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70/91

70.殺すぞ

竜化してから、数日が過ぎた。


カイトも、竜としての訓練を受けるようになっていた。


といっても、最初から派手なことをするわけではない。


竜の体で立つ。

尾でバランスを取る。

爪で地面を抉りすぎない。

走る時に、人の体の感覚で踏み込まない。

人の姿に戻ったあと、力加減を間違えない。


それだけでも、最初は難しかった。


人の体なら、少し力を入れれば足が前に出る。

だが竜の体は違う。重さも、地面の掴み方も、視界の高さも、息の吸い方も違った。


一度、爪を立てすぎて庭の土を大きく抉ったことがある。

一度、尾で近くの木箱を弾き飛ばしたこともある。

人の姿に戻ったあと、扉を閉めるだけのつもりで蝶番を壊しかけたこともあった。


そのたびに、フローラは静かに確認した。


「痛みはありませんか」

「息は乱れていませんか」

「今の動きで、どこに力が入りすぎたか分かりますか」


ヴォルカは、危ない動きを見つけるとすぐ止めた。


「そこで踏み込むと、体が流れます」

「怖いと思った時ほど、尾を固めないでください」

「止まろうとするより、まず倒れない形を覚えましょう」


二人とも優しかった。

けれど、甘くはなかった。


カイトはそれを、ありがたいと思っていたが同時に息苦しかった。


竜になった。

ようやく自分も、そっち側に立てた。


それなのに、何をするにも誰かの目がある。

危ないから。

まだ早いから。

無理をしない方がいいから。


そう言われるたび、自分がまた家の中に戻されていく気がした。


ネムリアだけは少し違った。


彼女は特に指導しない。

止めることも、褒めることもあまりない。

いつものように眠そうな顔で、少し離れた場所に座っている。


けれど時々、目だけが開く。


カイトの爪でも、尾でも、踏み込みでもない。

もっと奥の何かを探るように、じっと見てくる。


魔力なのか。

気配なのか。

血の流れなのか。


カイトには分からない。


ただ、その目が一番落ち着かなかった。


父は畑にいた。


少し離れた場所で、土をいじっている。

鍬を入れ、石を拾い、伸びすぎた草を抜いていた。


時々こちらを見ることはある。

だが、すぐにまた畑へ向き直る。


まるで、自分の出る話ではないと決めているみたいだった。


実際、父はそういう人間なのかもしれない。

竜のことは竜に任せる。

自分にできることだけをする。


そう考えれば、間違ってはいない。


でもカイトには、それがひどく遠く見えた。


その日も、庭でアリシアと向かい合っていた。


武器はない。

互いに素手だった。


カイトは息を整える。


以前なら、何をされているのかも分からないまま転がされていた。

踏み込んだ瞬間には手首を取られ、次の瞬間には空を見ている。

そんなことばかりだった。


けれど今は違う。


アリシアの足が動く。

肩が少し下がる。

視線がこちらの右側を見て、けれど本命は左から来る。


見える。


完全ではない。

それでも、見えた。


カイトは半歩下がり、腕を払った。


アリシアの手が空を切る。


初めてではない。

この数日で何度かできるようになったことだ。


それでも、胸が熱くなった。


いける。


カイトは踏み込む。

低く入って、アリシアの足を狙う。


アリシアは半歩だけ引いた。

その半歩が、遠い。


カイトの指先が、アリシアの袖に触れた。


触れた、と思った。


次の瞬間、視界が回った。


背中が地面に落ちる。


「っ……!」


息が詰まった。


空が見えた。

白い雲がゆっくり流れている。


アリシアが上から覗き込んだ。


「大丈夫?」


「……大丈夫」


カイトは起き上がろうとして、少し遅れて体の重さを感じた。


悔しい。


でも、それだけではなかった。


嬉しかった。


前とは違う。

ただ地面に伏しているだけじゃない。

受けられる。

避けられる。

一瞬だけなら、届く。


自分の体は、ちゃんと変わっている。


カイトは立ち上がった。


「もう一回」


「うん」


アリシアは頷く。


その顔には余裕があった。

自分だって竜化したのに扱いは変わらなかった。

だから余計に悔しかった。


