81.意外とうまい
ファミレスを出ると、街はもう夕方の色を失いかけていた。
店の明かりが背後に遠ざかる。
ガラス越しに見えていた席も、向かいに座っていたシオンの顔も、扉が閉まると急に別の世界の出来事みたいになった。
空は赤から群青へ変わっていく。
ビルの隙間に残っていた夕日が沈み、店先の看板がひとつずつ強くなる。
自転車のライトが横切り、駅へ向かう学生や会社員が、当たり前みたいにカイトの横を通り過ぎていった。
誰も、カイトを見ていない。
誰も、彼が異世界から来たことを知らない。
誰も、彼がユキトではないことを知らない。
道沿いのガラスに、自分の姿が映る。
制服。
ユキトの顔。
ユキトの家から出てきて、ユキトの席に座り、ユキトとして呼ばれる少年。
けれど、中身は違う。
カイトは歩きながら、さっきの言葉を思い出していた。
――私を捨てないで。
あの時、言うべきだった。
自分はユキトではない。
あなたが好きな相手ではない。
父はもう異世界で家庭を持っている。
リオともシオンとも、関係は終わらせると言うべきだった。
けれど、言えなかった。
リオを庇ったのも自分だ。
シオンを放っておけず、「帰るぞ」と言ったのも自分だ。
ファミレスについて行ったのも、拒絶の言葉を飲み込んだのも、自分だった。
父が悪い。
それは間違いない。
けれど、今も関係を終わらせられていないのは、もう父だけのせいではなかった。
カイトは足を止める。
ガラスの中のユキトが、同じように立ち止まった。
その顔が、どうしようもなく腹立たしかった。
「……何やってんだよ、俺」
声は、夜へ変わる街の音にすぐ飲まれた。
その時だった。
「あ、こんなところで会うなんて奇遇だね?」
後ろから声がした。
振り返ると、ユウナがいた。
黒髪は光に当たると少し青く見える。
薄紫の瞳は、リオのように真っ直ぐ飛び込んでくるわけでも、シオンのようにこちらを測るわけでもなかった。
ただ、見かけたから声をかけただけだった。
カイトは返事をしようとした。
「あ……」
それだけで、言葉が止まった。
何を言えばいいのか分からない。
偶然だな、と返すだけでよかったのに、その程度の言葉さえ喉から出てこなかった。
ユウナは少しだけ驚いた表情をした。
「ちょっと座ろっか」
そういうと自然に、近くの公園へ向かって歩き出した。
カイトは、ほとんど流されるようについていった。
公園は静かだった。
街灯が点き始め、ブランコの影が地面に伸びている。
昼間なら子どもの声がしていたのかもしれないが、今は誰もいない。
ユウナはベンチを指した。
「座ってて」
カイトは言われるまま座る。
何か聞かれると思った。
リオと何かあったのか。
シオンと喧嘩したのか。
大丈夫なのか。
けれど、ユウナは何も聞かなかった。
「少し待ってて」
そう言って、一度カイトの前から消える。
カイトはベンチに座ったまま、ぼんやり夜の公園を見ていた。
何も考えたくなかった。
考えないでいられるほど、頭の中は静かではなかった。
少しして、ユウナが戻ってきた。
手には缶コーヒーが二本あった。
「甘いやつだけど、嫌いじゃなければ」
一本を渡される。
カイトは缶を見下ろした。
開け方が分からない。
この世界に来てから、分からないものばかりだった。
車も、テレビも、電子レンジも、スマホも、自動ドアも。
けれど、こんな小さなものの使い方まで分からないのかと思うと、妙に情けなかった。
ユウナに知られたくなくて、カイトは横目で手元を見る。
ユウナが缶の上の金具を起こす。
指をかけて、引く。
小さな音がした。
カイトも同じように真似た。
開いた。
カイトは缶に口をつける。
苦い。
甘い。
少し焦げたような匂いがする。
茶でも牛乳でもない、初めての味だった。
最初は驚いた。
けれど、もう一口飲んだ。
意外とうまい。
喉を通る甘さと苦さで、ほんの少しだけ呼吸が戻る。
その時になって、カイトは自分がずっと緊張していたことに気づいた。
この世界でユキトとして呼ばれ続けるようになってから、ずっと身体のどこかが固まっていた。
ユウナが缶を両手で持ったまま聞く。
