67.女の子だった。
結婚からしばらく時が過ぎたころだった。
シロネコ島の暮らしは、もうとっくに「ただ住めるかどうか」を試す段階を越えていた。
火山の熱と灰に振り回され、足場の悪い土地に小さく生活圏を作っていた頃とは違う。山肌に残っていた不安定さはかなり落ち着き、湧水の流れも安定し、家の周りには人が暮らすための地面がはっきりと根づき始めていた。灰に覆われていた場所にも少しずつ土が戻り、菜園は広がり、フローラが試しに植えた木々は細いながらも枝を伸ばしている。
家もまた、もう仮のものではなかった。
石造りの広い家。
きちんとした屋根があり、温泉があり、水が使える。
風の抜け方も、日当たりも、洗濯物を干す場所も、四人の手で少しずつ整えられていた。
そして、ネムリアが待ち望んでいた猫小屋も、拡張に拡張を重ねた結果、今では大人一人が暮らせるほど立派なものになっている。あいかわらず猫は見つからなかったが。
玄関前には花壇が作られ始め、庭から先の斜面まで含めれば、これから畑を増やす余地もある。将来的にはヤギやうさぎも飼えるかもしれないと、そんな話まで現実味を帯びていた。
そこはもう、野営の延長ではなかった。
四人が朝に起き、食べ、働き、夜に帰って眠る場所として、完全に定着していた。
その日、ユキトは裏庭で土を見ていた。
屈んで、指先で土をほぐす。少し前までざらついていた感触が、今はだいぶ柔らかい。
「いけそうだな」
独り言のように言うと、背後からフローラの声がした。
「何がですか?」
振り返ると、白い衣の裾を揺らしながらフローラが歩いてくる。陽の光を受けた淡いピンク色の髪がやわらかくきらめき、その表情も穏やかだった。
ユキトは立ち上がって、土のついた手を軽く払った。
「いや、このへん。もうちょい根の張るやつもいけるかなって」
「また増やすつもりなんですか?」
「増やせるなら増やすだろ。どうせ食うし」
言いながら、ユキトはフローラの顔を見た。
見て、少しだけ首をかしげる。
「どうした?」
フローラはすぐには答えなかった。
ほんの少し、困ったように目を伏せる。けれど次の瞬間には、どこか照れたような微笑みが浮かんでいた。
「……一つ、報告があります」
「ん?」
「たぶん、ですが」
そこまで言ってから、フローラは一度、静かに息を吸った。
「子どもができました」
数秒、風の音だけが聞こえた。
ユキトは瞬きをした。
それから意味を理解した顔になり、次の瞬間には、あからさまに固まった。
「は?」
「ですから」
「いや待て、ちょっと待て」
待てと言いながら、自分で一歩詰める。
フローラがわずかに身を引く。
ユキトは焦点の合っていない目で腹のあたりを見た。
「え、ほんとに?」
「たぶん、と言いましたが、ほぼ間違いありません」
「えっ」
間の抜けた声だった。
次に出たのは、もっとひどい声だった。
「まじで!?」
その声に、家の中からヴォルカが顔を出した。
「何かあったんですか」
ついで、縁側の陰からネムリアもぬっと現れる。眠たげな顔のまま、しかし珍しく目はちゃんと開いていた。
「……ねこいた?」
ユキトは二人の方を振り返り、何をどう言えばいいのか分からない顔をしたあと、結局そのまま言った。
「子どもできたって」
沈黙。
最初に動いたのはヴォルカだった。
赤い目が少し見開かれ、次いで、その顔がやわらいだ。
「……本当ですか」
「はい」
フローラが頷く。
ネムリアは数秒じっとフローラを見ていたが、やがて、こくりと頷いた。
「ほんとだ」
「いる」
その言い方が妙に実感を伴っていて、ユキトはまたフローラを見た。見て、ようやく顔が崩れる。
「……うそだろ」
「うそではありません」
「いやでも、え、まじか……」
言葉が追いついていない。
追いついていないくせに、顔だけがどんどん緩んでいく。
「まじか……子ども……」
その呆然とした喜び方に、フローラが少し笑う。
