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75.この世界、やっぱりおかしい

アリシアが眠れたのは、かなり遅くなってからだった。


隣の部屋では、カイトの気配がとうに静かになっていた。

呼吸の音までは聞こえない。けれど、この家のどこかに彼がいるのだと分かるだけで、完全な異郷の夜にはならなかった。


見慣れない天井だった。

壁の色も、窓の形も、灯りの消えたあとの暗ささえ、シロネコ島とは違う。


それなのに、目を閉じると浮かぶのは、崖の上で振り返ったカイトの顔だった。


――父さんと同じことしてるぞ、姉さん。


あの一言は、思っていた以上に深く刺さっていた。


否定しようと思えば、できた。

知らない世界だったから。

一人で行かせたくなかったから。

戻れる保証がなかったから。

カイトに必要なのは、自分のように同じ場所を痛いと思える相手だと、本気で思ったから。


全部、本当だった。


でも、聞くべきだったのだ。

一緒に来てほしいかどうか。

それを背負わせていいのかどうか。

聞けば、止められると分かっていたから、聞かなかった。


その事実だけは、どう言い換えても残る。


アリシアは目を閉じた。

胸の奥に鈍い痛みが残っている。


自分は、カイトが嫌がることをした。

しかも、いちばん嫌っている父と同じ手つきで。


それを認めた瞬間、崖の上では涙が落ちた。

止めようと思えば止められたはずだった。

けれど、止めたくなかった。


そこまで考えて、アリシアはようやく、その理由に言葉を与えた。


好きだからだ。


その認識は、思っていたより静かに落ちてきた。

雷みたいにではなく、長く曇っていた空が、あるところでふと切れるように。


好きなんだ。


弟だから。

家族だから。

守りたかったから。


そうやっていくらでも言い換えられたものの核が、結局そこにあった。


好きだから、一人で行かせたくなかった。

好きだから、嫌われるかもしれない形でも、隣にいたかった。


最低だ、と思う。


こんな時に、こんなことをはっきり自覚する自分が嫌だった。

カイトが傷ついている最中に、自分の感情へ名前をつけてしまうことも。

その名前をつけた途端、少しだけ楽になってしまったことも。


それでも、もう誤魔化せなかった。


シロネコ島では、家族の目があった。

父がいて、母たちがいて、妹がいて。

同じ家にいて、同じ食卓につき、同じ距離の中で生きていた。


だから、曖昧なままでいられた。

姉として、家族として、守る側として。


でも、今はもう違う。


この世界には、少なくとも自分たちを知る家族の目はない。

父の息子、母たちの娘、そういう枠だけで自分を固定してくる人間はいない。

あるのは、知らない世界と、知らない家と、隣の部屋にいるカイトだけだった。


なら、もう少しくらい素直になってもいいのではないか。


そう思った瞬間、逆に息が詰まった。


素直になるとは、何に対してだろう。

カイトにか。

自分にか。

それとも、もう戻れない場所へ置いてきた家族にか。


答えは出なかった。

ただ、もう自分の気持ちを「分からない」で済ませる段階ではないのだとだけ、はっきりした。


アリシアは目元を腕で覆った。

眠気は遅れてやってきた。


好きだと自覚したその夜、彼女は少しだけ疲れた顔のまま、ようやく眠りへ落ちた。



翌朝、アリシアは知らない匂いで目を覚ました。


火で焼く匂いではない。

鍋で煮る匂いとも違う。

油気はあるのに、台所全体が熱を持っていない。


起き上がって、少しだけ遅れて部屋を出る。

廊下は静かだった。昨夜の重さがまだ家の中に残っているような、妙に慎重な朝だった。


