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65/92

65.幕間01 一線越えて

夜だった。


家の中は静かだった。

湯浴みも終わり、食器も片づき、ユキトも自室に引っ込んでいる。


そのはずなのに、居間の空気だけが妙に張っていた。


卓の上には、湯気の立つ茶が三つ。

フローラが淹れたものだったが、誰もすぐには口をつけなかった。


最初に口を開いたのはヴォルカだった。


「……私は、少し納得できません」


低いが、はっきりした声だった。


フローラが静かに目を上げる。

ネムリアは毛布を抱えたまま、こくりと頷いた。


「おかしい」

「すごく、おかしい」


ヴォルカは少しだけ視線を伏せ、それでも続けた。


「ユキトさん、見ますよね」


沈黙。

確認するまでもない事実だった。


風呂上がり。

濡れた髪。

薄い寝間着。

胸元。

脚。


そういうものに、あの男の視線はきちんと反応している。

隠すのが上手いわけでもない。むしろ雑だ。


フローラが茶を一口飲んでから言った。


「見ていますね」


「みてる」

ネムリアも即答した。

「すごく、みてる」


ヴォルカの耳が少し赤くなる。


「……しかも、ちゃんと欲情してますよね」


「しています」

フローラは淡々と頷いた。

「分かりやすいほどに」


「なのに」

ヴォルカは少し声を強めた。

「全然来ないんです」


ネムリアが毛布の上で小さく身を乗り出す。


「それ、わかる」


フローラは額に手を当てた。


「見ているだけならまだ分かります。軽薄なのは今さらですし」

「でも、あれだけ反応しておいて何もしないのは意味が分かりません」


ヴォルカは真面目な顔で頷いた。


「正直、からかわれているのかと思いました」


「わたしは」

ネムリアが言う。

「こわいのかと、おもってた」


「怖い?」


「うん。ほしいのに、自分からはとりにこない」

「ちかづきたいのに、ちかづけない」

「見てるだけで、へんなところで止まる」


眠たげな声なのに、妙に本質を突いていた。


フローラが小さく息をつく。


「……あの人らしいと言えば、らしいんですが」


「らしいで済ませていいんでしょうか」

ヴォルカは珍しく食い下がった。

「こちらだって、その……何も思っていないわけではありません」


最後は少し声が小さくなったが、その一言は重かった。


ネムリアが頷く。


「うん」

「いやじゃない」


ヴォルカは赤くなりながらも逃げなかった。


「見られて嫌だと言いたいわけじゃないんです」

「むしろ……ユキトさんに女として見られるのは、嬉しいです」

「でも、だったらちゃんと来てほしいんです」

「こっちばかり意識して、向こうは何もしないのは……落ち着きません」


フローラの口元がわずかに緩んだ。


「あなた、思ったより溜めていましたね」


「フローラさんは違うんですか」


その返しに、フローラは少し黙った。

ネムリアがぼそりと刺す。


「ちがわない」


「……そうですね」

フローラは観念したように答えた。

「違いません」


少し空気がゆるむ。

それからフローラは、いつもの整った口調で言った。


「欲がないわけではない。むしろ俗っぽいくらいある」

「見たいものは見るし、触れたいとも思っている」

「ですが踏み込む段になると、妙に臆病になる」

「多分あの人、自分から求めることで何かが壊れると思っているんでしょうね」


ヴォルカが静かに聞く。


「拒まれるのが怖い、とか?」


「それもあるでしょうし、受け入れられた後の責任が怖いのかもしれません」

「あるいはその両方です」


ネムリアが毛布に顔を半分埋める。


「でも、のぞく」


「そうなんですよ」

フローラの声に、少しだけ棘が混じった。

「そこが腹立たしいんです」


ヴォルカが思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。


フローラは続けた。


「覚悟もないくせに、欲だけはある」

「しかも本人は、あれで隠しているつもりなんです」

「見ていないふり、平気なふり、どうでもいいふり」

「全部雑です」


「ざつ」

ネムリアが頷く。

「すごく、ざつ」


「水着が波にさらわれた時なんて露骨でしたしね」

フローラは冷えた笑みを浮かべた。

「視線を逸らしたと思ったら遅いんです。あれでは見ましたと言っているようなものでしょう」


ヴォルカが困ったように言う。


「でも……少しかわいそうでもあるんです」

「見たいのを我慢しているというか、見てしまって自分で苦しくなっているというか」


「それはそう」

ネムリアがすぐに言った。

「ひとりで勝手に、苦しくなってる」


フローラも頷く。


「ええ。そこは少し分かります」

「分かりますが、それでこちらが待たされる理由にはなりません」


