74.アッシュ&アキト
夕日は、海の向こうへ沈みかけていた。
見慣れたシロネコ島の夕焼けではない。
空の色も、海の匂いも、風の冷たさも、どこか違う。
そこは崖の上だった。
足元には舗装された道があり、少し先には錆びた柵が続いている。その向こうは切り立った崖で、遥か下に黒くなりかけた海が見えた。波が岩にぶつかる音が、遅れて上がってくる。
カイトは、しばらく動けなかった。
転移の光が消えたあと、まず自分の体を確認する。
角はない。
尾もない。
姿は人間のものに戻っている。いや、戻っているというより、最初からそうだったように外見だけ整えられている。
「……本当に消えてる」
呟いた声は掠れていた。
次に周囲を見る。
知らない場所。
知らない空気。
知らない世界。
そして、隣にアリシアがいた。
「……姉さん」
アリシアも頭に触れ、背の下へ手を回していた。角と尾がないことを確認したのだろう。
それから、何事もなかったように顔を上げる。
「外見上は、本当に人間として処理されているようですね」
冷静な声だった。
その声を聞いた瞬間、カイトの中で止まっていたものが動いた。
「何でいるんだよ」
アリシアがこちらを見る。
「カイト」
「何でいるんだって聞いてる」
怒鳴ったわけではない。
けれど、風の音に消えないくらいには硬かった。
アリシアは一瞬だけ黙った。
夕日が彼女の横顔を赤く染めている。その顔は、いつものように整っていて、静かだった。
だから余計に腹が立った。
「俺、一人で行くって決めたよな」
「はい」
「母さんたちにも、ヨルカにも、父さんにも、そう言ったよな」
「はい」
「なのに、何で姉さんがここにいるんだよ」
崖下から波の音が上がってくる。
アリシアは静かに口を開いた。
「勝手なことをしたのは分かっています」
「分かってるなら何で来た」
「止められると分かっていたからです」
カイトは眉を寄せた。
「は?」
「話せば、止められました。母様たちにも、ヨルカにも、あなたにも」
「当たり前だろ!」
今度は声が荒れた。
「帰れるかも分かんないんだぞ。俺だって……」
そこまで言って、言葉を飲み込んだ。
怖かった。
それを口にするのが嫌だった。
けれど、アリシアには伝わったのかもしれない。彼女の目が、ほんの少し揺れた。
「分かっています」
「分かってない」
カイトは即座に言った。
「分かってたら来ない」
「いいえ」
アリシアは首を横に振る。
「分かっていたから来ました」
「……意味分かんねえよ」
「あなたを一人で行かせたくありませんでした」
その言葉は、まっすぐだった。
カイトは一瞬、返す言葉に詰まった。
アリシアは続ける。
「知らない世界です。戻れるかも分からない。父さんの過去も、灰竜のことも、何が待っているか分かりません。そこであなたが何を見ても、何に傷ついても、話を聞く人間が必要だと思いました」
「それで勝手についてきたのかよ」
「はい」
「無茶苦茶だろ」
「そのとおりです」
あっさり認められて、カイトはさらに苛立った。
「それさ」
声が低くなる。
「俺の隣に立ったんじゃなくて、俺の選択肢を一つ奪っただけだろ」
アリシアの表情が止まる。
「俺は一人で行くって決めた。怖くなかったわけじゃない。でも、俺が決めた。父さんに誘導されたのも分かってる。それでも、最後は俺が決めた」
風が吹いた。
崖の下から、潮の匂いが強く上がってくる。
「なのに姉さんは、俺に聞かなかった」
アリシアは答えない。
「一緒に来てほしいかどうか。来たらどうなるか。母さんたちやヨルカがどうなるか。俺がそれを背負えるかどうか。何も聞かなかった」
カイトはその沈黙に、さらに踏み込んでしまう。
「父さんと同じことしてるぞ、姉さん」
言った瞬間、自分でも少しだけ強すぎたと思った。
けれど、撤回はしなかった。
間違っているとは思えなかったからだ。
アリシアは、動かなかった。
ただ、目元だけがわずかに揺れた。
次の瞬間、涙が一筋、頬を伝った。
カイトは息を止めた。
「……姉さん?」
思わず呼んでいた。
