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73.最悪の遺品

家族会議が終了しても、家の中から重さは消えなかった。


カイトの誕生日に落とされた話は、食卓を壊し、家族の形を変えた。


父が行くのか。

息子が行くのか。

戻れるのか。

戻れないのか。


その答えは、ひとまず出た。


カイトが行く。


けれど、それで何かが片づいたわけではなかった。


その夜、ユキトが部屋へ戻ったあと、ヴォルカ、フローラ、ネムリアの三人は食卓に残っていた。


灯りは落としていない。

けれど、明るくもなかった。


最初に口を開いたのは、フローラだった。


「……整理しましょう」


静かな声だった。

いつもの穏やかさはある。だが、その下に張り詰めたものがあった。


「カイトは、神の話をすでに知っていました」


ヴォルカが顔を上げる。

ネムリアは椅子の上で膝を抱えたまま、眠たげではない目をしていた。


「現代日本へ誰かを送らなければならないこと。候補がユキトさんか、カイトであること。その大枠を、昨日の時点で知らされていた」


フローラは一度だけ息を置く。


「つまり、今日の家族会議が始まる前に、カイトが“自分が行く”と言えるだけの下地は、もう作られていた」


ネムリアが小さく呟く。


「わたしたちより、さき」


その言葉が、食卓に落ちた。


母たちより先に。

息子へ話を通していた。


偶然ではない。

成り行きでもない。


ユキトは最初から、カイトの答えをある程度見込んでいた。


ヴォルカが俯く。


「私たちは……頼っていました」


その声は掠れていた。


「ユキトさんが前に立ってくれることに。汚い役を引き受けてくれることに。最後は何とかしてくれることに」


ネムリアがぽつりと言う。


「らく、だった」


誰も否定しなかった。


楽だった。


ユキトが空気を読み、先に痛い場所を踏み、誰かが壊れる前に話を終わらせる。

それに救われたことは何度もある。

それに守られたこともある。


けれど。


「子どもたちは、別のものを見ていたんですね」


フローラが言った。


「私たちが救われている間に」


ヴォルカは息を詰めた。

ネムリアは膝を抱える腕に力を込めた。


「それとカイトは、誕生日のあとに家を出るつもりだった」


フローラの声は淡々としていた。

淡々としなければ、崩れてしまいそうだった。


「私たちは、止めたでしょう。訓練が足りない、まだ早い、危ない、と」

「愛しているから。心配だから。失いたくないから」

「でも、それはカイトから見れば、閉じ込められているのと何が違ったのか」


ネムリアが小さく言う。


「カイト、こどもじゃなかった」


その一言が、三人の胸を刺した。


愛していた。

守っていた。

間違いなく、大切にしていた。


それでも、見ていなかった。


カイトが何を望んでいたのか。

何に息苦しさを覚えていたのか。

何を言えずに飲み込んでいたのか。


フローラは顔を上げた。


「それでも、一つだけ分からないことがあります」


ヴォルカが見る。

ネムリアも顔を上げる。


フローラの声は低かった。


「なぜユキトさんは、あそこまで主導権を手放せないのでしょう」


誰も答えられなかった。


強いからではない。

賢いからでもない。

家族を守りたいだけでもない。


もっと深いところで、ユキトは場を手放せない。


フローラは、その理由を考えようとして――考えたくない答えに触れた。


もしかして。


ユキトさんは、私たちを信じきれていないのではないか。


愛していないという意味ではない。

頼っていないという意味でもない。

力を認めていないわけでも、心を軽んじているわけでもない。


けれど、最後の最後で任せきれていない。


自分が先に形を作らなければ、私たちは崩れる。

自分が汚れ役を引き受けなければ、私たちは決められない。

自分が結論の逃げ道を用意しなければ、家族は壊れてしまう。


そう思っているのではないか。


その想像は、フローラの胸に冷たく落ちた。


ヴォルカも、ネムリアも、同じことに気づいたように黙っていた。


