79.待つだけは、終わった。
カイトが学校へ行ってから、家はひどく静かになった。
アヤカは仕事へ出ている。
ユキトの部屋には、父のものだった机と、薄い箱のような機械が残っている。
そして、アリシアだけが残された。
三日前まで、彼女はこの世界の文字さえ読めなかった。
それでも、何もしていなかったわけではない。
カイトが勉強に疲れ眠ったあと、アリシアはユキトの残した機械を触り続けた。
最初は、ただの光る箱だった。
文字は読めず、画面の意味も分からず、触るたびに知らない窓が開いて、何度も閉じ方が分からなくなった。
それでも覚えた。
翻訳という機能。
検索という行為。
学校という制度。
留学。
編入。
保証人。
学費。
在留資格。
身元。
分からない言葉ばかりだったが、三日もあれば輪郭は掴める。
この世界では、人がどこかに所属するには、まず名前が必要だった。
その名前を証明する紙が必要だった。
さらに、その紙を信じる別の紙が必要だった。
元の世界よりも、よほど面倒だった。
剣を抜かなくても、人を拒める世界。
それが、アリシアが三日間で理解した現代日本だった。
朝、リオが迎えに来た。
「ユキト、行こ!」
玄関の向こうから、明るい声がした。
カイトは一瞬だけ振り返った。
昨日の夜、彼は言っていた。
今日こそは話す。
自分はユキトではないと。
少なくとも、今の関係は違うと。
けれど、玄関で待っていたリオは、あまりにも自然にカイトの袖を掴んだ。
「ほら、遅れるって。久しぶりなんだから、ちゃんと一緒に行くよ」
「いや、俺は――」
「話なら歩きながら聞く」
そう言われて、カイトはまた止まった。
アリシアは、廊下の奥からそれを見ていた。
責める気にはなれなかった。
カイトが弱いのではない。
カイトがだらしないのでもない。
あの子は優しい。
泣いている人間を切れない。
待っていた人間を突き放せない。
自分に向けられた感情が、たとえ父のものだったとしても、乱暴に壊せない。
だからこそ、危うい。
リオはカイトをユキトとして見ている。
シオンもそうだ。
学校へ行けば、もっと多くの人間が、カイトをユキトとして扱う。
このままでは、カイトは父の過去の中に沈む。
父の名前で呼ばれ、父の席に座り、父の恋人に手を引かれ、父の逃げた答えを求められる。
それは違う。
カイトはユキトではない。
父の代わりではない。
カイトはカイトだ。
私の愛した人だ。
玄関の扉が閉まった。
家の中に残った静けさが、アリシアの胸にゆっくり沈む。
同じ土俵に立てない。
リオは同じ道を歩ける。
シオンは同じ学校で待てる。
同じ教室で、同じ昼休みで、同じ放課後で、カイトに手を伸ばせる。
自分だけが家に残されている。
それが耐えられなかった。
アリシアは机へ向かった。
ユキトの機械を起動する。
画面に文字が並ぶ。
もう、ただの知らない記号ではなかった。
ゆっくり、指を動かす。
検索窓に、覚えたばかりの言葉を打ち込む。
高校。
編入。
留学生。
私立。
保証人。
費用。
何度も調べた。
カイトの通う学校の名前も分かっている。
そこは私立だった。
受け入れ制度もある。
編入の相談窓口もある。
学力があり、保証人がいて、費用を払えるなら、絶対に無理というわけではない。
ただし、必要なものが多すぎた。
外国籍。
在留資格。
身元保証。
前の学校の証明。
学費。
生活費。
その他、いくつもの書類。
アリシアは画面を見つめた。
国籍はない。
戸籍もない。
在留資格もない。
前の学校も、元の世界でも学校なんて行ったことはない。
そして、金も――
そこで、思考が止まる。
いや。
金ならある。
アリシアは立ち上がった。
客間に置かれた荷物の中から、布で厳重に包まれた塊を取り出す。
金塊。
ヴォルカ母様が持たせてくれた、異世界の家族からの餞別。
カイトが受け取ったものの半分。
これはもう、カイトに許可を取ってある。
昨夜、アリシアは聞いた。
「この半分を、私が私のために使ってもいいでしょうか」