ヴォルカも口元を緩め、ネムリアも眠そうな顔のまま、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。
この家に、新しい命が来る。
その事実は、誰にとってもまっすぐに嬉しかった。
ユキトはしばらく黙っていたが、次の瞬間には急に現実へ戻ってきたような顔をした。
「いや待て、何したらいい。重いもん持つな。畑の方も減らす。坂も危ないな。風呂は滑るし――」
「落ち着いてください」
「落ち着けるか」
「まだ今すぐどうこうという話ではありません」
「でも今から考えるべきだろこういうのは!」
完全に頭がそっちへ飛んでいる。
フローラは困ったように笑い、ヴォルカは「そうですね」と真面目に頷きかけ、ネムリアは「はやい」と小さく言った。
四人の間に笑いが広がる。
けれど、その幸福のすぐ下に、三人だけが知っている別の現実があった。
竜と多種族のあいだに生まれる子は、どう育つか分からない。
純竜として育つこともあれば、竜の血を持っていても竜化できない非竜として育つこともある。
しかも違うのは力だけではない。胎性期間も、成長速度も、老い方も、生きる時間そのものが変わってくる。
母体の中での育ち方を見れば、ある程度の予想はつく。
純竜なら、人の常識を大きく外れるほど胎性期間が長い。
十か月ほどで生まれるなら、知識の上では非竜である可能性が高い。
それを、フローラも、ヴォルカも、ネムリアも知っていた。
だからこそ、その日の夜。
ユキトが寝たあと、灯りを小さく落とした部屋で、三人は言葉少なに座っていた。
最初に口を開いたのはヴォルカだった。
「……育ち方、早いですよね」
フローラは頷いた。
「ええ」
ネムリアが膝を抱えて呟く。
「じゅんりゅう、だと」
「もっと、ながい」
「はい」
短い返答だった。
それだけで、部屋の空気は静かに重くなる。
やがてヴォルカは、低く息を吐いた。
「……嫌です」
ひどく小さな声だった。
けれど、小さいからこそ本音だった。
「ちゃんと生まれてきてくれれば、それでいいはずなんです」
「それだけで、十分なはずなんです」
「そう思いたいんです、本当に」
握った手に力が入る。
「なのに、違うことを考えてる」
ネムリアがぽつりと落とす。
「じかん」
ヴォルカの肩が、わずかに震える。
「いっしょじゃ、なくなる」
それだけで十分だった。
ヴォルカは逃げるみたいに苦く笑った。
「はい。そこです」
そしてようやく、自分の本音を認める。
「置いていかれるのが、怖いんです」
その一言のあと、部屋がしんと静まった。
「自分たちだけが同じ顔のままで」
「その子だけ先に大きくなって」
「その子だけ先に老いて」
「気づいたら、見送る側になってるかもしれない」
息が少し乱れる。
「そんなの、嫌なんです」
はっきりした声だった。
綺麗に言おうとしなかった分だけ、生っぽかった。
「自分の子なのに」
「愛してるからこそ、ちゃんと受け止めなきゃいけないのに」
「それでも、自分たちと同じ側にいてほしいって思ってしまう」
最後の方は、ほとんど懺悔だった。
「最低ですよね」
ネムリアが、小さく言う。
「わたしも」
「おいてくの、やだ」
「おいてかれるのも、やだ」
「かぞくなのに、ひとりだけ、はやいの」
「や」
フローラが静かに息を吐いた。
「ええ」
「私も同じです」
その声は穏やかだった。
けれど穏やかなぶんだけ、誤魔化しがなかった。
「期待すべきではないと分かっています」
「そう願うのは、親の勝手だとも」
「けれど、分かっていることと、止まることは別です」
「止まりませんよね」
とヴォルカが言う。
「ええ。止まりません」
その肯定で、ヴォルカは少しだけ顔を歪めた。
否定される方が、まだ楽だったのかもしれない。
フローラは静かに目を伏せる。
「それが、私たちの恥ずかしい本音なのでしょうね」