アリシアは泣き声を出さなかった。顔を覆うこともしなかった。崩れ落ちることもなかった。
ただ、いつものようにまっすぐ立ったまま、涙だけを落としていた。
それが、余計にカイトを黙らせた。
姉が泣くところなんて、ほとんど見たことがなかった。
怒る時も、悲しむ時も、アリシアは顔を崩さない。綺麗な顔のまま、静かに刺す。そういう人だと思っていた。
その姉が、泣いている。
カイトの中に残っていた言葉が、そこで全部止まった。
まだ怒っている。
勝手に来たことを許したわけではない。
自分に聞かなかったことも、父と同じように選択肢を奪ったことも、何も消えていない。
でも、これ以上は言えなかった。
「……何で泣くんだよ」
出てきた声は、責めるというより、戸惑いに近かった。
アリシアは答えない。
涙だけが、もう一つ落ちた。
カイトは視線を逸らしかけて、逸らせなかった。
ここで目を逸らしたら、今度は自分が逃げたことになる気がした。
だから、ただ立っていた。
何を言えばいいのか分からないまま。
怒りも、困惑も、心配も、全部混ざったまま。
「……姉さん」
もう一度呼ぶ。
アリシアは小さく息を吸った。
けれど、まだ言葉にはならなかった。
その時だった。
少し離れた場所から、知らない女の声がした。
「ユキト……あなた、その子に何したの」
カイトは反射的に振り向いた。
そこに、一人の女が立っていた。
黒い髪を後ろでまとめ、薄い上着を羽織っている。顔色は悪く、目元には濃い疲れが滲んでいた。それでも、背筋だけは妙にまっすぐだった。
女はカイトを見ていた。
いや、カイトではない。
別の誰かを見る目だった。
「どうしてこんな場所にいるの?」
その声には怒りがあった。
けれど、叫んではいなかった。責めるためというより、今にも崩れそうな何かを必死に押さえている声だった。
カイトは言葉を失った。
ユキト。
今、この人はそう言った。
自分を父と間違えている。
それは分かる。カイトは父に似ている。家族の誰もがそう言う。鏡を見るたび、自分でも嫌になるくらいだった。
だが、目の前の女は何者なのか。
父を呼び捨てではなく、息子を呼ぶように呼んだ。
なら。
親父の母親?
カイトはそう思いかけて、すぐに違和感を覚えた。
父より、ずっと年上に見える。
もちろん、母親なら年上で当たり前だ。
だが、父の見た目は俺と変わらない。しかしこの人は……。
今まで、それを疑ったことはなかった。島での生活は人間 と関わる機会がほぼなかったからだ。
でも、この女を見て初めて、ずれが浮き上がった。
本当に、父さんの母親なのか。
隣で、アリシアが涙を残したまま口を開いた。
「ユキトさんのお母さんですか?」
カイトは思わず姉を見た。
姉さん、適応早くね?
さっきまで泣いていたはずなのに、もう情報を取りにいっている。
女はアリシアを見た。
涙の跡に気づいたのだろう。表情が少しだけ痛む。
「ええ。私はユキトの母、アヤカよ」
そして、声を柔らかくした。
「あなたのお名前は?」
「アリシアです」
「アリシアちゃん……」
アヤカはその名前を繰り返し、彼女の姿を見た。
夕日に照らされたアリシアは、現代日本の少女には見えなかった。整いすぎた顔立ちも、髪の色も、立ち姿も、何もかもがこの場所から浮いている。
外国の子。
最初にそう思った。
けれど、それだけでは片づかない何かがある。
アヤカはそれ以上を聞かなかった。
「とにかく、ここから離れましょう」
「え?」
「お願い。ついてきて」
有無を言わせる声ではなかった。
それでいて、無理やり引きずるような乱暴さもない。二人をこの崖から遠ざけることだけを考えている声だった。
カイトとアリシアは顔を見合わせた。
逃げるべきか。
合わせるべきか。
判断するより早く、アヤカは道の脇に停められていた黒い車へ歩いていった。
カイトは足を止める。
「……何だ、あれ」
「乗り物、でしょうか」
アリシアも小声で返す。
車には馬が繋がれていない。
だが、アヤカが扉を開けると、中に座る場所があった。彼女は当たり前のように乗り込む。
カイトとアリシアは、見様見真似で扉を開けた。