カイトは少し驚いたあと、すぐに頷いた。
「姉さんが必要だと思うなら使えばいい。元々、俺一人の金じゃない」
それを聞いた時、胸が少しだけ痛んだ。
カイトは優しい。
だから、流される。
だから自分が動かなければならない。
アリシアは金塊を鞄に入れた。
そして、家を出た。
街は、三日前よりもずっと冷たく見えた。
最初の店では、若すぎるという目で見られた。
二軒目では、身分証を求められた。
三軒目では、金塊の出所を聞かれた。
四軒目では、口座が必要だと言われた。
どこへ行っても同じだった。
金はある。
価値もある。
だが、アリシアには名前がない。
この世界では、名前のない人間は金すら売れない。
昼を過ぎた頃、アリシアは駅近くのベンチに座っていた。
人が行き交う。
誰も彼女を見ないわけではない。
むしろ、多くの視線が向けられていた。
異国人に見える容姿。
整いすぎた顔立ち。
綺麗な髪。
どこか現実離れした雰囲気。
だが、誰も本当に近づいてはこなかった。
一人を除いて。
「ねえ、君」
軽い声がした。
アリシアが顔を上げると、若い男が立っていた。
派手すぎないが、妙に軽い服装。
整えた髪。
自信のある笑顔。
相手の反応を見ながら距離を詰める、慣れた立ち方。
「困ってる? 日本語分かる?」
「分かります」
「お、話せるんだ。すごいね。旅行? 留学? 迷子?」
「違います」
「違うんだ。じゃあ何してるの?」
「金を売ろうとしていました」
男の笑顔が止まった。
「金ってあの、黄金?」
「そうです」
「……急に話が重いな」
アリシアは鞄を抱きしめた。
ここで逃げるべきか。
それとも利用すべきか。
少し悩んだが判断した 利用する、と。
「あなたは、身分証を持っていますか」
「持ってるけど」
「口座は」
「あるけど」
「では、協力してください」
男は一歩引いた。
「待って。美人に声かけたら犯罪の入口みたいな話始まったんだけど」
「犯罪ではありません」
「いや、その言い方はだいたい犯罪なんだよな」
アリシアは鞄から、布に包んだ金塊を少しだけ見せた。
男の目が変わった。
「……本物?」
「本物です」
「え、マジ?」
「これを売るのに協力してくれれば、三十万円お渡しします」
男は一度、周囲を見た。
それから、もう一度アリシアを見た。
「三十万?」
「はい」
「俺、ツキジ」
「はい?」
「俺の名前はツキジ。ツッキーって呼んで?」
「では、ツキジさん」
「距離感かてえな。まあいいや」
彼は笑った。
「詳しく聞こうか」
手続きは面倒だった。
いくつもの確認があり、書類があり、ツキジが妙に軽い口調で受け答えした。
アリシアは横で黙っていた。
店員の目は鋭かったが、ツキジは笑って流した。
「いや、親戚から頼まれたやつで。俺が代表で来ただけっす」
それが本当かどうかは、誰にも分からない。
少なくとも、その場では通った。
しばらくして、金が用意された。
金額は、約一千二百万円。
アリシアは、厚みのある札束を見ても表情を変えなかった。
ツキジの方が、むしろ震えていた。
「いや、マジかよ……人生で初めて見たわ、こんな現金」
「約束の三十万円です」
アリシアは封筒に入れた札を渡す。
ツキジは両手で受け取った。
「やったぜ、ラッキー!」
その言葉に、アリシアは少しだけ眉を動かした。
どこかで聞いたような響きだった。
ツキジは封筒を鞄にしまい、急に元気になった。
「じゃあさ、このまま飯行こうぜ。俺が奢るから」
「今渡したお金でですか」
「細かいこと言うなって。ほら、せっかくだし。日本のうまいもん食わせるよ。寿司とか焼肉とか」
アリシアは手元の金を見る。
一千二百万円。
大金だ。
だが、足りない。
調べた怪しい仲介先は、身元の整備だけで一千万円を超える可能性があった。
それに、学費もいる。
制服もいる。
通学に必要な物もいる。
失敗した時の予備も必要だ。
カイトに渡す分を残せば、自由に使える額はさらに減る。
足りない。
