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80/92

80.本当に嬉しかったんだよ

ユキトが戻ってきてから、一週間が過ぎた。


リオは戻ってきてから毎日、ユキトと一緒に登校している。


ただし、それは自然な流れではなかった。


朝、リオがユキトの家の前まで行く。

玄関から出てきたユキトを見つける。

袖を掴む。

明るく声をかける。

そのまま学校まで連れていく。


ほとんど、そういう手順になっていた。


「ほら、行くよ。今日も遅刻ギリギリなんだから」


そう言うと、ユキトは少し遅れて頷く。


「……そうだな」


前なら、そこで何か言い返してきた。


「毎朝俺に会いたいとか、自分に素直すぎんだろ」とか。

どうでもいい軽口を叩いて、リオが怒るまでがいつもの流れだった。


けれど、今のユキトは言わない。


袖を掴まれても、からかわない。

近くに寄っても、妙に気を遣う。

リオがわざと明るく話しかけても、少し遅れて返事をするだけだった。


最初は、それでもよかった。


帰ってきた。

生きていた。

自分の前にいる。


それだけで、胸の奥が熱くなった。


一週間と少し前、リオは本気でユキトがもう戻ってこないかもしれないと思っていた。

何度メッセージを送っても返事はなく、電話も繋がらず、既読もつかなかった。


だから、戻ってきたと知った時は、怒るより先に抱きついてしまった。


帰ってきた。

それだけでよかった。


そう思っていた。


けれど一週間も経つと、誤魔化せないものが出てくる。


隣を歩くユキトは、確かにユキトの顔をしていた。

声も、背格好も、制服の着方も、全部同じだった。


なのに、違う。


何かが、決定的に違っていた。


学校についても、それは変わらなかった。


勉強だけは、前と同じだった。


授業で当てられると固まる。

教科書の場所を探すのが遅い。

ノートを取る手も妙にぎこちない。

小テストの結果はひどい。


その日も、数学の授業でユキトが当てられた。


黒板の前に立たされたユキトは、しばらく問題を見つめていた。

チョークを持つ手が止まる。


教室の後ろの方から、誰かが小さく笑った。


「相変わらず勉強できねえな」


「そのままでいてくれ。頼む。あいつが上がってきたら、俺がワーストになる」


周囲に軽い笑いが広がる。


リオも、最初はそこで少し安心した。


ああ、ここは変わってない。


ユキトは相変わらず勉強ができない。

授業中に困った顔をする。

先生に呆れられる。


それだけ見れば、前と同じだった。


でも、それだけだった。


体育の時間になると、リオの中の安心はあっさり消えた。


短距離走。

球技。

反応練習。

何をやらせても、今のユキトはおかしかった。


速い。


ただ足が速いというより、身体の使い方に無駄がなかった。

ボールが飛んでくる前に、もう動き出している。

相手が踏み込む前に、半歩ずれている。

転びそうな体勢でも、足裏だけで姿勢を戻す。


前のユキトは、運動ができないわけではなかった。

けれど、本気を出す前に笑って逃げるタイプだった。


「いやー、俺って繊細だからさ。汗かくと魅力が減るんだよね」


そんなことを言って、周囲を笑わせていた。


なのに今は違う。


目立つ気がないのに、目立ってしまう。

本人は力を抜いているつもりなのに、動きが鋭すぎる。


リオはそれを見て、正直に思った。


すごい。


かっこいい。


けれど、そのすぐあとに胸が冷えた。


あれは、私の知ってるユキトじゃない。


前のユキトは、もっと軽かった。

もっと調子がよかった。

くだらないことを言って、怒られて、逃げて、笑って誤魔化した。


リオが距離を詰めれば、なんだかんだ反応した。

袖を引けば大げさなリアクションを取ってくれた。

少しからかえば、こちらが呆れるくらい調子に乗った。


今のユキトは、静かだった。


すぐ謝る。

冗談を受け流す。

人の話を黙って聞く。

ふとした瞬間、遠くを見る。

誰かと一緒にいても、心だけ別の場所にあるような顔をする。


リオは、その顔を見るたびに思った。


そんな顔が見たいわけじゃない。


昼休み、リオはいつものようにユキトの席へ行った。