「少し落ち着いた?」
カイトは少し遅れて頷いた。
「……少し」
「そっか」
それだけだった。
深く聞かない。
カイトは、その距離に少し救われた。
アヤカは息子を求めてくる。
リオは帰ってきた恋人を求めてくる。
シオンは逃げない恋人を求めてくる。
学校はユキトを求めてくる。
でもユウナは、今のところ何も求めてこなかった。
ただ座らせて、缶コーヒーを渡して、落ち着くのを待っている。
カイトは、初めてユウナのことをちゃんと見た気がした。
教室で、彼女は時々遠い目をする。
前と違ってもいいと言った時も、どこか自分ではない誰かへ言っているようだった。
今も、踏み込まない、踏み込まれない距離を自然に取っている気がした。
この子は、何を抱えているんだろう。
そう思った。
けれど、聞かなかった。
ユウナが聞かないから、自分も聞かない。
その距離が、今は心地よかった。
しばらくして、ユウナが立ち上がった。
「帰れる?」
「帰れる」
「そっか」
引き留めない。
一緒に帰ろうとも言わない。
事情も聞かない。
カイトは缶を握ったまま、小さく言った。
「……ありがとう」
本心だった。
自分でも少し驚くくらい、素直に出た。
ユウナは少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「うん」
それだけで、彼女は去っていく。
カイトはその背中を見送った。
何かを求められたわけではない。
それなのに、少しだけ楽になっていた。
そこから一週間が過ぎた。
カイトは少しずつ学校生活に慣れていった。
授業にはまだついていけない。
文字は読めるようになってきたが、内容を追うのは遅い。
教師の話は速く、黒板の文字はすぐ消える。
小テストは相変わらず悪かった。
体育では、相変わらず妙に目立った。
最初の数日は、クラスメイトたちも面白がった。
「ユキト、キャラ変したよな」
「体育だけ覚醒してるの何?」
「失踪して修行でもしてきた?」
「でも勉強は下から一位のままなの草」
けれど、その騒ぎも長くは続かなかった。
今のユキトは、前ほど教室をかき回さない。
くだらない冗談を言わない。
教師に軽口を返して笑いを取らない。
昼休みに馬鹿な話題で周囲を巻き込まない。
リオとシオンの間をふざけてすり抜けることもしない。
勉強はできない。
体育は妙にできる。
けれど、それだけだった。
明るくない。
軽くない。
面白くない。
やがて周囲は、今のユキトを疑うのではなく、興味を失い始めた。
「最近あいつ静かだよな」
「前の方が面白かったけど」
「まあ、別に害はないし」
「体育の時だけすごい人って感じ」
疑われないのは助かる。
けれど、それは受け入れられたというより、教室の中心から外れていく感覚だった。
父の顔で、父の席に座っている。
でも、父が持っていた教室での役割は、少しずつ自分の手から滑り落ちていく。
一方で、リオとシオンは少しずつ変わっていった。
リオは毎朝迎えに来る。
袖も掴む。
けれど、前のユキトを無理に取り戻そうとすることは減った。
今のユキトを見ようとしている。
シオンも、露骨な所有宣言を控えるようになった。
リオへの刺し方も減った。
その代わり、カイトが困る前に静かに手を回す。
必要なプリントを机に置く。
予定を先に教える。
疲れている時は、余計なことを聞かずに隣へ来る。
二人はぎこちない。
仲良くなったわけではない。
それでも、互いに歩み寄ろうとしていた。
理由は同じだった。
ユキトを失いたくないから。
カイトはそれを察してしまう。
二人が我慢している。
傷つかない形を探している。
自分を中心に、無理にでも関係を組み直そうとしている。
そして悟った。
もう、自分はこの二人を簡単には拒絶できないと。
ある日のホームルーム前。
カイトは自分の席に座っていた。
リオは友人と話している。
シオンは教科書を開いている。
ユウナは教室を俯瞰している。
教室のざわめきには、少しずつ慣れてきた。
けれどそれは、居場所ができたというより、背景になりつつある感覚に近かった。
最初は、もっと簡単だと思っていた。
父の二股の後始末。
