68.やっと見つけたと思った
アリシアが花聖竜へ竜化してから、一年が過ぎていた。
あの日の熱とざわめきは、もう家の中にそのまま残ってはいない。
シロネコ島の暮らしは相変わらずだった。朝になれば起き、食べ、働き、夕方には家へ戻る。畑の世話をし、海へ出て、家の周りを整え、風呂に入り、眠る。火山の気配は以前より落ち着き、家の周りの土はしっかりしてきて、畑も庭も年ごとに拡張していった。
母たちは表向き、特に変わらなかった。相変わらず三人で家を回し、子どもたちを見て、叱る時は叱り、甘やかす時は甘やかした。ユキトも相変わらずだった。港へ行って余計なものまで買ってきたり、畑を見ては勝手なことを言ったり、子どもに絡んでは嫌がられたりしながら、それでもちゃんと家の中心にいた。
ヨルカもカイトも、少なくとも周りには、あの日を特別引きずっているようには見えなかった。
ただ、アリシアだけは少し変わった。
以前にも増して面倒見がよくなった。もともと下のきょうだいを見るのが自然な子ではあったが、その一年で、それはもっとはっきりした形になった。ヨルカが寂しそうにしていれば誰より先に手を伸ばし、カイトが黙っている時ほどそちらへ目を向ける。誰かに言われたわけでもないのに、自分から家の中の隙間を埋めるように動くようになった。
それを特別な変化だと思う者はいなかった。
穏やかな一年だった。
だからこそ、その一年が何も起きないまま過ぎたことに、後から意味が生まれることになる。
カイトは、その一年のあいだ、別に何かをはっきり考えていたわけではなかった。
アリシアに起きたことが、自分にも起きるのかどうか。純竜だの非竜だの、そういう言葉の細かい意味はまだよく分からない。母たちが時々口にすることはあっても、難しい顔で話されるそれは、カイトの中ではまだ遠い話だった。
ただ、竜化というものを見た。
角と尾が現れ、身体が変わる。力の気配そのものが人と違うものになる。家族の中の、どこか別の側へ足を踏み入れるような変化。
アリシアにそれが起きたなら、自分にもいつか起きるのかもしれない。
そう、どこかで思っていた。
思っていた、というより、待っていたに近い。
でも、そのことを自分でもよく自覚していなかった。毎日を過ごしながら、なんとなく、次は自分かもしれないと思っていた。それが今日かもしれないし、来月かもしれないし、もっと先かもしれない。そういう曖昧な期待が、ずっと胸のどこかに引っかかっていただけだった。
そして一年が過ぎた。
何も起きなかった。
その事実をまだ痛みと呼ぶほどには、カイトは整理していなかった。
妹のヨルカが竜化したのは、そんな頃だった。
その日は特別な日ではなかった。
家の周りで皆がいつものことをしていて、ヨルカもまた本を抱えて歩いていた。
最初に異変へ気づいたのはヴォルカだった。
「ヨルカ」
呼ばれて、ヨルカが立ち止まる。
次の瞬間、抱えていた本が足元へ落ちた。
小さな身体が強張る。
返事はない。
空気が、わずかに張る。
熱とは違う、澄んだ変化だった。
ヨルカの輪郭が揺れ、髪のあいだから角が現れる。細い尾が、戸惑うように足元で揺れた。
「大丈夫です。怖がらないで」
フローラがすぐに駆け寄り、ヴォルカも距離を詰める。ネムリアも目を見開いたまま、じっと見ていた。
ユキトが気づいて来た時には、もう変化は始まっていた。
「え、ヨルカ?」
「竜化です」
フローラが短く言う。
「まじで?」
「今それ以外にありますか」
ユキトは言い返しかけてやめた。ヨルカが不安そうにこちらを見ていたからだ。
「だ、大丈夫だからな」
とりあえずそう言う。
「母さんたちの言うことを聞いていれば問題ない……はず」
焦っているくせに、落ち着いたふりをしている声だった。
ヨルカの変化はアリシアの時ほど大きくはなかった。
完全な竜形態へ至る前の、濃い竜性が人型へ滲むような形で留まる。けれど角と尾ははっきりしていて、誰が見ても竜化だった。
ヴォルカの顔がほどける。
フローラも深く息を吐き、ネムリアは小さく笑った。
「よるか、すごい」
ヨルカは戸惑いながらも、母たちの顔を見て少しだけ嬉しそうにした。
カイトも、そこにいた。