「ねえ、購買行こ。今日限定パンあるんだって」


「……ああ」


ユキトは頷いて立ち上がる。


それだけだった。


前なら、絶対に何か言った。


「限定って言葉に女は弱いな」とか。

「今日は金もっているんだろうな?前みたいに貸すのは嫌だぞ」とか。

うざいくらい軽くて、くだらなくて、でも少しだけ楽しかった。


リオは笑顔を作ったまま、ユキトの袖を掴む。


掴んだ袖の先にある腕は、前より頼もしく感じた。

それなのに、近くにいる気がしなかった。


聞きたいことは、いくらでもあった。


あの一週間、どこにいたのか。

何があったのか。

誰といたのか。

どうしてそんな顔をするようになったのか。

なぜ帰ってきたのに、まだどこかへ行きそうな気配があるのか。


でも、聞けなかった。


シオンと決めていたからだ。


ユキトが戻ってきた翌日、リオとシオンは一度だけ二人で話した。


場所は、学校近くの公園だった。


リオは本当は、シオンと顔を合わせたくなかった。

けれど、ユキトが戻ってきた以上、避けていられなかった。


そこで決めた。


ユキトが消えていた一週間のことは、本人が話すまで聞かない。

ユキトの前で、正面から喧嘩しない。

ユキトを責めない。

ユキトを追い詰めない。

また逃げられないように、できるだけ普通に接する。


シオンはそれを、落ち着いた顔で言った。


「今の彼に、これ以上の言葉を向けないでください。……また、壊れてしまうかもしれませんから」


リオは、その言い方が少し気に入らなかった。


でも、反論はできなかった。


リオだって怖かった。

問い詰めて、ユキトがまたいなくなるのが。

今度こそ戻ってこなくなるのが。


だから頷いた。


普通にする。

明るくする。

何も聞かない。

責めない。

笑う。


それが、ユキトのためだと思った。


実際、リオは頑張った。


毎朝迎えに行った。

学校で声をかけた。

わざとくだらない話をした。

前と同じように距離を詰めた。

何も変わっていないふりをした。


けれど、その普通は少しずつリオの中に溜まっていった。


聞きたい。

でも聞けない。


怒りたい。

でも怒れない。


前みたいに笑ってほしい。

でも、そう言ったら責めているような気がする。


心配だったものが、いつの間にか不満に変わっていた。


そして放課後。


リオは、人気の少ない廊下でユキトを呼び止めた。


「ねえ」


ユキトが振り返る。


「どうした?」


その声が穏やかだったから、余計に苦しくなった。


リオは最初、いつもの調子で言うつもりだった。


軽く。

明るく。

冗談っぽく。


でも、口を開いた瞬間、声が崩れた。


「帰ってきたのに、なんでそんな暗い顔してるの?」


ユキトは黙った。


その沈黙に、リオの胸が詰まる。


「前みたいに笑ってよ」


言ってから、自分でもまずいと思った。


けれど止まらなかった。


「私、ずっと心配してたんだよ? 一週間、何も分からなくて、何度送っても返事なくて、本当に……」


喉が熱くなる。


泣きそうだった。


でも、泣きたくなかった。


泣けば負けた気がした。

ユキトにも、シオンにも。

何より、自分自身に。


「なのに、なんか私だけ空回りしてるみたいじゃん」


ユキトは何かを言おうとした。


けれど、言葉にはならなかった。


その反応が、リオには一番つらかった。


責めたいわけではない。

でも責めている。


怒りたいわけではない。

でも怒っている。


自分が嫌だった。


「怒りたいわけじゃないのに、止まらないの」


リオは唇を噛む。


「私、帰ってきてくれて嬉しかった。本当に嬉しかったんだよ」


ユキトの目が、ほんの少し揺れた。


それを見て、リオはますます苦しくなる。


「でも、今のユキトを見てると、嬉しいって言ってる私だけ惨めで馬鹿みたいじゃん」


廊下の空気が重くなる。


リオは俯かなかった。

涙もこぼさなかった。


でも、もう笑えなかった。


その時だった。


「前のように笑ってほしい、ですか」


背後から声がした。


リオは振り返る。


廊下の角に、シオンが立っていた。


偶然ではない。


リオにはすぐ分かった。


たぶん、シオンは待っていたのだ。

協定を破らないように。

