72.穏やかな誕生日
カイトの十七歳の誕生日は、穏やかに始まった。
朝から家の中は少し浮ついていた。
ヴォルカはいつもより早く起き、台所に立っていた。火加減を見ながら、何度も鍋の中を確認している。フローラは食卓に花を飾り、皿の位置を細かく整えていた。ネムリアは椅子に座ったまま半分眠っていたが、それでも時々目を開けて、飾りの紐が曲がっていると指で直していた。
アリシアは落ち着いた顔で手伝っていた。
ヨルカは朝からそわそわして、何度もカイトの方を見ては目を逸らしている。
そしてユキトは、いつも通りだった。
「いやあ、十七歳か。早いなあ。俺なんか十七の頃はもうこっちで、青春を謳歌していた気がするんだが」
「父さん、誕生日の朝から自分語りしないで」
カイトが呆れると、ユキトは胸を張った。
「親父のありがたい昔話を聞ける貴重な機会だぞ」
「だいたい話盛ってるだろ」
「盛ってねえよ。俺の人生は元から濃い」
「濃いというより、汚いんだと思います」
アリシアが静かに刺した。
ユキトは笑って誤魔化した。
「娘の言葉が冷たい」
「父さん相手ならこれくらいがちょうどいいんです」
そんなやり取りに、ヴォルカが小さく笑う。
フローラも呆れたように目を細め、ネムリアは「いつもの」と呟いてまた少し眠そうにした。
それでも、この日は特別だった。
カイトの十七歳。
この家では、それは子どもとして祝われる最後の大きな節目でもあった。
本来なら、成人祝いだった。
けれど、カイトにはまだ竜としての訓練や、課題が山ほど残っていた。
十七歳になったからといって、すぐに家を出られる状態ではない。
母たちも、姉妹も、それは分かっていた。
だからこそ、その日はせめて祝いの日にしたかった。
外へ出るのはまだ先でも、大人として歩き出す準備がまだ整っていなくても、カイトが十七歳になったことだけはちゃんと祝ってやりたかった。
だから食卓には、祝いの料理が並んだ。
ヴォルカは何度もカイトの皿に料理を足した。
フローラは穏やかに祝福の言葉をかけた。
ネムリアは眠たげなまま、カイトの頭に手を置いた。
「おめでと、カイト」
「ありがとう、母さん」
ヨルカは少し緊張した顔で、小さな包みを差し出した。
「兄さん、これ……」
「俺に?」
「うん。私からのお祝い」
中に入っていたのは、自作の魔導書だった。
不格好で、ところどころページがはみ出して歪んでいる。それでも丁寧に作られていた。
カイトは少しだけ言葉を失ったあと、笑った。
「ありがとう。大事にする」
ヨルカはほっとしたように笑った。
アリシアは最後に、薄い革表紙の手帳を渡した。
「記録用です。何か気になることを見つけたら忘れないうちに書きなさい」
「姉さんらしいな」
「忘れた頃に読ませてもらいます」
「勝手に読むなよ」
「弟の成長記録ですから」
「違うだろ」
そんな会話に、家の中が少しだけ明るくなる。
カイトも笑っていた。
この時間だけは、本当にただの誕生日だった。
家族がいて、料理があって、祝いの言葉があって。
少しうるさくて、少し面倒で、それでも温かい。
そのはずだった。
祝いが一段落した頃、ユキトが箸を置いた。
音は小さかった。
けれど、その場にいた全員が気づいた。
ユキトの顔から、いつもの軽さが少しだけ消えていた。
「カイト」
名前を呼ばれて、カイトは顔を上げた。
その声だけで、だいたい察した。
ああ、このタイミングで話すんだな。
父から聞かされた話が、胸の奥で重く沈み直す。
「大事な話がある」
部屋の空気が変わる。
ヴォルカの手が止まった。
フローラの目が細くなる。
ネムリアも、眠たげな瞳を少しだけ開いた。
ユキトはアリシアとヨルカを見た。
「アリシア。ヨルカ。悪いが、席を外してくれ」
ヨルカの顔に不安が浮かぶ。
アリシアはすぐには動かなかった。
「私たちは聞けない話ですか」
「今はな」
「カイトの誕生日の話なのに?」
「だからだ」
ユキトは短く言った。
