勢が崩れる。


さらに後ろから石が飛んできて肩に当たる。


痛い。


情けないくらい、すぐ崩れる。


ヴォルカが思わず叫ぶ。


「ユキトさん!」


「来るな!」


ユキトは即座に怒鳴った。


その一声に、ヴォルカの足が止まる。


ゴブリンがまた一体、飛び込んできた。

ユキトは盾で押し返す。

押し返したつもりだったが、力が足りない。

相手はよろめくだけで、すぐ別の角度から回り込んでくる。


「くそっ……!」


一対一ならどうにかなる、なんて考えが甘かった。

実戦ではそんな状況を作らせてもらえない。


ゴブリンは弱い。

でも弱いなりに群れる。

囲む。

隙をつく。

躊躇なく石を投げる。


小さくて、汚くて、卑怯で、だからこそ厄介だった。


フローラは少し離れた場所から静かに見ていた。

ユキトに傷が入ればすぐ治す準備をしながら、背中のネムリアを支える。


ネムリアは半分眠いまま、森の奥をぼんやり見ていた。


「……いっぱい、いる」


「ええ。いますね」


ヴォルカだけが、完全に落ち着きを失っていた。


「私が行けばすぐに――」


「だめです」


フローラの声は静かだったが、強かった。


「ユキトが決めたことです」


「でも……!」


「信じてください」


ヴォルカは唇を噛んだ。


信じたい。

だが、今までなら自分が前に出て終わっていた。


殴る。

砕く。

終わる。


それが普通だった。


見ているだけなんて、息が詰まる。


その間にも、ユキトは必死だった。


盾で受ける。

すぐ別方向へ体を向ける。

足を動かす。

囲まれないように木を背にする。


何度も足を取られそうになりながら、少しずつ分かってくる。


正面に全部対応しようとすると終わる。

木や岩を使って、攻めてくる方向を絞ればいい。

一体を倒すことより、複数を一度に相手しない形を作ることが先だ。


「っ、は……!」


肩で息をする。


ゴブリン一体を盾で殴りつける。

大した威力じゃない。

でも、顔面に入れば怯む。


そこへ蹴り。


転ばせる。


すぐ次が来る。

また盾。


泥臭い。

恐ろしく泥臭い。


だが、ほんの少しだけ、さっきよりマシになっていた。


フローラが小さく目を細める。


「……学んでいますね」


ヴォルカもそれに気づく。


「囲まれないように……」


「はい。きちんと考えています」


ネムリアがフローラの肩に顎を乗せたまま呟く。


「えらい……」


「寝ながら言うことですか、それ」


やがて、数体倒し、残ったゴブリンが少し距離を取る。


ユキトは荒い息を吐いた。


全身が重い。

汗が気持ち悪い。

腕が痺れる。


でも。


最初の一方的なピンチは越えた。


「……よし」


振り返る。


「ヴォルカ」


ヴォルカがびくっとする。


「は、はい!」


「連携、練習するぞ」


「え?」


「前出るな。支援だけ」


ヴォルカは目を丸くした。


「支援……?」


それは彼女にとって、最も慣れない役割だった。


今までの戦いでは、自分が前に出て全部終わらせてきた。

殴れば勝つ。

踏み込めば終わる。

それで済んでいた。


だが今は違う。


ユキトが前に立つ。

自分は後ろ。


しかも条件がある。


「森、絶対焼くな」


「はい……」


「絶対に目立つな」


「……難しいです」


本音だった。


ヴォルカの魔法は本来、豪快で、強くて、目立つ。

竜の炎も、竜の圧も、隠すようなものではない。


けれど、ユキトは振り返らずに言う。


「できる範囲でいい。俺が動きやすいように、ちょっと邪魔してくれ」


その言葉に、ヴォルカは一瞬だけ目を見開いた。


倒してくれ、ではない。

終わらせてくれ、でもない。


手伝ってくれ、だった。


「……分かりました」


ヴォルカは小さく息を吸う。


そして、そっと手をかざした。


赤い光が、ごく薄く指先に宿る。

本気を出せば森ごと消し飛ぶ。

だからこそ、抑える。


抑えて。

絞って。

絞りきって。


小さな熱の揺らぎだけを、ゴブリンの足元近くへ走らせた。


ボッ、と地面の葉が焦げる寸前で止まる。


「うわ危なっ」


「す、すみません!」


「でも効いた!」