リオがユキトを問い詰めないように。

あるいは、自分も一緒に帰るつもりだったのかもしれない。


最悪だと思った。


よりによって、今の自分をシオンに見られた。


シオンは静かに歩いてくる。


怒っているようには見えない。

声も荒げない。

けれど、その落ち着きがリオには嫌だった。


シオンはユキトの隣に立つ。


そして、そっと肩に触れた。


抱き寄せるほどではない。

けれど、リオに見せるには十分な距離だった。


「ずいぶん身勝手なお願いですね」


リオの胸に、冷たいものが刺さった。


シオンは続ける。


「彼が苦しそうにしているのに、あなたはまだ、自分が見たい顔を求めるんですか」


「……違う」


リオは反射的に言った。


「私は、そういう意味で言ったんじゃない」


「では、どういう意味ですか?」


シオンは微笑んでいない。


ただ、まっすぐリオを見ている。


「以前のように軽く笑って、あなたの冗談に反応して、あなたが安心できるユキト君でいてほしい。そう聞こえましたが?」


「違うって言ってるでしょ」


「本当に?」


その一言が、嫌だった。


リオは怒りたかった。

シオンを責めたかった。

あんたに何が分かるの、と言いたかった。


でも、言葉が詰まる。


刺さってしまったからだ。


自分は本当に、今のユキトを見ようとしていたのか。

前みたいに笑ってくれるユキトを、取り戻そうとしていただけではないのか。


迷いが生まれた。


それが悔しかった。


シオンは、さらにユキトの肩に触れる指を少しだけ強めた。


「今の彼を受け止められないなら、無理にそばにいなくてもいいんですよ」


リオは唇を震わせる。


嫌な女。


本気でそう思った。


このタイミングを見られただけでも最悪だった。

なのにシオンは、その弱さを逃さず刺してくる。


それだけじゃない。


リオには、シオンが今のユキトの弱さにつけ込もうとしているように見えた。


前のユキトは、軽くて、逃げて、笑って誤魔化して、場を引っかき回した。

だからシオンでも、完全には捕まえられなかった。


でも今のユキトは違う。


静かで、暗くて、なぜか罪悪感を抱えているように見える。

押されると黙る。

「変わった」と言われれば、受け入れてしまう。


シオンはそれを分かっている。


分かった上で、自分の隣に置こうとしている。


リオから見れば、それは恋人への態度ではなかった。


支配だった。


「ユキトは、あんたのものじゃない」


リオが言うと、シオンの目がわずかに細くなった。


「違いますよ。彼は、私のものです」


廊下が静まり返る。


その中心で、カイトは二人を見ていた。


リオが傷ついている。

シオンも怒っている。

そして自分は、その真ん中に立っている。


リオが求めているのは、前のユキトなのかもしれない。


なら、ここで黙っていればいい。


リオは傷つく。

シオンはさらに言葉を重ねる。

リオは耐えきれず離れるかもしれない。


それは、清算としては正しい。


父の過去を終わらせるなら、むしろ好都合だった。


たぶん、父ならそうした。


この場を利用したはずだ。


リオの不満も、シオンの嫉妬も、二人の対立も、全部まとめて利用して、どちらにも戻れない形にした。

傷つけるべき場面で傷つけ、嫌われるべき場面で嫌われ、最後には笑って逃げたかもしれない。


それができる男だった。


カイトは、そう思う。


でも、自分にはできなかった。


リオが本気で待っていたことを知っている。

何度もメッセージを送っていたことを知っている。

泣きそうな顔で抱きついてきたことを覚えている。

帰ってきたことを、本気で喜んでいた。


その感情を、清算のためと冷たく切り離すことはできなかった。


カイトは短く言った。


「やめろ」


二人の視線が向く。


カイトはシオンを見た。


「そういう言い方はするな」


空気が止まった。


リオは何も言わなかった。


けれど、その目がわずかに揺れる。


少なくとも、見捨てられなかった。

自分が傷つけられるのを、ユキトは止めてくれた。


そう思ってしまった。


やっぱり、ユキトは私を見てくれる。


その希望が胸の奥に灯った直後、自分が前のユキトばかり求めていたかもしれないという痛みも残る。


嬉しい。

でも苦しい。