信じられていない。

そう言い切るには、ユキトが向けてきた愛情はあまりにも本物だった。


けれど、信じきられているとも言えなかった。


家族として。

妻として。

母として。


自分たちは、ユキトに本当に任せてもらえていたのか。

それともずっと、守られる側に置かれていただけだったのか。


フローラは静かに息を吐いた。


「……ユキトさんを呼びましょう」


ヴォルカが小さく息を呑んだ。


ネムリアは黙って頷いた。


しばらくして、ユキトが来た。


扉の前で足を止める。


三人の顔を見た瞬間、何を話すために呼ばれたのか理解したのだろう。


ユキトは言い訳をしなかった。


笑いもしなかった。


ただ、静かに部屋へ入る。


「……分かってる」


短く、それだけ言った。


フローラは答えない。


ヴォルカも。

ネムリアも。


ユキトは三人の前に座った。


逃げる場所などないと、最初から分かっている顔だった。


背後で、扉が静かに閉まった。


翌朝。


カイトが食卓に来ると、父が食卓の端で正座していた。


顔に傷はない。

腕も折れていない。

服も普通だ。


命もある。


ただ、目が死んでいた。


そして首から木札を下げていた。


カイトは無言でそれを読んだ。


本日の罪状。


家族会議の誘導。

誕生日に最悪の話を持ち込んだ。

妻より先に息子へ根回し。

自分は誠実だという形を装った。

反省中。


カイトはしばらく黙った。


「……何それ」


ユキトは虚ろな目で言った。


「俺にも分からん」


食卓には朝食が並んでいる。


だが、ユキトの前に箸はなかった。


ヴォルカがユキトの横に座り、茶碗を持つ。


「食べさせます。自分で食べる権利は、今日はありません」


「俺、赤ちゃんかな?」


「赤ちゃんはもっと素直です」


ユキトが黙った。


フローラは穏やかな顔で茶を注いでいる。


「逃げ道を作る方には、生活上の選択権も一時停止が妥当です」


「家庭内法が怖すぎる」


ネムリアは眠そうな顔に戻っていた。

だが、声は平坦だった。


「トイレは、許可」


ユキトが顔を上げる。


「そこだけ優しい」


ネムリアは首を横に振る。


「ばっちいから」


「人権どこ行った?」


フローラが静かに視線を向けた。


「もともと、私たちを契約で縛り付けていたあなたが言えることですか?」


ユキトは口を閉じた。


カイトは父を見た。


昨夜までは、まだ怒りが胸に残っていた。

今も消えてはいない。


だが、この姿は。


「ざまあ」


自然に出た。


ユキトが息子を見る。


「お前なあ」


「ざまあ」


「二回言うな」


「ざまああ!」


「三回言った!」


ヨルカが口元を押さえる。


ネムリアが少しだけ満足そうに頷いた。


けれど、フローラの声が食卓を静かに止めた。


「笑い事にしてあげているだけです」


ユキトの軽口が止まる。


ヴォルカも茶碗を置いた。


「本当は、笑えません」


ネムリアが言う。


「まだ、ゆるしてない」


ユキトは、目を伏せた。


「……分かってる」


その声だけは、ふざけていなかった。


話は、昨夜に戻る。


母たちに呼び出されたユキトは、長く、静かで、逃げ道のない説教を受けた。


ヴォルカは本気で怒った。


声を荒らげたわけではない。

だが、目が泣きそうで、怒っていて、何より深く傷ついていた。


「なぜ、先に言ってくれなかったのですか」

「なぜ、私たちより先にカイトへ話したのですか」

「なぜ、家族で悩む前に、形を決めていたのですか」


ユキトは何度か口を開いた。


全部を守るためだった。

結論を出すためだった。

破綻させないためだった。


そう言いかけるたびに、フローラが理詰めで塞いだ。


「それは、私たちが破綻すると決めつけていたということです」

「私たちが正しく考えられないと、先に判断していたということです」

「自分で決めた結論を、私たちに選ばせる形で通しただけです」


ネムリアは短かった。


「ずるい」


ユキトは何度か口を開いた。


理由ならあった。

言い訳もできた。