それ以上の説明はなかった。
この家では珍しいことではない。
危ない話。
重い話。
子どもに聞かせるべきではない話。
そういう時、ユキトはいつもこうやって線を引いた。
そして、だいたい誰もその線を越えられなかった。
アリシアはしばらく父を見ていた。
それから、静かに椅子を引く。
「分かりました」
素直な声だった。
あまりにも素直だったので、カイトは少しだけ違和感を覚えた。
ヨルカも立ち上がる。
二人が部屋を出る。
扉が閉まった。
しばらくして、隣室で足音が止まる。
アリシアは、廊下を離れなかった。
ヨルカが小声で言う。
「姉さん、だめだよ」
「……静かに」
「でも」
「静かに」
その声は低かった。
ヨルカは口をつぐむ。
アリシアは扉の近くではなく、壁際に立った。直接耳を当てるのではなく、音の通りやすい場所を選んでいる。
盗聴に慣れていた。
それもまた、この家では珍しいことではなかった。
部屋の中で、ユキトが口を開いた。
「先に言っておく。最悪の話だ」
誰も笑わなかった。
ユキト自身も笑っていなかった。
「昨夜、神に会った」
フローラは眉を寄せた。
「神?」
「夢みたいな場所だった。けど夢じゃねえ。あいつは現代日本側の神だ。俺をこっちに飛ばした直接の奴じゃないが、向こう側の管理者みたいなもんだと思っていい」
フローラの表情がわずかに硬くなる。
ヴォルカは膝の上で手を握った。
ネムリアは何も言わず、ユキトを見ている。
カイトだけは、この話の大枠を知っていた。
昨日の朝のうちに、ユキトから聞かされていたからだ。
神のこと。
現代日本へ誰かを送らなければならないこと。
候補が父か自分であること。
だから驚きはなかった。
ただ、母たちがその話を初めて聞く場に、自分も座っている。
その気まずさだけが、胸の奥に重く残っていた。
フローラは代表してユキトに聞いた。
「何を言われたんですか?」
「俺の過去の清算をしろ、と」
「清算?」
「二股の清算だそうだ」
沈黙が落ちた。
ヴォルカも、フローラも、ネムリアも衝撃からか動けなかった。
カイトは黙って父を見た。
ただ、空気だけが少し冷えた。
ユキトは片手で顔を覆う。
「先に言っとくが、覚えてねえ」
「覚えてない?」
「二十年前だぞ。顔も声も思い出せない。情もない。俺の中では、もう完全に終わった話だ。そもそも本当に事実なのかも怪しい。少なくとも俺は記憶にすら残っていない」
「最低の言い訳みたいに聞こえますね」
フローラが冷たく言うと、ユキトは苦い顔をした。
「俺もそう思う」
静かに尋ねた。
「その神は、何と言ってきたのですか」
「現代日本の時間を二十年巻き戻した、と」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「俺がこっちに来てから、向こうで流れた時間を巻き戻したらしい。詳しい理屈は知らん。ただ、あいつはそう言った」
「それで?」
ヴォルカの声が低くなる。
「明日の夜までに、神が残した転移陣を使えと言われた」
「転移陣……?」
フローラが眉を寄せた。
「実物があるのですか」
「ああ」
ユキトは短く答えた。
「俺の部屋だ」
その言葉に、誰もすぐには動けなかった。
最初に立ち上がったのはフローラだった。
「確認します」
「見なければ、判断できません」
それだけ言って、フローラは部屋を出た。
足音が廊下へ遠ざかる。
誰も喋らなかった。
重い沈黙だけが、部屋に残った。
しばらくして、フローラが戻ってきた。
顔色が悪かった。
普段なら、どんな状況でも穏やかさを崩さない彼女が、明らかに青ざめていた。
「……ありました」
ヴォルカが息を呑む。
フローラは椅子に戻らず、その場に立ったまま続けた。
「ユキトさんの部屋の床に。石でできた床そのものに、幾何学模様の陣が刻まれています」
「刻まれている?」
ヴォルカが聞く。
フローラは首を横に振った。
「違います。刻まれているように見えるだけです。線が、常に変わっていました」
