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78/92

78.変わってもいい

リオとシオンが家に来た日から、三日が過ぎた。


その間、カイトとアリシアはほとんどユキトの部屋から出なかった。


机の上には教科書が積まれ、黒い板の画面には文字が並び、床には開いたままのノートが何冊も散らばっていた。


ひらがな。

カタカナ。

漢字。


最初にそれを知った時、カイトは冗談かと思った。


「文字の種類、多すぎだろ」


「同感です」


アリシアは画面と教科書を見比べながら、指先で文字をなぞっていた。


「同じ音なのに形が違うものがあります」

「俺に言うな。俺も知らねえ」


「この国の人は、よくこれを普通に使っていますね」


カイトはしばらく黙り、苦々しく呟いた。


「親父の言う通り、教育水準は高いな……」


アリシアは否定しなかった。


三日目には、短い文章ならどうにか読めるようになっていた。


ただ、読めることと、分かることは別だった。


教科書の文はまだ固い。

学校制度も分からない。

スマホの中には、触るたびに知らないものが出てくる。


カイトは、画面を見下ろした。


指先が、緑色のアイコンに触れる。


開いたのは、チャットアプリだった。


名前が並んでいた。


リオ。

シオン。


その文字を読めた瞬間、胸の奥が変な鳴り方をした。


この二人の名前を、カイトはここで初めて知った。


リオの欄には、明るい絵文字がいくつも並んでいた。

だが、その間に挟まった言葉は、明るくなかった。


どこにいるの?