リオは何も言えなくなった。


シオンも黙っていた。


自分はユキトのために言ったつもりだった。

彼を揺らすリオを止めようとした。

今の彼を受け入れられないなら離れた方がいいと、本気で思った。


なのに、彼はリオを庇った。


私では駄目なのか。


そんな言葉が、喉まで出かかった。


でも、そんなみっともない言葉は言えなかった。


カイトも何も言わなかった。


リオを見ていた。

シオンも見ていた。


けれど、どちらにも言葉をかけられなかった。


廊下に、三人分の沈黙だけが落ちる。


誰かが息をする音さえ、やけに大きく聞こえた。


責める言葉もない。

謝る言葉もない。

終わらせる言葉もない。


ただ、何かが決定的に変わってしまったことだけを、三人とも分かっていた。


先に動いたのは、リオだった。


「……ごめん」


いつもの明るさを作ろうとした声だった。


けれど、うまく形になっていない。


「今日、仕事あるから」


リオは鞄を持ち直す。


「また明日ね」


笑おうとした。


けれど、その笑顔は途中で崩れた。


リオは逃げるように歩き出す。


廊下を抜け、階段へ向かう。


足音が早くなる。


私は、前のユキトばかり見ていたのかもしれない。


リオは思った。


今のユキトを、ちゃんと見ようとしていなかったのかもしれない。


でも。


それでも。


庇ってくれた。


その事実が、胸の中で熱を持つ。


だから離れられない。


リオは走るように校舎を出た。


残されたカイトは、少しだけ目を伏せた。


帰ろう。


そう思った。


これ以上ここにいれば、また何かを間違える。


けれど、足を動かす前にシオンの様子が目に入った。


シオンは怒鳴らなかった。

泣きもしなかった。


ただ、静かに鞄を持っている。


いつもより丁寧に。

感情を乱さないように。

乱れていることを見せないように。


カイトには分かった。


傷つけた。


自分が、シオンを傷つけた。


以前、自分が沈んでいた時、シオンは何も聞かずに家まで送ってくれた。

あれが優しさだったのか、想いの押し付けだったのか、まだ判断できない。


でも、助けられたのは事実だった。


本当は、放っておくべきなのかもしれない。


ここで優しくすれば、また誤解が深まる。

さっきリオを庇ったあとにシオンへ手を伸ばせば、余計にひどいことになる。


分かっている。


それでも、できなかった。


カイトは短く言った。


「帰るぞ」


シオンは、何も言えなかった。


どこへ、とも聞けなかった。

一人で帰れます、とも言えなかった。


彼は手を引かない。

名前も呼ばない。

優しい言葉もかけない。


ただ、先に歩き出した。


その背中が、ついてこいと言っているようだった。


シオンは黙ってついていく。


リオを庇った。

けれど、自分を置いていくわけではなかった。


その事実だけで、少しだけ息ができた。


慰められたわけではない。

選ばれたわけでもない。

それでも、放っておかれなかった。


それが、今のシオンには十分だった。


二人は校門を出た。


夕方の街は、まだ人が多い。


制服姿の生徒たちが駅へ向かい、部活帰りの声が遠くで響く。

車が通り、信号が変わり、店先の明かりが少しずつ濃くなっていく。


彼は黙って歩いている。

シオンも黙ってついていく。


会話はなかった。


けれど、シオンは途中から気づいていた。


彼は、自分の家の場所を知らない。


それでも、しばらく黙っていた。


彼なりに、自分を送ろうとしている。

以前なら、こんな不器用なことはしなかった。面倒な空気になる前に笑って逃げたはずだった。


その不器用さを、もう少しだけ眺めていたかった。


やがて、彼の足が止まる。


交差点の前だった。


彼はほんの少しだけ迷った顔をした。


シオンは、そこでようやく口を開いた。


「……送ってくださるおつもりでしたか?」


彼は気まずそうに視線を逸らす。


「そのつもりだった」


シオンは少しだけ笑った。


勝ったからではない。

安堵したからだった。


「嬉しいです。ですが、残念ながら私の家は反対方向です」


彼が固まる。


「……早く言え」


「もう少し、見ていたかったので」


「何を」