部屋の空気が冷える。
「円も、文字も、術式の接続も、固定されていません。見ている間にも形が変わる。なのに崩れてはいない。意味を保ったまま、ずっと変異している」
フローラは自分の指先を握った。
「少なくとも、私には解読不能です」
その言葉の重さに、ヴォルカは黙った。
フローラが解けない。
それは、この家ではほとんど答えに近かった。
「神の術式、という表現が正しいかは分かりません。でも……」
フローラはユキトを見た。
「その話は、おそらく本当です」
ユキトはカイトを見た。
その視線だけで、母たちの顔色が変わった。
「候補は二人だ」
ユキトは言った。
「俺か、カイト」
母たちの空気が、一瞬で変わった。
カイトは自分を指差した。
「……俺だな」
「お前は俺に似すぎてる。姿も、因果も。神はそう言った。俺の代替候補になるらしい」
「理屈は分かんないけど、俺なんだな」
「俺も分かんねえ」
ユキトは吐き捨てるように言った。
「そして、ここからが重要な話だ」
「脅しがあった」
フローラの瞳が細くなる。
ユキトは神の言葉をそのまま繰り返した。
「眠っている災厄の封を弱める。偶然で済んでいた破滅を、偶然では済まなくする。こちら側のシステムの封印についても、完全に解くことはできずとも、揺らすことはできる」
フローラの顔色が変わった。
「まさか……竜帝の封印を?」
その名を聞いた瞬間、ヴォルカの肩がわずかに震えた。
ネムリアの眠気も消えた。
カイトだけが、その名に反応しきれなかった。
「竜帝?」
ユキトが短く答える。
「昔、俺たちを裁こうとした竜側の裁定者だ。蘇ったら終わる」
「そんな話は聞いてない」
「話してない。説明したら長くなるし、正直、お前に聞かせたい話でもなかった」
カイトはそれ以上、聞かなかった。
昨日聞かされた話にも、まだ伏せられていた札があった。
それだけは分かった。
フローラが低く言う。
「できるのですか。その神に」
ユキトは首を横に振った。
「分からん。だが、本当に封印を揺らせるなら、賭けるには重すぎる」
その声に、軽さはなかった。
フローラが一瞬何かに引っかかったが目を伏せた。
ヴォルカは何かを堪えるように口元を結んでいる。
ネムリアは小さく呟いた。
「……ひどい」
フローラは息を吐いた。
まだ、頭が追いついていない。
「それで、帰りのことは聞きましたか?」
その問いに、ユキトの表情が止まった。
カイトはすぐに気づいた。
答えがない顔だった。
「父さん?」
「……何も言われてない」
「何も?」
「陣はある。明日の夜までに、俺か息子を送れ。それだけだ」
ユキトは苦々しく続ける。
「向こうに行った後、どうやって戻るのか。そもそも戻れるのか。その話は何一つされてない」
ヴォルカが息を呑んだ。
フローラの指先が白くなる。
ネムリアが椅子の背を掴んだ。
ユキトはカイトから目を逸らさなかった。
「だから、行ったら二度と戻れないかもしれない」
その言葉で、部屋の温度が落ちた。
もう頼み事の範疇ではなかった。
旅行でもなかった。
調査でもなかった。
片道かもしれない。
カイトは、ようやくその意味を理解した。
母たちにも、姉妹にも、もう会えないかもしれない。
この家にも戻れないかもしれない。
十七歳の誕生日に、祝われたばかりのこの家から。
しかし、カイトの中で、答えはもう出ていた。
行くのは自分だ。
昨日から、そう決めていた。
けれど、帰れないかもしれないとは思っていなかった。
どこかで当然のように、帰ってくる方法はあるのだと思っていた。
父も、母たちも、最後には何とかするのだと。
その前提が、今になって崩れた。
ヴォルカが震える声で言った。
「そんな場所に、カイトを送るなんて……」
フローラも続ける。
「帰還の条件は? 向こうの神は、こちらへの再接続について何か言っていなかったのですか?」
「何も」
「本当に?」
「何もだ」
ネムリアはユキトを見ていた。
