77.同一人物でしょうね
転移陣の光が消えたあと、リビングにはしばらく誰の声もなかった。
床に刻まれた術式は、もう沈黙している。
さっきまで世界そのものに穴を開けていたとは思えないほど、ただの模様のように静まり返っていた。
ヨルカは、その模様を見つめていた。
母たちは、まだ転移陣から目を離せない。
父は、どうにか場の空気から逃げる隙を探している。
その中で、ヨルカだけは別のことを考えていた。
姉は、兄に恋をしている。
そう断言するには、まだ怖かった。
でも、違うと言い切るには、見てきたものが多すぎた。
アリシアがカイトを見る目。
カイトが別の誰かに傷つけられた時の反応。
そして、転移陣へ飛び込んだ時の迷いのなさ。
あれは、姉としての心配だけではない。
しかも今、二人は異世界にいる。
母たちの目が届かない場所。
家族という形が崩れても、すぐには止められない場所。
ヨルカは唇を噛んだ。
言えない。
母たちには言えない。
言えば、今ここで別の地獄が始まる。
だから、ヨルカは顔を上げた。
「私は、異世界に行く方法を探します」
ヴォルカが振り向いた。
「ヨルカ?」
「先ほどの魔法陣を元に、手持ちの魔導書を調べます。似たような術式がないか、全部確認します」
「全部って……」
ユキトが嫌な予感を覚えたように顔をしかめる。
「お前の部屋にある、あの妙に怪しい魔導書もか?」
「はい」
「いかがわしいやつも?」
「はい」
「何でそんなに堂々としてんだよ」
ヨルカは答えなかった。
母たちに背を向ける。
その背中は小さかったが、足取りは妙に固かった。
フローラだけが、その様子をじっと見ていた。
「ヨルカ」
呼び止められ、ヨルカは足を止める。
「無理はしないでください」
「……はい」
「けれど、必要だと思うなら調べなさい」
ヨルカは一瞬だけ母を見た。
フローラはそれ以上、何も聞かなかった。
それがありがたかった。
ヨルカがリビングを出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
ユキトはその音を聞いて、そっと腰を浮かせた。
「じゃ、俺もそろそろ――」
「どこへ行くのですか」
フローラの声が、背中に刺さった。
ユキトは止まる。
「いや、もう送り終わったし、猫小屋に……」
「戻りません」
ヴォルカが静かに言った。
「まだ何も終わっていません」
「いや、でも最後の癒しが行ってしまったんだぞ。待って。今の俺には癒しが必要――」
「にげない」
ネムリアが短く言った。
ユキトは三人を見る。
出口は、いつの間にか塞がれていた。
「お前ら、連携が良すぎない?」
「今のあなたに決定権はありません」
フローラはそう言って、テーブルの上に小さな石を置いた。
淡い桃色の石だった。
ただの宝石ではない。表面に細かい花弁のような文様が刻まれており、中心部に薄い金色の光が眠っている。
「何だ、それ」
ユキトが眉を寄せる。
「投影機です」
「投影?」
「離れた場所の様子を映すためのものです。本来なら同じ世界の中でしか使えません」
「本来なら、ってことは」
「失敗する可能性の方が高いでしょう」
フローラはそう言いながら、迷わず自分の指先を傷つけた。
赤い血が一滴、石の上に落ちる。
ヴォルカが息を呑んだ。
「フローラさん」
「カイトへ渡したお守りは、私の角から作ったものです」
フローラの声は静かだった。
「角は、私自身の一部。そこへ血を通せば、ほんのわずかでも繋がりを拾えるかもしれません」
「世界を跨いでるんだぞ」
ユキトが言う。
「分かっています」
「そんなもん、普通は――」
石が光った。
ユキトの言葉が止まる。
桃色の光がテーブルから立ち上がり、壁へ流れた。
最初は霧のようにぼやけていた。
だが、次第に色が濃くなり、形が浮かび上がる。
海。
崖。
錆びた柵。
見知らぬ空。
そして、そこに立つカイトとアリシア。
ヴォルカが口元を押さえた。
「映って……います」
ネムリアが壁を見上げる。
「みえた」
フローラは息を吐いた。
「届きましたね」
ユキトも、しばらく言葉を失っていた。
だが、すぐに顔をしかめる。