閉める時、思ったより大きな音がして、カイトは少し肩を跳ねさせた。
アヤカは何も言わず車を発進させた。
カイトは窓の外を見た。
道が後ろへ流れていく。
馬がいない。
魔物もいない。
なのに、動いている。
父さんの言ってたこと、本当だったのか。
そんな場違いな驚きが、一瞬だけ胸に浮かぶ。
だが、車内の空気はそれを口にできるものではなかった。
ハンドルを握るアヤカの横顔は、静かだった。
静かすぎた。
少し走ったところで、彼女が言った。
「どうして、あんな場所にいたの?」
カイトは聞き返す。
「あんな場所?」
アヤカの手が、わずかにハンドルを握り直した。
「とぼけなくていいわ……ユキト」
その名前に、カイトの背筋が強ばる。
「……母さんも同じだったから」
アヤカは前を見たまま続けた。
「あなたがいなくなって、もうどうしていいか分からなくなって……」
「死のうと思ったの」
車内から音が消えた気がした。
エンジンの低い震えだけが、妙に遠く聞こえる。
カイトは、やっと理解した。
あの崖は、ただ景色のいい場所ではない。
人が死ぬために来る場所だった。
隣でアリシアが息を呑む。
そして、震える声で言った。
「ユキト君は悪くないんです。私が――」
「ごめんなさい」
アヤカは遮った。
怒ったのではない。
その子にそこまで言わせるのが耐えられない、という声だった。
「話しにくいわよね。分かったわ。今は何も聞かない」
これ以上、誰かの事情まで受け止める余裕は、もう自分に残っていなかった。
それでも、目の前の泣きそうな少女に続きを言わせるのは違うと思った。
「でも」
「いいの」
アヤカはかすかに首を振る。
「だから約束して。もう何も言わずに、……いなくならないって」
自分はユキトではない。
でも、目の前の女は本気で息子を失ったと思っている。死のうとした母親が、たまたま息子によく似た自分を見つけてしまった。
ここで否定したら、何が壊れるのか分からなかった。
だから、言った。
「……分かった。ごめん、母さん……?」
その瞬間、アヤカの目がほんの少しだけ揺れた。
素直すぎたのだろう。
呼び方も、どこかぎこちなかったのだろう。
けれど、追及はなかった。
気力が残っていなかったのかもしれない。
あるいは、疑うことより、信じることに縋りたかったのかもしれない。
アヤカは小さく息を吐き、ただ前を見た。
「帰りましょう」
それだけだった。
着いたのは、大きな一軒家だった。
門があり、庭があり、車がそのまま中へ入っていく。シロネコ島の石造りの家とも、アストロ・ベイの宿とも違う。壁も窓も屋根も、何もかもが不自然なほど整っていた。
カイトとアリシアは、玄関の前で少しだけ立ち尽くした。
扉が開く。
明かりがつく。
廊下の床が光を返す。
家の中なのに、火の匂いがしない。
それだけでも、カイトには奇妙だった。
アヤカは二人にスリッパを出した。カイトはそれが何なのか分からず、アリシアが先に足を入れるのを見て真似をした。
リビングに通される。
広い部屋だった。大きなソファと低いテーブル。壁際には薄い黒い板のようなものが置かれている。
アヤカはアリシアを見た。
「アリシアちゃん」
「はい」
「うちに好きなだけ泊まっていいから」
アリシアが目を瞬かせる。
「一週間でも、一ヶ月でもいいわ。ゆっくりでいいから、生きることを選んでほしいの」
その言葉に、アリシアは何も返せなかった。
自分は死のうとしていたわけではない。泣いていたのは、カイトに痛いところを突かれたからだ。
けれど、それを説明するには、目の前の女の声があまりにも切実だった。
アヤカはテレビの電源を入れ着替えに向かった。
突然、黒い板の中に人が映った。
カイトは反射的に身構える。
「なっ……」
音も出た。
知らない人間が、箱の中で笑っている。いや、箱というには薄すぎる。絵ではない。動いている。声もある。
アリシアも目を細めたが、カイトより早く警戒を解いた。
「映像……でしょうか」
「何だよ、それ」
「分かりません。でも、こちらを見ているわけではなさそうです」