けれど、そのどれも、口にした瞬間に逃げになると分かっていた。


だからユキトは、言い逃れをしなかった。


ただ、深く頭を下げる。


「……すみませんでした」


その謝罪で許されるとは思っていない。


それでも、今の自分に最初にできることは、それしかなかった。


説教は長く続いた。


最後に、どう処分するかという話になった。


ユキトは正座したまま、もう抵抗する気力を失っていた。


その時、ネムリアが言った。


「ねこいえ、すむ?」


ユキトは顔を上げた。


「……なんの話だ?」


ネムリアは窓の外を指差した。


庭の隅。

家から少し離れた場所に、小さな小屋がある。


シロネコ島には、かつて白い猫がいたという。


今はもういない。

どこを探しても見つからなかった。


それでもネムリアが欲しがり探し続けた。


ヴォルカが材料を運び、ユキトが組み、フローラが周囲を整えた。


屋根があり、風が通り、日当たりも悪くない。

小さな水場まで用意してある。


けれど、猫は一匹も来なかった。


二十年間、ずっと空だった。


ネムリアはもう一度言った。


「すむ?」


ユキトは眉を寄せる。


「住まねえよ」


「屋根、ある」


「あるな」


「風、入る」


「入るな」


「日当たり、いい」


「そうだな」


「ごはん、出す」


「待遇の説明が完全に飼育なんだよ」


フローラが穏やかに言った。


「本当に悪いと思っているのなら、しばらくの間この家ではなく、あそこで暮らしてください」


ユキトはフローラを見た。


冗談だろ、と言いかけて、言えなかった。


ヴォルカも言う。


「ユキトさん。あそこで、本当に反省してください」


ユキトは沈黙した。


そして、深く息を吐いた。


「……分かった」


今に戻る。


フローラはカイトに説明した。


「昨夜から、ユキトさんはねこいえで暮らしています」


カイトは父を見る。


「本当に?」


「本当です」


ユキトが顔を上げる。


「息子たちの前で言うことか? 家庭内機密だろ」


ネムリアが淡々と言った。


「ねこ、紹介」


カイトは少し考えたあと、真顔で言った。


「父さん、シロネコ島にやっとシロネコが来たな」


「俺は猫じゃねえ」


ネムリアが首を傾げる。


「しろくない」


「そこじゃねえよ」


「えいじゅうしてもいい」


「住まねえよ。だいたい俺は猫じゃねえ!」


その瞬間、ネムリアは膝の上に置いていた布包みを差し出した。


「はい」


ユキトが止まる。


「はい、じゃねえよ。何だそれ」


「しっぽとみみ」


部屋が止まった。


ユキトも止まった。


カイトは無言で視線を逸らした。


ヨルカは口元を押さえた。


アリシアだけが、能面のように無表情だった。


「ユキトさん……似合うと思います」


ヴォルカが申し訳なさそうに言った。


ユキトが叫ぶ。


「ふざけんな!」


フローラは静かに茶を置いた。


「反省中の身ですから、指定された服装には従うべきでは?」


「絶対に嫌だ!」


ネムリアが布包みを少し押し出す。


「つける?」


「つけねえよ!」


「じゃあ、えいじゅう?」


「住まねえ!」


「じゃあ、みみ」


「二択が成立してねえ!」


カイトは少しだけ笑った。


笑ってしまった。


怒りが消えたわけではない。

許したわけでもない。


でも、父はこういう男だった。


偉そうで。

情けなくて。

最低で。

それでも、なぜか死なない。


これから、ユキトの猫小屋生活が始まる。


自分が現代日本へ行ったあとも、父はしばらく猫小屋に住むのだろう。


朝早く畑に出る。

島の仕事は普通にする。

温泉にも入る。

食卓にも来る。


けれど食後になると、母たちに見送られながら、庭の隅の猫小屋へ戻っていく。


ネムリア母さんはきっと、入口の前に座って言う。


「にゃー」


「言わねえよ」


「にゃー」


「言わねえって」


「にゃーって言わないとごはんなし」


「にゃー」


「よし」


「よしじゃねえ!」


そんなやり取りが、しばらく続くのだと思う。