「……なあ」
「何ですか」
「さすがに盗み見はまずくないか?」
三人が振り向く。
ユキトは珍しく真面目な顔をしていた。
「あいつら、向こうで俺の後始末をさせられてんだぞ。そのうえ、こっちから覗くのは……違うだろ」
ヴォルカは視線を落とした。
「悪いことなのは、分かっています」
「だったら」
「でも、今だけは母親でいさせてください」
ユキトは黙った。
ネムリアが続ける。
「のぞきじゃない」
「いや、覗きだろ」
「みまもり」
「言い換えただけだろ」
「たぶん」
「たぶんって言うな」
フローラは壁の映像から目を離さなかった。
「これは盗み見です。正当化はしません」
「なら――」
「ですが、今この場で母であることをやめる理由にはなりません」
ユキトは言い返せなかった。
映像の中で、カイトとアリシアが自分の体を確認している。
頭に触れ、背中に手を回す。
ヴォルカが目を見開いた。
「……角がありません」
「尾も消えていますね」
フローラの声が硬くなる。
「本当に、人間として処理されているようです」
ネムリアが小さく呟いた。
「神、雑なのに細かい」
ユキトも苦々しく言う。
「本当に嫌な仕事だけ丁寧だな、あいつ……」
映像の中で、カイトがアリシアを責めていた。
声までは完全には届かない。
だが、投影機はところどころ言葉を拾ってくる。
勝手についてきたこと。
一人で行くと決めたこと。
自分の選択肢を奪ったこと。
そして。
『父さんと同じことしてるぞ、姉さん』
その言葉が聞こえた瞬間、リビングの空気が凍った。
アリシアの顔が止まる。
次の瞬間、彼女の頬を涙が伝った。
ヴォルカが苦しそうに息を詰める。
「アリシア……」
フローラは、じっと娘を見ていた。
そして、小さく言った。
「……卑怯ですね」
ヴォルカが驚いて見る。
「フローラさん?」
「泣いたことが、ではありません」
フローラは目を伏せなかった。
「あの子は、泣けばカイトが止まると計算したわけではないでしょう。ですが、カイトは止まってしまう。これ以上、言えなくなる」
ネムリアがぽつりと言う。
「カイト、やさしい」
「ええ」
フローラの声は、母親のものだった。
けれど同時に、娘を見逃さない者の声でもあった。
「だから、卑怯なのです」
ユキトは何も言わなかった。
映像の中に、女が現れた。
黒髪を後ろでまとめた、疲れた顔の女。
背筋は伸びているのに、どこか今にも折れそうに見える女。
ユキトの表情が変わった。
「……母さん」
ヴォルカたちが一斉に見る。
「あの方が、ユキトさんのお母様ですか?」
「ああ」
短い返事だった。
フローラは壁の中のアヤカを見つめる。
目元の皺。
顔色の悪さ。
髪に混じるわずかな白。
「人間は……どのくらいの年齢で、ここまで変わるものなのですか?」
ユキトは答えに詰まった。
「……どうだろうな。母さん、今の俺とそこまで年変わんねえはずなんだけど」
「そこまで変わらない年齢?」
ヴォルカが困惑したように、映像の中のアヤカと、目の前のユキトを見比べた。
同じくらいの時間を生きた人間。
そう言われても、並べてしまえば差は明らかだった。
アヤカは時間に削られている。
疲労も、心労も、老いも、顔に刻まれている。
けれど、ユキトは違う。
出会った頃から、ほとんど変わっていない。
ユキト自身は、自分の容姿にあまり興味がない。
鏡を見ても、寝癖と無精髭を確認するくらいの男だ。
だから、自分が老けていないかもしれないなどと、考えたこともなかった。
それは三人にとって、あまりにも近くにありすぎて、今まで疑問の形にならなかった違和感だった。
フローラの視線が、ほんのわずかに細くなる。
「……心労だけで、ここまで差が出るものでしょうか」
「かもしれねえ」
ユキトの声に、確信はなかった。
フローラは何かを考えかけたが、すぐに首を横に振る。
「今は結論を出せませんね。私たちは、人間の老い方をよく知りません」
「あとで考えよう」
ネムリアが言った。
誰もそれ以上は追及しなかった。
映像の中で、アヤカはカイトとアリシアを車へ乗せた。