この状況で分析する姉に、カイトは少しだけ引いた。
画面の中では、明るい照明の下で何人もの人間が話している。女たちが笑い、司会らしき男が何かを大げさに紹介していた。
次の瞬間、歓声が上がった。
それは、ただの拍手ではなかった。
画面の向こうにいる女たちが、一斉に身を乗り出す。悲鳴に近い声が重なり、司会らしき男の声すら一瞬かき消えた。
カイトは思わず身構えた。
「な、何だ?」
襲撃かと思った。
けれど、画面の中の人間たちは誰も逃げていない。むしろ、全員が同じ方向を見ている。
そこへ、一人の男が現れた。
灰色の髪。
乱れたウルフカット。
鋭く、ぎらついた灰色の瞳。
整っている、という言葉では足りなかった。
人間離れした美貌だった。
男が軽く手を振っただけで、画面の向こうの熱がさらに跳ね上がる。黄色い声。拍手。名前を呼ぶ声。まるで、そこにいるだけで場の空気を支配しているようだった。
司会の男が、興奮を隠しきれない声で叫ぶ。
『今夜のゲストは、デビューから一週間も経たないうちに、持ち前の圧倒的カリスマで音楽シーンの話題をかっさらった超新星!』
カイトには、言葉の半分も分からなかった。
デビュー。
音楽シーン。
超新星。
何の話だ。
だが、すごいことを言われているのだけは分かった。
画面の中の女たちは、男が笑うたびに声を上げている。司会も、隣に座る出演者たちも、妙に浮ついていた。誰もがその男を見ている。
『デビューシングル『銀河の果ての逃亡者』はオンライン配信開始直後から爆発的ヒット! 各ランキングを総なめにし、いま最もチケットが取れない男! 銀河竜アッシュさんです!』
また歓声が起きた。
カイトは眉を寄せる。
「おんらいん……? はいしん……?」
何の単語か分からない。
分からないが、場の熱だけは伝わってくる。
この男は、この世界で異常なほど人気がある。
それだけは、嫌でも分かった。
アリシアも黙って画面を見ていた。
綺麗な男だと思った。
それは認めざるを得なかった。
だが、それ以上に引っかかった。
灰色の髪。
灰色の瞳。
人間離れした顔。
そして、司会が呼んだ名前。
銀河竜アッシュ。
「竜……?」
アリシアが、小さく呟いた。
カイトはそこまで考えていなかった。
「これ、どうなってんだ……」
彼はまだ、画面の中で人が動き、声を出し、知らない言葉で熱狂されていることに驚いていた。
その時、アヤカが戻ってきた。
部屋着に着替え、髪をほどいた彼女は、テレビに映る男を見て足を止めた。
顔から血の気が引く。
「……付けなければよかった」
小さな呟きだった。
カイトが振り向く。
「え?」
アヤカは少し迷ったあと、リモコンを手に取った。画面の中の男が笑ったまま消える。
部屋が急に静かになった。
アヤカはカイトを見た。
「ユキト。あなたに言っていなかったことがあるわ」
カイトは、反射的に背筋を伸ばす。
「お父さんね」
アヤカの声は震えていなかった。
震えないようにしている声だった。
「出ていったの」
「え?」
カイトは思わず聞き返した。
「なんで?」
アヤカはすぐに首を振った。
「あなたが悪いわけじゃない」
その前置きが、ひどく重かった。
「お父さん、あんな人でしょ」
カイトには分からない。
父さんの父親。
つまり、自分にとっては祖父にあたる男。
その男のことを、この人は当然知っているものとして話している。
アリシアは黙っていた。
他人の家の話だ。口を挟むべきではない。そう判断したのだろう。
アヤカは棚の引き出しから、一枚の紙を持ってきた。
「これが、残されていたの」
カイトは受け取った。
紙には文字が書かれている。
だが、読めない。
この世界の文字だ。
隣からアリシアが覗き込む。彼女もすぐに目を細めた。読めないのだろう。
アヤカはその反応を、見ずに淡々と手紙の内容を口にした。
「子育てが終わったので出ていきます」
カイトとアリシアは固まった。
意味は分かる。
分かってしまった。
アヤカは紙を見つめたまま、少し笑おうとした。
失敗した。
「あなたがいなくなって、三日目だったわ」