現代日本へ行く。
自分はユキトではないと告げる。
それで終わると思っていた。
少しだけ、現代日本への期待もあった。
父が話していた便利な世界。
知らない街。
見たことのない道具。
元の世界とは異なる景色。
けれど違った。
アヤカは、自分をユキトだと思い込んでいる。
もし真実を知れば、また死を選ぶかもしれない。
その時点で、カイトは自分の名前で生きることを諦めた。
ユキトとして生きるしかない。
それは受け入れたつもりだった。
でも、リオとシオンとの関係まで受け入れるつもりはなかった。
彼女たちの感情は、自分に向けられたものではない。
ユキトへ向けられたものだ。
父へのものだ。
それを受け取ることを想像すると、ぞっとする。
それに、カイトは母たちの恐怖を知っている。
人間を愛すること。
寿命の違い。
愛した相手だけが先に老いていくかもしれない恐怖。
子どもが先にいなくなるかもしれない恐怖。
母たちはユキトを愛していた。
それでも不安を抱えていた。
自分には無理だと思った。
人間を好きにはならない。
そう決めた。
なのに。
どうしても冷たく関係を切ることできなかった。
カイトはようやく認める。
これはもう、父だけのせいではない。
父が残した関係だった。
父が逃げた結果だった。
父は最低だった。
でも、今ここで拒絶できないのは自分だ。
自分の優柔不断さだ。
その時、担任が教室に入ってきた。
ざわついていた空気が、少しだけ落ち着く。
担任は教卓に立ち、手を叩いた。
「全員、落ち着け。今日は留学生を紹介する」
教室が一気に騒がしくなる。
「転校生?」
「この時期に?」
「女子?」
「海外から?」
担任は面倒そうに言った。
「ヴェルシア共和国から来た、アリシアさんだ」
カイトの思考が止まった。
アリシア?
一瞬、呼吸を忘れる。
けれど、すぐに否定しようとした。
同名の別人だ。
この世界にも、同じ名前の人間くらいいる。
外国人なら、アリシアという名前も珍しくないのかもしれない。
そう思おうとした。
だが、扉が開いた瞬間、その考えは砕けた。
入ってきたのは、アリシアだった。
自分を知っている姉。
シロネコ島から勝手についてきた姉。
この世界で唯一、自分がユキトではなくカイトだと知っている人間。
何も聞いていない。
学校に転入してくるなんて、何一つ聞いていない。
最近、アリシアの様子は確かに変だった。
危うい、と言った方が近い。
カイトが学校へ行くようになってから、アリシアは一人で出かけることが増えた。
帰ってきても、顔を合わせないまま自室へ戻る日もあった。
何をしていたのか、カイトは知らない。
聞く余裕がなかった。
ユキトとして生活すること。
それだけで精一杯だった。
アリシアが何をしていたのか。
何を考えていたのか。
カイトは見ていなかった。
教室の空気が変わる。
リオが目を見開く。
シオンの表情が冷える。
ユウナは静かにアリシアを見る。
クラスメイトたちは、突然現れた整いすぎた美少女にざわついている。
アリシアは教壇の横に立った。
濃紺寄りの青い髪。
整った顔立ち。
静かな所作。
ただ立っているだけで、教室の空気が少し変わる。
「アリシアです。しばらくの間、お世話になります。よろしくお願いします」
短い自己紹介だった。
彼女は顔を上げる。
一瞬だけ、カイトと目が合った。
周囲から見れば、何も変わらない表情だったと思う。
綺麗に整った顔。
落ち着いた目。
初めての教室でも動じない、礼儀正しい転校生。
けれど、カイトには分かった。
その目の奥に、薄い怒りがある。
声を荒げるほどではない。
顔に出すほどでもない。
他人なら見落とす程度の、わずかな温度。
けれど弟である自分には分かる。
姉は、怒っている。
理由はすぐに察しがついた。
リオとシオン。
自分は、父の二股を清算するために来た。
なのに、まだ何も終わらせていない。
それどころか、リオとシオンに少しずつ歩み寄ろうとしている。
アリシアは、それを知っている。
たぶん、どこかで見ていたのだろう。
救いが来たのではない。
裁きが、静かに教室へ入ってきた。