「あなたが、どこまで私を送ってくださるつもりなのかを」


そう言うと、彼は困ったように息を吐いた。


その顔を見て、シオンの胸が少しだけ軽くなる。


この人は、以前はもっと軽薄だった。


面倒な空気になる前に笑って逃げた。

踏み込まれそうになれば、冗談で誤魔化した。

失踪前の彼なら、家の場所が反対方向だと知った時点で、適当な言葉を残して消えていただろう。


でも、確かに変わった。


少なくとも、私を一人にはしなかった。


私にとっては、いい方に。


それだけで、さっきの痛みが少しだけ薄まった。


シオンは歩く向きを変えた。


「よろしければ、このまま少し付き合ってください」


「どこに」


「落ち着いて話せる場所です」


彼は少し警戒した顔をする。


シオンはそれを見て、穏やかに言った。


「こういうお店、好きでしたよね?」


視線の先には、ファミレスがあった。


カイトは店を見上げる。


一週間前なら、きっと戸惑っていた。


だが、今は違う。


現代に来てから、すでに何度か外を歩いた。

アリシアと一度、こういう店にも入ったことがある。

注文の仕方も、支払いの流れも、ある程度は分かっている。


だから流された。


「少しだけなら」


「ありがとうございます」


シオンは先に歩き出した。


店内に入ると、彼女は自然に奥の席を選んだ。


周囲から見えにくい席。

長居しても目立ちにくい場所。

落ち着いて話せる位置。


シオンは迷わなかった。


彼を壁側に座らせ、自分は通路側に座る。

メニューを開き、彼の前に置く。


「これなら食べやすいと思います」


彼がメニューを見る。


「勝手に決めるな」


「決めてはいません。おすすめしているだけです」


シオンは柔らかく言う。


「飲み物は、前に飲んでいたものに近い味だと思います。甘すぎるものは苦手でしたよね」


彼は少し戸惑った。


だが、強く拒む理由もなかった。


シオンは、それを自然なことだと思っていた。


困らないようにする。

迷わないようにする。

彼がこの席から立たなくてもいい理由を整える。


それはシオンにとって、愛情だった。


彼が安心して自分の前に座っていられるようにする。

彼が自分の前からいなくならいようにする。

彼がここにいる理由を、一つでも増やす。


そのどこが悪いのか、シオンには分からなかった。


注文を終える前に、彼が言った。


「俺が払う」


シオンは微笑む。


「私が誘ったんですから、私が払います」


「いや、金はあるから大丈夫」


「そういう問題ではありません」


こういう時は、男性に主導権を譲る方が可愛げがある。


それくらいは、シオンにも分かっていた。


それでも、今日は譲れなかった。


「今日は、私が払いたいんです」


彼は困った顔をした。


シオンは、その困った顔を見る。


彼を困らせたいわけではない。

けれど、受け取ってほしかった。


自分が誘った。

自分が席を選んだ。

自分が注文を整えた。

なら、この時間は自分が守りたい。


そう思った。


注文が終わると、少し沈黙が落ちた。


先に話したのはシオンだった。


「別に、リオさんが嫌いなわけではありません」


嘘ではない。


完全な嘘ではない。


嫌いではある。

目障りだと思う。

彼の視線を奪うところも、感情をむき出しにできるところも、全部嫌だった。


でも、それだけではなかった。


リオは眩しい。


泣きそうになれば、彼が見てしまう。

怒れば、彼が止めてしまう。

笑えば、彼の視線を自然に持っていく。


自分が整えようとしている場所に、土足で入り込んでくるように見える。


けれど、彼女の感情が本物だったことも分かっている。


だから余計に、嫌だった。


「ただ」


シオンは指先を膝の上で重ねる。


「あなたが私の前で、あの子を気にするのが嫌なんです」


彼は黙っていた。


「私が隣にいるのに、あなたが別の女の顔を見るのが嫌」


声は荒れていない。

むしろ、丁寧だった。


だからこそ、言葉の奥にある感情が隠れない。


「あの子が傷ついた時、あなたが放っておけないのが嫌」


彼は何かを言いかけた。


けれど、言わなかった。


シオンには、それが分かった。


彼は何かを隠している。


消えていた一週間のこと。

