78.変わってもいい
リオとシオンが家に来た日から、三日が過ぎた。
その間、カイトとアリシアはほとんどユキトの部屋から出なかった。
机の上には教科書が積まれ、黒い板の画面には文字が並び、床には開いたままのノートが何冊も散らばっていた。
ひらがな。
カタカナ。
漢字。
最初にそれを知った時、カイトは冗談かと思った。
「文字の種類、多すぎだろ」
「同感です」
アリシアは画面と教科書を見比べながら、指先で文字をなぞっていた。
「同じ音なのに形が違うものがあります」
「俺に言うな。俺も知らねえ」
「この国の人は、よくこれを普通に使っていますね」
カイトはしばらく黙り、苦々しく呟いた。
「親父の言う通り、教育水準は高いな……」
アリシアは否定しなかった。
三日目には、短い文章ならどうにか読めるようになっていた。
ただ、読めることと、分かることは別だった。
教科書の文はまだ固い。
学校制度も分からない。
スマホの中には、触るたびに知らないものが出てくる。
カイトは、画面を見下ろした。
指先が、緑色のアイコンに触れる。
開いたのは、チャットアプリだった。
名前が並んでいた。
リオ。
シオン。
その文字を読めた瞬間、胸の奥が変な鳴り方をした。
この二人の名前を、カイトはここで初めて知った。
リオの欄には、明るい絵文字がいくつも並んでいた。
だが、その間に挟まった言葉は、明るくなかった。
どこにいるの?
ねえ、返事して。
怒ってないから。
帰ってきて。
お願い、逃げないで。
シオンの欄は、もっと短かった。
返事をして。
どこにいるの。
ふざけないで。
これ以上、黙っていないで。
逃げないで。
カイトは画面を閉じた。
「長いのですか?」
アリシアが、教科書から顔を上げずに聞いた。
「……長い」
カイトはそう答えた。
嘘ではなかった。
だが、全部ではない。
膝の上のスマホが、やけに重く感じた。
アリシアはそれ以上聞かなかった。
紙をめくる音だけが部屋に残る。
カイトは、もう一度そのアプリを開こうとはしなかった。
次の日の朝。
カイトは制服を着て、玄関の前に立っていた。
鏡に映った姿は、自分のようで自分ではない。
父と同じ顔。
父の家。
父の制服。
父の学校。
そして、父に届いていた言葉。
リオ。
シオン。
玄関の外から、明るい声がした。
「ユキト、行こ!」
カイトの手が止まる。
ユキト。
扉越しに呼ばれた名前は、自分のものではなかった。
それでも、開けるしかなかった。
外には、黄色い髪の少女が立っていた。
明るい顔。
近い距離。
こちらを見る目の奥に、少しだけ揺れがある。
カイトは思った。
この子が、リオだよな。
何度も帰ってきてと打っていた相手。
その本人が、目の前で笑っている。
「ほら、遅れるって。久しぶりなんだから、ちゃんと一緒に行くよ」
リオは自然にカイトの袖を掴んだ。
指先の力は強くない。
けれど、離す気もなさそうだった。
カイトは口を開きかけた。
自分はユキトではない。
父の代わりに戻ってきたわけではない。
少なくとも、この子には最初に言わなければならない。
そう決めていた。
だが、リオは歩き出していた。
通学路は、思っていたより普通だった。
道があり、家があり、車が通り、同じ制服の生徒がちらほら歩いている。
何もかも知らないのに、周りにとっては当たり前の朝だった。
リオはずっと話していた。
「三組の先生、昨日ちょっと怒ってたよ。ユキトが来たら絶対小言言うって」
「……そうか」
「あと、プリントめっちゃ溜まってると思う。私、少し持ってるからあとで渡すね」
「ごめん」
「ごめんって何?そういうの、前は言わなかったじゃん」
リオが笑う。
カイトは返事に詰まった。
その後も、リオはクラスのこと、先生のこと、一週間のことを話し続けた。
カイトは相槌を返すだけだった。
途中で、自分の返事がほとんど出ていないことに気づく。
リオの声が、少しだけ小さくなった。
「……ごめん。私ばっか話してた?」
袖を掴む手が緩む。
「つまらなかった?」
その顔に、朝の明るさとは違うものが落ちた。
カイトは息を止めた。
違う。
そうじゃない。
つまらないわけではない。
嫌なわけでもない。
ただ、自分はユキトではない。
「リオ、俺は――」
そこまで出た。
けれど、その先が喉で止まった。
帰ってきて。
逃げないで。