ネムリアがこくりと頷く。
「きれいじゃない」
「ええ。まったく」
三人とも、もう知ってしまったからだ。
できれば自分たちと同じ時間を生きてほしい。
できれば、自分たちより早く老いてほしくない。
そんな願いを、綺麗事だけでは消せないことを。
その一方で、ユキトは本当にそこを見ていなかった。
妊娠が分かってからのユキトは、分かりやすく浮かれていた。
露骨だった。
最初の数日は、フローラが立ち上がるたびに反応した。重い物を持とうとすれば止め、段差があれば手を出し、少し顔色が変われば「休め」と言う。本人は大真面目だったが、あまりにも急に過保護になったので、ヴォルカには三日目で「少し落ち着いてください」と言われ、ネムリアには「みすぎ」と指摘された。
それでもやめない。
家の中も見直した。
寝床をどこにするか、風が直接当たらない場所はどこか、日差しが強すぎない場所はどこか。庭のどこなら子どもが転んでも危なくないか、玄関からの導線はどうした方がいいか、風呂場の床は滑らないようにできるか。そんなことを、毎日何かしら考えている。
「気が早いんですよ」
フローラにそう言われても、ユキトは平然としていた。
「遅いよりマシだろ」
「まだ早いです」
「こういうのは早い方がいい」
そう言い切る顔が本気なので、フローラも結局は何も言えなくなる。
出産の日、ユキトは見事に取り乱した。
「俺いま邪魔か?」
「水は?」
「足りる?」
「いや落ち着けって言われても無理だろこれ!」
「落ち着いてください」
フローラが苦しい最中にそれを言わなければならないのがまずおかしい。
ヴォルカは真剣に支え、ネムリアは必要なものを黙々と揃え、それでも部屋の空気は妙に忙しかった。
長い時間のあと、小さな泣き声が部屋に響く。
その瞬間、空気が変わった。
重さがほどける。
張り詰めていたものが一気に緩む。
ユキトは息を止めたまま、それを見ていた。
見て、言葉もなく立ち尽くす。
フローラは深く息を吐き、ようやく安堵の色を浮かべた。
ヴォルカの肩からも力が抜け、ネムリアは小さく、「うまれた」と呟いた。
女の子だった。
抱かれたその子は、小さくて、あたたかくて、まだ何も知らない顔で泣いていた。
ユキトは恐る恐る、その子を覗き込む。
「……ちっさ」
第一声がそれだった。
ヴォルカが少しだけ呆れたような顔をしたが、フローラは笑った。
「当たり前です」
「いや、わかってるけど」
「……すげえな」
ユキトは、まるで信じられないものを見るような顔をしていた。
その顔には曇りがない。
ただ、嬉しい。
ただ、それだけが乗っている。
「アリシア」
フローラが静かにその名を口にした。
その音が部屋に落ちる。
ヴォルカが繰り返し、ネムリアも小さく真似をした。
「アリシア」
名前を与えられたその子は、まだ何も知らずに、ただ泣いていた。
その泣き声が、この家に新しい形を作る。
四人だけだった場所が、五人の場所になる。
そのときだけは、誰も何も考えなかった。
純竜か、非竜か。
どんな時間を生きるのか。
そんなことは全部後ろへ下がる。
ただ、愛しい。
ただ、来てくれて嬉しい。
アリシアは、そうして生まれた。
最初から、ちゃんと望まれて。
最初から、ちゃんと愛されて。
島は少しずつ、目に見えて変わっていった。
最初はただ生きるために整えた場所が、やがて暮らしを増やすための場所になっていく。
菜園は広がり、フローラの花壇は花だけではなく、実のなる木を試す場所にもなった。土の戻り具合を見ながら植えるものを変え、うまく根づいたものは翌年には少しだけ実をつける。ヴォルカは力仕事を引き受け、ネムリアはいつの間にか水回りや日陰の管理に強くなっていた。
やがて、ヤギを飼う話が本当に持ち上がった。
その次にはうさぎも増えた。
食うためだけじゃなく、余った分をアストロ・ベイへ持っていけば、塩や布や細かな道具に換えられるようになった。