戻ってきてからの変化。

今も時々見せる、知らない場所を思い出しているような顔。


聞きたい。


本当は、今すぐ問い詰めたい。


けれど、聞けばまた逃げるかもしれない。

壊れるかもしれない。

自分の手の届かない場所へまた行ってしまうかもしれない。


だからシオンは、別の話をした。


「私たち、決めていたんです」


彼の目が少しだけ動く。


「あなたが消えていた一週間のことは、無理に聞かない。あなたの前で争わない。あなたを追い詰めない」


シオンは静かに続ける。


「もう一度、逃げられないように」


彼は黙っている。


その沈黙を、シオンは見つめた。


自分たちは努力していた。


リオも、シオンも、形は違うが我慢していた。

聞きたいことを聞かず、怒りたいことを飲み込み、普通でいようとしていた。


それを伝えたかった。


責めるためではない。


分かってほしかった。


私たちは、あなたを傷つけないようにしていた。

だから、あなたもどこかへ行かないで。


その言葉だけは、口にしなかった。


言えば重くなる。

縋っているように聞こえる。


さっき、彼は自分を置いていかなかった。

反対方向だと知らなくても、送ろうとしてくれた。


その小さな気遣いが、シオンに少しだけ余裕をくれた。


だから、次の言葉を選べた。


「あなたが望むなら、私は我慢します」


彼が顔を上げる。


シオンは微笑んだ。


きれいに。

崩れないように。


本当は嫌です。

本当は、絶対に嫌です。


リオと並ぶなんて嫌。

半分なんて嫌。

彼が別の女の子に笑うのも嫌。

目を向けるのも嫌。


でも、それを今ここでぶつければ、彼を困らせる。


さっき自分を気遣ってくれた彼を、これ以上追い詰めたくなかった。


だから、シオンは言葉を整える。


「リオさんが必要なら、それでもいいです」


彼の表情が固まる。


「二人とも、という形でも」


彼は何も言えなかった。


否定もしなかった。

肯定もしなかった。


ただ、何かを言おうとして、言葉を失っていた。


シオンには、その沈黙の意味が分からない。


彼がユキトではないから言えない。

そんな真実を、シオンは知らない。


だから、別の意味に受け取る。


困らせてしまった。

でも、拒まれたわけではない。


なら、まだそばにいていい。


シオンは視線を落とす。


そして、最後の一線だけは抑えきれなかった。


「でも」


声が少しだけ小さくなる。


「私を捨てないで」


その言葉を言った瞬間、シオンは自分の指先に力が入るのを感じた。


支配したい。

囲いたい。

逃がしたくない。


けれど、その奥にあるのはもっと単純な恐怖だった。


置いていかれたくない。


彼が何かを言おうとする。


シオンには分かった。


今、何かを言われる。


それが優しい言葉なら、泣いてしまうかもしれない。

それが拒絶なら、耐えられないかもしれない。

それが真実なら、壊れてしまうかもしれない。


だから、シオンは先に閉じた。


「今日はありがとうございました」


彼が動きを止める。


シオンは席を立つ。


「めんどくさい女で、ごめんなさい」


その声は、普段より少しだけ柔らかかった。


会計は、すでに済ませていた。


彼が払うと言ったのに、もう終わっている。


彼に払わせたくなかった。

彼に、この場を終わらせる権利を渡したくなかった。


自分が誘って、自分が席を選んで、自分が支払い、自分が終わらせる。


そうすれば、少なくともこの時間は、自分のものだったと言える気がした。


シオンは鞄を持つ。


「また明日、学校で」


そう言って、彼女は店を出ていった。


カイトは一人、席に残された。


テーブルの上には、飲みかけのグラスが二つある。

さっきまで向かいに座っていたシオンの席は、もう空いていた。


リオを庇った。

シオンを放っておけなかった。

けれど、どちらにも本当のことは言えなかった。


父の過去を清算しに来たはずだった。


けれど今日も、誰も選ばず、誰も手放せなかった。


ほどけかけた糸を、自分の手でまた結び直してしまった。


そんな気がした。

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