階下へ降りると、アヤカが台所に立っていた。


薄い色の上着を羽織ったまま、目の下にはまだ疲れが残っている。髪もきっちり整っているわけではない。けれど、手だけは止まっていなかった。


見慣れない箱を開け、中から取り出した容器を別の箱へ入れる。

扉が閉じる。

内側が淡く光り、しばらくして短い音が鳴った。


アリシアは足を止めた。


箱の大きさ。

扉の開き方。

内側の材質。

熱源らしいものは見えない。

火を使っているようには見えない。けれど、使い方にはまるで迷いがない。


アヤカが振り返る。

少し驚いたあと、すぐに表情を和らげた。


「おはよう、アリシアちゃん。もう起きたのね」


「おはようございます」


アリシアは視線を箱から外した。

知らないものを知らない顔で見続けるのは危うい。そう判断して、声だけは落ち着かせる。


音が止まり、アヤカが箱の中から皿を取り出した。

湯気が立っていた。


アリシアはその皿と箱を見比べる。


入れたばかりのものが、もう温まっている。

火を使った気配はない。

それでも、表面だけではなく全体に熱が回っているように見えた。


「……早いんですね」


考えた末に、それだけ言った。


仕組みには触れない。

驚きも出しすぎない。

見たことがあるようにも、初めて見るようにも取れる、ぎりぎりの言い方だった。


アヤカは少しだけ困ったように笑う。


「ごめんなさいね。手抜きよ」

「ちゃんと作ってあげられなくて」


「いえ」


アリシアは小さく首を振った。


手抜き。

そういう発想になるのか、と内心で思う。


火も使わず、短い時間で食事を温める箱。

それ自体が十分すぎるほど異様なのに、この人にとっては“楽をしている”側の話らしい。


この世界は、やはり少しおかしい。


朝食は、奇妙なくらい整っていた。


皿の上には、こんがり焼かれたパンがある。

その横には、衣のついた小さな肉がいくつも並んでいた。揚げ物らしいのに、鍋も油も見当たらないまま食卓へ出てきたせいで、余計に得体が知れない。

小さな器には、湯を注いだだけにしか見えないのに、ちゃんと匂いの立つ汁物が入っていた。具も浮いている。乾いた何かが、湯を吸って食べ物に戻ったように見える。

けれど、その普通さが、二人にはまだ異様だった。

道具が違う。匂いが違う。音が違う。台所の熱さが違う。


それでも味はちゃんと食べ物だった。

むしろ、昨日の疲れた身体にはありがたいくらいだった。


アヤカは二人が食べ始めたのを見て、ようやく自分も椅子に腰を下ろした。

座り方に、すでに疲れが出ていた。


「今日は休みだけど、仕事に行くわ」


カイトが顔を上げる。


「休みなのに?」


「仕事、かなり溜まってるの」

アヤカは苦く笑った。

「しばらく無理を言って休んだから、その分を取り返さないと」


そこで少しだけ視線を落とす。


「昨日まで、何もできなかったから」

「でも……」

彼女は言葉を選ぶように間を置いた。

「生きてるって分かったなら、今度はちゃんと生きる方をやらなきゃいけないでしょ」


明るく言おうとしたのだろう。

けれど、声は少しだけ掠れていた。


カイトもアリシアも、その言葉には何も返せなかった。


アヤカは食卓の端に置いてあった封筒を手に取り、机の上へ移した。


「警察には、見つかったって連絡を入れておく」

「学校にも、しばらく休ませるって言うわ」


カイトの動きがわずかに止まる。


学校。

その言葉にはまだ現実感がなかった。


アヤカは続ける。


「すぐに行けなんて言わない。今のまま出したら、あなたもアリシアちゃんも無理だもの」

「でも、ずっと行かせないわけにもいかないから」


それから、二人を見る。