戦闘力1。


それでも父は生き残った。


口と空気読みと悪運だけで、封印された母たちを起こし、竜帝の裁定をくぐり、闘技大会を勝ち抜き、雷竜を救い、王国を救った結果島を受け取り、家を作った。


その父が、猫小屋に住む。


夕方には、猫小屋の前で膝を抱えているかもしれない。

ネムリア母さんに耳を渡されて、全力で拒否しているかもしれない。

ヴォルカ母さんに毛布を追加されて、複雑そうな顔をしているかもしれない。

フローラ母さんに反省文を求められて、石板の前で固まっているかもしれない。


偉大なのか、情けないのか分からない。


だから、憎み切れない。


カイトは父を許したわけではなかった。


怒りも、まだ残っている。


けれど、自分がいなくなったあとも、この家にはそんな馬鹿げた日常が残るのだと思えた。


父は猫小屋で反省する。

母たちは怒りながらも世話を焼く。

ヨルカは困った顔で笑う。

姉さんは静かに罰を追加する。


自分は現代日本へ行く。


帰れるかどうかは分からない。


それでも、この家は続いていく。


そう思えたから、カイトは少しだけ笑えた。


けれど。


アリシアだけは違った。


彼女は、笑わなかった。


無表情なまま、父を冷めた目で見ていた。



そして夕方が来た。


ユキトの部屋。


床には魔法陣があった。


刻まれているようで、刻まれていない。

幾何学模様の線が、ゆっくりと動き続けている。


円がずれる。

文字のようなものがほどける。

ほどけたはずの線が、別の意味を持って繋がる。


見ているだけで、目の奥が痛くなる。


窓の外には崖があった。

その向こうに海。

さらに奥に、夕焼け。


風が冷たい。


部屋には家族全員がいた。


ヴォルカは泣きそうな顔で、けれど泣かなかった。


フローラは祈るように手を重ねている。


ネムリアは最後までカイトの袖を掴んでいた。


ユキトは何か言いかけて、言わなかった。


アリシアは無表情だった。


そしてヨルカは、部屋の隅に座り込んでいた。


膝の上にメモ帳を広げている。


床を見る。

線を書く。


その瞬間、魔法陣の模様が変わる。


ヨルカは消す。

書き直す。


また変わる。


紙が黒く汚れていく。

指先が震える。

線は歪む。


それでもやめない。


兄が今日、いなくなる。


戻れるか分からない。


なら、手掛かりになりそうなものを少しでも残したかった。


たとえ意味がなくても。

たとえ解読できなくても。

たとえ神の術式に、人の手が届かなくても。


何もしないよりは、ましだった。


ヨルカは唇を噛み、また線を写した。


その横で、ユキトはしばらく黙っていた。


何かを言おうとしている。

けれど、言葉ではないものを探している顔だった。


やがてユキトは、部屋の奥に置いてあった古い箱を引き寄せた。


金具。

布切れ。

用途の分からない小物。

昔の旅で拾ったのか、捨てるに捨てられなかったのかも分からない物が、雑に放り込まれている。


ユキトはその底を探り、黒い板のようなものを取り出した。


カイトは眉をひそめる。


「何それ」


「スマホ」


「すまほ?」


「俺の世界の道具だ」


ユキトはそれを軽く振った。


何も起きなかった。


「今はただの板だけどな。電池はとっくに切れてる」


フローラが少しだけ目を細めた。


「まだ持っていたのですね」


ヴォルカも思い出したように言う。


「昔、それでずいぶん自慢していましたよね」


ネムリアが眠たげに頷いた。


「いせかいの、しょうこ」


ユキトは顔をしかめる。


「うるせえ。あの時はそれくらいしか証拠がなかったんだよ」


カイトは黒い板を見る。


「証拠?」


「俺が別の世界から来たって話をした時、誰も信じねえから見せたんだよ」


ユキトは少しだけ口元を歪めた。


「まあ、動かなかったけどな」


「証拠になってないじゃん」


「形が違うだろ。材質も変だし。十分だろ」


「雑すぎる」


フローラが静かに言った。


「本人は、当時かなり得意げでした」


「やめろ」


ヴォルカも少しだけ笑う。


「写真も、音も、地図も、全部これ一つでできると」