その声は小さかった。
「……それ、捨てるのと、なにがちがうの」
ユキトの顔が歪んだ。
その言葉は刺さった。
刺さらないはずがなかった。
それでもユキトは逃げなかった。
「違わねえかもしれない」
ヴォルカが顔を上げる。
「ユキトさん」
「だから言ってる。これは最悪の話だ」
ユキトは息を吐いた。
「俺が行くべきだとは思う。原因は俺だ。二股だろうが誤解だろうが、神にそう言われるような火種を残したのは俺なんだろう」
そこで一度、言葉が切れる。
ユキトは母たちを見た。
「でも、俺は戻りたくない」
誰も責めなかった。
責められないほど、その声は正直だった。
「二十年も前のことだ。顔も声も思い出せない。情も残ってない。そんな女たちのために、お前たちを残して戻りたくない」
ヴォルカの目が揺れた。
フローラは唇を結んだ。
ネムリアは、ただユキトを見ていた。
「向こうは、もう俺の生活の場じゃねえ。あっちに帰ったところで、俺の居場所はない。面倒だけが残ってる。俺は今さら、あっちに戻りたくない」
ユキトは笑わなかった。
軽口にも逃げなかった。
「でも、責められても仕方ない。俺が原因だ。お前たちに行けと言われたら受け入れる」
そして言った。
「選択は、お前たちに任せる」
その言葉に、母たちは動けなかった。
ユキトが自分で決めない。
家族に選ばせる。
それは一見、誠実だった。
けれど、その選択肢はあまりにも残酷だった。
夫を片道かもしれない世界へ送るか。
息子を片道かもしれない世界へ送るか。
どちらを選んでも、何かが壊れる。
ヴォルカは俯いた。
彼女は守りたかった。
自分より弱い夫を。
自分の子を。
家を。
何ひとつ手放したくなかった。
フローラは考えようとした。
条件を整理しようとした。
神の言葉。転移陣。竜帝の封印。帰還手段の不明。ユキトの過去。カイトの因果。
けれど、どれだけ理屈を並べても、答えは出なかった。
ネムリアは黙っていた。
いつもなら眠そうに流す言葉も、今は出てこない。
ただ、怖かった。
ユキトがいなくなることも。
カイトがいなくなることも。
怖くて、面倒で、考えたくなくて。
けれど、目を閉じることもできなかった。
母たちはユキトを疑ってはいなかった。
二股という言葉は引っかかった。
けれど、この人が自分たちに向けてきたものだけは疑えなかった。
最低なところはある。
雑なところもある。
逃げ癖もある。
都合の悪いことを軽口で流す。
それでも、私たちから逃げる男ではなかった。
家を捨てる男ではなかった。
何があっても自分たちの元に戻ってくる男だった。
だからこそ、苦しかった。
ユキトは綺麗な夫ではない。
善人でもない。
でも、家庭の泥を誰よりも早く拾う男だった。
ヴォルカが怒鳴りそうな場面では、ユキトが先に汚い言葉で相手を止めた。
フローラの正しさだけでは間に合わない場面では、ユキトが醜い処理を引き受けた。
ネムリアが怖いことや面倒なことの前で動けない時、ユキトは文句を言いながら前に立った。
母たちは、それに甘えた。
甘やかされた。
強くいなくてもいい場所を、ユキトが作ってしまった。
だから今、この男を失うことが怖い。
けれど、その怖さを理由にカイトを送ることなどできない。
誰も言葉を出せない。
その沈黙を破ったのは、カイトだった。
「俺が行く」
短い声だった。
けれど、カイトがそう言った瞬間、三つの声が重なった。
「だめです」
「待ってください」
「やだ」
ヴォルカは立ち上がっていた。
フローラは机に手を置いていた。
ネムリアはカイトの袖を掴んでいた。
三人とも、違う言葉で同じことを言っていた。
行かないで、と。
「そんな場所に、あなたを送れるわけがありません」
ヴォルカの声は低かった。
怒鳴ってはいない。
けれど、部屋の空気が震えた。
「それは旅ではありません。送り出すのではありません」
そこで、声がわずかに震えた。
「捨てるのと、同じです」