「しばらく、私も会社に泊まり込みになるかもしれない」

「だから、机の上のお金は使っていいわ。好きなもの買って食べて」

「家の中のものも、必要なら遠慮しないで」


アリシアが机の上を見る。

紙があった。

数字のようなものが書いてある。

硬貨ではない。


それを不思議そうに見ていると、アヤカが少し首を傾げた。


「……どうしたの?」


「いえ」

アリシアはとっさに首を振る。

「なんでもありません」


アヤカはそれ以上追及しなかった。

代わりに、少しだけアリシアの方を見て言う。


「アリシアちゃん」

「はい」

「ユキトがどこか行かないように、見ていてくれる?」


カイトとアリシアの間に、一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。


アヤカは気づかなかったのか、気づいてもそれどころではなかったのか、そのまま立ち上がる。


「じゃあ行ってくる。何かあったら、ここに置いてある電話で連絡してね」


自分で言って、少しだけ疲れた笑みを浮かべる。

「私の番号は紙に残しておくわ」


そう言って、慌ただしく支度を整え、家を出ていった。


玄関の閉まる音がして、家の中が静かになる。


カイトはしばらく食卓に座ったままだったが、やがて小さく息を吐いた。


「……見ていてくれ、って言われたな」


少し呆れたような声だった。


「親父、そんなに信用ないのかよ」


アリシアは机の上に残った食器を見たまま、淡々と答えた。


「突然いなくなった息子が見つかったと思ったら、昨日は崖の上で心中しかけていたように見えたんですよ」

「当然でしょう」


カイトは一瞬だけ黙った。


たしかにその通りだった。

泣いていたアリシアを見て、アヤカは昨日の崖で二人そろって死のうとしていたのだと思い込んでいる。

そのうえ、今の自分は“ユキト”として扱われている。放っておけば、またアリシアを連れてどこかへ消えると警戒されてもおかしくなかった。


「……それもそうか」


納得したような、したくないような顔で言う。


アリシアはそこでようやくカイトを見る。


「つまり、二人とも危険人物として見られています」

「言い方」

「事実です」


カイトは小さく鼻を鳴らした。


「だったら、余計にじっとしてるわけにもいかねえな」


「ええ」


アリシアも頷く。


「まずは、父さんの部屋を見ましょう」


「同感」


二人は立ち上がった。



二階の部屋には、人が暮らしていた痕跡がそのまま残っていた。


机。

本棚。

衣服。

雑誌。

意味の分からない小物。


島の家にあった父の物とは、少し違う。

生活の匂いが、まだこちら側の世界に馴染んでいる。


カイトは机の引き出しを開け、アリシアは棚の本を流し見た。


「……やっぱり読めねえな」


「ええ。形は文字ですが、意味が取れません」


「父さん、これを普通に読んでたのか」


「元はこちらの人ですから」


「本当にそうなんだな」


分かっていたはずなのに、改めて部屋を見ると少し妙な気分だった。

父はこの世界で生まれ、この部屋で暮らし、この文字を読み、この服を着ていた。


今の自分たちには、そのどれもが遠い。


机の中には、細い棒のような筆記具や、紙の束が入っていた。

どれも使い方は何となく分かる。だが、書かれている内容は分からない。


アリシアは一冊の薄い帳面を開き、すぐに閉じた。


「日記ではなさそうです」


「読めないのに分かるのか?」


「文字と数字が多いです。勉強用か、予定を書いたものかもしれません」


「なるほどな」


カイトは引き出しの奥まで手を入れた。

指先に硬いものが当たる。


「何かある」


