76.過去でできた檻
黒い板に、光が戻った。
それだけで、カイトとアリシアは揃って身を引いた。
テーブルの上に置かれたそれは、父が現代日本にいた頃に使っていたという道具だった。
昨日まで死んだ石のように沈黙していたものが、今は薄い光を放っている。
画面には、見知らぬ記号と、色のついた小さな絵が並んでいた。
「……動いたな」
カイトが言うと、アリシアは小さく頷いた。
「ええ。動いています」
二人とも、声が少し硬かった。
ただの道具ではない。
この中には、父の過去が入っているかもしれない。
異世界で母たちと出会う前のユキト。
自分たちが知らない、父の生活。
父が隠していたかもしれない女の影。
それを覗くことになるのだと思うと、妙に胸が落ち着かなかった。
カイトは黒い画面を睨みながら、そっと指で触れた。
すると、画面が切り替わった。
色のついた四角い印がいくつも並んでいる。
文字は読めない。
何が何なのかも分からない。
ただ、どれかを押せば何かが起きるのだろうということだけは分かった。
「写真を探せばいいんだよな」
「おそらくは」
「どれだ」
「分かりません」
アリシアはいつも通り冷静に答えた。
ただし、彼女の視線も画面から離れていない。
カイトは指で適当な絵を押した。
直後、画面いっぱいに地図が出た。
「……何だこれ」
「地形図でしょうか」
「この家の周りか?」
「たぶん。ですが、なぜ道が光っているのでしょう」
分からないので戻る。
別の印を押す。
今度は、予定表のようなものが出た。
また読めない。
さらに押すと、よく分からない画面に飛び、知らない文字が大量に出てきた。
「……これは?」
「分かりません」
さらに触る。
突然、妙に派手な画像が表示された。
何かの絵。
妙に挑発的な表情をした動物らしきもの。
その上に大きな文字が載っている。
読めない。
読めないのに、なぜか腹が立つ。
「……何だこれ」
「煽られている気がします」
「字が読めねえのに腹立つってすごいな」
「父さんの持ち物ですから」
「納得したくねえ……」
カイトは画面を戻そうとして、別の場所に触れた。
今度は一覧のような画面が出た。
小さな写真や画像が並んでいる。
「これか?」
「写真かもしれません」
二人は少しだけ姿勢を正しながら慎重に画像を開いた。
食べ物だった。
何かの麺。
器から湯気が立っている。
「……食い物か」
「おいしそうではありますね」
「今それはいい」
次を開く。
意味不明な画像だった。
人の顔を雑に加工したようなもの。
読めない文字が大きく載っている。
次。
また変な画像。
次。
雑な風景。
ぶれている。
次。
よく分からない動物。
次。
また煽り画像。
カイトの額に青筋が浮いた。
「親父、何を残してんだよ」
「重要なものは別の場所にあるのかもしれません」
「二股の手がかりって言って渡したんだぞ、これ」
「父さんですから」
「それで全部説明つくのやめろ」
アリシアが画面を覗き込む。
「女性の写真らしいものはありませんね」
「消したのか?」
「ありえます。あるいは最初から撮っていないのかもしれません」
「本当に役に立たねえな、あのダメ親父」
カイトがぼやいた、その時だった。
家のどこかで、澄んだ音が鳴った。
カイトとアリシアは同時に顔を上げる。
「……今のは?」
「来客を知らせる音でしょうか」
「誰が来るんだよ」
アヤカは仕事に行った。
この家を訪ねてくる人間など、二人には心当たりがない。
カイトはスマホを机に置き、立ち上がった。
「俺が出る」
「私も行きます」
「いや、待ってろ」
アリシアが不満そうに目を細めた。
「理由は?」
「何が来るか分かんねえから」
「なおさら一緒に行くべきでは?」
「玄関に二人で出て、こっちが何も分かってませんって顔する方が危ねえだろ」
アリシアは少し考え、頷いた。
「では、私は近くで聞いています」
「堂々と言うな」
「必要な情報収集です」