ちゃんと見ていた。
最初は驚いたし、ヨルカが無事らしいと分かってほっともした。
でも、その安堵のすぐあとで、胸の奥へ別のものが落ちた。
アリシアの時は、まだ思えた。
最初だったから。長女だから。次は自分かもしれない、と。
でも今は違う。
一年待って、自分には何もなく、そのあとが先に竜化した。
その事実が、遅れて身体の内側へ沈んでいく。
ヨルカは悪くない。
そんなことは分かっていた。
それでも、自分だけが何も起きていない、という感覚だけがはっきり残った。
「兄さん?」
不意にヨルカがこちらを見た。まだ角の感触に戸惑っているような顔で、いつものように頼る目をしていた。
カイトは一瞬だけ笑おうとして、うまくできなかった。
「……すごいじゃん」
それだけ言う。
「う、うん……たぶん」
たどたどしい返事に、周りはまた少し和んだ。
カイトもそこに立っていた。立って、祝う側の顔をしていた。
でもその時にはもう、自分だけが何も起きていないという感覚が、身体の内側にべったり張りついていた。
それから家の空気は、目に見えるほど変わったわけではない。
母たちはカイトを責めなかった。変に腫れ物のようにも扱わないようにしていた。むしろ自然に、普通に接しようとしていた。
それが余計にきつかった。
幾日か過ぎてもそれは変わらなかった。
少し返事が短いだけでフローラの視線が一瞬止まる。ヴォルカは強く言いすぎないよう気をつけているのが分かる。ネムリアはいつも通りに近いまま、時々妙に近くに座る。
優しい。
優しいのに、それが全部「気を遣われている」に見えた。
ヨルカは相変わらず無邪気だった。新しく生えた角の感触を気にしたり、尾の動きにびっくりしたりしながら、それでも兄に話しかけてくる。以前と同じように、何かあればカイトのそばへ来る。
それも苦しかった。
ヨルカに当たりたいわけじゃない。むしろ当たりたくない。悪いのはヨルカじゃないからだ。
だから余計に、行き場がなかった。
アリシアは何も言わなかった。ただ、以前よりもさらに自然にカイトを見るようになった。何かを聞くでもなく、慰めるでもなく、ただ黙って、少しだけ気にしている気配だけがある。
ユキトは、半分しか分かっていなかった。
空気が妙に重いことは察した。カイトの機嫌が悪いことも分かった。けれど、その奥にあるものの形までは掴めていない。
ある晩、子どもたちが寝静まったあとで、ユキトは母たちに聞いた。
「そんなに重い話か、これ」
問いとしては雑だった。フローラが少しだけ目を細める。
「重いですよ」
静かに返す。
「いや、そりゃ、なんとなく分かるけど。そこまでか?」
ヴォルカはすぐに言葉を出せなかった。
代わりにフローラが、以前三人で話したことを静かに言い直す。
純竜か非竜かで変わるのは、力だけではない。
成長の速さも、老い方も、生きる時間そのものも変わる。
子どもだけ先に老いていくかもしれないことを、三人はずっと怖がっていた。
愛しているからこそ期待してしまい、そんな自分を嫌い、諦めようとしても諦めきれなかった。
ネムリアが膝を抱えたまま、小さく言う。
「のこされるの、こわい」
それが、いちばん本音だった。
その短い一言が、いちばん重かった。
ユキトは黙った。
そこまでだったのか、とようやく理解したような顔をしていた。知識としてではなく、家族の中の現実として受け取ったのは初めてだった。
それでも、少ししてから、まだ確かめるように口を開く。
「……じゃあさ」
フローラが視線を向ける。
「アリシアもヨルカも竜になれたのは分かった」
「でも、今までの育ち方だけ見たら、普通に人間並みだっただろ」
「だったら寿命も結局そっち寄りなんじゃないのか」
フローラは静かに首を振った。
「問題ありません」
はっきりした声だった。
「竜化できれば、寿命は確実に伸びます」
「成長速度と寿命は別です」
「幼い頃の育ち方に差があっても、竜として定着すれば生きる時間は人とずれます」
「老い方そのものも変わります。ある一定の段階を越えれば、老化はほとんど止まります」
ユキトは少しだけ目を瞬かせた。
「……そんなもんか」
「それだけは確かです」