引っ張り出したのは、小さな貯金箱だった。

持ち上げると、ずしりと重い。


振ると、中で金属と紙が擦れる音がした。


「お金か?」


蓋を開けると、硬貨と紙片が入っていた。


カイトは思わず硬貨をつまみ上げる。


「やっぱりこういうのだろ」


丸くて、重い。

見慣れない模様はあるが、金としてはまだ納得できる形をしている。


だがアリシアは、紙の方を手に取っていた。


「待ってください」


「ん?」


「こっちの方が価値が高いです」


「紙の方が?」


「数字が大きいです。硬貨にも数字がありますが、こちらの紙の方が桁が上です」


カイトは紙と硬貨を見比べた。


「……納得いかねえ」


「分かります」


「普通、金属の方が価値は高いだろ」


「ええ」


「でも紙の方が上なんだな」


「数字がそう言っています」


二人は顔を見合わせた。

妙な話だが、ユキトに叩き込まれた数字の知識が、こんなところで役に立っていた。


「使っていいって言ってたよな」


「言っていました」


「じゃあ軍資金だな」


カイトは硬貨と紙をまとめ、袋に移した。


そこで、ふと部屋を見回す。


「……でも、これだけか?」


「父さんの部屋にしては、少ないですね」


「だよな」


ユキトが大事なものを分かりやすい場所に置くとは思えなかった。

むしろ、見つけられたくないものほど、くだらない顔で妙な場所に隠すはずだ。


カイトは机の下を覗き込み、棚の奥を探った。

アリシアも衣服の隙間や、引き出しの裏を確かめる。


しばらくして、カイトはベッドの下に手を入れた。


指先が、箱の角に触れる。


「……あった」


「何かありましたか」


「箱」


カイトが引きずり出したのは、厚い箱だった。

埃をかぶっているが、ただの収納には見えない。

人に見せるつもりのない物を入れるための箱だった。


アリシアは少しだけ目を細める。


「開けますか」


「ここまで来て開けない方が怖いだろ」


カイトが蓋を開けた。


最初に出てきたのは、どう見てもまともではない冊子だった。


表紙には、露出の多い女がいる。

肌の質感も、髪の流れも妙に生々しく、一瞬、写真かと思った。


カイトの手が止まる。

横から覗いたアリシアも、わずかに目を細めた。


「……リアルだな」


「ええ」


アリシアは数秒見てから、静かに言った。


「でも、絵です」


「絵かよ」


「かなり精巧ですが」


そこで、二人とも次の言葉が出なかった。


カイトは冊子を閉じようとして、少しだけ手を滑らせた。

余計に中が見えそうになって、慌てて押さえる。


「……うわ」


思わず出た声に、アリシアが一瞬だけ顔を背けた。

その反応があまりにも早くて、カイトの方もつられて視線を逸らす。


妙な沈黙が落ちた。


見なかったことにしたい。

でも、もう見たこと自体は消えない。

しかもそれが父の部屋から出てきた、という事実までついてくる。


「……戻すか」


「そうですね」


アリシアの返事も、ほんの少しだけ早かった。


カイトは冊子を箱へ戻した。

アリシアも手伝おうとはしなかった。

触れたくないのが、互いに分かったからだ。


箱の中に収まったあとも、しばらく二人ともそちらを見なかった。


少ししてから、アリシアが自分の鞄から小さな包みを取り出した。そこには何枚か、薄い紙片が入っている。


カイトが目を向ける。


「何それ」


「写真です」


「持ってきてたのか」


「ええ。何枚かだけ」


アリシアは一枚を見せた。島の浜辺。光が強すぎて少し白く飛んでいる。けれど、そこにカイトとアリシアが並んで立っているのは分かる。別の一枚には、家の前で家族全員が笑っていた。