カイトは息を詰めた。
その言葉は重かった。
母が言うからこそ、逃げ場がなかった。
「母さん」
「分かっているのですか」
今度はフローラが言った。
声は落ち着いていた。
落ち着かせようとしているだけだった。
「私たちが見送った後、本当に二度と会えないかもしれない」
「その可能性を理解して、それでも言っているのですか」
カイトはすぐには答えられなかった。
分かっている。
そう言うだけなら簡単だった。
けれど、本当に分かっているのかと問われれば、胸の奥が詰まった。
二度と会えないかもしれない。
それはさっき理解したばかりの怖さだった。
ネムリアは椅子から立ち上がった。
ふらつくような足取りで近づき、カイトの服を掴む。
「カイト」
いつもの眠たげな声ではなかった。
「ねむれないとき、どうするの」
「こわいとき、だれのところにいくの」
「帰りたいとき、どうするの」
カイトは答えられなかった。
ネムリアは小さく首を振る。
「まだ、いなくならないで」
その一言で、カイトの中の何かが揺れた。
母たちに守られてきた。
愛されてきた。
この家が、自分の帰る場所だった。
それを否定したいわけじゃない。
嫌いだから出て行きたいわけでもない。
むしろ、好きだった。
大事だった。
失いたくなかった。
だからこそ、ここにいれば、自分はいつまでも守られる側のままだった。
「怖くないわけじゃない」
カイトは言った。
声が少し掠れていた。
「でも、俺が行く」
ヴォルカが苦しそうに顔を歪める。
フローラの指先が白くなる。
ネムリアは袖を掴んだまま、離さなかった。
「元々、誕生日が過ぎたら隠れて家を出るつもりだった」
ヴォルカが驚いたように目を見開いた。
「この家を、ですか」
「家が嫌いだからじゃない」
カイトはすぐに言った。
「アストロ・ベイに行って、そこから世界を見て回りたかった。父さんや母さんたちに守られるだけじゃなくて、俺は俺の力で生きてみたかった」
誰も遮らなかった。
カイトは続ける。
「いつまでも子ども扱いされたくなかった」
その言葉に、母たちは動けなくなる。
「それに、現代日本にも興味はある」
カイトは少しだけ、無理に口元を上げた。
「父さんがやたら自慢してた世界だろ。あの港より大きい街とか、便利な道具とか、変な食べ物とか、この世界より整っている生活環境とか」
ユキトが小さく眉を動かす。
カイトは言った。
「父さん、絶対話盛ってるだろ」
いつもなら、ユキトは言い返していた。
盛ってない、俺の話はいつも正確だ、と。
けれどこの時は、何も言わなかった。
――でも、一番は別だ。
カイトが本当に知りたいのは、自分がなぜ灰竜なのか、その答えだった。
この島にいても届かない。
父や母たちの口からは聞けない。
なら、外へ出るしかない。
現代日本。
父さんが生まれた世界。
父さんの過去が残っている場所。
そこに行けば、自分が何者なのか、何か分かるかもしれない。
それに、この家にとどまる限り、自分はずっと子どものままだった。
家が嫌いなわけじゃない。
母たちに愛され、守られてきたことも分かっている。
けれど、傷つく前に手を伸ばされる。
迷う前に道を整えられる。
失敗する前に危ないものを取り上げられる。
それが愛情だと分かっているから、責められない。
だから言えなかった。
――ここにいると、俺は俺になれない。
そんなことを言えば、母たちは自分を責める。
カイトは、その言葉を全部飲み込んだ。
「だから、俺が行く」
母たちに聞こえる理由は、軽いものだけでいい。
父の世界を見たい。
外を知りたい。
自分の足で歩きたい。
それだけでいい。
カイトは父を見た。
「距離が少し遠くなっただけだ」
「少しじゃありません」
フローラの声が震えた。
カイトは頷いた。
「分かってる」
その返事が、余計に痛かった。
母たちは決めなければならなかった。
止めたい。
抱きしめて、行くなと言いたい。
訓練だって竜としての生き方だって、まだ教え終わっていない。