二度目。

三度目。

四度目。


結果は同じだった。


カイトは前より動ける。

それは間違いない。

だが、最後には必ず地面に伏せていた。


アリシアは魔法を使っていない。

結界も、花聖竜としての力も使っていない。

ただ体術だけで、カイトを捌いている。


嬉しかった。

確かに強くなった実感はある。


でも、その嬉しさの奥で分かってしまう。


姉さんは、まだ本気を出していない。


何度目かに倒されたあと、カイトは起き上がらなかった。


「少し休む」


「うん」


アリシアはそれ以上、急かさなかった。


カイトは仰向けのまま、庭の向こうを見た。


父はまだ畑にいる。

母たちはこちらを見ている。

ネムリアの目だけが、また少しだけ深くなっていた。


強くなった。

竜にもなった。


それでも、この家にいる限り、自分はずっと誰かに測られる。


姉に届くか。

母たちの期待に応えられるか。

父のように流せるか。

ネムリアの目に映っている何かに、耐えられるか。


そんなことばかり考えながら生きるのは、もう嫌だった。


2日後、誕生日が来る。


それが終われば、この国では成人として扱われる。

子どもとして出ていくのではない。

ちゃんと歳を迎えてから、自分の足で出ていく。


そう決めていた。


その夜、カイトは自室で荷物をまとめていた。


着替えは多くない。

保存食も最低限。

小さな袋に入れた金。

アストロ・ベイ周辺の簡単な地図。

父から教わった数字や帳簿の覚え書き。


港で騙されないための計算。

船賃や物価の目安。

重さと値段の見方。


父に反発しているくせに、外へ出るための知識は父からもらっている。

そのことが少しだけ腹立たしかった。


だが、使えるものは使う。


カイトは荷物を袋の奥へ押し込んだ。


その時だった。


扉が開いた。


「カイト」


「うわっ!」


カイトは反射的に荷物を背中で隠した。


そこに立っていたのはアリシアだった。


普段と同じ顔をしている。

だが、カイトの慌て方を見て、少しだけ目を瞬いた。


「姉さんには関係ないだろ」

「……まだ何も話していません」

「ノックくらいしろよ」

「しました」

「返事を待てよ」


アリシアは一瞬だけ視線を逸らした。


「……ごめんなさい」

「何を想像したんだよ」

「何も」

「絶対何か想像しただろ」

「……何も」


妙にきっぱりした否定だった。


カイトは睨んだが、アリシアはそれ以上そこには触れなかった。


代わりに、少しだけ声を落とす。


「この前のこと、私なりに整理しました」

「この前?」

「あなたの竜化のことです」


カイトの手が、荷物の上で止まった。


「……灰竜のことか」


「はい」


心臓が、少しだけ強く鳴った。


この家を出る前に知れるのか。

自分が何なのか。

なぜ灰色だったのか。

なぜ母と同じ幻夢竜ではなかったのか。


カイトは警戒を隠せないまま言った。


「聞くだけなら」


アリシアは部屋の中へ入った。

扉を静かに閉める。


カイトは荷物を隠したまま、しばらく黙っていた。


そして、低く言った。


「……やっぱり、おかしいよな」


少しだけ唇を噛み、視線を逸らしたまま続ける。


「俺、灰竜なんだろ。でも、それって変じゃないか」


アリシアの表情が、わずかに引き締まった。


カイトは止まらなかった。

止めたら、もう二度と口に出せなくなる気がした。


「母さんたちもさ、俺が竜化した時、反応が微妙だったんだよ。別に露骨じゃない。でも、たぶん、俺が灰竜だって分かった時、ちょっと変だった。あれ、絶対気のせいじゃなかったと思う」


「……うん」


アリシアは否定しなかった。


その一音だけで、カイトの胸の奥が冷えた。


「どうして俺は幻夢竜じゃないんだ」


ようやくそこまで言って、カイトは両手を握った。


「父さんは人間で、母さんは幻夢竜だろ。だったら、俺は幻夢竜になるはずじゃないのか。少なくとも灰竜にはならないはずだ。なのに俺だけ灰竜で、しかも母さんたちは何か知ってるみたいな顔をしてて、でも何も言わなくて……」


声が少し荒くなる。


「他種族との子供だから、たまたま何かあるのかもしれない。前例が少ないから分からない。そういう話なのかもしれないけど、分からないで済ませるには、変なことが多すぎる」