カイトは少しだけ目を細めた。


「……持ってきてたのか」


「ええ」


短いやり取りだけで終わった。


それ以上触れるには、今は少し重かった。アリシアは写真をしまい、視線を外す。

今は見続けると、余計なことまで考えそうだった。


「別のところを探しましょう」

「そうだな」


だが、それ以上めぼしい物は見つからなかった。


服はある。

金も少しある。

写真も見つけた。


けれど、肝心の文字は読めない。

この世界の道具も分からない。

外でどう振る舞えばいいのかも、まだ何も分かっていない。


カイトは軍資金の入った袋を持ち上げた。


「まずは文字。次に服。あと、この世界で何が普通なのか確認だな」


「ええ。私の服はどう見ても浮きますし、カイトもその格好のままでは危ないと思います」


「俺には父さんの服がある」


「ありますが、さすがに下着だけは買い替えましょう?」


それもそうだと二人は笑った。


そこで、ふと動きが止まる。


「……あ」


「どうしました?」


カイトは自分の荷物を探り、中から黒い板を取り出した。

出発前、父が渡してきたものだ。


「これ、あった」


アリシアが覗き込む。


「父さんが言っていた、スマホ、でしたか」


「たぶん」


カイトは表と裏を見た。

黒くて薄い。

石板というには軽く、鏡というには何も映らない。


指で押してみる。

何も起きない。


横を触る。

反応はない。


少し強めに叩いた。


「壊れているのでは?」


「いや、父さんが渡してきたんだから、何か意味はあるはずなんだよ」


「使い方を教えずに渡すあたり、父さんらしいですね」


「本当に使えない親父だな」


カイトは黒い板を睨んだ。


「これを動かせれば、何か分かるかもしれない」


「では、外で聞きましょう」


「聞けるか?」


「聞くしかありません。文字も読めない。お金の価値もまだ怪しい。道具も動かせない。今の私たちは、かなり不便です」


「……父さん、よくこんな世界で普通に暮らしてたな」


「普通ではなかったのでは?」


その返しに、カイトは少しだけ笑った。


たぶん、その通りなのだろう。


父はこの世界で普通に生きていたのではない。

普通ではないまま、どうにか生きていた。


それなら、自分たちにもできることはあるはずだった。


文字も読めない。

金の価値も分からない。

黒い板ひとつ動かせない。


それでも、家の外には知らない道がある。

知らない店があり、知らない人がいて、知らない仕組みが動いている。


不安はある。

けれど、それだけではなかった。


カイトは黒い板を握り直した。


「行くか」


「ええ」


家の外に出る。

知らない世界を、自分たちの足で歩く。


そう考えると、少しだけ胸が騒いだ。


この世界は、怖い。

分からないことだらけだ。


けれど同時に、ほんの少しだけ、面白そうでもあった。



カイトがユキトの服を引っ張り出してきた時、アリシアは少しだけ眉を寄せた。


「本当にそれで行くんですか?」


「他に着るもんないだろ」


ベッドの上には、昨夜のうちに見つけた服がいくつか広げられていた。色は地味だが質は悪くない。島で見る服ともアストロ・ベイの服とも違う、妙に整った布地だった。


カイトはその中から一番ましそうな上着を羽織る。

鏡の前に立つと、嫌でも父の面影が浮いた。


「……似合ってるのが腹立つな」


「かなり似ています」


「そこは否定しろよ」


「事実は事実です」


アリシアは淡々と返し、自分の袖を見下ろした。昨日の服のままでは、この世界の中でどう見ても浮く。布の質も、形も、色も違いすぎる。


カイトがちらりと見た。


「姉さんの方がまずいな」


「分かっています」


「その格好、なんか……」


言葉を探して、やめる。


アリシアがじろりと見返した。


「なんですか」


「母親に見られそう」


一瞬、空気が止まった。


アリシアは無表情のまま言った。


「私、そんな年ではありません」


「そういう意味じゃなくて、落ち着きすぎてるって意味だよ」


「慰めになっていません」


「母親って言われるよりはましだろ」


「ましですが、嬉しくはありません」


その返しがあまりにも真顔で、カイトは少しだけ笑った。


怒られた、というより、本当に少しへこんでいる顔だったからだ。


「……ごめん」


「後で覚えていなさい」


「結局怒ってるじゃねえか」


アリシアは返事をしなかった。

代わりに、机の上の紙幣と硬貨を小さな袋に分けて入れる。


「行きますよ」


「おう」


二人は玄関を出た。


外は、昨日よりずっと明るく見えた。


夜は分からなかったものが、朝の光の下では輪郭を持っている。道は滑らかに固められ、まっすぐ伸びている。電柱は細く高く、線を空へ引いていた。家々は規則的な距離で並び、庭も塀も、どこか整えられすぎていた。