「実際できるんだよ。動けばな」


ネムリアがぽつりと言う。


「でも、ずっと、うごかなかった」


「そこを言うな」


ユキトはばつが悪そうに視線を逸らした。


アリシアは、何も言わなかった。


ただ、その黒い板を見ている。

父の過去の欠片を見るように。

そして、それすら信用していないように。


ユキトはスマホをカイトへ差し出した。


「持ってけ」


カイトはすぐには受け取らなかった。


「なんで」


「向こうなら充電……いや、使える。中に何か残ってるかもしれん」


「何が?」


「知らん」


「また知らんのかよ」


「写真とか、連絡先とか、メモとか」


ユキトはそこで、少しだけ言いづらそうに目を逸らした。


「……あと、二股の手がかりとか」


部屋の空気が少しだけ冷えた。


カイトは呆れたように父を見る。


「最悪の遺品みたいに渡すなよ」


「遺品じゃねえ。俺まだ生きてる」


「中身が最低すぎる」


「俺もそう思う」


ユキトはスマホを見下ろした。


「でも、向こうに行くなら絶対に必要になる。二十年前の俺が誰と何をしてたのか、正直ほとんど覚えてねえがな」


「本当に使えない親父だ」


「二十年だぞ」


ユキトはそう言ってから、少しだけ黙った。

軽口が止まる。


「未練で持ってたわけじゃねえよ」


カイトは何も言わなかった。


ユキトは黒い板を見下ろす。


「昔、こいつを見せて、俺は別の世界から来たって散々自慢した。動かねえのに、すげえ道具なんだって言い張った」


ユキトは小さく息を吐いた。


「だから、捨てられなかった」


「なんで」


「捨てたら、本当だったことまで嘘だって認める気がした」


カイトは黒い板を見る。


動かない。

音も出ない。

光もしない。


けれど、父にとっては、それだけが自分の世界を証明するものだったのかもしれない。


ユキトは苦い顔で続けた。


「まあ、今思えば意地だな。動かない板を大事に抱えてただけだ」


カイトは呆れた顔をした。


けれど、スマホを見下ろす目は少しだけ変わっていた。


父の世界。

父が忘れたと言い張る過去。

母たちがまだ父をよく知らなかった頃、その証拠として差し出された黒い板。


それが今、自分の手元に来ようとしている。


ユキトは言った。


「お前の手がかりにしろ」


カイトは黙ってスマホを受け取った。


思ったより重かった。


動かない。

古い。

ただの黒い板だ。


それでも、妙に手に残る重さがあった。


父が持っていた最後の現代日本。

父が捨てなかった過去。

そして、自分がこれから向かう場所への、初めての手がかり。


ユキトは頷いた。


それ以上は何も言わなかった。


その沈黙を受け取るように、今度はヴォルカが一歩前へ出た。


両手で、布に包まれた重そうな塊を抱えている。


「カイト」


「……母さん?」


「これを、持っていってください」


差し出された包みを受け取った瞬間、カイトの腕が沈んだ。


「重っ……!」


慌てて抱え直す。

布を少し開くと、中から鈍い黄金色が見えた。


金貨ではない。

長方形に近い形へ押し固められた、黄金の塊だった。


カイトは固まった。


「……何これ」


ヴォルカは少しだけ目を伏せた。


「金塊です」


「金塊」


「はい。二十年分、少しずつ貯めていた金貨を潰して、まとめました」


ユキトが横から覗き込み、顔を引きつらせた。


「いや、待て。潰したのか?」


「はい」


「金貨を?」


「はい」


「自作インゴットじゃねえか」


「いんごっと?」


「金の塊って意味でだいたい合ってる」


カイトは包みを見下ろした。


「なんで金貨のままじゃだめだったの?」


ヴォルカは真剣な顔で答えた。


「金貨のままだと、どこの国のものか、誰かに調べられるかもしれません。向こうの世界で、こちらの王国の金貨を見られるのは危険だと思いました」


ユキトは少し黙った。


「……そこはちゃんと考えてるんだよな」


「はい」


「でも、十七歳の高校生が金塊持って歩いてたら、普通に職質されるぞ」


「しょくしつ?」