「姉さん、そういうところあるよな」
カイトはため息をつき、玄関へ向かった。
もう一度、呼び鈴が鳴る。
音はやけに明るい。
けれど、カイトの背筋には嫌な緊張が走っていた。
扉の前で一度息を整える。
そして、開けた。
そこにいたのは、少女だった。
息を切らしていた。
明るい黄色の髪が、肩のあたりでふわりと揺れている。
風呂上がりに急いで来たのか、髪の端が少しだけ湿っていた。
茶色の瞳は大きく、愛嬌のある顔立ちをしている。
整いすぎた冷たい美しさではない。見た者の警戒を解いてしまう、柔らかくて明るい可愛さだった。
頬も、首筋も、まだ熱を帯びている。
薄い上着の下の体は華奢だが、弱々しくはない。日頃から体を動かしている者の、健康的なしなやかさがある。
おそらく、普段ならもっと上手く笑うのだろう。
見られることに慣れた少女。
自分がどう見えるかを知っている少女。
だが今は、その全部が崩れていた。
取り繕う余裕がない。
可愛く見せるための笑顔ではない。
ただ、必死だった。
少女はカイトを見た。
そして、泣きそうな顔で叫んだ。
「ユキト……!」
次の瞬間、彼女は飛び込んできた。
カイトは何もできなかった。
細い腕が背中に回る。
体温がぶつかる。
湿った髪の匂いと、走ってきた息遣いが、胸元に押しつけられる。
カイトは完全に硬直した。
廊下の陰で、アリシアも動きを止めた。
リオにとって、ユキトはダメな彼氏だった。
最初は顔が好みだった。
軽くて、馬鹿で、適当で、距離感が近くて、どうしようもない男だと思った。
けれど、変に気を遣わないところが楽だった。
可愛いと言う時も、からかう時も、雑に扱う時も、全部が妙に自然で、腹が立つのに嫌ではなかった。
気づいた時には、本気になっていた。
リオは、放課後にバイトをしている。
家計を助けるためだった。
母はいつも働き詰めで、家にいる時間より、外で頭を下げている時間の方が長かった。
だからリオも、何もしないでいることができなかった。
スーパーで、客に向かって笑うことは覚えた。
明るく振る舞うこと。
可愛く見える角度。
嫌なことを言われても、軽く流して笑うこと。
そういうものは、誰かに教えられたわけではない。
必要だったから、自然と身についた。
けれど、ユキトの前では違った。
愛想のいい笑顔では足りなかった。
その場をうまく回すための可愛さでは意味がなかった。
本気で可愛いと思われたかった。
客でもなく、友達でもなく、通りすがりの誰かでもなく。
他の誰でもない、ユキトに選ばれたかった
シオンとは何度も揉めた。
あの女は嫌いだった。
上品ぶって、金と環境で囲い込もうとして、ユキトを最初から自分のものみたいな顔で見ていた。
リオは負けたくなかった。
自分が一番だと言ってほしかった。
自分を選んでほしかった。
なのに、その直後にユキトは消えた。
最初は怒った。
逃げたのかと思った。
最低だと思った。
何か言えよと思った。
ふざけるなと思った。
けれど、何日経っても返事はなかった。
スマホに既読もつかなかった。
怒りは、少しずつ不安になった。
そして今日、それは恐怖になっていた。
体を動かしていないとおかしくなりそうで、トレーニングに没頭した。
汗を流して、風呂に入って、それでも頭の中からユキトは消えなかった。
風呂から上がったあと、いつものようにスマホを見た。
既読がついていた。
その瞬間、考えるより先に走っていた。
帰ってきた。
そう思ったから。
「どこ行ってたの……!」
リオの声が震えていた。
「心配したんだから……本当に、心配したんだから……!」
カイトは動けなかった。
この子が本当に父の恋人だったとしても、関係は終わらせなければならない。
それは、最初から決めていた。
父にはもう母たちがいる。
ヴォルカがいる。
フローラがいる。
ネムリアがいる。
家がある。
子どもがいる。
シロネコ島で積み上げた暮らしがある。