三人の意見は、そこできれいに揃った。


ユキトは欲情している。

それは明らかだ。

問題は、その先に一歩も進んでこないことだった。


女として見ているくせに、責任を取るところまで来ない。

欲しがっているくせに、欲しいと言わない。

視線だけ寄越して、肝心な言葉も行動も出さない。


それは優しさというより、ヘタレの照明だった。


フローラが茶碗を置く。


「一度、きちんと分からせた方がいいでしょうね」


「分からせる……」

ヴォルカが少し緊張した顔になる。


「ええ。見ているのも、欲情しているのもこちらは分かっている」

「そのうえで来ないのは、こちらを無駄に意識させるだけで迷惑だと」


「めいわく」

ネムリアが復唱した。

「だいじ」


「大事です」

フローラは頷いた。

「来るなら来る。来ないなら見せない努力をする」

「最低でもどちらかにしろ、ですね」


ヴォルカは少し悩んでから、おずおずと口を開く。


「……でも」

「もしそれで、本当に来たらどうするんですか」


一瞬だけ空気が止まった。


ネムリアが首をかしげる。

フローラはすぐには答えなかった。

だが、その沈黙だけで十分だった。


ヴォルカは耳まで赤くなっている。

ネムリアは眠そうな顔のまま、少しだけ口元を緩めた。

フローラも涼しい顔を崩さなかったが、頬には薄く熱が差していた。


やがてネムリアが、小さく言う。


「……それは」

「べつに、こまらない」


フローラも静かに続けた。


「そうですね。困りはしません」


その一言で会議の本質がようやく姿を見せた。


不満なのは、嫌だからではない。

望まれていないと思うからでもない。


むしろ逆だった。


見られているのは分かっている。

欲しがられているのも分かっている。

それなのに、ちゃんと求めてこないから腹が立つのだ。


自分たちは拒む気がない。

それどころか、待っている部分すらある。

なのにあの男は、覗いて赤くなって、勝手に苦しんで、それで終わる。


それがたまらなく面倒で、たまらなく惜しかった。


ネムリアがぽつりとまとめた。


「ゆきとは」

「むっつりじゃなくて」

「はんぱ」


フローラが吹き出した。

ヴォルカも耐えきれず笑ってしまう。


「……そうかもしれませんね」

フローラは肩を震わせながら言った。

「欲しいならちゃんと欲しがればいいのに、そこだけ妙に誠実ぶる」

「本当に厄介です」


「でも」

ヴォルカが柔らかい顔で言う。

「来てくれたら、嬉しいんですけどね」


ネムリアがこくりと頷く。


「うれしい」


フローラも静かに目を細めた。


「……ええ」

「そこは否定しません」


その頃、自室のユキトは何も知らず、布団の上でひとり唸っていた。


「いやでもあれは見えるだろ普通……いや見てねえし……見てねえは無理あるか……」

「ていうか近いんだよ全員……」

「つーか俺から行って嫌がられたら終わるし……でもあれで何も思ってないのも失礼じゃねえか……?」


ひとりで悩み、ひとりで赤くなり、ひとりで天井を睨む。


その姿を見れば、三人とも少しだけ呆れて、少しだけ可愛いと思ってしまっただろう。

だから余計に腹が立つのだった。








数日後の夜だった。


同じ卓だった。

同じ茶だった。

同じ三人だった。


だが前回とは空気が違った。


静かではある。

落ち着いてもいる。

けれどその静けさの下にあるものは、前より明らかに熱を帯びていた。


最初に口を開いたのは、またヴォルカだった。


「……やっぱり、少し調子に乗っていませんか」


フローラは黙って茶を口に運んだ。

ネムリアは毛布を抱えたまま、こくりと頷く。


「のってる」


短く、断定だった。


ヴォルカは真面目な顔のまま続ける。


「前はもっと、自信がないというか……近づいては引く感じだったじゃないですか」

「でも今は違います」

「妙に落ち着いているというか……」


「勘違いしていますね」

とフローラが言った。


ヴォルカが勢いよく頷く。


「それです」


ネムリアがぽつりと足した。


「おとなになったと、おもってる」


それだった。


一線を越えた。

関係は変わった。

ちゃんと求めて、ちゃんと受け入れられた。


そこまではいい。

むしろよかった。


問題は、その後だった。


ユキトが、明らかに少し変わった。


目線の置き方。

距離の詰め方。

触れ方。

言葉の端。

態度のゆるみ。


前みたいな臆病さが消えたわけではない。

だが代わりに、

もうここまでは許されている、という変な確信が生まれている。


その変さが、今まさに議題だった。


フローラが茶碗を置く。


「私は今朝ではっきり確信しました」

「髪を結っていた時、後ろを通るついでの顔で腰に手を回してきました」


ヴォルカの目が丸くなる。

ネムリアは「うん」と頷いた。


「やる」


「しかも」

フローラは続けた。

