表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/91

81.意外とうまい

ファミレスを出ると、街はもう夕方の色を失いかけていた。


店の明かりが背後に遠ざかる。

ガラス越しに見えていた席も、向かいに座っていたシオンの顔も、扉が閉まると急に別の世界の出来事みたいになった。


空は赤から群青へ変わっていく。

ビルの隙間に残っていた夕日が沈み、店先の看板がひとつずつ強くなる。

自転車のライトが横切り、駅へ向かう学生や会社員が、当たり前みたいにカイトの横を通り過ぎていった。


誰も、カイトを見ていない。

誰も、彼が異世界から来たことを知らない。

誰も、彼がユキトではないことを知らない。


道沿いのガラスに、自分の姿が映る。


制服。

ユキトの顔。

ユキトの家から出てきて、ユキトの席に座り、ユキトとして呼ばれる少年。


けれど、中身は違う。


カイトは歩きながら、さっきの言葉を思い出していた。


――私を捨てないで。


あの時、言うべきだった。


自分はユキトではない。


あなたが好きな相手ではない。


父はもう異世界で家庭を持っている。


リオともシオンとも、関係は終わらせると言うべきだった。


けれど、言えなかった。


リオを庇ったのも自分だ。

シオンを放っておけず、「帰るぞ」と言ったのも自分だ。

ファミレスについて行ったのも、拒絶の言葉を飲み込んだのも、自分だった。


父が悪い。

それは間違いない。


けれど、今も関係を終わらせられていないのは、もう父だけのせいではなかった。


カイトは足を止める。

ガラスの中のユキトが、同じように立ち止まった。


その顔が、どうしようもなく腹立たしかった。


「……何やってんだよ、俺」


声は、夜へ変わる街の音にすぐ飲まれた。


その時だった。


「あ、こんなところで会うなんて奇遇だね?」


後ろから声がした。


振り返ると、ユウナがいた。


黒髪は光に当たると少し青く見える。

薄紫の瞳は、リオのように真っ直ぐ飛び込んでくるわけでも、シオンのようにこちらを測るわけでもなかった。

ただ、見かけたから声をかけただけだった。


カイトは返事をしようとした。


「あ……」


それだけで、言葉が止まった。


何を言えばいいのか分からない。

偶然だな、と返すだけでよかったのに、その程度の言葉さえ喉から出てこなかった。


ユウナは少しだけ驚いた表情をした。


「ちょっと座ろっか」


そういうと自然に、近くの公園へ向かって歩き出した。


カイトは、ほとんど流されるようについていった。


公園は静かだった。

街灯が点き始め、ブランコの影が地面に伸びている。

昼間なら子どもの声がしていたのかもしれないが、今は誰もいない。


ユウナはベンチを指した。


「座ってて」


カイトは言われるまま座る。


何か聞かれると思った。

リオと何かあったのか。

シオンと喧嘩したのか。

大丈夫なのか。


けれど、ユウナは何も聞かなかった。


「少し待ってて」


そう言って、一度カイトの前から消える。


カイトはベンチに座ったまま、ぼんやり夜の公園を見ていた。

何も考えたくなかった。

考えないでいられるほど、頭の中は静かではなかった。


少しして、ユウナが戻ってきた。


手には缶コーヒーが二本あった。


「甘いやつだけど、嫌いじゃなければ」


一本を渡される。


カイトは缶を見下ろした。


開け方が分からない。


この世界に来てから、分からないものばかりだった。

車も、テレビも、電子レンジも、スマホも、自動ドアも。

けれど、こんな小さなものの使い方まで分からないのかと思うと、妙に情けなかった。


ユウナに知られたくなくて、カイトは横目で手元を見る。


ユウナが缶の上の金具を起こす。

指をかけて、引く。

小さな音がした。


カイトも同じように真似た。


開いた。


カイトは缶に口をつける。


苦い。

甘い。

少し焦げたような匂いがする。

茶でも牛乳でもない、初めての味だった。


最初は驚いた。


けれど、もう一口飲んだ。


意外とうまい。


喉を通る甘さと苦さで、ほんの少しだけ呼吸が戻る。

その時になって、カイトは自分がずっと緊張していたことに気づいた。


この世界でユキトとして呼ばれ続けるようになってから、ずっと身体のどこかが固まっていた。


ユウナが缶を両手で持ったまま聞く。


「少し落ち着いた?」


カイトは少し遅れて頷いた。


「……少し」


「そっか」


それだけだった。


深く聞かない。


カイトは、その距離に少し救われた。


アヤカは息子を求めてくる。

リオは帰ってきた恋人を求めてくる。

シオンは逃げない恋人を求めてくる。

学校はユキトを求めてくる。


でもユウナは、今のところ何も求めてこなかった。


ただ座らせて、缶コーヒーを渡して、落ち着くのを待っている。


カイトは、初めてユウナのことをちゃんと見た気がした。


教室で、彼女は時々遠い目をする。

前と違ってもいいと言った時も、どこか自分ではない誰かへ言っているようだった。

今も、踏み込まない、踏み込まれない距離を自然に取っている気がした。


この子は、何を抱えているんだろう。


そう思った。


けれど、聞かなかった。


ユウナが聞かないから、自分も聞かない。

その距離が、今は心地よかった。


しばらくして、ユウナが立ち上がった。


「帰れる?」


「帰れる」


「そっか」


引き留めない。

一緒に帰ろうとも言わない。

事情も聞かない。


カイトは缶を握ったまま、小さく言った。


「……ありがとう」


本心だった。


自分でも少し驚くくらい、素直に出た。


ユウナは少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。


「うん」


それだけで、彼女は去っていく。


カイトはその背中を見送った。


何かを求められたわけではない。

それなのに、少しだけ楽になっていた。


挿絵(By みてみん)