まだ、同じ土俵には立てない。
アリシアは顔を上げた。
「分かりました」
「お、マジで?」
ツキジの顔が明るくなる。
「では、行きましょう」
「どこ? 飯? 映画? 買い物?」
「競馬場です」
「なんでや!」
競馬場は、金と欲望がむき出しになる場所だった。
人が多い。
歓声がある。
紙と電子画面に、数字と名前が並んでいる。
馬の匂い。芝の匂い。汗の匂い。金の気配。
アリシアはそのすべてを静かに見ていた。
ツキジは隣でまだ納得していない顔をしている。
「なあ、ほんとに競馬すんの? デートじゃないの?」
競馬場の入口で、ツキジはまだ納得していない顔をしていた。
「必要な確認があります」
「何の確認だよ」
「この世界で、私がどれだけ動けるかです」
「……競馬場で?」
「はい」
ツキジはしばらく黙り、それから苦笑した。
「変な子だなあ。まあいいけど。ツッキーって呼んでくれたら、もっと案内する気出るんだけど」
「ツキジさん」
「かてえなあ」
競馬場は、思っていたよりも広かった。
人の声が重なっている。
数字が並ぶ画面。
紙を握りしめる人々。
馬の名を叫ぶ声。
どこか浮ついた熱と、負けた者の濁った息。
金の匂いがした。
本物の金属ではない。
欲望の匂いだ。
アリシアは静かに周囲を見回した。
ツキジは隣で説明を始める。
「あれがオッズ。人気ある馬は配当が低い。人気ない馬が来るとデカい。まあ、普通は来ないから人気ないんだけどな」
「なるほど」
「買うなら堅いのにしとけよ。っていうか、ほんとに買うの?」
「買いません」
「え?」
ツキジは拍子抜けしたように瞬きをした。
「買わないの?」
「最初は見ます」
「なんだよ。じゃあ競馬デートじゃん」
「違います」
「え?そこは否定すんのかよ」
アリシアは馬場へ目を向けた。
最初のレース。
ここでは金を賭けない。
目的はこのレースで金を増やすことではない。
この世界でも魔法が使えるのか。
馬に干渉できるのか。
人に気づかれない範囲で、どこまで届くのか。
それを確かめることだった。
神は竜を存在ごと隠している。
角も尾も、人の目には映らないようにされている。
なら、魔法も同じように消されている可能性があった。
あるいは、魔法を使った瞬間、この世界から弾かれるかもしれない。
強制的に送り返されるかもしれない。
最悪、カイトにまで影響が出るかもしれない。
怖い。
けれど、いずれ絶対に必要になる。
カイトを守るために。
自分がこの世界で動くために。
同じ場所に立つために。
アリシアは指先に、ほんのわずかな魔力を通した。
風を見る。
芝の上を流れる空気を見る。
馬の呼吸に触れる。
変わらない。
前の世界と同じだ。
魔法は使える。
その事実に、胸の奥で小さく息を吐いた。
ゲートが開いた。
馬たちが一斉に飛び出す。
歓声が上がる。
アリシアは瞬きもせずに見ていた。
前に出る馬が多い。
人気のある馬同士が位置を譲らず、最初から速い流れになっている。
ツキジが隣で呟いた。
「あー、これ前きついな」
「きつい、とは?」
「前でやり合ってる。こうなると、最後に後ろのやつが飛んでくることがある」
「後ろの馬が」
「まあ、あるってだけな。毎回そんな都合よくはいかねえよ」
アリシアは後方にいた一頭を見た。
人気は低い。
だが呼吸の乱れが少ない。
前の馬たちが力を使っている中で、まだ脚を残している。
アリシアは、ほんの少しだけ魔力を流した。
風を押すのではない。
ただ、馬の鼻先を通る空気を整える。
芝を蹴る脚が沈みすぎないよう、わずかに流れを変える。
観客には分からない。
騎手にも分からない。
けれど、届いている。
最後の直線。
前で競っていた馬たちの脚が鈍った。
後ろにいた馬が、外から伸びてくる。
ツキジが目を見開いた。
「うわ、来た。マジか、差すぞ、あれ」
後方から来た馬が、そのまま前をまとめて差し切った。
ゴール。
競馬場に、どよめきが広がる。
ツキジは両手で頭を抱えた。
「今のすごかったなー。最後、後ろからまとめて差したぞ」