文字が、勝手に頭へ戻ってくる。
カイトは拳を握った。
「……いや。行こう」
リオは一瞬だけ目を丸くして、それからほっとしたように笑った。
「うん!」
学校に着くまでに言えばいい。
そう思った。
だが、朝の道は思っていたより短かった。
教室に入った瞬間、空気が変わった。
リオと並んで入ってきたカイトを、教室の何人かが見た。
その中に、薄い紫の髪の少女がいた。
シオン。
カイトは、その名前を頭の中で読んだ。
チャットのもう一人。
シオンの表情が、ほんのわずかに動いた。
怒り。
嫉妬。
不快感。
どれも一瞬で押し込められた。
リオも笑ったままだった。
ただ、袖を掴んでいた手に、少しだけ力が戻る。
教室の何人かが、声を潜めた。
「……やば」
「朝から?」
だが、何も起きなかった。
シオンは深く息を吐いた。
「……おはよう、ユキト」
カイトの背筋が伸びる。
ここで間違えたら終わる。
「おはよう、シオン」
言えた。
シオンの目が少しだけ細くなる。
リオはそれを見て、わざとらしく明るい声を出した。
「ユキト、こっち」
リオが椅子を引く。
カイトはそこで初めて、自分の席がどこなのか分かっていなかったことに気づいた。
「ほら、座って」
「……ああ」
シオンは何も言わなかった。
机に視線を落とし、教科書を整える。
リオはそれを見て、口元だけで笑った。
勝ったと誇るような顔ではない。
負けていないと示す顔だった。
カイトは椅子に座る。
この二人は、衝突しそうで衝突しない。
まるで、見えない線を踏まないようにしている。
その線の内側に、自分が置かれている気がした。
「お、来た来た」
前の席で話していた男子たちが振り向いた。
「一週間ぶりじゃん」
「サボり魔復活」
「二股王、生還おめでとう」
「いや、無事でよかったわ。マジで」
「で、どこ行ってたんだよ」
声が次々に飛んでくる。
悪意は薄い。
むしろ親しいのだろう。
だが、カイトには返し方が分からなかった。
同年代の集団。
決められた席。
雑な軽口。
近すぎる距離。
島では、ほとんど家族の中で過ごしてきた。
訓練も、食事も、叱責も、祝福も、家の内側にあった。
ここでは、父の過去まで笑いに混じっている。
カイトはうまく笑えなかった。
「……ああ」
それだけ言うと、空気が少しだけ引っかかった。
「なんか暗くね?」
「アレ、異常にやばいことあった?」
「病んだ?」
「もっと明るいキャラだったろ?お前」
誰かが笑う。
軽い笑いだった。
だからこそ、カイトの胸が痛んだ。
「もうやめなよ」
静かな声がした。
教室の端にいた黒髪の少女が、こちらを見ていた。
リオのように近くない。
シオンのように刺す目でもない。
ただ、声に芯があった。
「笑うことじゃないでしょ」
教室の空気が一度止まる。
男子の一人が、気まずそうに頭をかいた。
「いや、悪い悪い」
「でもなんか、マジで別人みたいじゃね?」
別の誰かが、冗談っぽく言った。
「入れ替わってたりして」
カイトは顔を上げた。
一瞬、今なら言えると思った。
冗談に乗せれば、もしかすると。
「……そうだな」
カイトはぎこちなく笑った。
「別人、かもしれない」
沈黙。
その直後、教室が笑った。
「お、ようやく調子出てきたじゃん」
「そういうのいいから」
「ユキトが真面目ぶると逆に怖いわ」
笑い声の中で、カイトは口を閉じた。
今の言葉は、届かなかった。
やがて興味が薄れたのか、クラスメイトたちはそれぞれの席へ戻っていった。
黒髪の少女だけが、少し近づいてくる。
「さっきの、気にしなくていいからね」
カイトはその少女を見た。
名前は、まだ分からない。
「みんな悪気はないんだと思う。でも、嫌だったら嫌でいいんだよ」
「……ありがとう」
少女は少し笑った。
「変わってもいいじゃん」
そう言った時、少女の目が一瞬だけ遠くを見た。
誰かに向けた言葉なのか。
それとも、自分に言い聞かせた言葉なのか。
すぐに彼女は、いつもの軽い声に戻る。
「あなたはあなただから」
カイトは目を逸らせなかった。
彼女は、カイトを見ているようで、カイトを見ていない。
ユキトに言っている。
けれど、その言葉だけは、自分にも届いてしまった。
「……うん」
それだけ返した。
少女はそれ以上踏み込まず、自分の席へ戻っていく。
リオがこちらを見ていた。