カイトも首を傾げた。


「高校生?」


ユキトは額を押さえた。


「あー……向こうの世界で、お前くらいの年齢の奴が金塊持ってたら、まず怪しまれるってことだ。兵士じゃないけど、似たような連中に止められる」


カイトは包みを見下ろした。


「……危ないの?」


「使い方を間違えたらな。でも、最後の逃げ道にはなる」


ユキトは苦い顔で言った。


「金はこの世界でも強い。だが、俺の世界では間違いなくもっと強い。そこは間違ってねえ」


ヴォルカはカイトの手ごと、包みを包むように握った。


「これは、私だけで決めたことではありません」


カイトが顔を上げる。


ヴォルカは続けた。


「ユキトさんにも、フローラにも、ネムリアにも相談しました。家の資金から渡すことも、みんなで決めました」


「……家の、お金」


「はい。生活に必要な分は残してあります。島の維持費も、アリシア、ヨルカの分も、ちゃんと残しました」


その声が、少しだけ震えた。


「それでも、渡せるだけは渡したかったのです」


カイトは何も言えなかった。


腕にかかる重さが、ただの金の重さではないと分かった。


二十年分。

この家で積み上げてきた時間。

母たちが、父も含めて、家族で話し合って差し出した備え。


それを今、自分のために渡している。


ヴォルカは続けた。


「お腹を空かせないでください」

「寒い場所で眠らないでください」

「危ないと思ったら、迷わず逃げてください」

「お金がないから逃げられない、なんてことには、絶対にならないでください」


カイトは包みを抱きしめた。


「……うん」


声が、少し掠れた。


「ありがとう、母さん」


ヴォルカは泣きそうな顔で微笑んだ。


それから、ネムリアが前に出た。


手のひらに、小さな鍵を乗せている。


飾り気のない、古い金属の鍵だった。


カイトは首を傾げる。


「鍵?」


「ん」


ネムリアは頷いた。


「カイトのへや」


カイトは一瞬、意味が分からなかった。


「俺の部屋?」


「ん」


ネムリアは鍵を、カイトの手の上にそっと置いた。


「もともと、ある」


「……鍵、あったんだ」


「ある。つかってないだけ」


ネムリアは眠たげな目で、けれどはっきりと言った。


「これ、もってて」


カイトは鍵を見下ろした。


金塊と違って、軽い。

小さい。

手の中に収まる。


けれど、その軽さが逆に胸に残った。


ネムリアは言う。


「カイトのへや、カイトのばしょ」

「だれも、はいらない」

「だから、あんしんして」


カイトの指が止まった。


誰も入らない。


その言葉が、妙に胸の奥に沈んだ。


この家では、ずっと守られていた。

愛されていた。

大事にされていた。


けれど、ひとりになれる場所まで、母たちの心配が届いていた気がする。


それが嫌だったのかもしれない。

嬉しくて、苦しかったのかもしれない。


ネムリアは、少しだけ袖を掴む。


「でていっても、なくならない」

「かえってきたら、あけられる」

「いつでも、ねれる」


短い言葉だった。


けれど、それは長い励ましよりも重かった。


この家から出ていくことを、認める。

けれど、家族の外に追い出すわけではない。

部屋は残す。

場所は消さない。

帰ってきてもいいではなく、帰ってくる場所がある。


そう言われているのだと分かった。


カイトは鍵を握りしめた。


「……勝手に、部屋片づけるなよ」


ネムリアは頷く。


「しない」


「布団も捨てるなよ」


「すてない」


「変な猫耳とか置くなよ」


「……」


「母さん?」


ネムリアは少しだけ目を逸らした。


「かんがえる」


「考えないで」


カイトは鍵を胸元にしまう。


金塊より軽い。

お守りより地味だ。

けれど、それは確かに、自分の帰る場所だった。


「……持っていく」


ネムリアは小さく頷いた。


「ん」


その沈黙を受け取るように、今度はフローラが一歩前へ出た。


手には、細い鎖のついた小さな黒い飾りがあった。


黒い三日月のような形。


いや、よく見れば違う。