カイトとアリシアがその乗り物に驚いているのを見て、ユキトは一瞬だけ苦笑しかけた。
だが、その直後だった。
車の中で、アヤカが言った。
『死のうと思ったの』
リビングから音が消えた。
ヴォルカの顔から血の気が引く。
ネムリアは目を細めた。
フローラも、指先をわずかに握りしめる。
何も残さないまま、この世界から忽然と消えた。
そう思ってしまっても仕方がないと思った。
「……息子が突然消えたら」
ヴォルカの声は震えていた。
「そうなっても、不思議ではありません」
フローラも静かに頷く。
「私も、カイトが何も言わずに消えていたら同じ思いを抱えていたのでしょうか、怖くなります」
ネムリアが小さく言う。
「こわかったんだ」
ネムリアが呟いた。
三人がそう言う中で、ユキトだけは違う顔をしていた。
冷えていた。
怒っているようにも見えた。
けれど、それだけではなかった。
「……重いんだよ」
小さな声だった。
「母さんが俺を愛してたのは分かる。飯も作ってくれたし、俺のことをちゃんと見ようとしてた」
ユキトは壁の中の母を見たまま言う。
「でも時々、俺を見てるのか、親父の代わりを見てるのか、分かんなくなる時があった」
誰も何も言えなかった。
「俺がいれば、まだ家族でいられる」
「俺が帰れば、まだ置いていかれてないと思える」
「そういうのが、子どもの頃から少しだけ嫌だった」
ユキトは苦く息を吐いた。
「最低だよな。母親に愛されて、それを重いって思って」
「でも、俺がいなければ生きられないなら、それはもう、生きてるとは言えねえよ」
その言葉を口にしたユキト自身が、一番傷ついたような顔をした。
「俺は、誰かの生きる理由そのものになる気はない」
「母さんにも、お前たちにも、そうなってほしくない」
ヴォルカも、フローラも、ネムリアも何も言えなかった。
言いたいことはあった。
でも、あなたが突然消えたからでしょう。
そう思った。
けれど、言えなかった。
ユキトの言葉は正しくない。
正しくないが、嘘でもなかった。
母を思う気持ち。
母から逃げたい気持ち。
壊した罪悪感。
それでも背負いきれない拒絶。
その全部が、同じ声に混ざっていた。
ユキトは壁の中のアヤカを見つめたまま、ぽつりと言った。
「……俺、ひでえ息子だな」
誰も、否定できなかった
ユキト自身も今、知ったばかりなのだ。
自分が異世界で生きていた時間の裏側で、母が死んでいたかもしれないことを。
その恐怖を、今この瞬間に突きつけられている。
だから三人は、反論を飲み込んだ。
やがて映像は、アヤカの家へ移った。
黒い板に光が入り、中に人が映る。
カイトとアリシアがそれに驚き、身構える。
ネムリアが壁を見ながら言った。
「黒い板、動いてる」
「俺の世界の道具だ」
ユキトが短く答える。
「人が入っているのですか?」
ヴォルカが真剣に聞いた。
「入ってねえ。これと同じで映ってるだけだ」
ヴォルカは興味を持ちかけたが、次の瞬間、画面の中の空気が変わった。
歓声。
拍手。
女たちの悲鳴のような声。
そして、一人の男が現れる。
灰色の髪。
ぎらついた灰色の瞳。
人間離れした美貌。
画面の向こうにいるだけで、空気を支配しているような男。
司会者が叫ぶ。
『銀河竜アッシュさんです!』
ヴォルカが眉を寄せた。
「銀河竜……?」
フローラも目を細める。
「竜と言いましたね」
ネムリアが首を傾げる。
「そんな竜種、知らない」
三人が困惑する横で、ユキトだけが短く言った。
「あ、親父だ」
全員が止まった。
ヴォルカがゆっくり振り向く。
「……え?」
フローラの声も硬い。
「あの黒い板に映っている方が?」
「お父さん?」
ネムリアが続ける。
ユキトは目を逸らした。
「ああ」
それだけだった。
怒りも、懐かしさも、動揺もない。
あまりにも軽い一言。
その軽さが、逆に異常だった。
ヴォルカたちは言葉を失う。
ユキトはその沈黙に耐えきれなくなったように、椅子から立ち上がった。
「……悪い、トイレ行く」
「ユキト」
フローラが呼ぶ前に、ユキトは部屋を出た。
扉が閉まる。
ネムリアがぽつりと言った。
「にげた」
だが、誰も追わなかった。