フローラは迷いなく言った。
「少なくとも、アリシアとヨルカについては、そこを心配する必要はもうありません」
ユキトは短く「ああ」と返した。
そこはようやく飲み込めたらしかった。
ただ、それでもやはり、ずれていた。
「でもさ」
とユキトが言う。
「別に、人間でもいいだろ」
三人とも顔を上げた。
「カイトが人間のままでも、別にそれはそれでいいじゃねえか」
「俺だって人間だし」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた。
フローラが小さく息を吐く。
「……そこではないんです」
「いや、分かるよ? 分かるけど、でも」
「分かっていません」
今度はヴォルカが言った。責める調子ではないのに、はっきりしていた。
「少なくとも、あの子にとって今つらいところは、そこではありません」
ユキトは口をつぐんだ。
重さは分かった。
だが、その重さがカイトの今の苛立ちとどう繋がるのかまでは、まだうまく掴めていない顔だった。
それでも、ひとまず理解したつもりで飲み込むしかなかった。
カイトが爆発したのは、些細なことがきっかけだった。
きっかけ自体は本当に些細なことだった。ヨルカが庭で尾の扱いにまだ慣れず、物を引っかけかけた。ユキトが笑いながら「気をつけろよ」と言い、アリシアがすぐ横から支えた。母たちもそこへ視線を向ける。
それだけだ。
ただ、その「みんなでヨルカを見る」空気が、今のカイトにはたまらなくきつかった。
ヨルカは新しく生えた尾を持て余したまま、困ったように振り返った。
「姉さん、これ邪魔……」
その声はいつも通りだった。
助けを求める、甘えた響きだった。
「すぐ慣れる」
アリシアが支えながら言った。
「そっか……」
ヨルカは少し安心したように尾を見た。
ヴォルカはそんな娘を見て口元をやわらかくし、フローラもようやく息を抜いた。ネムリアも珍しく機嫌のいい目をしている。
その輪の外に、カイトは立っていた。
誰も自分を無視しているわけじゃない。
でも今、この場の中心が自分ではないことは分かる。
ヨルカはもう、そっち側なんだと思った。
アリシアがそうだったように、角と尾が現れて、母たちが安堵する側へ入っていく。
自分だけが、そこに届いていない。
アリシアが竜化してから一年。
その間、自分には何もなかった。次は自分かもしれないと、口にも出さず待っていた。
それなのに、いくら待っても来なかった。
「よかったですね」
フローラの小さな声が、今のカイトには遠かった。
何も間違っていない。
ヨルカは無事で、母たちは嬉しい。
それでも、自分の中だけが置いていかれる。
気づいた時には、もう口から出ていた。
「よかったな」
全員が振り返った。
カイトは自分でも、ひどい声だと思った。
祝いの言葉みたいな形をしているのに、少しも祝えていない。
ヨルカが角のあたりに触れたまま、戸惑った顔でこちらを見る。
「兄さん……?」
その声はいつも通りだった。
頼るようで、少し不安で、何も悪くない声だった。
だから余計に、カイトの胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
「姉さんも分かって、ヨルカも分かって」
止めたかった。
でも止まらなかった。
「俺だけ、何も分かんねえままかよ」
空気が固まった。
ヨルカの手が、角の根元で止まる。
さっきまで戸惑いながらも少し嬉しそうだった顔が、はっきり強張った。
細い尾が、身体の後ろへ逃げるように動く。
それを見た瞬間、カイトもまずいと思った。
違う。
ヨルカが悪いと言いたいわけじゃない。
責めたいわけでもない。
そんなことは、自分でも分かっている。
けれど、言葉はもう出てしまっていた。
ヴォルカが何か言おうとした。
その前に、ユキトの声が落ちた。
「カイト、やめろ」
低い声だった。
「ヨルカに八つ当たりすんな」
その一言で、カイトの中の熱が一瞬止まった。
「……違う」
すぐに言った。
でも、その先がうまく出てこない。
違う。
ヨルカに当たりたいわけじゃない。
ヨルカが竜化したことを責めたいわけでもない。
むしろ無事でよかったと思っている。