ねえ、返事して。

怒ってないから。

帰ってきて。

お願い、逃げないで。


シオンの欄は、もっと短かった。


返事をして。

どこにいるの。

ふざけないで。

これ以上、黙っていないで。

逃げないで。


カイトは画面を閉じた。


「長いのですか?」


アリシアが、教科書から顔を上げずに聞いた。


「……長い」


カイトはそう答えた。


嘘ではなかった。


だが、全部ではない。


膝の上のスマホが、やけに重く感じた。


アリシアはそれ以上聞かなかった。

紙をめくる音だけが部屋に残る。


カイトは、もう一度そのアプリを開こうとはしなかった。


次の日の朝。


カイトは制服を着て、玄関の前に立っていた。


鏡に映った姿は、自分のようで自分ではない。


父と同じ顔。

父の家。

父の制服。

父の学校。


そして、父に届いていた言葉。


リオ。

シオン。


玄関の外から、明るい声がした。


「ユキト、行こ!」


カイトの手が止まる。


ユキト。


扉越しに呼ばれた名前は、自分のものではなかった。


それでも、開けるしかなかった。


外には、黄色い髪の少女が立っていた。


明るい顔。

近い距離。

こちらを見る目の奥に、少しだけ揺れがある。


カイトは思った。


この子が、リオだよな。


何度も帰ってきてと打っていた相手。


その本人が、目の前で笑っている。


「ほら、遅れるって。久しぶりなんだから、ちゃんと一緒に行くよ」


リオは自然にカイトの袖を掴んだ。


指先の力は強くない。

けれど、離す気もなさそうだった。


カイトは口を開きかけた。


自分はユキトではない。

父の代わりに戻ってきたわけではない。

少なくとも、この子には最初に言わなければならない。


そう決めていた。


だが、リオは歩き出していた。


通学路は、思っていたより普通だった。


道があり、家があり、車が通り、同じ制服の生徒がちらほら歩いている。

何もかも知らないのに、周りにとっては当たり前の朝だった。


リオはずっと話していた。


「三組の先生、昨日ちょっと怒ってたよ。ユキトが来たら絶対小言言うって」


「……そうか」


「あと、プリントめっちゃ溜まってると思う。私、少し持ってるからあとで渡すね」


「ごめん」


「ごめんって何?そういうの、前は言わなかったじゃん」


リオが笑う。


カイトは返事に詰まった。


その後も、リオはクラスのこと、先生のこと、一週間のことを話し続けた。

カイトは相槌を返すだけだった。


途中で、自分の返事がほとんど出ていないことに気づく。


リオの声が、少しだけ小さくなった。


「……ごめん。私ばっか話してた?」


袖を掴む手が緩む。


「つまらなかった?」


その顔に、朝の明るさとは違うものが落ちた。


カイトは息を止めた。


違う。


そうじゃない。


つまらないわけではない。

嫌なわけでもない。


ただ、自分はユキトではない。


「リオ、俺は――」


そこまで出た。


けれど、その先が喉で止まった。


帰ってきて。

逃げないで。


文字が、勝手に頭へ戻ってくる。


カイトは拳を握った。


「……いや。行こう」


リオは一瞬だけ目を丸くして、それからほっとしたように笑った。


「うん!」


学校に着くまでに言えばいい。


そう思った。


だが、朝の道は思っていたより短かった。


教室に入った瞬間、空気が変わった。


リオと並んで入ってきたカイトを、教室の何人かが見た。

その中に、薄い紫の髪の少女がいた。


シオン。


カイトは、その名前を頭の中で読んだ。


チャットのもう一人。


シオンの表情が、ほんのわずかに動いた。


怒り。

嫉妬。

不快感。


どれも一瞬で押し込められた。


リオも笑ったままだった。

ただ、袖を掴んでいた手に、少しだけ力が戻る。


教室の何人かが、声を潜めた。


「……やば」


「朝から?」


だが、何も起きなかった。


シオンは深く息を吐いた。


「……おはよう、ユキト」


カイトの背筋が伸びる。


ここで間違えたら終わる。


「おはよう、シオン」


言えた。


シオンの目が少しだけ細くなる。

リオはそれを見て、わざとらしく明るい声を出した。


「ユキト、こっち」


リオが椅子を引く。


カイトはそこで初めて、自分の席がどこなのか分かっていなかったことに気づいた。


「ほら、座って」


「……ああ」


シオンは何も言わなかった。

机に視線を落とし、教科書を整える。


リオはそれを見て、口元だけで笑った。

勝ったと誇るような顔ではない。

負けていないと示す顔だった。


カイトは椅子に座る。


この二人は、衝突しそうで衝突しない。


まるで、見えない線を踏まないようにしている。


その線の内側に、自分が置かれている気がした。


「お、来た来た」


前の席で話していた男子たちが振り向いた。


「一週間ぶりじゃん」


「サボり魔復活」


「二股王、生還おめでとう」


「いや、無事でよかったわ。マジで」


「で、どこ行ってたんだよ」


声が次々に飛んでくる。


悪意は薄い。

むしろ親しいのだろう。


だが、カイトには返し方が分からなかった。


同年代の集団。

決められた席。

雑な軽口。

近すぎる距離。


島では、ほとんど家族の中で過ごしてきた。

訓練も、食事も、叱責も、祝福も、家の内側にあった。


ここでは、父の過去まで笑いに混じっている。


カイトはうまく笑えなかった。


「……ああ」


それだけ言うと、空気が少しだけ引っかかった。


「なんか暗くね?」


「アレ、異常にやばいことあった?」