家の中にも、生活の積み重ねが増える。
物干しの位置は固定され、庭先には日よけが作られ、玄関脇には泥を落とすための石が並べられた。床の傷も、壁の擦れも、全部この家で生きてきた跡になる。
アリシアは、その家の長女として育った。
まだ小さい頃から、自然と年下のきょうだいたちのそばにいる子だった。
一つ下の弟が危なっかしい方へ行けば先に声をかけ、そのさらに下の妹が転びそうになれば、何も言われる前に手を伸ばす。
母たちが忙しい時には、頼まれなくても近くで見ていた。
背伸びをしているようには見えなかった。
そういう役回りが、はじめからよく似合う子だった。
「お姉ちゃんぶるの早くないか」
ユキトが笑いながら言えば、アリシアは少しむっとして言い返す。
「ぶってない」
「おねえちゃんだもん」
「はいはい」
そう返しながら、ユキトは頭を撫でる。
アリシアは嫌そうな顔をしながら、ほんの少しだけ嬉しそうにする。
幸せな家だった。
海へ出れば魚も貝も取れる。
庭では風が抜け、家へ帰れば灯りがある。
泣いたり笑ったり、喧嘩したり、眠ったりする声がある。
アリシアは、その真ん中で育った。
だからこそ、自分が傷つき始めた時も、最初はそれが何なのか分からなかった。
母たちは優しかった。
抱きしめてくれる。
笑ってくれる。
叱る時だって、ちゃんと見て叱る。
アリシアはそれを知っていた。
知っているのに、ときどき胸の奥が少しだけ冷えることがある。
たとえば、熱を出した時。
フローラは額に手を当て、やさしく言う。
「大丈夫ですよ」
その言い方は本当に優しい。
でも、そのあと少しだけ長く顔を見られる時がある。
たとえば、転んで膝を擦りむいた時。
ヴォルカは傷を洗いながら言う。
「焦らなくていいです」
「大丈夫ですから」
焦ってなんていない。
なのに、そう言われる。
たとえば、眠そうにしている時。
ネムリアが髪を撫でながら言う。
「あなたは、あなた」
「それでいい」
それでいい。
何が。
幼いアリシアには、その違和感をまだ言葉にできない。
でも胸のどこかに引っかかる。
「……なんで、そんな言いかたするの」
誰もいないところで、小さく口にしてみる。
答える人はいない。
ある日、窓辺で本を読んでいたフローラが、ふとアリシアを見た。
その視線が少し長かった。
ただ可愛いから見ている目とは違う。
何かを待っているような、でも待っていないふりをしているような目。
その瞬間、アリシアはよく分からないまま胸がざわついた。
「ちゃんと見てくれてるのに」
「なんか、ちがう」
その違和感は、誰にも言えないまま、少しずつ形を持ち始めていた。
ユキトだけは、違った。
アリシアが少し大きくなるたびに言うことはだいたい同じだ。
「よく食うな」
「またでかくなったな」
「えらいじゃん」
「面倒見いいな、お前」
それだけ。
そこには何かを確かめる色も、待つ気配もない。
ただ、今ここにいるアリシアをそのまま見ている。
転んだなら転んだで笑って起こすし、泣いたなら泣いたで抱き上げる。
できたことは褒めるし、駄目なことは駄目だと言う。
その全部が、妙にまっすぐだった。
ある日、弟のカイトが変なところによじ登ろうとして、アリシアがそれを止めたことがある。
必死で袖を引っ張って、半分喧嘩みたいになった。
最終的にカイトは転び、アリシアも一緒に尻もちをついた。
「なにやってんだお前ら」
呆れた顔で来たユキトは、二人を見て、まずカイトの頭を軽く叩いた。
「姉ちゃんの言うこと聞け」
次にアリシアの方を見て、笑う。
「よく止めたな」
その一言だけだった。
アリシアは、その瞬間だけ妙に胸があたたかくなる。
「お父さんだけ、ちがう」
独りでそう呟いたことがあった。
「お父さんは、ほんとうにわたしを見てる」
嬉しい。
安心する。
でも、そのあとですぐに別の考えが来る。
「じゃあ、お母さんたちは、なにを見てるの」