でも。
一年だ。
アリシアが竜になってから、一年。
次は自分かもしれないと思っていた。
何も起きないまま時間だけが過ぎた。
そのあとに、ヨルカが先だった。
その全部を、どう言えばいいのか分からなかった。
「違うなら、その言い方やめろ」
ユキトは続けた。
「ヨルカが悪いわけじゃねえだろ」
「分かってる」
「だったら、そこで止めろ」
その言い方が、余計に刺さった。
分かっているから止めようとしていた。
分かっているから、ずっと黙っていた。
分かっているのに、もう限界だった。
それを、父は見なかった。
「俺だけ何も起きてないんだぞ」
カイトの声が震える。
「一年だぞ」
「ずっと、次は自分かもしれないって思ってて」
「でも何もなくて」
「そのあとヨルカが先で」
「何なんだよ、これ」
ユキトは口を開きかけた。
母たちは黙っている。
ヨルカは怯えたまま動けない。
ユキトは、それを見た。
見てから、カイトへ視線を戻す。
「人間でもいいだろ」
カイトは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「竜にならなくたって、お前が変わるわけじゃねえ」
「俺だって人間だし」
その瞬間、カイトの顔から熱が引いた。
怒りが消えたわけじゃない。
もっと冷たいものに変わった。
「……そこじゃねえよ」
低い声だった。
ユキトが眉を寄せる。
「何がだよ」
「そこまで聞いて、それかよ」
カイトはユキトを見た。
「人間でもいいとか、悪いとか」
「そういう話じゃねえだろ」
「じゃあ何だよ」
「何も起きないかもしれないのが怖いって話だろ」
「姉さんもヨルカもそっち側に行って」
「俺だけ人間なのか竜なのかそれすら分かんねえままなのがきついって話だろ」
「なのに、何でそこで勝手に終わらせるんだよ」
ユキトの顔から、少しずつ迷いが消えていく。
代わりに出てきたのは、場を収める顔だった。
カイトはそれを見て、嫌な予感がした。
「もういい」
ユキトが言った。
「今日は終わりだ」
空気が、さらに固くなる。
「ヨルカの前でする話じゃねえ」
「それ以上言うな」
「落ち着いてからにしろ」
正しいような言葉だった。
ヨルカは悪くない。
この場で続ければ、もっと傷つけるかもしれない。
それはカイトにも分かっていた。
でも、今のカイトには、それが全部こう聞こえた。
お前は妹に八つ当たりした。
お前の話は今聞けない。
お前が落ち着くまで、その痛みには触れない。
「……勝手に終わらせんなよ」
声が掠れた。
ユキトは動かなかった。
「終わりだ」
そこで、何かが完全に切れた。
もう何を言っても無駄だと分かったからだ。
分かってほしかった相手が、最後まで聞く気がないと分かったからだ。
カイトは何も言わず、その場を離れた。
誰かが名前を呼んだ気がした。
振り返らなかった。
家の裏手を抜け、坂を下り、浜辺まで来て、ようやく足を止める。
途中から、後ろに足音がついてきているのは分かっていた。
追ってきているのが誰かも、たぶん分かっていた。
それでも振り向く気にはなれなかった。
足音がしても、カイトは振り返らなかった。
追い返す気力もなかった。
放っておいてほしい気持ちはまだあったのに、隣に来たのがアリシアだと分かった瞬間、それを口にするのも少し面倒になった。
波の音が寄せて、引く。
頭の中では、まださっきの声が鳴っていた。
――人間でもいいだろ。
――今日は終わりだ。
――それ以上言うな。
胸の奥に残っていたものを吐き出すみたいに、カイトは言った。
「……最悪なんだけど」
少し間があってから、アリシアが答えた。
「うん」
それだけだった。
慰めるでもない。
軽く流すでもない。
ただ、その一言だけが返ってきた。
「最悪だね」
カイトは海を見たまま、短く息を吐いた。
「父さんが間違ってたって言いたいわけじゃないんだよ」
そう言ってから、自分で少し嫌になった。
間違っていない。
たぶん、そこが一番腹立たしい。
「ヨルカは悪くない」
「あの場で俺があのまま言い続けたら、ヨルカがもっと傷ついた」
「だから止めたのは分かる」
「父さんがヨルカを庇ったのも分かる」