今さら現代の恋人の元へ戻ることはない。
戻らせるわけにもいかない。
だから、言うべきことは決まっていた。
ユキトはもう戻らない。
この関係は終わりにするしかない。
そう告げるつもりだった。
けれど。
リオは震えていた。
怒っているのではない。
責めているのでもない。
本気で心配して、本気で安心して、今にも泣きそうになりながら抱きついている。
ここで切るのか。
初対面の自分が。
父本人ですらない自分が。
父の代わりに、この感情を終わらせるのか。
カイトの喉は、動かなかった。
「この一週間、何してたの」
リオは顔を上げた。
目元が赤い。
それでも笑おうとしている。
可愛く見せるためではなく、安心したから笑おうとしている顔だった。
「もう、どこにも行かないで」
カイトは答えられなかった。
父は異世界で家庭を持っています。
父は、あなたのことを覚えていません。
俺は息子です。
あなたの彼氏ではありません。
どれも言えなかった。
リオは、カイトの沈黙を見つめた。
その瞳に、不安が戻りかける。
けれど、彼女は飲み込んだ。
何か言えない事情がある。
そう判断したようだった。
「……学校」
リオは少しだけ声を整えた。
「学校、いつから来るの?」
カイトはそこで、ようやく答えられる問いを見つけた。
アヤカと話して、三日後に行くことになっている。
父の代わりに、ユキトとして。
「三日後」
「水曜日だね」
リオはすぐに言った。
「じゃあ、朝、一緒に行こう。迎えに来るから」
「いや、それは――」
「来るから」
言葉を被せられた。
カイトは押し黙る。
リオは少しだけ笑った。
さっきよりも、いつもの彼女に近い笑顔だった。
「約束だからね」
そう言って、もう一度だけカイトの袖に触れた。
強くはない。
けれど、離したくなさそうな指だった。
「ちゃんと寝て。あと、スマホ見て。返事、して」
返事を待たずに、リオは背を向けた。
玄関先から離れていく足音は、来た時よりも少しだけ落ち着いていた。
それでも何度か振り返りそうな気配があって、結局振り返らずに角を曲がった。
扉を閉めたあとも、カイトはしばらく動けなかった。
廊下の奥から、冷たい声がした。
「二股を清算するのではなかったんですか」
カイトは振り向いた。
アリシアが立っていた。
表情は静かだった。
だが、さっきまでの柔らかさはない。
「本当に付き合っていたとしても、終わらせると決めていたのでしょう」
アリシアは一歩近づいた。
「父さんにはもう、母様たちがいるのですから」
「……分かってる」
「その割には、ずいぶん嬉しそうに抱きしめられていましたね」
カイトは顔をしかめた。
「嬉しそうじゃねえよ。固まってただろ」
「拒みはしませんでした」
返す言葉が、一瞬遅れた。
「……分かってる」
カイトは苦く言った。
「でも、あのタイミングで言えなかった」
「彼女が泣いていたからですか」
アリシアの声は冷たい。
「それとも、彼女が可愛かったからですか」
カイトの眉が動いた。
「そういう話じゃねえだろ」
「では、どういう話ですか」
「あんな状態で、いきなり関係を切れるほど俺はできてない」
「それが必要な役目だったとしても?」
「分かってるって言ってるだろ」
声が少し荒くなった。
アリシアは黙った。
本当は分かっていた。
リオは責められるような顔をしていなかった。
彼女は本気だった。
本気でユキトを心配して、本気で帰ってきたと信じていた。
あれを初対面で切り捨てるのは、簡単ではない。
分かっている。
だから腹が立つ。
カイトが、別の女の感情を受け止めたことに。
自分ではない誰かに抱きしめられ、動けなくなったことに。
その子が、悔しいほど可愛かったことに。
けれど、それは言えない。
だからアリシアは、正論を選んだ。
「カイトは優しいですね」
「嫌な言い方すんな」
「事実です」
「姉さん」
「何ですか」
「怒ってるなら、ちゃんと怒れよ」
アリシアの目が細くなった。