その問いだけが、胸の奥に残る。
アストロ・ベイへ行った帰り、ユキトが土産だと言って絵本を持ってきたことがあった。
鮮やかな表紙だった。
竜の男の子と、人間の女の子が描かれている。
「ヨルカ向けだな」
そう言って渡すと、まだ幼い妹ヨルカは目をきらきらさせて受け取った。
カイトはその時ちょうど外でヴォルカに連れられていて、家の中にはいなかった。
フローラもネムリアも別の作業で席を外していた。
その場にいたのは、アリシアだけだった。
ヨルカの隣に座って、何となくページを覗き込む。
話は単純だった。
竜と人が出会う。
恋に落ちる。
子どもが生まれる。
その子も立派な竜になる。
めでたしめでたし。
そこで、アリシアの目が止まった。
「……そんなに、かんたんなの」
ヨルカは意味も分からず、絵ばかり見て喜んでいる。
アリシアはもう一度ページを見る。
竜と人の子。
何も迷わず、何も悩まず、当たり前みたいに竜になる子。
「じゃあ、どうして」
小さく呟く。
「どうして、うちはちがうの」
その瞬間、自分の中の違和感がただの違和感ではなくなる。
初めて、問いになった。
母たちは何を見ていたのか。
どうしてあんな言い方をしていたのか。
その答えが、もうすぐ手の届くところにある気がした。
アストロ・ベイは、情報の多い場所だった。
人間も獣人もエルフもドワーフもいる。
言葉が多い。
物が多い。
昔話も、噂話も、商人同士の雑談も、島にはない形でそこらじゅうに落ちている。
アリシアは、もともと耳がいい子だった。
聞くつもりがなくても聞いてしまう。
一度引っかかったことは、そのまま流せない。
最初は絵本の続きだった。
竜と人の子の話。
似たような話を市場の片隅で聞き、本屋の隅で古い話を見つけ、ついでに交易商の雑談も拾った。
断片は、ばらばらだった。
でも、ばらばらのままでも十分だった。
竜と多種族の子には、竜化できるものと、できないものがいること。
純竜と非竜。
見た目の違いだけではなく、成長速度にも差が出ること。
どちらに寄るかで、家族の中で流れる時間そのものが変わること。
アリシアは一つずつ拾い集め、つなげてしまった。
「ああ」
誰もいない路地裏で、ぽつりと声が漏れる。
「そういうことだったんだ」
母たちは、自分を見ていた。
ただの成長ではない。
どちらに寄るのか。
どの時間を生きる存在になるのかを見ていた。
その意味を理解した瞬間、全部がつながる。
「見てたのは、わたしじゃなかった」
胸が少しだけ冷える。
「わたしが、どっちになるかを見てたんだ」
分かってしまったから、もう前みたいには戻れない。
あの優しい言葉の意味も、長く向けられた視線の意味も、全部少しずつ輪郭を持ち始める。
アリシアはその日、港からの帰り道でずっと黙っていた。
ユキトが「どうした」と聞いても、「なんでもない」としか言えなかった。
本当は、なんでもなくなかった。
でもまだ、この痛みに名前をつけるには幼すぎた。
それを聞いたのは、しばらく経った後の夜だった。
別に盗み聞きをするつもりはなかった。
寝る前に水を取りに行っただけだ。
廊下の角を曲がった先で、居間から声がした。
母たちの声だった。
灯りは小さく、床に落ちる影が揺れている。
アリシアは足を止めた。
最初に聞こえたのはヴォルカの声だった。
「もう、考えないようにしていたんです」
フローラが静かに言う。
「生まれたら消えると思っていました」
「この子はこの子で、こんなに大事なのに」
小さく、ネムリアの声。
「でも、きえない」
「まだ、どこかで待ってしまう」
待ってしまう。
何を。
答えは、もう聞かなくても分かった。
自分が純竜になること。
自分が、母たちと同じ側の時間を生きること。
その可能性。
アリシアはその場で泣かなかった。
泣けなかった。
足の裏だけが冷たくなっていく。
心臓が変な音で鳴る。
「まだ、終わってなかったんだ」