そこから一週間が過ぎた。


カイトは少しずつ学校生活に慣れていった。


授業にはまだついていけない。

文字は読めるようになってきたが、内容を追うのは遅い。

教師の話は速く、黒板の文字はすぐ消える。

小テストは相変わらず悪かった。


体育では、相変わらず妙に目立った。


最初の数日は、クラスメイトたちも面白がった。


「ユキト、キャラ変したよな」


「体育だけ覚醒してるの何?」


「失踪して修行でもしてきた?」


「でも勉強は下から一位のままなの草」


けれど、その騒ぎも長くは続かなかった。


今のユキトは、前ほど教室をかき回さない。

くだらない冗談を言わない。

教師に軽口を返して笑いを取らない。

昼休みに馬鹿な話題で周囲を巻き込まない。

リオとシオンの間をふざけてすり抜けることもしない。


勉強はできない。

体育は妙にできる。

けれど、それだけだった。


明るくない。

軽くない。

面白くない。


やがて周囲は、今のユキトを疑うのではなく、興味を失い始めた。


「最近あいつ静かだよな」

「前の方が面白かったけど」

「まあ、別に害はないし」

「体育の時だけすごい人って感じ」


疑われないのは助かる。


けれど、それは受け入れられたというより、教室の中心から外れていく感覚だった。


父の顔で、父の席に座っている。

でも、父が持っていた教室での役割は、少しずつ自分の手から滑り落ちていく。


一方で、リオとシオンは少しずつ変わっていった。


リオは毎朝迎えに来る。

袖も掴む。

けれど、前のユキトを無理に取り戻そうとすることは減った。

今のユキトを見ようとしている。


シオンも、露骨な所有宣言を控えるようになった。

リオへの刺し方も減った。

その代わり、カイトが困る前に静かに手を回す。

必要なプリントを机に置く。

予定を先に教える。

疲れている時は、余計なことを聞かずに隣へ来る。


二人はぎこちない。

仲良くなったわけではない。

それでも、互いに歩み寄ろうとしていた。


理由は同じだった。


ユキトを失いたくないから。


カイトはそれを察してしまう。


二人が我慢している。

傷つかない形を探している。

自分を中心に、無理にでも関係を組み直そうとしている。


そして悟った。


もう、自分はこの二人を簡単には拒絶できないと。


ある日のホームルーム前。


カイトは自分の席に座っていた。


リオは友人と話している。

シオンは教科書を開いている。

ユウナは教室を俯瞰している。


教室のざわめきには、少しずつ慣れてきた。

けれどそれは、居場所ができたというより、背景になりつつある感覚に近かった。


最初は、もっと簡単だと思っていた。


父の二股の後始末。

現代日本へ行く。

自分はユキトではないと告げる。

それで終わると思っていた。


少しだけ、現代日本への期待もあった。

父が話していた便利な世界。

知らない街。

見たことのない道具。

元の世界とは異なる景色。


けれど違った。


アヤカは、自分をユキトだと思い込んでいる。

もし真実を知れば、また死を選ぶかもしれない。

その時点で、カイトは自分の名前で生きることを諦めた。


ユキトとして生きるしかない。


それは受け入れたつもりだった。


でも、リオとシオンとの関係まで受け入れるつもりはなかった。


彼女たちの感情は、自分に向けられたものではない。

ユキトへ向けられたものだ。

父へのものだ。


それを受け取ることを想像すると、ぞっとする。


それに、カイトは母たちの恐怖を知っている。


人間を愛すること。