そこで、彼女の顔が崩れた。
崖でも、車の中でも、家に入ってからも、アヤカはぎりぎりのところで踏みとどまっていた。
だが、その一線が切れた。
「アキトはね、老けないの」
ぽつりと落ちた声は、子供のようだった。
「私はこの通り、どんどん老けていくのに。アキトだけ、ずっと変わらなくて。だから、いつか捨てられるって分かってた」
涙が落ちる。
アヤカは慌てて拭おうとしたが、間に合わなかった。
「大丈夫よ。あなたは気にしないで。ユキトのせいじゃない」
そこまでは、どうにか言えた。
息子を安心させるための声だった。
自分が壊れていても、子供の前では崩れないようにする声。
けれど、次の言葉はもう駄目だった。
「母さんが、ちゃんと……分かっていたことだから」
声が割れた。
アヤカは慌てて口元を押さえた。
泣くつもりはなかったのだろう。
それでも、止まらなかった。
「分かってたのよ……あの人、いつかいなくなるって。私だけ年を取って、あの人は何も変わらなくて」
涙が次々に落ちる。
拭おうとしても、追いつかなかった。
「でも、ユキトがいなくなった時に、あの人までいなくなるなんて、思わなかった」
そこで、完全に崩れた。
「思わなかったの……」
アヤカは顔を覆った。
肩が震えていた。
母親として踏みとどまろうとしていたものが、もう形を保てなくなっていた。
「ごめんね。ごめん、ユキト。母さん、こんなところ見せたくなかった」
謝る声すら、嗚咽に途切れる。
「ちゃんとしなきゃって思ったの。あなたが帰ってきたなら、母さんがしっかりしなきゃって。でも……ごめん。無理だった」
カイトは動けなかった。
目の前の女は、自分を父だと思っている。
けれど今、そんなことを言える空気ではなかった。
「……母さん」
呼んでいいのか分からなかった。
それでも、他の言葉が見つからなかった。
アヤカは顔を覆ったまま、首を振る。
「あなたが謝ることじゃないの」
カイトは何も返せなかった。
ただ、逃げずにそこにいることしかできなかった。
少ししてから、アヤカはどうにか涙を拭いた。
「ごめんね。二人とも、何も食べてないでしょ」
唐突なようでいて、切実な声だった。
「何か頼むから、待ってて」
そう言って、アヤカは電話を手に取った。
カイトとアリシアは、何が始まるのか分からず、ただ黙っていた。
しばらくすると玄関が鳴り、知らない男が箱を置いて帰っていった。
アヤカはその箱を食卓へ運ぶ。
蓋を開ける。
中には、小さく握られた白い塊の上に、色とりどりのものが乗っていた。
赤い身。
白い身。
光るような銀色。
海苔に巻かれた何か。
見たことのない形ばかりだった。
「アリシアちゃんお寿司、食べられる?」
アヤカが聞く。
カイトは箱を見た。
「……すし?」
「生の魚もあるけど、大丈夫?」
生。
カイトは一瞬だけ構えた。
だが、アヤカの顔を見て首を振るのも違う気がした。
アリシアが先に箸を取った。
「いただきます」
ぎこちない手つきで一つ持ち上げ、口に運ぶ。
少しだけ目を見開いた。
「……おいしいです」
その一言で、カイトも手を伸ばした。
口に入れる。
冷たい。
柔らかい。
酢の匂いが少しする。
島で食べる魚とも違う。
アストロ・ベイでも見たことのない味だった。
「……うまい」
ぽつりと漏れた。
アヤカはそこで、少しだけ笑った。
「よかった」
その笑いは、さっきまで泣いていた人の笑いだった。
崩れたあとで、それでも食べさせようとする人の笑いだった。
寿司は、明らかに多すぎた。
三人で食べても食べきれない量が並んでいる。
それでもアヤカは「遠慮しないで」と言った。
カイトもアリシアも、途中から味わっているのか、とにかく口へ運んでいるのか分からなくなった。
それでも、うまかった。
奇妙なくらい、うまかった。
食べ終わって、しばらく誰も喋らなかった。
アヤカは空になりかけた箱を見て、それからカイトの顔を見た。
「……あなたが無事で、本当によかったわ」
その言い方があまりにも自然で、カイトは返事に詰まった。
自分はユキトではない。