自分の口から、かすれた声が漏れた。
「わたしじゃ、だめなのかもしれない」
次の瞬間、息が苦しくなった。
この子は大事。
こんなに大事。
母たちは確かにそう言っていた。
なのに、それと一緒に、まだ何かを望んでいた。
今の自分には届かないかもしれない何かを。
アリシアは静かにその場を離れた。
足音を立てないように、息を殺して。
廊下を抜けて、家の裏へ出る。
夜気がひやりと頬に触れたところで、ようやく膝から力が抜けた。
物陰にしゃがみこむ。
そこで初めて、涙が落ちた。
声は出さない。
出したくなかった。
誰にも聞かれたくない。
愛されているのに、こんなことで泣いているなんて知られたくなかった。
でも、止まらなかった。
「だいじにされてるのに」
「なんで、こんなにいたいの」
嗚咽を押し殺しながら、そう呟く。
母たちが最初に夢見ていた何かに、自分は届かないかもしれない。
そのことが、ひどく痛かった。
その夜、アリシアは誰にも気づかれないうちに泣きやんで、何もなかった顔で寝床に戻った。
誰にも言わないまま。
言えないまま。
その傷だけを、心の奥に置いて。
時間は残酷なくらい静かに流れた。
アリシアが十を越え、十一になり、十二に近づくころ。
家の中の空気が少しずつ変わっていくのを、本人だけがはっきり感じ取っていた。
母たちの目から、待つような緊張が薄れていく。
前ほど長く見られなくなった。
何かを確かめるような沈黙も減った。
代わりに、もっと柔らかく、もっと丁寧になった。
それは優しさだった。
もう望むことを終わらせよう。
この子はこの子として、ただ愛そう。
たぶん母たちは、そう決めていったのだろう。
誰にも言わず、自分たちの中で静かに整理していったのだろう。
アリシアは最初、その変化に少しだけほっとした。
「もう見られなくてすむ」
独りでそう呟いたことがある。
ずっと何かを待たれるような感覚が薄れる。
それは確かに、少し楽だった。
でも、そのすぐあとで、別の痛みが来た。
「……ちがう」
その言葉が、自分の中から出てくる。
「もう、待たれてないんだ」
それが分かった瞬間、胸の奥がずきりとした。
母たちは失望したわけじゃない。
自分を嫌いになったわけでもない。
むしろ逆だ。ただ愛そうとしてくれている。
でも、その優しさは、同時に何かの終わりでもあった。
私はいらない子じゃない。
でも、母たちが最初に夢見た形ではないのかもしれない。
その考えは、まだ幼いアリシアには重すぎた。
それでもアリシアは、よくできた子だった。
母たちが忙しい日、カイトとヨルカを海へ連れていくのは自然とアリシアの役目になる。
別に誰かに頼まれたわけじゃない。
でも、気づけばそうしていた。
海へ行く日もそうだった。
その日、母たちは仕事で山の中腹にいた。
アリシアが一つ下の弟と、そのさらに下の妹を連れて海へ出ていた。
波は穏やかで、空は高かった。
弟は少し先の岩場を見たがり、妹は足元の貝殻に夢中になっている。
「そこより先はだめ」
とアリシアは弟に声をかける。
「波が返ってきたら足を取られるから」
「分かってるよ」
「分かってないから言ってるの」
妹が小さな貝殻を持ち上げる。
「これ、きれい」
「うん、きれい」
「でもそろそろ日が強いから、少し休もう」
二人が浜で一息つき、ようやく少しだけ静かな時間ができた時だった。
胸の奥が、急に熱を持った。
最初は息が詰まるような感覚だった。
次に骨が軋む。
視界が揺れ、身体の内側を何か大きなものが通り抜ける。
何これ。
思った瞬間には、もう変わり始めていた。
手足の感覚が伸びる。
背が持ち上がる。
肩の奥から重い熱が広がり、息を吸うたび胸の中が鳴る。
次の瞬間、アリシアは白い竜になっていた。
白い鱗。
大きな身体。
浜が急に小さく見える。
最初に来たのは驚きだった。
その次に、信じられないほど強い喜び。