カイトはゆっくり周囲を見回した。


「……町、近いな」


「ええ」


アリシアも同じように見ていた。

人の気配はある。だが、港町のような騒がしさではない。静かだ。静かなのに、生活の痕跡が細かくびっしりある。


遠くから、妙な音が近づいてきた。


カイトが反射的に構える。

銀色の箱のようなものが道を走り抜けていった。


「またあれか」


「車、でしたか」


「馬なしで動くの、何回見ても落ち着かねえな」


「父さんの話は嘘だと思っていました」


カイトは少しだけ顔をしかめる。


「嘘つきじゃなかったんだな」


父が妙な顔で自慢していた世界は、本当にあったらしい。


住宅街を抜け、少し広い道に出る。

人の数が増え、店も増えた。


ガラス張りの建物。

看板。

自動で開く扉。

見知らぬ匂い。

流れる音楽。


「……親父、無駄にいい場所住んでたんだな」


「お金は持っていたのでしょうね」


「二股で燃えて逃げた男の家にしては立派すぎるだろ」


「そこは否定できません」


妙な納得をしながら、二人は立ち止まった。

目の前の建物の中には、色とりどりの光が並んでいる。


黒い板。

大きな板。

閉じた箱。

細い機械。

壁一面の小さな照明。


「……ここか?」


「父さんの道具に近い物は多そうです」


入口の前に立つだけで気後れする。

それでも、スマホを動かさなければ先へ進めない。


カイトが扉に手を伸ばしかけた時、扉の方が先に開いた。


「うわっ」


思わず半歩下がる。

中にいた人が少しだけこちらを見たが、何事もなかったように通り過ぎた。


アリシアが小さく言う。


「自動ですね」


「嫌いだな、こういうの」


「入らないんですか?」


「入るよ」


少し不機嫌そうに言って、カイトは先に中へ入った。


店の中は、眩しかった。


照明が多い。

音も多い。

人の声も、店内放送らしきものも、どこか遠くから響いてくる。


カイトは周囲を見回しながら、父から渡されたスマホを握りしめた。


「これを動かしたいんですけど」


見つけた店員に、かなり直球でそう言った。


店員は若い男だった。

一瞬だけスマホとカイトの顔を見比べる。


「機種変更ですか?」


「きしゅ?」


「えっと……今使ってる端末の買い替えですか?」


「いや、これを動かしたいんです」


カイトはもう一度スマホを差し出した。


店員は受け取って、少しだけ首を傾げた。


新しい機種に見える。

少なくとも、型としてはつい最近でたものだ。

だが、妙に傷んでいた。


細かい擦れ傷が多い。

角も少し削れている。

持ち主が長く雑に使ったみたいな劣化の仕方なのに、年式の感覚と合わない。


「……電源、入らない感じですか?」


「でんげん……?」


横からアリシアが補足する。


「動きません。押しても、叩いても」


店員は一瞬だけ黙った。

叩くなよ、とは思ったが言わなかった。


スマホの側面を押してみる。

反応はない。


「たぶん充電切れですね」

「ただ……」


店員は端末を少し傾けた。


「かなりバッテリーも弱ってるかもしれません」

「見た目の劣化がちょっと強いので、充電だけじゃ起動しない可能性もあります」


カイトとアリシアは顔を見合わせた。


電気を溜める。

そのうえ、中の何かも弱るらしい。


「じゅうでん?」


「電気を溜めるんです」

店員はできるだけ簡単に言い直した。

「この機種だと、まずケーブルと充電器が必要です」

「それで駄目なら、バッテリー交換になります」


「こうかん?」


「中の、電気を溜める部品を替えるんです」


アリシアが真剣に聞いている。

カイトも分かったような分からないような顔で黙っていた。


店員は少しだけ言いにくそうに続けた。


「バッテリー交換は別料金がかかりますけど、大丈夫ですか?」


カイトはすぐには答えず、アリシアを見る。

アリシアは小さく頷いた。


「大丈夫です」


「分かりました。じゃあ、まず家で充電できるようにした方がいいですね」


店員は棚からいくつか道具を持ってきた。