「怒っています」
「何に」
「目的を忘れかけていることに」
「忘れてねえ」
「では、次に会った時は言えるのですか」
カイトは答えられなかった。
アリシアはそれを見て、さらに表情を消した。
「言えないのですね」
「……言う」
「今の沈黙は、そう聞こえませんでした」
カイトは息を吐いた。
「俺だって切るつもりだった。最初からそのつもりだったんだよ。でも、あれを初対面で――」
その時。
また、呼び鈴が鳴った。
二人とも止まった。
さっきと同じ音のはずなのに、今度はまったく違って聞こえた。
カイトは苛立った顔で玄関を見る。
「……こんな時に誰だよ」
アリシアは何も言わなかった。
ただ、表情がさらに冷たくなった。
カイトは玄関へ向かった。
今度は、さっきよりも警戒していた。
扉の前に立つ。
呼び鈴は二度目を鳴らさなかった。
その代わり、扉の向こうから声がした。
丁寧で、上品で、少し冷たい声。
「ユキト君、いるんでしょう?」
カイトは扉の前で、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
またか。
そう思った。
リオが帰ったばかりだった。
まだ腕に、彼女が抱きついてきた時の感触が残っている。
まだ耳に、心配したんだから、と震えた声が残っている。
その直後に、別の女が来た。
父の過去は、どれだけ雑に散らかっているのか。
奥の廊下で、アリシアがこちらを見ている気配がした。
さっきまで自分を責めていた姉は、今は何も言わない。
ただ、聞いている。
カイトは深く息を吐き、扉を開けた。
玄関の外に立っていたのは、少女だった。
薄い紫の髪が、夕方の光を受けて淡く揺れている。
髪は丁寧に整えられていた。服も綺麗だった。細部まで乱れがないように見える。
けれど、完全ではなかった。
目元に薄い隈がある。
唇の色も少し悪い。
手はバッグの持ち手を握っていて、その指先だけがやけに強張っていた。
爪の端が、少し荒れている。
整えている。
けれど、整えきれていない。
その姿だけで、彼女がこの一週間をまともに過ごしていなかったことは分かった。
シオンはカイトを見た。
息を呑むような間があった。
叫ばない。
抱きつかない。
泣きもしない。
ただ、目だけがわずかに揺れた。
「……無事、生きていたのね」
その声は静かだった。
静かなのに、カイトの胸に重く落ちた。
リオの「ユキト」とは違う。
あれは感情が先に飛び出した声だった。
目の前のシオンは違う。感情を押さえ込んで、押さえ込んだまま、そこから漏れた一言だった。
カイトは何も返せなかった。
シオンの背後に、黒い車が停まっている。
昨日アヤカに乗せられたものより、さらに艶があり、静かで、妙に威圧感があった。
運転席には、制服姿の男が座っている。
こちらに気づくと、軽く頭を下げた。
カイトは思わずそちらを見る。
「……なんだ、あれ」
シオンは視線を逸らさずに答えた。
「家の車。運転手に送ってもらったの」
そして、少しだけ間を置く。
「あなた、こういうの嫌いでしょうけど。今日は特別」
その言い方は、カイトの知らないユキトを知っている人間のものだった。
父はこういうものを嫌ったのか。
それとも、嫌うふりをしていたのか。
カイトには分からない。
ただ、シオンが「ユキトならそう思う」と知っていることだけが、嫌でも分かった。
「……何の用だよ」
ようやく出た声は、少し硬かった。
シオンはほんの少しだけ目を細めた。
「それを、私に聞くの?」
責める声ではなかった。
けれど、許す声でもない。
「一週間、どこにいたの」
カイトは黙る。
「お母さまにも、学校にも、警察にも、リオにも、私にも、何も言わずに」
シオンの声は崩れない。
崩れないまま、少しずつ深いところへ針を刺してくる。
「スマホの電源まで落として、逃げたかったの?」
カイトの喉が詰まった。
違う。
俺は知らない。
俺はユキトじゃない。