映像は続いていた。
アヤカが戻ってきて、黒い板を消す。
そして、カイトへ話し始める。
父が出ていったこと。
残された紙のこと。
その内容。
子育てが終わったので出ていきます。
ヴォルカの顔が歪んだ。
「……何ですか、それ」
フローラの目から温度が消える。
「子育てが終わったから、妻と家を捨てたということですか」
ネムリアが小さく呟いた。
「さいてい」
そこへ、アヤカの言葉が落ちる。
『アキトはね、老けないの』
三人は、同時に理解した。
最初に感じた違和感。
アヤカが年齢以上に老いて見えたこと。
ユキトの母にしては、時間に削られすぎているように見えたこと。
違った。
アヤカが特別老けているのではない。
老けていない者が、近くに二人いただけだ。
アキト。
そして、ユキト。
フローラは、映像の中で消された黒い板を見た。
「銀河竜アッシュ」
低く、確認するように言う。
「アキト」
ヴォルカが黙って頷く。
「老けない男性。板の中のあの男を父だと認めたこと。そして……」
フローラの視線が、ユキトの出ていった扉へ向いた。
「ユキトさん自身も、出会った頃からほとんど変わっていないこと」
ネムリアが小さく言った。
「……ユキトも、老けてない」
ヴォルカの表情が強張る。
「では、ユキトさんは……」
「まだ断定はできません」
フローラは静かに遮った。
だが、その声に迷いは少なかった。
「けれど、偶然と考えるには、材料が揃いすぎています」
フローラはもう一度、消えた黒い板の方を見た。
「少なくとも、銀河竜アッシュとアキトさんは同一人物と見ていいでしょう」
そして、視線を映像の中のアヤカへ戻す。
老けない男がいた。
自分だけが老いていく妻を見ていた。
そのうえで、息子が消えた直後に、紙一枚を残して家を出た。
フローラの目から、すっと温度が消えた。
「最低です」
そして、少し間を置く。
「ユキトより、最低です」
普段なら、その言葉にユキトが何か言っただろう。
反論か、茶化しを挟んだだろう。
だが、今ユキトはいない。
だから三人は、遠慮なくアキトを裁けた。
映像の中で、アヤカが泣き崩れる。
自分だけが老いていくこと。
いつか捨てられると分かっていたこと。
それでも、ユキトが消えた時にアキトまでいなくなるとは思わなかったこと。
母親として踏みとどまろうとしていた女が、子供の前で壊れていく。
ヴォルカは両手を握りしめた。
「……ひどい」
ネムリアはいつもの眠たげな顔をしていなかった。
「ひとりにした」
フローラは黙っていた。
老いない側。
置いていく側。
それは、自分たちの抱いていた恐れの結末の一つだった。
ユキトだけが老いて、自分たちは残される。
その未来は、三人の胸に何度も影を落としてきた。
ヴォルカは、年老いたユキトの手を握る自分を想像したことがあった。
今より細くなった腕。
皺の増えた顔。
それでもいつものように笑って、馬鹿なことを言う彼を。
守ると誓った相手を、病でも炎でもなく、時間に奪われることが怖かった。
フローラは、人間の寿命を調べたことがある。
何歳で体力が落ちるのか。
何歳で病が増えるのか。
どれほど愛しても、どれほど治癒を施しても、老いそのものをなかったことにはできないのだと知っていた。
知識は覚悟にはならなかった。
むしろ、失う日が来るという事実だけを、静かに形にしてしまった。
ネムリアは、眠るたびに考えたことがある。
次に目を覚ました時、ユキトが少しだけ老けていたら。
その次は、もっと老けていたら。
そして、いつか目を開けた時、もう声が聞こえなかったら。
夢で会えるとしても、それは現実で会えないということだった。
その痛みは、想像するたびに胸を締めつけた。
だが、アヤカは逆だった。
老いない男を愛した。
自分だけが老いていった。
捨てられると分かっていた。
それでも家族を続けようとした。
そして、本当に捨てられた。
責められなかった。
重い母だと思う。
危うい人だとも思う。
けれど、責められなかった。
映像の中で、アヤカは涙を拭いた。
そして、唐突なほど日常的に言った。
二人とも、何も食べていないでしょう。