シオンも、教科書を開いたまま、視線だけを向けていた。
チャイムが鳴った。
授業が始まる。
カイトは教科書を開いた。
文字は読める。
三日間、姉と一緒に覚えた。
何度も書いた。
指が痛くなるまで、似た形の文字を並べた。
だが、教師の声は速かった。
黒板に書かれる文字を追う。
教科書の同じ場所を探す。
ようやく見つけた頃には、説明は次へ進んでいる。
意味になる前に、言葉が流れていく。
「じゃあ、久しぶりに来たユキト」
教師の声がこちらへ向いた。
「ここ、解いてみろ」
教室の空気が少し動いた。
カイトは立ち上がる。
黒板を見る。
数字。
記号。
文章。
問いの形はある。
だが、何を求められているのか分からない。
喉が乾いた。
ここで答えられなければ怪しまれる。
一週間いなかった。
話し方も違う。
態度も違う。
もし、学力まで違うと見られたら。
カイトはチョークを持ったまま固まった。
教師が呆れたように笑う。
「なんだ、分からないのか。ワースト一位は、一位のままだな」
教室が笑った。
カイトは、その笑いの中でようやく理解した。
父が言っていた学年一位。
一位は一位でも、下から一位。
指先が熱くなる。
「まあ、座れ」
教師が言う。
カイトは席に戻った。
「相変わらずだな」
「休んでもそこは変わんねえのかよ」
「安心したわ」
軽口が飛ぶ。
カイトは机の下で拳を握った。
笑われている。
馬鹿にされている。
なのに、誰も疑っていない。
できなかったことが、父らしさとして受け入れられている。
この世界で初めて、できないことに救われた。
その救われ方が、たまらなく恥ずかしかった。
その後の授業も、似たようなものだった。
歴史の年号は知らない。
英語は音からして違う。
数学は記号の意味を追うだけで精一杯だった。
ノートを取ろうとすると、手が遅れる。
漢字を思い出している間に、黒板が消される。
周りの生徒たちは、文句を言いながらも普通についていく。
分からないところを聞けば、誰かは教えてくれたのかもしれない。
リオなら、きっと明るく覗き込んでくる。
シオンなら、呆れた顔をしながらも隣で説明してくれる。
黒髪の少女なら、こちらが困っていることに気づいて、静かに助け舟を出してくれる。
そう思えた。
だからこそ、カイトは誰にも声をかけられなかった。
自分は、いずれこの子たちに言わなければならない。
ユキトではない。
帰ってきたわけではない。
待っていた相手ではない。
それを告げる側の人間が、今だけ都合よく助けを求めるのは、どうしてもできなかった。
カイトは教科書に視線を落とした。
読める文字が、意味になる前に滲んでいく。
昼を越え、午後になり、体育の時間が来た。
周囲の空気が少し緩む。
「体育だる」
「今日走るの?」
「マジ無理」
「ユキト、どうせまたサボるだろ」
誰かの声に、何人かが笑った。
カイトは運動場を見た。
広い。
土の匂い。
風の流れ。
足場の硬さ。
人の位置。
ここなら分かる。
体を動かすことならできる。
竜化して人の枠を超えた。
さらに外の世界へ出るため訓練を受けてきた。
島で走り、転び、避け、何度も叩き直された。
母たちの動きも、足場の悪さも、間合いも見てきた。
本気は出せない。
それでも、軽くなら。
短距離走で、カイトは少しだけ力を入れた。
スタートの合図。
一歩目で、地面が遠ざかる。
二歩目で、周囲の気配が後ろに流れた。
ゴールしたあと、しばらく誰も声を出さなかった。
「は?」
最初に言ったのは、さっきまでだるいと言っていた男子だった。
「速っ」
「ユキト、今の何?」
「お前、そんな動けたっけ?」
「いや、普通にすげえんだけど!」
ざわめきが広がる。
反復でも、球技でも、似たような反応が返ってきた。
カイトは息を整えながら、手を見た。
これは父ではない。
自分の足だ。
自分の体だ。
自分が積んできた訓練だ。
この世界でも、何かはできる。
ほんの少し、胸が軽くなった。
体育が終わると、リオが真っ先に駆け寄ってきた。
「ユキト、本当はすごかったんだね!」
目が輝いていた。
続いて、シオンも近づく。
「隠していたの?」
少し驚いたように、けれど嬉しそうに言う。
「あなた、そういうところがまだあるのよね」
カイトはタオルを握ったまま動けなかった。
違う。
その言葉は、口から出なかった。