そう言いたかった。
だが、言えない。
ここで言えば、何が壊れるか分からない。
アヤカが壊れるかもしれない。
リオが崩れるかもしれない。
シオンも、どうなるか分からない。
だから、何も言えない。
シオンはその沈黙を、別の意味に受け取った。
「最後に私たちが言ったこと、覚えているでしょう」
カイトの指が、扉の縁を掴む。
覚えているはずがない。
だが、シオンの目は「覚えていない」と言うことを許さなかった。
「どちらが本当の彼女なのか、決めて」
静かな声だった。
なのに、玄関の空気が一気に冷えた気がした。
廊下の奥で、アリシアの気配がわずかに変わる。
カイトの頭の中で、言葉が遅れて意味を持つ。
どちらが本当の彼女なのか。
決めて。
リオと。
シオン。
その場から逃げたのか、父は。
返事もせず。
誰にも何も言わず。
そして異世界へ飛ばされた。
カイトは奥歯を噛んだ。
父さん。
何をしてるんだよ。
「今、聞いてもいい?」
シオンが言った。
カイトは完全に固まった。
答えられるわけがなかった。
リオを選ぶのか。
シオンを選ぶのか。
どちらでもないのか。
そもそも自分は本人ではない。
何も答えられない。
黙るしかなかった。
シオンはカイトの沈黙を見て、ほんの少しだけ笑った。
綺麗な笑みだった。
けれど、笑っていなかった。
「……冗談、もういいわ」
その声に混じったものが、カイトの胸を刺した。
諦めだ。
それとも、諦めたふりだろうか。
シオンは目を伏せ、悲しそうに言った。
「どうせ、あなたはまた逃げるでしょう?」
息が止まった。
自分が逃げたわけではない。
自分はその場にいなかった。
父の罪だ。
父の逃げだ。
父の沈黙だ。
そう思うのに、傷ついた。
今、自分も答えられなかった。
今、自分も黙って逃げているように見えた。
父の顔で、父の代わりに立って、父と同じ沈黙をしている。
その事実が、胸の奥を抉った。
「……違う」
かろうじて出た声は、弱かった。
シオンは顔を上げる。
「何が違うの?」
カイトは何も言えない。
シオンは待った。
待って、それでも答えがないことを確認したように、小さく息を吐いた。
「……何があったのか、今は聞かないわ」
その言葉は優しく聞こえた。
けれど、優しいだけではない。
聞かない。
今は。
つまり、後で聞くということだった。
「でも、あなたが何も言わずに消えたことまで、なかったことにはならない」
「……分かってる」
「本当に?」
シオンは静かに問い返した。
「あなたはいつもそう。分かってると言う時ほど、何も分かっていない顔をする」
カイトは何も返せなかった。
シオンが見ているのは、ユキトだ。
自分ではない。
それなのに、言葉だけが自分にも刺さる。
「あなた、今まともに判断できる状態ではないでしょう」
「勝手に決めんな」
「勝手に消えた人に言われたくないわ」
即座に返された。
カイトは口をつぐむ。
その正しさは、自分に向けられたものではない。
でも、今は自分が受けるしかない。
シオンは少しだけカイトを見つめた。
「学校には戻るの?」
「……三日後」
昨日リオにも答えた言葉が、また口から出る。
「そう」
シオンは短く返した。
「なら、学校で会いましょう」
カイトはすぐには答えられなかった。
学校。
その言葉だけが、妙に遅れて頭の中に沈んでいく。
学校へ行く。
この世界の学校へ。
父が通っていた場所へ。
いや、違う。
父が通っていた場所ではない。
今も、ユキトの席がある場所だ。
ユキトの教室。
ユキトの友人。
ユキトの生活。
ユキトの過去。
そこに、自分が座る。
ユキトとして。
ようやく、その意味が本当の形で見えた。
アヤカの前で息子を演じるだけではない。
リオやシオンの前で恋人のふりをするだけでもない。
学校へ行けば、もっと多くの人間が自分をユキトとして見る。
ユキトの言葉を待つ。
ユキトの反応を探す。
ユキトが帰ってきたものとして、自分へ話しかけてくる。