何か頼むから、待ってて。
ヴォルカが小さく息を漏らした。
やがて食卓に料理が並ぶ。
見たことのない食事。
カイトとアリシアが戸惑いながら、それを口にする。
アヤカは、二人が食べるのを見て少しだけ笑った。
ヴォルカが呟いた。
「……食べさせてくれた」
ネムリアも続ける。
「こわれてるのに」
フローラは目を細めた。
「それでも、母なのですね」
その一言で、リビングにまた沈黙が落ちた。
壊れている。
重い。
危うい。
子に依存している部分もある。
それでも、母だった。
死のうとしていた女が、息子だと思い込んだ少年と、見知らぬ少女を家へ連れ帰り、食事を取らせ、寝る場所を用意している。
フローラは静かに息を吐いた。
「……少し、分かった気がします」
ヴォルカが見る。
「何がですか」
「ユキトが、なぜ主導権を手放せないのか」
ネムリアも顔を上げる。
フローラは壁の映像を見つめたまま言った。
「私たちを信じていないからだけではないのでしょう。もちろん、それもある。けれど、それだけではありません」
父は逃げる。
母は壊れかける。
家庭は、誰かが支えなければ崩れるものだった。
ユキトは、そういう家で育った。
だから、壊れていても平気な顔をする。
家族への期待値が最初から低い。
痛みを冗談みたいに圧縮する。
最悪の事態を先回りして操作する。
自分が嫌われても、家族が崩れない方を選ぼうとする。
「自分が手を離したら、家庭は崩壊する」
フローラは小さく言った。
「そう思っているのかもしれません」
フローラは、映像の消えた壁を見つめたまま、静かに言った。
「ユキトは、アキトになりたくなかったのでしょうね」
ヴォルカが顔を上げる。
「アキトさんに……?」
「ええ」
フローラは頷いた。
「何も言わずに逃げる父。残された者の痛みを見ない父。家庭を、自分の都合で置き去りにする父」
その言葉に、誰も反論しなかった。
「ユキトさんは、そうなりたくなかった。だから、逃げないようにした。手放さないようにした。家族が壊れる前に、先に全部抱え込もうとした」
ヴォルカは唇を噛む。
フローラの声は、優しかった。
けれど、甘くはなかった。
「けれど、その努力は歪んでいました」
ネムリアが小さく頷く。
「にげないために、しばった」
「はい」
フローラは静かに答えた。
「アキトのように置き去りにしないために、ユキトさんは誰にも主導権を渡さなかった。家族を守るために、家族の選択を先回りした」
ヴォルカが目を伏せる。
「……それは、優しさだったのでしょうか」
「優しさでもあり、恐怖でもあったのでしょう」
フローラは言った。
「そして、努力でもありました。アキトにならないための、歪んだ努力です」
部屋に沈黙が落ちる。
ネムリアがぽつりと言った。
「でも、カイトは傷ついた」
「ええ」
フローラは頷く。
「だから、許されるわけではありません」
ヴォルカは壁の映像を見つめたまま、苦しそうに言った。
「それでも……ユキトさんは、逃げたくなかったんですね」
フローラは答えなかった。
ただ、静かに目を伏せた。
ヴォルカの目に涙が浮かんだ。
「……ユキトさん、可哀想です」
フローラは頷いた。
「ええ」
だが、すぐに続ける。
「ですが、可哀想だから許されるわけではありません」
ヴォルカは唇を噛む。
ネムリアがぽつりと言った。
「でも、わかった」
「はい」
フローラは静かに答えた。
「少なくとも、少しだけ」
映像の中で、カイトは疲れ切った顔で部屋へ向かっていく。
アリシアも、アヤカも、それぞれの痛みを抱えたまま夜へ沈んでいく。
異世界側のリビングにも、夜の気配が濃くなっていた。
ユキトは、結局その夜、戻ってこなかった。
トイレに行くと言って出ていったきりだった。
いつもの彼なら、逃げたと笑って引き戻せた。
ネムリアなら、首根っこを掴みに行くこともできただろう。
けれど、その夜だけは誰も動かなかった。
アキトは何も背負わず逃げた。
アヤカは残されて壊れかけた。
ユキトはその間にいた子どもだった。
それを見てしまったあとで、誰もユキトに、逃げるなとは言えなかった。