寿命の違い。

愛した相手だけが先に老いていくかもしれない恐怖。

子どもが先にいなくなるかもしれない恐怖。


母たちはユキトを愛していた。

それでも不安を抱えていた。


自分には無理だと思った。


人間を好きにはならない。

そう決めた。


なのに。


どうしても冷たく関係を切ることできなかった。


カイトはようやく認める。


これはもう、父だけのせいではない。


父が残した関係だった。

父が逃げた結果だった。

父は最低だった。


でも、今ここで拒絶できないのは自分だ。


自分の優柔不断さだ。


その時、担任が教室に入ってきた。


ざわついていた空気が、少しだけ落ち着く。


担任は教卓に立ち、手を叩いた。


「全員、落ち着け。今日は留学生を紹介する」


教室が一気に騒がしくなる。


「転校生?」

「この時期に?」

「女子?」

「海外から?」


担任は面倒そうに言った。


「ヴェルシア共和国から来た、アリシアさんだ」


カイトの思考が止まった。


アリシア?


一瞬、呼吸を忘れる。


けれど、すぐに否定しようとした。


同名の別人だ。

この世界にも、同じ名前の人間くらいいる。

外国人なら、アリシアという名前も珍しくないのかもしれない。


そう思おうとした。


だが、扉が開いた瞬間、その考えは砕けた。


入ってきたのは、アリシアだった。


自分を知っている姉。

シロネコ島から勝手についてきた姉。

この世界で唯一、自分がユキトではなくカイトだと知っている人間。


何も聞いていない。


学校に転入してくるなんて、何一つ聞いていない。


最近、アリシアの様子は確かに変だった。

危うい、と言った方が近い。


カイトが学校へ行くようになってから、アリシアは一人で出かけることが増えた。

帰ってきても、顔を合わせないまま自室へ戻る日もあった。


何をしていたのか、カイトは知らない。


聞く余裕がなかった。


ユキトとして生活すること。


それだけで精一杯だった。


アリシアが何をしていたのか。

何を考えていたのか。

カイトは見ていなかった。


教室の空気が変わる。


リオが目を見開く。

シオンの表情が冷える。

ユウナは静かにアリシアを見る。

クラスメイトたちは、突然現れた整いすぎた美少女にざわついている。


アリシアは教壇の横に立った。


濃紺寄りの青い髪。

整った顔立ち。

静かな所作。

ただ立っているだけで、教室の空気が少し変わる。


「アリシアです。しばらくの間、お世話になります。よろしくお願いします」


短い自己紹介だった。


彼女は顔を上げる。


一瞬だけ、カイトと目が合った。


周囲から見れば、何も変わらない表情だったと思う。


綺麗に整った顔。

落ち着いた目。

初めての教室でも動じない、礼儀正しい転校生。


けれど、カイトには分かった。


その目の奥に、薄い怒りがある。


声を荒げるほどではない。

顔に出すほどでもない。

他人なら見落とす程度の、わずかな温度。


けれど弟である自分には分かる。


姉は、怒っている。


理由はすぐに察しがついた。


リオとシオン。


自分は、父の二股を清算するために来た。

なのに、まだ何も終わらせていない。

それどころか、リオとシオンに少しずつ歩み寄ろうとしている。


アリシアは、それを知っている。

たぶん、どこかで見ていたのだろう。


救いが来たのではない。


裁きが、静かに教室へ入ってきた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