「珍しいのですか」
「まあ、たまにある。でもああいうの見ると夢見ちゃうんだよな。人気ない馬でも、展開ひとつで全部ひっくり返る」
アリシアはその言葉には答えなかった。
混戦。
前の消耗。
後方に残る脚。
最後に開く道。
この形なら、勝てる。
「今のはたまたまだぞ」
ツキジが言った。
「そうなのですか」
「そうなのですかっていうか、そういうもんだよ。前が潰れないと後ろは届かないし、後ろに脚が残ってても進路なきゃ終わり。競馬はそんな簡単じゃねえ」
アリシアは頷いた。
だが、彼の言葉は少し違って聞こえていた。
たまたま起きたなら、起こせばいい。
次の出走表を見る。
そこにも、似た馬がいた。
人気は低い。
前半は後ろに控える。
最後に脚を使う型。
さらに、前に出たがる馬が何頭かいる。
流れが速くなれば、さきほどと同じ形を作れる。
アリシアはその大穴の番号を指した。
「次はこれにします」
ツキジは軽く笑った。
「また見るだけ?」
「いいえ」
アリシアは鞄を開いた。
母なら止めただろうか。
父なら笑っただろうか。
どちらに似たのかは、考えたくなかった。
札束を取り出す。
ツキジの顔から笑みが消えた。
「待て待て待て待て」
「何ですか」
「何ですかじゃねえよ。まさか買う気?」
「はい」
「いくら」
アリシアは分けておいた金を示した。
「これです」
ツキジは一瞬、言葉を失った。
「いや、それ、さっきの金の大半じゃねえか!」
「四割です」
「四割は大半なんだよ、普通の人間には!」
「五割はカイトに渡します」
「誰だよカイト!」
「私の大切な人です」
「今それ聞きたくなかったな!」
ツキジは本気で止めようとした。
「やめとけ。マジで。さっきの見て勘違いしたんだろうけど、同じことが続くとは限らねえから」
「続けます」
「勝てる保証なんてねえぞ」
「あります」
「どこに」
アリシアは馬場を見た。
「作ります」
ツキジは固まった。
「……お前、時々すごい怖いこと言うな」
それでも彼は、手続きを手伝った。
最初は、自分の分だけ少額を人気馬に入れるつもりだったらしい。
けれど、投票機の前で、ツキジはしばらく迷った。
「普通は絶対こっちなんだよ」
彼は人気馬の番号を指した。
「馬も強い。騎手も上手い。前走もいい。こういうのは、普通に走れば普通に勝つ」
「そうですか」
「そうですかじゃねえよ。お前のは夢見すぎなんだよ。さっきの見て勘違いしてるだけ。そう何回も都合よく後ろから飛んでくるわけないだろ」
「では、ツキジさんはこちらを買えばいいのでは」
「……そうなんだけどさ」
ツキジは、ちらりとアリシアを見た。
アリシアは表情を変えず、ただ自分の選んだ馬の番号を見ている。
その目が、妙に本気だった。
ツキジは頭を掻いた。
「あー、もう。しょうがねえな」
「何がですか」
「負け確定だけど、俺もお前に賭けてみるわ」
「私に?」
「馬じゃなくてな。お前に」
ツキジは小さく笑って、アリシアと同じ番号を選んだ。
「外れたら飯くらい奢れよ」
「先ほど報酬を渡しました」
「そういう現実的な話を今するな」
「では、勝ったら?」
「勝ったら……ツッキーって呼べ」
「考えておきます」
「それ絶対呼ばないやつじゃん」
レースが始まった。
ゲートが開き、馬たちが飛び出す。
アリシアの選んだ馬は後ろに下げた。
想定通り。
前では数頭が位置を取り合っている。
先ほどと似た形になりかけている。
アリシアは静かに魔力を流した。
前の馬たちの呼吸を、ほんの少し乱す。
外から競りかける馬の気勢を、わずかに強める。
大穴馬の肺に入る空気を澄ませる。
同じ形を作る。
そのつもりだった。
だが、向こう正面に入ってすぐ、アリシアは違和感を覚えた。
人気馬の騎手が、想像より早く動いた。
無理に前へ行かない。
かといって下げすぎもしない。
周りの馬に脚を使わせながら、自分は余力を残している。
前は乱れているように見える。
だが、中心にいる人気馬だけは崩れていない。