熱に驚いて動きが止まる。

その隙に、ユキトが盾で押し込み、一体を木へ叩きつける。


ゴブリンが悲鳴を上げる。


「もう一回!」


「は、はい!」


ヴォルカは戸惑いながらも、二度、三度と繰り返す。

最初は外れ、近すぎ、強すぎた。


だが少しずつ、分かってくる。


倒すのではない。

怯ませる。

進路を切る。

一瞬、止める。


その役割に。


「できる……!」


「そう、それ」


ユキトが汗だくで笑う。


「今のいい!」


ヴォルカの顔に、少しだけ光が差した。


前に出なくても、役に立てる。


壊さなくても、守れる。


それは彼女にとって、初めての感覚だった。


フローラはその後ろで、静かにユキトの傷を癒やし続けていた。

擦り傷。打撲。切り傷。

治しながら、背中のネムリアを支える。


「本当にこの形、定着しそうですね……」


「すやぁ……」


ネムリアは相変わらずだった。


だが時々、眠そうな目で戦場を見ている。


「あっち……」


「?」


フローラが視線を向けると、茂みの奥に回り込もうとする一体がいた。


「なるほど」


フローラは小さく頷く。


「ユキト、右後方」


ユキトが反応し、振り向きざまに盾を出す。


ゴッ。


ちょうど飛び込んできたゴブリンが、盾に顔から突っ込んだ。


「ナイス!」


「寝ていますが、見てはいるようです」


「便利だなこいつ……」


最終的に。


連携は、ちゃんと形になっていた。


ユキトが前で受ける。

木や岩を使って包囲を制限する。

ヴォルカが目立たない小規模魔法で動きを止める。

フローラが回復と全体観察。

ネムリアは背負われたまま、時々索敵みたいなことをする。


奇妙だった。


かなり奇妙だ。


でも、戦えていた。


最後の一体を、ユキトが盾で突き飛ばす。

よろけたところをヴォルカの熱が足元を焼き、動きが止まる。

その隙にユキトが踏み込み、盾の縁で顎を打ち抜いた。


ゴブリンが倒れる。


静寂。


森に風が吹く。


ユキトはその場にへたり込みそうになるのを、ぎりぎりでこらえた。


「……っし」


ヴォルカが駆け寄る。


「ユキトさん!」


「立ってる、立ってる」


「ふらふらです!」


「それはそう」


ユキトは苦笑する。


腕は重い。

足は痛い。

全身がだるい。


でも、昨日までとは違う疲労だった。


ただやられるだけじゃない。

ちゃんと、自分で戦った。


ヴォルカが不安そうに見つめる。


「私、ちゃんとできてましたか……?」


ユキトは即答した。


「できてた」


「本当ですか?」


「むしろ助かった」


ヴォルカは目を丸くして、それから少しだけ嬉しそうに俯いた。


フローラは少し離れたところで、その光景を見ていた。


ユキトが盾を持ち、泥だらけで立っている。

ヴォルカがその隣で戸惑いながらも笑っている。

ネムリアは自分の背中で相変わらず重い。


どう考えても、まともな戦力構成じゃない。


けれど。


その不格好な連携は、確かに前へ進んでいた。


フローラは、ふっと柔らかく微笑む。


嬉しそうだった。


「……良い形になってきましたね」


その呟きは、森の中へ静かに溶けた。


そして。


その光景を、少し離れた木々の影から見ている者がいた。


長身の男だった。


茶髪。

軽く流した前髪。

口元には薄い笑み。

どこか軽薄そうで、けれど目だけは妙に冷たい。

何かを隠すようにローブを着用している。


枝に背を預け、腕を組んだまま、彼は四人を眺めていた。


「へえ……」


低く、楽しげな声。


「面白いの拾ってるじゃん」


視線はユキトに向いている。


戦闘力も低そうな、泥だらけの男。

だが、その周りには明らかに普通じゃない気配を持つ女たちが三人。


男は口角を少しだけ上げた。


軽い笑み。

けれど、その奥に何かを測るような色があった。


「なるほどね」


「そういう感じか」


木漏れ日の中、彼は踵を返す。


去り際に一度だけ振り返り、また笑った。


「……退屈しなさそうだ」


その姿は、音もなく森の奥へ消えていった。

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