言い切ったあと、カイトは息を吐いた。


少しも楽にはならなかった。


アリシアはすぐには返さなかった。

視線を少しだけ落とし、頭の中で言葉を並べ直しているようだった。


やがて、静かな声で言う。


「それなら、分かっていることから整理しましょう」


カイトは顔を上げた。


アリシアはいつものように落ち着いていた。

無理に安心させようとはしない。

でも、突き放しもしない声だった。


「まず前提として、他種族間の子供は例が少なすぎます。少ないどころではありません。ほとんど前例がないと言っていいくらいです。だから、成長速度や竜種の発現が普通の純竜と同じとは限りません」


「……うん」


「それに、普通は他種族との子は純竜化しません。少なくとも、世間ではそういうものとして扱われています」


そこまで言ってから、アリシアはカイトを見る。


「でも現に、私も、ヨルカも、あなたも純竜化した」


カイトは黙って頷いた。


「それ自体がまず異常です。かなりおかしい。父が人間である以上、本来こんなに純竜の子供が揃う方がおかしいんです」


アリシアはそこで一度言葉を切った。

そして、少しだけ声を落とした。


「……それだけではありません」


カイトが顔を上げる。


「私たちは三人とも純竜です。なのに、純竜の成長速度で育っていません」


その一言で、部屋の空気が重くなった。


「純竜なら、本来はもっと長い時間をかけて育つはずです。子供の時期も、人に比べてずっと長い。けれど私たちは違う。人間に近い速度で大きくなっている」


カイトは黙ったまま、アリシアを見ていた。


「つまり、おかしいのはあなただけじゃないんです。あなたが灰竜であることだけが変なんじゃない。私も、ヨルカも、あなたも、純竜であること自体も、その育ち方も、全てがおかしい」


アリシアは続けた。


「ただ、他種族間の子供は本当に分からないことが多いんです。だから、例外が起きてもおかしくない、としか今は言えません」


「例外……」


「はい。たとえば、私なりの仮説はあります」


カイトが顔を上げると、アリシアは少しだけ困ったように眉を寄せた。


「父さんの戦闘力、知っているでしょう」


「1」


「そう。普通、子供というのは親の中間あたりに落ち着くはずです。でも父さんは人間としても極端に低すぎる。あまりにも片側が弱すぎて、中間という考え方そのものが崩れた。その結果、竜の側が全面に出て、私たち三人とも純竜化した……そう考えれば、一応は筋が通ります」


カイトは少し考えた。


確かに、父の戦闘力はおかしい。

人間としても弱い。

竜と比べるまでもない。


その弱さが、逆に竜の側を強く出した。


分かるような気もする。

でも、肝心なところには届いていない。


「じゃあ、灰竜は?」


アリシアは目を伏せた。


「ごめんなさい。そこが一番大事なのに、私はまだ答えを出せません」


その真っ直ぐさが、逆に痛かった。


曖昧に濁されるよりずっといい。

けれど、いいからこそ、何も解決していないことがよく分かる。


アリシアは続ける。


「ただ、灰竜という竜種についてなら、多少は知っています」


カイトは顔を上げた。


「灰竜は、特別な上位竜種ではありません。竜としての格は普通の竜です」


「普通の竜……」


「はい。ヴォルカ母様の炎魔竜種はかなり高位です。その少し下に、フローラ母様のような聖竜の大きな系統があります。さらに下に、ネムリア母様の幻夢竜種。そして、その下に普通の竜種がいる。灰竜は、そのあたりに入ります」


カイトは黙って聞いていた。


「ですが、弱い竜という意味ではありません。灰竜は特別な破壊性や神聖性、精神干渉のような目立つ性質を持ちません。その代わり、生き残ることにしぶとい竜です。華々しく勝つ竜ではなく、終わったと思われたところから、まだ終わらない竜」