「……」
アリシアの目が細くなる。
上手い。
馬も強いが、乗っている人間が馬の苦しさを知っている。
三コーナー。
アリシアの選んだ馬はまだ後方にいる。
呼吸は整っている。
脚も残っている。
だが、前との差が詰まらない。
ツキジが横で声を上げた。
「ほら、後ろすぎるって!」
「まだです」
「いや、さっきと違う。前が潰れてねえ」
「こちらの馬も脚は残っています」
「残ってても届かなきゃ意味ねえんだよ!」
第四コーナー。
大穴馬が動き出す。
アリシアは魔力を強めた。
進路の空気を軽くする。
蹄の沈みを抑える。
呼吸を整える。
伸びている。
間違いなく伸びている。
だが、人気馬も止まらない。
直線に入った。
歓声が膨れ上がる。
人気馬が先頭に立つ。
並びかけた馬を振り切る。
さらに前へ出る。
強い。
予想以上に粘る。
「……あー」
ツキジの声が落ちた。
さっきまで騒いでいた声ではなかった。
諦めた人間の声だった。
アリシアは前を見たまま尋ねる。
「何ですか」
「こりゃ無理だな」
心臓が、嫌な音を立てた。
「なぜです」
「前が止まってねえ。あの人気馬、まだ脚残ってる。差し馬ってのは、前がバテてくれねえと届かねえんだよ」
「こちらの馬も伸びています」
「伸びてる。でも足りねえ。距離が足りねえ」
距離。
その言葉が、冷たく響いた。
魔法は通っている。
この世界でも、前の世界と変わらず使えている。
それは間違いない。
なのに、届かない。
アリシアは競馬を舐めていた。
馬が強い。
騎手が上手い。
展開が崩れない。
たったそれだけで、魔法を使っても届かない場所がある。
額に冷たい汗が滲む。
このまま負ければ、金は消える。
学校へ行くための道も遠のく。
カイトはまた一人で、父の過去の中へ行く。
リオの隣へ。
シオンの待つ教室へ。
それだけは嫌だった。
「……まだです」
アリシアは小さく言った。
「は?」
「まだ、終わっていません」
これ以上は危ない。
空気を動かしすぎれば不自然になる。
馬の体に無理をさせれば壊れるかもしれない。
この世界の仕組みに、何かを感知される可能性もある。
それでも。
アリシアは指先を握り込んだ。
あの子を、父の過去の中に一人で置いておくわけにはいかない。
風が変わった。
観客には分からない。
騎手にも、おそらく分からない。
けれど、大穴馬の鼻先を撫でる空気だけが、わずかに軽くなる。
後ろから来る大穴馬の進路に、細い道が開いた。
前を行く人気馬の周りだけ、風が少し重くなる。
だが、本命馬は止まらなかった。
「……やっぱり負けるわ、これ」
ツキジの声が震えた。
アリシアは奥歯を噛む。
届け。
勝て、ではない。
届け。
ただ、それだけを思った。
大穴馬が外から伸びる。
一馬身あった差が、半馬身になる。
半馬身が、首差になる。
観客の声が一つの塊になった。
人気馬の騎手が必死に手綱を押す。
その馬も、最後の力を振り絞るようにもう一度伸びた。
突き放される。
そう見えた。
けれど、大穴馬も沈まない。
首が並ぶ。
鼻先が並びかける。
ゴール板が迫る。
「差せ、差せ、差せ……!」
ツキジが、いつの間にか叫んでいた。
人気馬の首が、まだ前にある。
大穴馬の鼻先が、そこへ食らいつく。
もう一歩。
もう半歩。
届かない。
届く。
分からない。
二頭がほとんど重なったまま、ゴール板を駆け抜けた。
一瞬、全ての音が遠くなった。
「……どっちだ」
ツキジが呟いた。
アリシアにも、分からなかった。
魔法を使った。
空気を変えた。
馬を助けた。
それでも、分からない。
こんな勝負があるのか。
掲示板が変わるまでの時間が、異様に長かった。
アリシアは自分の手が冷えていることに気づいた。
指先が震えている。
ツキジも黙っていた。
さっきまで軽かった男が、今は本気で画面を見上げている。
そして、番号が灯った。
一着。
アリシアが選んだ馬の番号だった。
「……」
ツキジが一拍遅れて叫んだ。