「病んだ?」


「もっと明るいキャラだったろ?お前」


誰かが笑う。


軽い笑いだった。

だからこそ、カイトの胸が痛んだ。


「もうやめなよ」


静かな声がした。


教室の端にいた黒髪の少女が、こちらを見ていた。


リオのように近くない。

シオンのように刺す目でもない。


ただ、声に芯があった。


「笑うことじゃないでしょ」


教室の空気が一度止まる。


男子の一人が、気まずそうに頭をかいた。


「いや、悪い悪い」


「でもなんか、マジで別人みたいじゃね?」


別の誰かが、冗談っぽく言った。


「入れ替わってたりして」


カイトは顔を上げた。


一瞬、今なら言えると思った。


冗談に乗せれば、もしかすると。


「……そうだな」


カイトはぎこちなく笑った。


「別人、かもしれない」


沈黙。


その直後、教室が笑った。


「お、ようやく調子出てきたじゃん」


「そういうのいいから」


「ユキトが真面目ぶると逆に怖いわ」


笑い声の中で、カイトは口を閉じた。


今の言葉は、届かなかった。


やがて興味が薄れたのか、クラスメイトたちはそれぞれの席へ戻っていった。


黒髪の少女だけが、少し近づいてくる。


「さっきの、気にしなくていいからね」


カイトはその少女を見た。


名前は、まだ分からない。


「みんな悪気はないんだと思う。でも、嫌だったら嫌でいいんだよ」


「……ありがとう」


少女は少し笑った。


「変わってもいいじゃん」


そう言った時、少女の目が一瞬だけ遠くを見た。


誰かに向けた言葉なのか。

それとも、自分に言い聞かせた言葉なのか。


すぐに彼女は、いつもの軽い声に戻る。


「あなたはあなただから」


カイトは目を逸らせなかった。


彼女は、カイトを見ているようで、カイトを見ていない。

ユキトに言っている。

けれど、その言葉だけは、自分にも届いてしまった。


「……うん」


それだけ返した。


少女はそれ以上踏み込まず、自分の席へ戻っていく。

リオがこちらを見ていた。

シオンも、教科書を開いたまま、視線だけを向けていた。


チャイムが鳴った。


授業が始まる。


カイトは教科書を開いた。


文字は読める。


三日間、姉と一緒に覚えた。

何度も書いた。

指が痛くなるまで、似た形の文字を並べた。


だが、教師の声は速かった。


黒板に書かれる文字を追う。

教科書の同じ場所を探す。

ようやく見つけた頃には、説明は次へ進んでいる。


意味になる前に、言葉が流れていく。


「じゃあ、久しぶりに来たユキト」


教師の声がこちらへ向いた。


「ここ、解いてみろ」


教室の空気が少し動いた。


カイトは立ち上がる。


黒板を見る。


数字。

記号。

文章。


問いの形はある。

だが、何を求められているのか分からない。


喉が乾いた。


ここで答えられなければ怪しまれる。


一週間いなかった。

話し方も違う。

態度も違う。

もし、学力まで違うと見られたら。


カイトはチョークを持ったまま固まった。


教師が呆れたように笑う。


「なんだ、分からないのか。ワースト一位は、一位のままだな」


教室が笑った。


カイトは、その笑いの中でようやく理解した。


父が言っていた学年一位。


一位は一位でも、下から一位。


指先が熱くなる。


「まあ、座れ」


教師が言う。


カイトは席に戻った。


「相変わらずだな」


「休んでもそこは変わんねえのかよ」


「安心したわ」


軽口が飛ぶ。


カイトは机の下で拳を握った。


笑われている。


馬鹿にされている。


なのに、誰も疑っていない。


できなかったことが、父らしさとして受け入れられている。


この世界で初めて、できないことに救われた。


その救われ方が、たまらなく恥ずかしかった。


その後の授業も、似たようなものだった。


歴史の年号は知らない。

英語は音からして違う。

数学は記号の意味を追うだけで精一杯だった。


ノートを取ろうとすると、手が遅れる。

漢字を思い出している間に、黒板が消される。


周りの生徒たちは、文句を言いながらも普通についていく。


分からないところを聞けば、誰かは教えてくれたのかもしれない。


リオなら、きっと明るく覗き込んでくる。

シオンなら、呆れた顔をしながらも隣で説明してくれる。

黒髪の少女なら、こちらが困っていることに気づいて、静かに助け舟を出してくれる。


そう思えた。


だからこそ、カイトは誰にも声をかけられなかった。


自分は、いずれこの子たちに言わなければならない。


ユキトではない。

帰ってきたわけではない。

待っていた相手ではない。


それを告げる側の人間が、今だけ都合よく助けを求めるのは、どうしてもできなかった。


カイトは教科書に視線を落とした。


読める文字が、意味になる前に滲んでいく。

昼を越え、午後になり、体育の時間が来た。


周囲の空気が少し緩む。


「体育だる」


「今日走るの?」


「マジ無理」


「ユキト、どうせまたサボるだろ」


誰かの声に、何人かが笑った。


カイトは運動場を見た。


広い。


土の匂い。

風の流れ。

足場の硬さ。

人の位置。


ここなら分かる。


体を動かすことならできる。


竜化して人の枠を超えた。

さらに外の世界へ出るため訓練を受けてきた。

島で走り、転び、避け、何度も叩き直された。

母たちの動きも、足場の悪さも、間合いも見てきた。


本気は出せない。


それでも、軽くなら。


短距離走で、カイトは少しだけ力を入れた。


スタートの合図。