その全部に、自分が答えなければならない。
カイトの顔から血の気が引いた。
「……学校」
ようやく漏れた声は、掠れていた。
シオンは、その顔を見て少しだけ目を細めた。
責めるわけではなかった。
勝ち誇るわけでもなかった。
ただ、悲しそうに笑った。
「また逃げるなら、先に言って」
声がかすかに揺れた。
「待つのは、思っているより疲れるの」
その瞬間、カイトはようやく気づいた。
彼女は寝ていない。
目元の隈。
荒れた爪。
握りしめたバッグ。
整っているのに、どこか崩れかけた立ち姿。
全部が、一週間待った痕だった。
「……寝てないのか」
思わず聞いた。
シオンは一瞬だけ黙る。
「寝たわ」
「嘘だろ。目の下、すごいぞ」
シオンは少しだけ笑った。
「見てくれる余裕はあるのね」
その笑みが、妙に痛かった。
リオは泣きそうな顔で抱きついてきた。
シオンは平気な顔をして、平気ではないことを隠している。
どちらも、本気だった。
カイトは何も言えなくなった。
シオンはそれ以上、踏み込まなかった。
「学校で会いましょう」
もう一度、同じことを言った。
約束ではない。
確認でもない。
ほとんど宣告だった。
そして、最後に付け足す。
「今度は、逃げないで」
それだけ言って、シオンは背を向けた。
門の外で、運転手が車から降りる。
無言で後部座席の扉を開けた。
シオンは乗り込む前に、一度だけ振り返った。
「……一週間、待っていたのよ」
その声は、さっきまでよりずっと小さかった。
カイトが返事を探す前に、シオンは車へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
黒い車は静かに動き出し、家の前から離れていった。
走って帰ったリオとは違う。
感情を置いていくような背中でもない。
シオンは、次の場所を決めて去った。
カイトは玄関先に立ったまま、しばらく動けなかった。
手のひらに、汗が滲んでいる。
リオを切れなかった。
シオンにも答えられなかった。
父の二股を清算するどころか、二人の本気を受け取って黙っただけだった。
「……最悪だ」
小さく呟く。
背後に気配があった。
カイトは振り返る。
廊下の奥に、アリシアが立っていた。
何も言わなかった。
責めるでもない。
冷たい言葉を投げるでもない。
皮肉もない。
ただ、静かにカイトを見ていた。
その目にあるものを見て、カイトは胸を掴まれたような気がした。
失望だった。
「姉さん」
呼んでも、返事はなかった。
アリシアはほんの少しだけ視線を下げる。
それから、何も言わずに背を向けた。
「待って」
カイトは言いかけた。
だが、止まった。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
アリシアはそのまま客間へ戻っていく。
扉が閉まる音だけが、家の中に残った。
カイトは玄関に立ったまま、動けなかった。
自分の名で立ちたいと思っていた。
父の代わりではなく、カイトとして。
なのに、この世界に来てから自分がしていることは、全部逆だった。
アヤカには息子として見られた。
リオには恋人として抱きつかれた。
シオンには、逃げた恋人として責められた。
そして今、アリシアには失望された。
父の過去を清算する。
そう言えば少しは格好がついた。
けれど実際は、何ひとつ清算できていない。
ただ、父の顔で黙っているだけだ。
玄関の向こうには、さっきまでシオンの車があった道が続いている。
そのさらに先には、学校があるのだろう。
全てユキトを待っていた人たち。
そこへ、自分が行く。
カイトは歯を食いしばった。
帰りたい、とは思わなかった。
けれど、初めて少しだけ思った。
この世界は、父の過去でできた檻だ。
なお。
二十年前、その檻から逃げるように異世界へ転移したユキトが、最初に発した言葉は――
「ラッキー!!!」
だった。