カイトは砂を握った。
指のあいだから、細かい粒がこぼれていく。
「でもさ」
「分かるからって、俺の話が途中だったのに勝手に切ることないだろ」
アリシアは黙って聞いていた。
「俺、まだ言えてなかった」
「ヨルカが嫌だとか、そういう話じゃなくて」
「姉さんも竜化して、ヨルカも竜化して」
「一年待って、俺だけ何もなくて」
「それがきついって、まだそこまでしか言えてなかった」
波が寄せて、引く。
「なのに、終わりにされた」
「ヨルカの前でする話じゃないって、それは分かる」
「それ以上言うなって、それも分かる」
「分かるけど」
声が少し掠れた。
「じゃあ俺のこれは、どこに置けばよかったんだよ」
アリシアはすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落として、それから静かに言った。
「そこが嫌だったんだね」
カイトは横目で姉を見る。
「ヨルカを庇ったことじゃなくて」
「うん」
「父さんが正しかったことでもなくて」
アリシアは小さく頷いた。
「正しい理由で、途中のまま切られたことが嫌だったんだね」
その言葉で、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ形を持った。
「ああ」
カイトは低く言った。
「それ」
やっと言えた気がした。
「父さん、たぶん分かってない」
「ヨルカを守ったんだから、それでいいだろって思ってる」
「俺も、そう言われたら反論できない」
「実際、ヨルカは悪くないし、あそこで続けたら俺が悪かった」
自嘲みたいに笑う。
「だから最悪なんだよ」
「俺が悪い形になってる」
「でも、痛かったのは本当なんだよ」
アリシアは海を見たまま、静かに息を吐いた。
「分かるよ」
今度の声は、少しだけ低かった。
「そういうの、いちばん言いづらいから」
「姉さんも?」
「うん」
アリシアは膝の上で指を重ねた。
「母さんたちは、ずっと優しかった」
「私のことを大事にしてくれてた」
「それは本当だった」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、何かを待たれてるのも分かった」
「私そのものじゃなくて、私がどちらになるのかを見られてる感じがした」
「それが痛かった」
カイトは黙った。
「でも言えなかった」
「だって、母さんたちは悪くなかったから」
「悪意なんてなかったし、ちゃんと愛してくれてた」
「言ったら、私が悪い子みたいになる気がした」
その言い方が妙に生々しくて、カイトは息を呑んだ。
誰かが悪いなら、まだ怒れる。
責められる。
泣ける。
でも、悪くない相手に傷つけられた時、痛みの置き場所がなくなる。
「……そういうことか」
カイトは呟いた。
「俺、父さんが嫌だったんじゃなくて」
「いや、嫌だったけど」
「でも、父さんが正しかったせいで、俺の方が悪いみたいになったのが嫌だったのか」
アリシアはほんの少しだけ笑った。
「父さんは、そういうところがあるよ」
「どういうところ」
「正しい場所に立つのは、うまい」
「でも、そこに立つと、残されたものが見えなくなる時がある」
カイトは顔をしかめた。
「……嫌な言い方するな」
「事実でしょ」
「まあ、そうだけど」
少しだけ、息が抜けた。
アリシアは続けた。
「父さんはヨルカを守った」
「それは間違ってない」
「でも、カイトの話を遮ったことも事実」
「どっちかだけにしなくていいと思う」
カイトは黙って海を見た。
どっちかだけにしなくていい。
ヨルカは悪くない。
父は間違っていない。
でも、自分が傷ついたことも嘘じゃない。
その全部を、初めて同じ場所に置けた気がした。
しばらくして、カイトはぽつりと言った。
「姉さんは、いつもそんなふうに分けて考えてたのか」
「いつもじゃないよ」
アリシアは静かに答える。
「できない時もある」
「でも、できないままだと、自分の方がおかしいみたいになるから」
その言葉は、妙にすんなり胸に入ってきた。
自分の方がおかしいみたいになる。
カイトは、さっきまでまさにそうだった。
ヨルカを傷つけかけた自分が悪い。