まだ子どもなんだと言いたい。
けれど、カイトはもう子どものままではなかった。
自分の理由を持っていた。
自分の怖さを知ったうえで、それでも前に出ようとしていた。
「止めるべきではないと、分かっています」
フローラが言った。
唇を噛んでいた。
「あなたが自分の意思で行くと言うなら、私がそれを否定してはいけない」
「子どもを愛することと、子どもを閉じ込めることは違う」
「それくらい、分かっているんです」
声が震えた。
「でも、分かっているからといって」
「割り切れるわけではありません」
カイトは何も言えなかった。
フローラの言葉は、正しかった。
そして、正しいだけではどうにもならない痛みだった。
ヴォルカは目を閉じた。
「私は、止めたいです」
その声は、今にも崩れそうだった。
「今すぐ抱きしめて、どこにも行くなと言いたい」
「あなたがどれだけ嫌がっても、腕を掴んで、この家に残したい」
ヴォルカはゆっくり息を吐いた。
「でも、あなたが自分で選ぶなら」
「その選択を、力で押さえつけることはできません」
ネムリアは長く黙っていた。
袖を掴む指に、少しだけ力が入る。
「かえってきて」
小さな声だった。
誰も、帰れるとは言えなかった。
それでもネムリアは言った。
「方法、なくても、さがして」
「ぜったい」
カイトは頷いた。
「探す」
その瞬間、決まった。
カイトを送る。
そういう空気になった。
ユキトの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
本当にわずかだった。
母たちは気づかなかった。
けれど、カイトは見た。
その瞬間、胸の奥で何かが熱を持った。
怖さではなかった。
悲しさでもなかった。
怒りだった。
「でも父さん」
カイトが言った。
ユキトの目が動く。
「初めから、こうなると思ってただろ」
部屋の空気が止まった。
ユキトはすぐに何か言おうとした。
「カイト、それは」
「今日は終わらせねえぞ」
カイトの声は低かった。
怒鳴ってはいない。
けれど、今まで父に向けたことのない温度だった。
ユキトが黙る。
カイトは父を見たまま続けた。
「母さんたちに選ばせる形にした。自分は責められてもいいって顔をした。俺が原因だって素直に言った。戻りたくないとも言った」
「それは本音だ」
「分かってるよ」
カイトは即座に返した。
「本音だから厄介なんだろ」
ユキトの表情がわずかに変わる。
「父さんは嘘だけで人を動かさない。本音を混ぜる。責任を取る顔をする。相手が自分で選んだと思える形にする」
母たちが息を呑む。
カイトは止まらなかった。
「俺が外へ出たがってることも知ってた。何かを気にしてるのも知ってた。母さんたちが父さんを行かせられないことも、俺を送れないことも知ってた」
「カイト」
「誰がどこで迷うか、誰が何を言えないか、俺がどこで口を出すか」
カイトの声が、さらに低くなる。
「読んでたんだろ」
ユキトの顔から、完全に軽さが消えた。
「俺が行く。それは俺が決めた」
カイトは言った。
「でも、俺がそう決めるように持っていったことまで、なかったことにするな」
ヴォルカがユキトを見る。
フローラも。
ネムリアも。
その視線が、ユキトに刺さる。
ユキトは否定できなかった。
完全には。
カイトはそれを見て、笑わなかった。
「俺たちは、いつも言えなかった」
その声には、今まで積もっていたものがあった。
「父さんが話を切る。父さんが空気を作る。父さんが結論を持ってくる。母さんたちが決めてるように見えて、最後はだいたい父さんの予想通りになってる」
母たちは何も言えなかった。
思い当たることがあったからだ。
家庭の重要な決断の時。
子どもの将来を話す時。
危険な問題を家族で扱う時。
誰かの痛みを、どう受け止めるか決める時。
自分たちで選んでいたつもりだった。
けれど、振り返ればいつも、ユキトが先に場を作っていた。