一歩目で、地面が遠ざかる。


二歩目で、周囲の気配が後ろに流れた。


ゴールしたあと、しばらく誰も声を出さなかった。


「は?」


最初に言ったのは、さっきまでだるいと言っていた男子だった。


「速っ」


「ユキト、今の何?」


「お前、そんな動けたっけ?」


「いや、普通にすげえんだけど!」


ざわめきが広がる。


反復でも、球技でも、似たような反応が返ってきた。


カイトは息を整えながら、手を見た。


これは父ではない。


自分の足だ。

自分の体だ。

自分が積んできた訓練だ。


この世界でも、何かはできる。


ほんの少し、胸が軽くなった。


体育が終わると、リオが真っ先に駆け寄ってきた。


「ユキト、本当はすごかったんだね!」


目が輝いていた。


続いて、シオンも近づく。


「隠していたの?」


少し驚いたように、けれど嬉しそうに言う。


「あなた、そういうところがまだあるのよね」


カイトはタオルを握ったまま動けなかった。


違う。


その言葉は、口から出なかった。


リオは笑っている。

シオンも、どこか安心したように見ている。


父ではないものを見せたつもりだった。


それでも、返ってきたのはユキトの名前だった。


走った足の熱だけが、まだ自分のものだった。


放課後になっても、体育の話は続いていた。


「ユキト、運動できるキャラになったな」


「今までよく隠してたな」


「勉強はワースト一位だけど体育は一位じゃん、凄えよ」


悪意はない。


だから、誰にも怒れなかった。


授業が終わるとリオは鞄を持ち、申し訳なさそうに両手を合わせた。


「ごめん、今日も仕事あるから! 明日また一緒に行こ!」


明るい声だった。


でも、教室を出る直前、少しだけ振り返った。


離れたくない顔をしていた。


カイトは小さく頷く。


「また明日」


その言葉に、リオはぱっと笑った。


黒髪の女の子も帰り際に近づいてきた。


「無理しないでね」


名前を聞く前に、誰かが彼女を呼んだ。


「ユウナ、早く、追いて行くよ」


黒髪の少女は振り返り、それからもう一度カイトを見た。


「じゃあね」


ユウナ。


カイトはその名前を覚えた。


教室から人が減っていく。


カイトは鞄を持ち、席を立った。


今日は一日中、ユキトだった。


父の席に座り、父の友人に囲まれ、父の過去を笑われ、父の代わりに心配された。


できなくてもユキト。

できてもユキト。

謝りかけても、変わったユキト。


なら、いっそ俺はこのまま……


そこまで考えた時、横から声がした。


「帰るわよ」


シオンが立っていた。


カイトは反応が遅れた。


「……え?」


「帰るわよ。聞こえなかった?」


理由は言わない。


ただ、シオンは当然のように廊下へ向かう。


カイトは少し遅れて、その後を追った。


帰り道、シオンはほとんど喋らなかった。


無言のまま隣を歩く。


信号の前で、カイトがぼんやり進みかけると、シオンが鞄の端を掴んで止めた。


「赤」


「……ありがとう」


車道側を、いつの間にかシオンが歩いていた。


カイトの歩幅が遅くなると、少し先で立ち止まる。

振り返りはしない。

ただ、待つ。


カイトはその背中を見ながら歩いた。


怖い女だと思っていた。


重い。

逃がさない。

チャットの文字にも、朝の教室にも、その気配はあった。


けれど、それだけではなかった。


ユキトの家の前に着いた時、カイトは疲れきっていた。


見覚えのある門を前にして、ぼんやり言う。


「……あれ」


シオンが振り返る。


「シオンの家って、ここだっけ」


目が細くなった。


「何を言っているの? あなたの家じゃない」


「ああ……」


カイトは少し遅れて頷いた。


「じゃあ、なんで……」


シオンは当たり前のように言った。


「あなた、なんだか沈んでいたでしょう」


風が通る。


「危なかったから、家まで送ったの」


カイトは言葉を探した。


礼を言うべきなのか。

謝るべきなのか。

何が正しいのか分からない。


結局、出てきたのは短い言葉だった。


「……ごめん」


シオンの表情が止まった。


ほんの一瞬。


カイトは、何か間違えたかと思った。


シオンは目を伏せ、それから小さく息を吐いた。


「……変わったのね」


その声には、怒りはなかった。


少しだけ、嬉しそうだった。


カイトは返事ができなかった。


変わった。


そう受け取られた。


またユキトとして処理されたのだと分かっている。


それでも、責められなかったことに、少しだけ救われていた。


ユウナは言った。


あなたは、あなただから。


シオンは言った。


変わったのね。


同じではない。

けれど、どちらもカイトを縛らなかった。


カイトは家の扉を見た。


ここは父の家だ。


自分の家ではない。


今日一日、自分の名前は一度も正しく呼ばれなかった。


それでも。


父のように笑わなくてもいい。

父のように逃げなくてもいい。

父のように嘘を重ねなくてもいい。


名前を借りるしかなくても、生き方まで渡す必要はない。


カイトは小さく息を吐いた。


「……また明日」


シオンが少しだけ驚いた顔をする。


それから、満足そうに微笑んだ。


「ええ。また明日」


カイトは扉を開ける。


閉まる直前、シオンの姿が見えた。


ユキトとして始まった一日は、まだカイトのものにはならない。


それでも、全部を渡す気はなかった。

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