「……地味だな」


「地味ですね」


アリシアは否定しなかった。


「でも、恥じるような竜種ではありません。問題は、灰竜が下だからではないんです」


アリシアはカイトを見た。


「あなたが、なぜ灰竜なのか。その理由が見えないことです」


カイトは小さく息を吐いた。


灰竜が何なのかは分かった。


それでも、胸の奥にあったものは消えなかった。


自分が灰竜だから嫌なのではない。


ネムリアの子であるはずの自分が、どうして灰竜なのか。


そこが分からない。


カイトは喉の奥に引っかかっていたものを、無理やり言葉にした。


「……もう一つ、ある」


アリシアが顔を上げる。


「たぶん、こっちの方が変なんだけど」


「聞きます」


カイトは一度目を閉じた。


あの夜のことを思い出すと、妙に背中が落ち着かなくなる。


「かなり前、夜中に浜にいたんだ。眠れなくて、ひとりで」


自分でも、どうしてこの話をここで持ち出すのか分かっていた。

分かっているからこそ、気分が悪かった。


「そしたら、急に後ろから抱きしめられた」


アリシアの目がわずかに見開かれる。


カイトは苦い顔で続けた。


「俺も何が起きたか分からなくて固まったんだけど、その人、すごく普通に……当たり前みたいに抱きついてきて。みぃつけた、って」


アリシアは何も言わない。


「でも、そのあとすぐ俺の顔を見て、人違いだったって謝った。向こうも本気で間違えたみたいだった」


カイトの声が少し低くなる。


「あの人、灰色の竜だった。俺と同じ色の竜種だったと思う」


そこでアリシアの顔から、わずかに血の気が引いた。


「友達みたいな人に、ミラって呼ばれてた」


部屋が静かになった。


風の音も、遠くなった気がした。


カイトは自分の言葉を自分で聞きながら、吐き気に似たものを覚えていた。

ここから先は、口にした瞬間に戻れなくなる。


それでも止まれなかった。


「島に来る竜なんて、父さんの知り合いくらいしかいないだろ」


「……」


「それで、俺だけ灰竜で、母さんたちの反応も変で、父さんの周りに灰竜の女がいて、しかもその人が俺を見て人違いしたってなると」


カイトはそこで一度詰まった。


言いたくない。

言ってしまったら、自分で自分が嫌になる。


なのに、頭の中ではとっくに形になっていた。


「……もしかして、あの人が本当の母親なんじゃないかって」


言った瞬間、胃の奥が冷えた。


「母さんが、別の男とどうこうしたって話じゃない。そこは違うと思う。だって俺、父さんに似すぎてるから」


自分で言っていて、余計に嫌になった。


「だから、もし疑うなら……父さんの方なんだよ」


アリシアは息を呑んだまま動かなかった。


カイトは顔を伏せた。


「ネムリア母さんは子供を産めないから、代わりに俺を育ててるだけで、本当は別の——」


「カイト」


アリシアが初めて強く名前を呼んだ。


そこでカイトは口を閉じた。


でも、遅かった。

言葉はもう部屋の中に落ちている。


カイトは拳を握りしめたまま、掠れた声で言った。


「……口にした瞬間、自分で最低だと思った」


アリシアは何も言わない。

ただ聞いていた。


「そんなはずないって思ってる。思ってるのに、一回浮かんだら消えないんだよ。俺だけ灰竜で、あの人がいて、父さんが何か隠してるみたいで……それで、母さんたちの顔を思い出すと、全部繋がる気がしてくる」