細い線。

四角い塊。

差し込み口の形が微妙に違う部品。


「これがケーブルです。こっちが充電器」

「この細い方をスマホに繋いで、こっちをコンセントに挿します」


「これを、この黒い板に繋げるんですか?」


アリシアが聞く。


「そうです。で、こっちをコンセントに挿して……」


「こんせんと?」


今度はカイトが聞き返した。


店員は少し困った顔をしたあと、店内の壁際を指した。

白い板に、いくつも穴が開いている。


「家の壁にもありますよ。電気の差し込み口です」


カイトは言葉を失った。

アリシアも珍しく無言になった。


壁に挿すだけで、道具が生き返るらしい。


この世界、やっぱりおかしい。


必要な物を買い、袋を受け取る。

紙幣を渡す瞬間だけ、カイトの手つきはまだ少しぎこちなかった。


店を出たところで、カイトが袋を見下ろした。


「……親父、これ教えとけよ」


「父さんですから」


「全部知ってる顔して、一番大事なところだけ抜けるんだよな」


「その点については、反論の余地がありません」


二人とも、少しだけ遠い目をした。


次に入ったのは本屋だった。


並んでいる物の意味が、二人にはほとんど分からない。

表紙の絵だけが手がかりだった。


店員へ声をかけたのはアリシアだった。


「文字を覚えるのに使える本はありますか?」


店員の女性が振り向き、二人を見る。


「日本語の勉強ですか?」


「はい」


アリシアが頷くと、店員は少しだけ笑った。


「発音、すごく自然ですね。ネイティブみたいですけど、練習されてきたんですか?」


アリシアは一瞬だけ言葉を選んだ。


「……まあ、そんなところです」


「でしたら、ひらがなと日常でよく使う漢字のドリルがいいと思います」


案内された棚には、子ども向けの教材が並んでいた。


カイトが小声で言う。


「助かったな。これでようやく文字の勉強が始められそうだ」


アリシアは少し嬉しそうに答えた。


「これでようやく、何が書いてあるのか分からないまま頷かずに済みます」


二人は相談して、ひらがなと日常で使う漢字の初歩的なドリルを二人分選んだ。


そのあと、近くの服屋にも入った。


アリシアの今の格好はどう見ても浮いている。ここまで来てそのまま歩き回るのは、さすがに危ないと二人とも分かっていたからだ。


けれど、入ってすぐにカイトは少し後悔した。


服が多すぎた。


棚にも、壁にも、台にも、似たように見える布が並んでいる。色は違う。形もたぶん違う。だが、男の目には大半が「服」でしかなかった。


「……長いな」


「まだ見始めたばかりです」


「多い」


「選択肢が豊富なんです」


「どれも同じに見える」


アリシアが振り向いた。


「全然違います」


「そうか?」


「違います」


即答だった。


けれどアリシアの声は、少しだけ弾んでいた。


布地に触れ、鏡を見て、店員に勧められた服を胸元へ当ててみる。そのたびに表情は大きく変わらないのに、目だけが少しずつ明るくなる。


「……こっちの世界の服、面白いですね」


ぽつりと漏れたその声に、カイトは少しだけ目を丸くした。


「そんなにか」


「ええ。軽いですし、形も細かいですし、色の組み合わせも多いです」

「実用だけではなく、見せるために作られている感じがします」


かなり嬉しそうだった。


いつものアリシアは落ち着いている。

けれど今は、静かなまま興奮しているのが分かる。


その一方で、カイトの方はだんだん疲れてきていた。


「まだあるのか」


「あります」


「さっきも似たようなの見ただろ」


「似ていません」


「俺には同じだ」


「その感想は黙っていてください」


結局、アリシアは今の世界でも不自然に見えない服を大量に選び、ようやく店を出た。


袋を抱えたアリシアは、普段より少しだけ足取りが軽かった。

カイトはその横で、ひそかに息を吐いた。


「服選ぶだけで、なんでこんなに疲れるんだ……」


「付き合っただけで疲れた顔をしないでください」


「量が多いんだよ」