でも、目の前の人はそう思って言っている。
その安堵を前にすると、違うと言う言葉が喉の奥で止まった。
少ししてから、アヤカは立ち上がった。
「アリシアちゃん お風呂、先に使っていいから。寝る部屋も整えてくるわ」
その声も、もう涙の直後のものではなかった。
崩れたあとで、どうにか日常へ戻ろうとする人の声だった。
食後、アヤカがアリシアのために風呂や客用の寝床のことを整えてくれている間、カイトは二階へ上がった。
ここが、父の部屋か。
机。
本棚。
服。
雑誌。
よく分からない小物。
人が暮らしていた痕跡だけはある。
だが、今もここに住んでいる感じは薄い。
部屋の真ん中に立って、カイトはゆっくり息を吐いた。
今日一日だけで、感情が多すぎた。
最初に思い出したのは、アリシアの涙だった。
あれは反則だろ、と思う。
勝手についてきた。
聞きもしなかった。
父と同じように、自分の決定へ割り込んだ。
怒っていた。
今も怒っている。
でも、泣かれたら止まるしかなかった。
あれはずるい。
あの場で泣かれたら、それ以上言えなくなるに決まっている。
腹が立つ。
でも、泣かせたのが自分だという事実も残っている。
思い出すだけで、疲れた。
次に浮かんだのは、アヤカさんだった。
泣いていた。
本気で崩れていた。
死のうとしていた。
それでも自分たちを連れ帰り、寿司を食べさせた。
あの人は、もう祖母だと思った。
本当に血が繋がっているかどうかではなく、そう思ってしまった。
父の母で。
自分をユキトだと思っていて。
それでも今、目の前で一番傷ついている人。
その人に向かって、違いますとは言えなかった。
本当は、言いたかった。
自分はユキトじゃない。
カイトだ。
父の替え玉なんて嫌だ。
そう言いたかった。
世話になっていることは別だ。
アヤカが切実なことも分かる。
でも、それを抜きにした本音だけで言えば、こんな形で父の代わりとして生きるのは嫌だった。
自分の名で立ちたかった。
父の顔を借りて、父の過去の後始末をするためだけに来たんじゃない。
でも、もう言えないと思った。
もし自分がどこかで「自分はユキトではなくカイトだ」と話したら。
そのことが、どんな経路でアヤカに伝わるのか分からない。
自分の口からでなくても。
別の誰かからでも。
偶然でも。
遅れてでも。
祖母にそれが伝わったら。
今度こそ本当に死ぬかもしれない。
そう思った瞬間、喉の奥が冷えた。
もう、自分の都合で真実を言える段階じゃない。
だったら。
俺は、もうユキトとして生きるしかないのかもしれない。
そう考えて、すぐに嫌になった。
違う。
そう簡単に割り切れるわけじゃない。
でも、そうするしかないと自分に言い聞かせなければ、今夜を越えられない気もした。
カイトはベッドの縁に腰を下ろした。
疲れ切っていた。
考える力が、もうあまり残っていない。
父から渡されたスマホのことも、その時は頭から抜け落ちていた。
手がかりになるかもしれない黒い板。
父の過去へ触れる最初の道具。
それを持ってきたことすら、今は忘れていた。
今日のことが多すぎた。
アリシアの涙。
アヤカの涙。
知らない世界。
テレビ。
車。
寿司。
銀河竜アッシュ。
老けない男。
全部が重なって、頭の中で形を作る前に沈んでいく。
カイトは、そのまま後ろへ倒れた。
柔らかい寝具が背中を受け止める。
知らない家。
知らない世界。
知らない天井。
それでも、眠気だけは容赦なく来た。
俺はユキトとして生きるしかない。
そう思い込もうとした。
そうするしかないのだと、自分に言い聞かせようとした。
けれど、その考えはまだ体のどこにも馴染まなかった。
気持ち悪くて、重くて、自分のものじゃない。
それでも今は、それを抱えたまま目を閉じるしかなかった。
カイトは浅い呼吸のまま、意識を手放した。
部屋の外では、まだ人の気配がしていた。
アヤカが片づけをしている音かもしれない。
アリシアがまだ起きているのかもしれない。
でも、もう確かめる余力はなかった。
その夜、カイトはこの世界へ来て初めて眠った