リオは笑っている。
シオンも、どこか安心したように見ている。
父ではないものを見せたつもりだった。
それでも、返ってきたのはユキトの名前だった。
走った足の熱だけが、まだ自分のものだった。
放課後になっても、体育の話は続いていた。
「ユキト、運動できるキャラになったな」
「今までよく隠してたな」
「勉強はワースト一位だけど体育は一位じゃん、凄えよ」
悪意はない。
だから、誰にも怒れなかった。
授業が終わるとリオは鞄を持ち、申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ごめん、今日も仕事あるから! 明日また一緒に行こ!」
明るい声だった。
でも、教室を出る直前、少しだけ振り返った。
離れたくない顔をしていた。
カイトは小さく頷く。
「また明日」
その言葉に、リオはぱっと笑った。
黒髪の女の子も帰り際に近づいてきた。
「無理しないでね」
名前を聞く前に、誰かが彼女を呼んだ。
「ユウナ、早く、追いて行くよ」
黒髪の少女は振り返り、それからもう一度カイトを見た。
「じゃあね」
ユウナ。
カイトはその名前を覚えた。
教室から人が減っていく。
カイトは鞄を持ち、席を立った。
今日は一日中、ユキトだった。
父の席に座り、父の友人に囲まれ、父の過去を笑われ、父の代わりに心配された。
できなくてもユキト。
できてもユキト。
謝りかけても、変わったユキト。
なら、いっそ俺はこのまま……
そこまで考えた時、横から声がした。
「帰るわよ」
シオンが立っていた。
カイトは反応が遅れた。
「……え?」
「帰るわよ。聞こえなかった?」
理由は言わない。
ただ、シオンは当然のように廊下へ向かう。
カイトは少し遅れて、その後を追った。
帰り道、シオンはほとんど喋らなかった。
無言のまま隣を歩く。
信号の前で、カイトがぼんやり進みかけると、シオンが鞄の端を掴んで止めた。
「赤」
「……ありがとう」
車道側を、いつの間にかシオンが歩いていた。
カイトの歩幅が遅くなると、少し先で立ち止まる。
振り返りはしない。
ただ、待つ。
カイトはその背中を見ながら歩いた。
怖い女だと思っていた。
重い。
逃がさない。
チャットの文字にも、朝の教室にも、その気配はあった。
けれど、それだけではなかった。
ユキトの家の前に着いた時、カイトは疲れきっていた。
見覚えのある門を前にして、ぼんやり言う。
「……あれ」
シオンが振り返る。
「シオンの家って、ここだっけ」
目が細くなった。
「何を言っているの? あなたの家じゃない」
「ああ……」
カイトは少し遅れて頷いた。
「じゃあ、なんで……」
シオンは当たり前のように言った。
「あなた、なんだか沈んでいたでしょう」
風が通る。
「危なかったから、家まで送ったの」
カイトは言葉を探した。
礼を言うべきなのか。
謝るべきなのか。
何が正しいのか分からない。
結局、出てきたのは短い言葉だった。
「……ごめん」
シオンの表情が止まった。
ほんの一瞬。
カイトは、何か間違えたかと思った。
シオンは目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……変わったのね」
その声には、怒りはなかった。
少しだけ、嬉しそうだった。
カイトは返事ができなかった。
変わった。
そう受け取られた。
またユキトとして処理されたのだと分かっている。
それでも、責められなかったことに、少しだけ救われていた。
ユウナは言った。
あなたは、あなただから。
シオンは言った。
変わったのね。
同じではない。
けれど、どちらもカイトを縛らなかった。
カイトは家の扉を見た。
ここは父の家だ。
自分の家ではない。
今日一日、自分の名前は一度も正しく呼ばれなかった。
それでも。
父のように笑わなくてもいい。
父のように逃げなくてもいい。
父のように嘘を重ねなくてもいい。
名前を借りるしかなくても、生き方まで渡す必要はない。
カイトは小さく息を吐いた。
「……また明日」
シオンが少しだけ驚いた顔をする。
それから、満足そうに微笑んだ。
「ええ。また明日」
カイトは扉を開ける。
閉まる直前、シオンの姿が見えた。
ユキトとして始まった一日は、まだカイトのものにはならない。
それでも、全部を渡す気はなかった。