気が付けば昼を超えていた。

そして人の流れも増えている。

どこからともなく、香ばしい匂いが漂ってきた。


カイトの腹が鳴る。


「……腹減った」


「私もです」


道端の店先には、温かい食べ物が並んでいた。

パン。

揚げ物。

甘い匂いのする何か。

湯気を立てる麺のようなもの。


目移りする。

だが、そこでカイトはふと朝の食卓を思い出した。


「なあ」


「はい」


「買い食いもいいけど」


「ええ」


「あの、朝のやつ」


アリシアが少し考えて、頷いた。


「冷凍食品ですか」


「たぶん」


「私も気になっていました」


意見は一致した。


外で食べる物も興味はある。

だが、あの“家で温めるだけであの味”という技術の方が、二人には異常に思えた。


近くの店へ入る。

棚に並ぶ色とりどりの袋。

冷たい箱の中に詰まった食べ物。

値札。

説明文。

読めない文字。


それでも、写真があるから大まかな内容は分かる。


「これ、朝のに似てるか」


「たぶん」


「じゃあ試すか」


適当に見繕って買い物かごへ入れる。

それだけで妙に楽しかった。


レジで会計を済ませ、二人は袋を提げて家へ戻った。


帰宅してから、しばらくは格闘だった。


袋を開ける。

箱を見る。

裏返す。

文字が読めない。


「絵はあるな」


「たぶん、この箱に入れるんでしょう」


朝の“温める箱”の前に立つ。

ボタンが並んでいる。

数字がある。

記号もある。


「もう勘で押すしかねえだろ」


「ええ。それしかありません」


とりあえず、朝アヤカがしていたのを思い出しながら操作する。

扉を開ける。

入れる。

閉める。

適当に数字を押す。


ぶうん、と音がした。


カイトが一歩下がる。

アリシアも少しだけ目を細めた。


「動いた」


「動きましたね」


中の皿が回っている。

火はない。

煙もない。

なのに、時間が経つと匂いが強くなっていった。


取り出す時、熱くてカイトが思わず指を引いた。


「熱っ」


「温まっています」


「そうだけど、納得はしてねえ」


それでも、食卓へ運ぶ。

食べる。


二人とも、少し止まった。


「……うまい」


「ええ」


味は朝の物に似ていた。

だが、自分たちで出した結果だと思うと驚きが増す。


「この世界、食い物への執念がおかしいな」


「保存して、後から、これだけの状態で出せるのは異常です」


「異常って言うなよ。こっちじゃ普通なんだろうけど」


真顔で言い切られて、カイトは少し笑った。


食べながら、机の端に置かれた島の写真を見た。

アリシアが持ってきたものだ。

白い砂浜の海。

家族の集合写真。

並んで立つ自分たち。


そして、その横には父のスマホがある。

現代の写真を残せる道具。

父が捨てられなかった、動かない黒い板。


島の写真と、現代の写真を残すための道具。

その並びが、妙に不思議だった。


アリシアも同じものを見ていたらしい。


「もしこれが動けば」


「父さんの過去が出てくるかもな」


「ええ」


「もし二股ですまなかったらどうする?三股、4股だったとしたら?」


「ありえないと言い切れませんね」


「……最悪だ」


二人とも少し黙ったあと、袋の中から充電器を取り出した。


細い線をスマホへ繋げる。

もう片方を壁の穴へ差し込む。


こんなもので、本当に動くのか。

二人とも半信半疑だった。


カイトは黒い画面を見つめる。

アリシアも、その隣で息を潜めていた。


何も起きない。


数秒。


まだ、何も起きない。


「……だめか?」


カイトが呟いた、その時。


黒い画面の中央に、かすかな光が浮かんだ。


二人の呼吸が止まる。


画面の中に、小さな印が現れる。


「……ついた」


カイトの声が、ほとんど囁きだった。


アリシアは答えず、ただ画面を見つめていた。


父の世界が、いま、目の前で目を覚まそうとしていた。

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