選択肢を並べるのもユキト。
嫌われ役を引き受けるのもユキト。
最後に「これでいい」と終わらせるのもユキト。
そのおかげで救われたことは、何度もあった。
けれど。
子どもたちにとっては、違ったのかもしれない。
カイトは父を睨んだ。
「父さんが汚れ役をやってくれたから、母さんたちは助かったんだと思う」
ユキトの目がわずかに揺れる。
「でも俺たちは違う」
カイトは拳を握った。
「言いたいことがあっても、父さんが先に分かった顔をする。痛かったことがあっても、父さんが勝手に処理する。話が終わったみたいにする」
その言葉に、フローラが目を伏せた。
ヴォルカは胸を押さえた。
ネムリアは、泣きそうな顔でカイトを見ていた。
「今日はそれをさせねえ」
カイトは言った。
「俺が行く。これは俺が決めた」
そして、父に向かって言い切った。
「でもな……親父、ふざけんな」
静かな声だった。
だからこそ、重かった。
ユキトは何も言わなかった。
言えなかった。
カイトは立ち上がらない。
泣きもしない。
怒鳴りもしない。
ただ父を見ていた。
その温度が、部屋に残り続けた。
隣室で、アリシアは壁の向こうを見ていた。
神の脅しも、戻れないかもしれないことも、父の過去も、もちろん許せなかった。
けれど今、いちばん胸を焼いているのはそこではない。
まただ、とアリシアは思った。
父はまた、主導権を渡さなかった。
自分が悪いと言った。
戻りたくないと本音も混ぜた。
脅しの重さも、帰れないかもしれないことも、先に全部並べた。
そのうえで、選ぶのはお前たちだと言った。
一見すれば誠実だった。
自分で決めつけず、家族に委ねたように見える。
けれど、違う。
父は最初から、誰がどこで迷い、誰が何を言えず、最後に誰が口を開くか分かっていた。
母たちは本来、もっと激しく止めたはずだった。
息子を片道かもしれない異世界へ送る。
そんな話を聞かされて、静かに受け入れられるはずがない。
嫌だと泣き叫んで、ふざけるなと怒って、みっともなく縋ってでも止めたはずだった。
家族会議自体が、結論の出ないまま破綻しているはずだった。
なのに、そうならなかった。
父が先に場を整えたからだ。
怒る前に、怒っても覆せない形にした。
泣く前に、泣いても変わらない場所まで運んだ。
止めたいと言う前に、止めれば別のものが壊れると分かるようにした。
その結果、カイトが自分で行くと言うのが、いちばん自然な流れになった。
アリシアの指先が震えていた。
怒りで。
悔しさで。
そして、恐怖で。
嫌だった。
カイトが、自分の手の届かない場所へ行ってしまうのが。
今までは、同じ家にいた。
同じ食卓について、同じ屋根の下で眠って、声をかければ振り向く距離にいた。
それが明日には、もう届かないかもしれない。
異世界。
片道かもしれない距離。
そんなものを、父はまた“仕方のない決断”の形に変えた。
家族が自分で飲み込んだように見える形で。
父は昔からそうだった。
正面から命令するわけじゃない。
怒鳴って従わせるわけでもない。
むしろ、自分が一番汚れる顔をする。
責任を取る顔をする。
そのくせ最後まで、場の形だけは手放さない。
誰が黙り、誰が引き、どの言葉で折れるか。
父はいつも、それを先に見つけてしまう。
それが父の異常さだった。
家族は何度もそれに助けられてきた。
けれど今回は違う。
壊れずに済むための形そのものが、カイトを遠ざけるために使われた。
だから、許せなかった。
「……また」
小さく漏れた声に、横にいたヨルカの肩が跳ねる。
「姉さん……?」
アリシアは扉の向こうを見たまま、低く言った。
「また父さんは、家族に選ばせた顔をして」
「最後まで自分の思う形に持っていった」
ヨルカは息を呑んだ。
姉の声が怖かった。
怒鳴っていない。
泣いてもいない。
でも、確実に何かが切れかけている。
ヨルカは青ざめた。
まずい。
これはまずい。
本当に、まずい。