でもすぐに焦りが押し寄せた。
動き方が分からない。
急に大きくなった身体の重さも分からない。
尾の位置も、爪の長さも、全部が自分のものなのにうまく掴めない。
下手に動けば弟たちが危ない。
アリシアは必死にその場で止まった。
動かない。
今は動かない方がいい。
分からないなら、待つ。
弟が息を呑んだ。
「……姉ちゃん?」
妹は言葉も出ないまま固まっている。
「母さんたち呼ぶ」
と弟がすぐに言った。
「ヨルカ、行くぞ」
妹は何度も頷き、二人は慌てて走っていく。
アリシアはその場で待った。
嬉しい。
怖い。
苦しい。
熱い。
でもそれ以上に、胸の奥に長く沈んでいた何かが、ようやく動き出した感覚があった。
しばらくして、母たちが来た。
人の姿のまま、急いで、けれど焦らせすぎないように近づいてくる。
「アリシア」
とフローラが静かに呼ぶ。
「そのままで大丈夫です」
「動かなくていいですよ」
ヴォルカも息を整えながら言う。
「大丈夫です」
「その判断で合ってます」
「そのまま、いてください」
ネムリアが小さく手を振る。
「うごかなくて、えらい」
その声を聞きながら、アリシアは横目で三人の顔を見た。
そこにあったのは、はっきりした安堵だった。
ほどけたような喜びだった。
長くしまい込んでいたものが、ようやく救われたみたいな顔だった。
その表情を見た瞬間、アリシアの胸の奥にあった重さが少しだけほどけた。
ああ。
私は、届かなかったわけじゃなかったんだ。
ずっと痛かった。
愛されていることは分かっていた。
けれど、それとは別のところで、自分は少しだけ足りないのではないかと思っていた。
母たちの胸の奥にあるものへ、届かないのではないかと。
でも、違った。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
しばらくして熱が引き始め、時間をかけてアリシアの身体は少しずつ人の姿へ戻っていった。
急に元通りになるわけではなく、熱が抜けるように、輪郭がほどけるように、ゆっくりと戻っていく。
息を整え、ようやく立てるようになった頃。
アリシアは自分の肩に触れ、それから頭へ手をやった。
硬い感触があった。
角だった。
背の下の方では、尾の重が残っている。
完全に戻ったわけではない。
けれど、その残り方が逆にはっきりしていた。
誰が見ても分かる。
曖昧じゃない。
隠れたままじゃない。
純竜の証が、ちゃんとそこにあった。
弟が目を丸くする。
妹が息を呑む。
母たちもそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
その視線が、たまらなく嬉しかった。
もう、もしかしたら違うかもしれない子じゃない。
もう、途中のまま見られる子じゃない。
ちゃんと目に見える形で、そこにある。
アリシアはそっと角に触れた。
尾の感触も、まだ確かにある。
嬉しい。
その感情は、派手に弾けるものではなかった。
もっと静かで、もっと深いところに広がっていく喜びだった。
母たちがようやく届いたものを見る顔。
弟と妹が、すごいものを見るみたいに目を向けてくること。
それら全部が、少しずつアリシアの胸の中へ沈んでいく。
純竜で、嬉しい。
ようやく、そう思えた。
愛されていたことはずっと本当だった。
でも、それだけでは足りなかった幼い自分がいた。
母たちの期待に届かないかもしれないと、ずっと静かに痛んでいた自分がいた。
その痛みが今、少しだけ軽くなる。
やっと、自分に自信が持てる。
それはきっと、完全に綺麗な自信ではない。
自分そのものだけで立てたわけでもない。
それでもこの時のアリシアにとっては、間違いなく救いだった。
潮の匂いのする風が吹く。
髪が揺れ、まだ残る尾の先が小さく動いた。
アリシアはもう一度だけ、自分の角に触れた。
その硬さが嬉しくて、少しだけ笑った。