父はそれを止めた。
なら、この痛みは間違っているのか。
そう思いかけていた。
でも、違うのだとアリシアは言った。
間違っているわけじゃない。
ただ、置き場所がなかっただけだと。
「……姉さんも、そうだったのか」
「うん」
「言わなかったの」
「私はね、言えなかったの」
アリシアは少しだけ笑った。
「言ったら、母さんたちが困るの分かってたから」
その言い方が妙に生々しくて、カイトは息を呑んだ。
分かる、と思った。
困ることが見えるから言えない。
言ったところで、傷つけたくない相手を傷つけるだけな気がして飲み込む。
そのまま自分の中で抱える。
父に途中で切られたこととは別なのに、根のところで同じ痛みだった。
「そっか」
それしか言えなかった。
アリシアは小さく頷いた。
「だから今日、分かった」
「父さんに途中で切られて、嫌だったの」
「言いたいことがまだあるのに、勝手に終わったことにされる痛み」
「私も嫌い」
カイトはしばらく黙ったまま、隣にいる姉を見ていた。
分かってくれる、というより。
同じところに傷があるのだと、初めて見えた気がした。
父の嫌なところを言い当てるからじゃない。
慰め方がうまいからでもない。
この人も、自分と同じように、ちゃんと大事にされながら、ちゃんと痛かったのだと知った。
そのことが、妙に胸に残った。
「……姉さん」
カイトが言う。
「よくそんな、普通の顔でいられるな」
アリシアはほんの少しだけ笑った。
「普通の顔してた方が楽だから」
「父さんみたいなこと言うなよ」
「父さんほど酷くないよ」
その返しで、カイトは少しだけ笑った。
たいした笑いじゃない。
でも、今日初めてまともに息が抜けた気がした。
アリシアはその気配に気づいたらしかった。
何も急がず、少しだけ声の温度をやわらかくする。
「今日は、もう終わったことにしなくていいよ」
カイトは顔を上げた。
アリシアはようやく、まっすぐこちらを見た。
「父さんが切っても、ここではまだ終わってない」
「言いたいなら、言えばいい」
「私は切らないから」
その言葉が、思っていたより深く落ちた。
言い返すでもなく、うまく返すでもなく、カイトはただ黙った。
黙ったまま、胸の奥に残っていたものが少しずつほどけていくのを感じていた。
父に切られた言葉を、姉は切らない。
家の中で言えなかったものを、アリシアも抱えてきたから。
愛されながら痛むことを、知っているから。
だからこの人は、自分が今どこで詰まっているのか分かるのだ。
それが救いだった。
そして同時に、少しだけ怖かった。
こんなふうに分かってくれる相手を、自分はたぶん簡単に手放せなくなる。
「……ほんと最悪」
もう一度カイトが言う。
「うん」
アリシアが頷く。
「最悪だね」
また少しだけ笑う。
その笑いは、父を嫌うためのものというより、同じものを嫌だと思えることへの安堵に近かった。
カイトはその時、初めて思った。
姉は分かってくれる。
何が正しいかじゃなく、何が嫌だったかを、そのまま分かってくれる。
それが、思ったよりずっと救いだった。
そしてアリシアもまた、隣で別のものを受け取っていたように見えた。
カイトの肩から、少しずつ力が抜けていく。
張りつめていたものが、言葉にしたぶんだけほどけていく。
アリシアはそれを黙って見ていた。
その目が、一度も逸れなかった。
やっと見つけた、と思っているように見えた。
自分が嫌だったところを、言いすぎだとも、考えすぎだとも言わずに受け取ってくれる相手。
父に途中で切られた痛みを、痛みのまま分かってくれる相手。
そんなものを、アリシアもまた手放したくないと思っている。
なぜか、カイトにはそう見えた。
本当のところは分からない。
でも少なくとも今、アリシアの優しさはただの慰めには見えなかった。
同じ傷の形を知っている相手に向ける、静かで強い手つきだった。
波が寄せて、引く。
アリシアは何も言わず、隣にいた。
カイトも何も言わなかった。
それでも、もうさっきまでの一人きりの苦しさではなかった。
同じ場所を痛いと思う相手が、ここにいる。
その事実だけで、今日の海は少しだけ違って見えた。