カイトは唇を噛んだ。


「ネムリア母さんを疑いたいわけじゃない。そんなことしたくない」


最後の方は、ほとんど吐き出すような声だった。


アリシアはすぐには慰めなかった。


ただ、長い沈黙のあと、ゆっくりと言った。


「……私は、それを今ここで否定しきれません」


カイトは顔を上げた。


姉の口からその言葉を聞くのは、予想していたよりずっと重かった。


「否定したいです。でも材料が揃いすぎています。あなたが父さんに似ていることも、その灰竜が現れたことも、あなただけが灰竜であることも」


アリシアは目を伏せ、指先を膝の上でそっと組んだ。


「だから、私は無責任に大丈夫とは言えません」


その代わり、とアリシアは続けた。


「まだ何も確定していません。今あるのは、説明のつかない違和感と、疑うに足る材料だけです」


カイトは苦く笑った。


「それ、十分きついな」


「ええ」


アリシアも、少しだけ苦く頷いた。


カイトの顔を見ながら、アリシアは胸の奥が静かに冷えていくのを感じていた。


弟が傷ついている。

そう思った。


けれど、それだけでは足りなかった。


この疑いを打ち明けられたのが自分でよかったと、胸の奥で思ってしまった。

最低だと分かっている。

それでも、今この子の一番近くにいるのは自分なのだと感じて、手放したくないと思った。


アリシアはその感情を顔に出さなかった。


「少し、確認してきます」


「確認?」


「父さんに。直接ではありません。探るだけです」


カイトは迷ったように顔を上げる。


「やめた方がいいんじゃないか」


「今のまま一人で考える方が、よほど悪いです」


アリシアは立ち上がった。


「待っていてください」


その夜のうちに、アリシアはユキトに探りを入れた。


食後、片付けの合間だった。


台所の灯りは柔らかく、他の家族たちの気配も遠くない。

だからこそ、あまり重くならないような顔で、何気ないふうを装って声をかける。


「お父さん」


「ん?」


「ミラって人、知っていますか?」


その瞬間だった。


ユキトの手が止まった。


ほんの一瞬。

皿を持つ指先が固まり、視線が泳ぎ、それから遅れて何でもない顔を作る。


それがあまりにも分かりやすくて、アリシアの胸が冷えた。


「……なんで?」


返ってきた声も、平静を装っているのが分かった。

分かるからこそ駄目だった。


アリシアは努めて軽く言う。


「前にこの島へ遊びに来ていたらしいので。お父さんの知り合いかなと思って」


ユキトは一拍遅れて、ああ、と曖昧に相槌を打った。


「まあ、知ってるっちゃ知ってる」


「そうなんですね」


「それがどうした」


「いえ、別に。ただ少し気になっただけです」


ユキトはそこで笑おうとした。

いつものように誤魔化そうとする時の、軽い、少し逃げるような笑い方だった。


「島に来る竜なんて、だいたい知り合いだろ」


「そうですね」


アリシアもそれ以上は踏み込まなかった。


踏み込めば、たぶん誤魔化される。

あるいは、警戒される。


今はそれより、ひとつだけ確かなことがあった。


何かある。


それだけは、もう見間違えようがなかった。


そのあとで、アリシアはカイトのところへ戻った。


部屋の隅、窓のそば。

カイトはさっきと同じ椅子に座っていたが、もう落ち着いて待っていられる顔ではなかった。


聞かなくても分かる。

そんな顔をしていた。


アリシアは正面に立ち、はっきり言った。


「お父さんは動揺しました」


カイトの肩がわずかに揺れる。


「誤魔化されました。でも、何もない人の反応ではありませんでした」


カイトはしばらく黙っていた。


やがて、小さく笑った。


笑ったのに、全然笑っていなかった。


「そっか」


それだけだった。


アリシアは椅子の横に立ったまま、静かに言う。


「今はまだ、何も答えを出せません」


「うん」


「でも、悩まないでとは言いません。無理でしょうから」


カイトは少しだけ目を上げた。


アリシアはその目をまっすぐ見返した。


「ただ、一人で抱えなくていいです。私も一緒に探します」


その一言で救われたわけではなかった。

救われるには、もう疑いが深くなりすぎていた。


それでも、完全にひとりではないと思えたことで、カイトは少しだけ息を吐けた。


「……ありがと」


アリシアは頷くだけにした。


抱きしめることも、慰めることもしなかった。

今それをすれば、カイトはきっと逃げる。

だから、隣に立つだけにした。


けれど胸の奥では、静かに思っていた。


この子が誰の子でもいい。

何の竜でもいい。


ただ、この迷っている最中、隣に立つ役目だけは、誰にも渡したくないと。


しばらくして、アリシアは部屋を出た。


一人になった途端、部屋の中がやけに広く感じた。


カイトは椅子に座ったまま、窓の外を見る。


夜の海が見えた。

白砂が、月明かりの下でかすかに青く光っている。


綺麗だった。


でも、今はその綺麗さが少し怖い。


ミラ。

灰竜。

父の動揺。

母たちの沈黙。

ネムリアの探るような目。


考えないようにしても、頭の中で勝手に繋がっていく。


その時、扉が小さく開いた。


ノックはあったのかもしれない。

けれど、返事を待つ前に、その人は入ってきた。


「カイト」


ネムリアだった。