「勝ってる! 勝ってるぞ、おい! マジかよ! お前、マジで勝ってる!」
周囲に広がったのは、歓声ではなく悲鳴だった。
馬券を握った男が頭を抱える。
隣の老人が「嘘だろ」と呻く。
誰かが椅子を蹴り、誰かが空を仰いだ。
大穴が来た。
その中で、ツキジだけが勝った側の声を上げていた。
アリシアは、ようやく息を吐いた。
膝から力が抜けそうになったが、何とか立っていた。
「……もう二度と、賭け事はしません」
「勝った人間の顔じゃねえよ、それ!」
ツキジは興奮しながら払い戻しへ向かった。
戻ってきた時、彼の顔は完全に引きつっていた。
金が増えていた。
現実味のない額だった。
ツキジは札束を抱え、アリシアの前に立った。
「いや……すごいな。ほんとに。何なんだよ、お前」
「協力、感謝します」
「感謝します、じゃなくてさ。飯行こうぜ。いや、飯っていうか、ちゃんと話そうぜ。俺、今日のこと一生忘れられねえよ」
ツキジは笑いながら振り返った。
「なあ、もうツキジでいいからさ――」
そこに、アリシアはいなかった。
人混みの中に、もう姿はない。
ツキジは固まった。
手元には、最初に約束した三十万円とは別に、もう一つ小さな封筒が残されていた。
中には追加の金と、短いメモ。
丁寧な字で書かれていた。
『助かりました。ですが、私を探さないでください』
ツキジはしばらくそれを見ていた。
それから、力なく笑った。
「……何なんだよ、あの女」
夕方、アリシアは家へ戻った。
鞄の中には金がある。
学校へ入るための金。
カイトに渡すための金。
そして、この世界で動くための金。
魔法も使えた。
この世界でも、前の世界と変わらなかった。
それは確認できた。
だが、勝ったという実感はなかった。
競馬は怖い。
魔法を使っても、勝てるかどうか分からなかった。
最後は祈るしかなかった。
こんなものに何度も手を出す人間は、正気ではない。
アリシアは玄関の前で一度立ち止まった。
金はできた。
魔法も使えると分かった。
でも、まだ名前がない。
身分がない。
学校へ行くには、まだ壁がある。
それでも、昨日までとは違う。
もう、ただ待つだけではない。
アリシアは扉を開けた。
カイトが帰ってくるまでに、次の手を考えなければならない。
リオとシオンがいる場所へ。
父の過去でできた檻の中へ。
カイトが一人で向かわなくて済むように。
アリシアは靴を脱ぎ、静かに家へ上がった。
待つだけは、終わった。
もしも、この光景をヴォルカたちが見ていたなら。
最初に声を失ったのは、ヴォルカだった。
「……私の金塊が、競馬場に行きました」
そこだった。
フローラが目を開ける。
「そこからですか?」
「そこからです。大事です。私は、カイト君が困らないようにと思って渡したんです。まさか、知らない男を利用して売られて、そのまま競馬場に運ばれるとは思っていませんでした」
「まあ、普通は思いませんね」
ネムリアが小さく頷いた。
「ヴォルカの金塊、走った」
「走ってません。馬が走ったんです」
「でも、金塊が馬になった」
「嫌な表現をしないでください、ネムリアさん」
ヴォルカは頭を抱えた。
「どうしましょう。私、間違ったものを持たせてしまったのでしょうか。金は必要だと思ったんです。カイト君たちの助けになると思ったんです。でも、あんな……あんな危ない使い方を……」
ネムリアがこくりと頷く。
「ヴォルカの愛、単勝」
「やめてください!」
ヴォルカの声が裏返った。
その必死さがあまりにも真面目で、あまりにも気の毒で、フローラはすぐには慰めの言葉を出せなかった。
少しだけ視線を逸らす。
「少なくとも、使い道は間違っていません。目的は、カイトを助けることですから」
「方法が間違っていませんか?」
「そこは……かなり、議論の余地があります」
ネムリアが眠そうに呟いた。
「でも、アリシア、待つのやめた」
その一言で、ヴォルカは何も言えなくなった。
金塊は競馬場へ行った。
それでも、娘はようやく、自分の足で走り出していた。