小さな竜角そのものを削り、月牙型に加工したものだった。


カイトは息を呑む。


「母さん、それ……」


フローラは微笑んだ。


「お守りです」


それ以上は説明しなかった。


性能も。

意味も。

込めた術式も。


何も言わない。


ただ、カイトの首にかける。


「肌身離さず持っていなさい」


カイトは飾りに触れた。


冷たい。

けれど、すぐに体温に馴染む。


「母さんの?」


「ええ」


フローラは静かに言った。


「私の一部です。だから、粗末に扱ってはいけませんよ」


カイトは強く頷いた。


「分かった。大事にする」


「必ずです」


その声だけ、少し強かった。


ユキトは何も言わなかった。


角を削ったのだと、気づいていた。

フローラがどれだけの思いでそれを渡したのかも、分かっていた。


だが、今言えば、フローラが笑えなくなる。


だから、何も言わなかった。


カイトは陣の前に立った。


ネムリアの指が、まだ袖を掴んでいる。


「母さん」


「……ん」


「行ってくる」


ネムリアはしばらく離さなかった。


それから、ゆっくりと指を開く。


「かえってきて」


「うん」


誰も、必ず帰れるとは言えなかった。


ヴォルカがカイトの肩に触れた。


「無理をしてはいけません」


「うん」


「危ないと思ったら逃げてください」


「うん」


「食事はちゃんと取ってください」


「うん」


「知らない人についていってはいけません」


「俺、十七だよ」


「十七でもです」


カイトは少しだけ笑った。


フローラは言った。


「考えなさい。見なさい。すぐに決めつけてはいけません」


「分かった」


「それから」


フローラは一度言葉を止めた。


「あなたは、あなたです」


カイトは目を伏せた。


「……うん」


ユキトは口を開いた。


「カイト」


カイトが見る。


ユキトは何かを言おうとして、少しだけ黙った。


激励ではなかった。

命令でもなかった。

いつもの余計な軽口でもなかった。


結局、父は短く言った。


「……本当に、ごめんな」


カイトは頷いた。


「父さんも、猫小屋で死ぬなよ」


「死ぬか」


少しだけ、空気が緩んだ。


陣が光り始める。


線が浮き上がり、部屋の空気が震える。


ヨルカのペン先が止まった。


アリシアは、まだ無表情だった。


光が強くなる。


その瞬間。


アリシアが走った。


ヨルカだけが、一瞬早く気づいた。


「姉さん、だめ――」


間に合わない。


アリシアは迷わず陣へ踏み込み、カイトの胸に飛び込んだ。


カイトの目が見開かれる。


「姉さん――!」


誰かが叫んだ。


ヴォルカが手を伸ばす。

フローラが駆け出す。

ネムリアの指が空を掴む。

ユキトが一歩踏み込む。


けれど、遅い。


光が二人を呑み込んだ。


最後に見えたのは、崖と、海と、夕焼けだった。


光が消えた。


部屋には、何も残っていなかった。


カイトもいない。

アリシアもいない。


ネムリアの手は、空を掴んだまま止まっていた。


ヴォルカは動けなかった。


フローラは青ざめていた。


ヨルカはメモ帳を抱えたまま、床を見る。


魔法陣は薄く揺れている。

だが、もう読めない。


さっきまで意味を持っていた線は、ただの残光のように揺らめいて消えた。


沈黙の中で、フローラがふと顔を上げた。


「……ユキトさん」


ユキトは床を見たまま答える。


「なんだ」


フローラの声は、ひどく静かだった。


「そういえば、どこに転送されるか、聞いていましたか?」


ユキトが固まった。


「……え?」


「聞いて、いましたか?」


ユキトは目を逸らした。


その瞬間、全員が答えを理解した。


「聞いてない」


沈黙。


ヴォルカの拳が震える。


フローラの微笑みが消える。


ネムリアの目から眠気が消える。


ヨルカはメモ帳を抱きしめた。


ユキトはゆっくり後ずさった。


「……猫小屋、帰ります」


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