カイトの背筋が、反射的に強張る。


今、一番会いたくない相手だった。

そして、たぶん一番会いたかった相手でもあった。


ネムリアはいつも通り、眠そうな顔をしていた。

髪は少し乱れていて、目も半分閉じている。


けれど、カイトを見る目だけは妙に正確だった。


「ごはん、いつもよりすくない」


カイトは言葉に詰まった。


「別に」


「げんきない?」


「そんなことない」


「そっか」


それだけ言って、ネムリアは自然に部屋の中へ入った。


「いや、そっかじゃなくて」


カイトが言うより早く、ネムリアは隣に腰を下ろした。


距離が近い。

近すぎるわけではない。

けれど、逃げ場がなくなる距離だった。


「母さん」


「ん」


「何しに来たんだよ」


「カイト、げんきないから」


「だから、別に」


「そっか」


またそれだけだった。


追及しない。

問い詰めない。

でも、離れもしない。


それが余計に苦しかった。


カイトは手を握った。


聞きたいことがあった。


俺は、本当に母さんの子なのか。


その一言が喉元まで来ていた。


でも、言えない。


言った瞬間、何かを壊す気がした。

母さんを傷つける気がした。

そして、もし答えが返ってきたら、自分も壊れる気がした。


母さんは何も知らない顔で隣にいる。


眠そうに。

静かに。

当たり前みたいに。


「……母さん」


「ん?」


「いや」


「うん」


ネムリアはそれ以上聞かなかった。


カイトは唇を噛む。


疑っている。

こんなに近くにいる人を。

小さい頃から当たり前みたいにそばにいた人を。

眠る時、黙って隣にいてくれた人を。


その人に、心の中で一番ひどい疑いを向けている。


最低だと思った。


でも消えなかった。


ネムリアは、カイトの手元を見た。

握りしめた拳を見て、少しだけ指を動かす。


触れるか迷ったように見えた。


けれど、触れなかった。


ただ隣にいた。


それだけだった。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


窓の外で、波の音がする。

家の中の気配も、少しずつ遠くなっていく。

誰かが廊下を歩く音。

湯を片付ける音。

風が窓を撫でる音。


疑いは消えなかった。

罪悪感も消えなかった。


それでも、ネムリアが隣にいる間だけ、カイトは息の仕方を思い出せた。


やがて、ネムリアが小さく欠伸をした。


「ねる」


「……うん」


「ねむれなかったら、よんで」


「呼ばない、もう子供じゃないから」


「そっか」


ネムリアは立ち上がる。


扉のところまで行って、少しだけ振り返った。


「カイト」


「何」


「ごはん、あしたはちゃんとたべる」


「……命令かよ」


「おねがい」


そう言って、ネムリアは部屋を出ていった。


扉が閉まる。


カイトは一人になった。


胸の奥はまだ重い。

何も解決していない。


それでも、さっきより少しだけ呼吸は楽だった。


翌朝。


朝食の席には、珍しく母たちの姿がなかった。


フローラも、ヴォルカも、ネムリアもいない。

アリシアも、ヨルカもいなかった。


いつもなら、誰かしらが台所にいて、誰かしらが席についている。

ヨルカが眠そうに本を抱えていたり、アリシアが先に皿を並べていたり、ネムリアが半分寝たまま座っていたりする。


けれど、その朝に限って、食卓にいたのはカイトとユキトだけだった。


偶然ではない。


たぶん、父が人払いをしたのだろう。


カイトはそう思った。

思ったが、何も言わなかった。


ユキトも、最初はいつものように軽口から入ろうとして、結局やめた。


食事の音だけが、少しの間続いた。


やがて、ユキトは箸を置いた。


カイトも顔を上げる。


ユキトは少しだけ黙った。


その沈黙だけで、カイトは分かってしまった。


これは、聞いたら戻れない話だ。


ユキトは息を吐く。


「お前のことだ」


カイトの指が、椅子の背を強く握った。


灰竜のこと。

ミラのこと。

ネムリアのこと。


昨日から胸の奥で渦を巻いていた疑いが、ついに形になる。


そう思った。


ユキトは、いつになく真面目な顔で言った。


「悪い、俺の代わりに 二股を清算してきてほしい」


カイトの表情が止まった。


「……は?」


「二股」


「……誰の?」


「俺の」


カイトはまばたきを忘れた。


「向こうに女が二人いてな。たぶん、どっちも俺が急に消えたせいでまあまあ燃えてる」


意味が分からなかった。


「で、俺が行くと油を注ぐ」


意味が分からないまま、情報だけが増えていく。


「お前、顔が俺に似てるだろ」


最悪な方向に話が進んでいることだけは分かった。


「だから、俺のフリして、いい感じに鎮火してきてほしい」


カイトはしばらく父を見ていた。


灰竜。

ミラという謎の女。

母たちの沈黙。

ネムリアを疑った自分への嫌悪。


その全部を抱えたまま、ようやく出てきた父の言葉が。


二股。

父の。

炎上中。

替え玉で鎮火。


ユキトは少しだけ目を逸らした。


「あと、細かいことはあんまり覚えてない」


カイトは、もう一度低く言った。


「は? 殺すぞ?」

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