「こちらを見て確認する感じではなく、自然なことのようにやるんです」

「まるで前からそうだったみたいな顔で」


ヴォルカも困ったように言う。


「……分かります」

「私も昼に、物を取ろうとしたら横から手を伸ばしてきて、そのまま少し肩を抱かれて……」

「前なら絶対もっと様子を見てました」

「なのに今は、すごく自然な顔をするんです」

「自然じゃないのに」


「自然じゃない」

ネムリアも同意した。

「まだ、ぜんぜん」


フローラが小さく息をつく。


「多少触れ方が変わるのは、関係が進んだ以上、自然ではあります」

「問題は、その顔です」


ヴォルカが神妙に頷く。


「……はい」


「かおが、へん」

ネムリアが言った。


三人の認識は、またきれいに一致していた。


ユキトは今、妙に満ち足りた顔をする時がある。


幸福そうな顔とも少し違う。

安心とも違う。

男としての自信、と本人は思っていそうな、微妙に腹の立つ顔だった。


ヴォルカがためらいがちに言う。


「なんというか……“もう分かってる”みたいな顔をしませんか」


「しますね」

フローラは即答した。


「する」

ネムリアも即答だった。


フローラは表情を崩さず続ける。


「こちらが少し近づいても、前ほど慌てない」

「触れた時の反応も、“前みたいにおどおどしない俺”をやっている」

「しかも多分、本人はそれを格好いいと思っています」


ヴォルカが思わず顔を覆う。


「うわ……」


「うわ」

ネムリアも真似した。


「さらに悪いことに」

フローラは静かに言った。

「少しだけ所有欲まで出ています」


そこで空気が一段濃くなった。


ヴォルカがゆっくり顔を上げる。


「……やっぱり、そう見えますか」


「見えます」

フローラは言った。

「露骨に言葉にするほどではないですが、態度に出ています」

「視線がそうですし、隣にいる時の空気もそうです」

「“自分の女”みたいな顔をしている時がある」


ネムリアが毛布を抱き直す。


「ある」

「ちょっと、えらそう」


ヴォルカが困ったように笑う。


「嫌では……ないんです」

「そこは、正直に言うと」

「ちゃんと求められた後でそういう空気を向けられるのは、嬉しい部分もあります」

「でも……腹は立ちます」


「ええ」

フローラが綺麗にまとめた。

「そこなんです」


それが全てだった。


嫌ではない。

むしろ嬉しい。

だが、腹は立つ。


なぜならあの男は、ついこの前まで覗いて赤くなっていただけの男だからだ。


一歩踏み出すだけで何日も悩んでいた。

ちょっと近づけば挙動が怪しくなっていた。

自分から求めることに、あれだけ怯えていた。


その男が今、数日で急に分かった顔をしている。

そこに納得がいかないのである。


ネムリアがぽつりと言った。


「このまえまで、びくびくしてたのに」


「そうなんですよ」

フローラの声に、珍しく少し棘が混じる。

「何を急に慣れた顔をしているんでしょうね」

「こちらは別に、あなたを一夜で完成品の男にした覚えはありませんが」


ヴォルカが吹き出しかける。


「完成品……」


「違う?」

フローラが聞く。


「違いません……」


ネムリアが静かにとどめを刺した。


「まだ、ぜんぜん、みじゅく」


少し空気が和んでから、ヴォルカがそっと言う。


「でも……あの人なりに、嬉しかったんだとは思うんです」

「ちゃんと受け入れてもらえたことが」

「だから少し浮かれているのかな、と」


その言い方はやはりヴォルカらしかった。


フローラの目元が少しだけ和らぐ。


「それはそうでしょうね」

「多分、本気で安心したんだと思います」

「自分が踏み込んで、壊れなかった」

「拒まれなかった」

「その結果、妙な自信までついてしまった」


ネムリアが毛布越しに膝を抱える。


「うれしいのは、いい」

「でも、ちょうしのるのは、ちがう」


「その通りです」

フローラは即答した。


ヴォルカも真面目に頷く。


「私たちは、あの人のものになったわけじゃないです」

「受け入れたのは本当です」

「でも、それは対等な関係が進んだというだけで……」

「偉くなったわけじゃない」


「うん」

ネムリアが言う。

「えらくなった、わけじゃない」


フローラは少し笑った。


「むしろこれからですよ」

「ここで“男になったつもり”で止まるなら、かなり格好悪いです」


「格好悪いですね……」


「かなり」

ネムリアが言った。


少し和んだあと、ヴォルカが聞く。


「……どうしますか」


フローラはしばらく考えてから答えた。


「一度、きちんと線を引いた方がいいでしょうね」

「嬉しかったのは本当」

「関係が進んだことも、本当に大事」

「でも、その上で」

「調子に乗るな、です」


ヴォルカは耳まで赤くなりながらも、真面目に同意する。


「必要だと思います」

「じゃないと、あの人たぶん……少しずつ、したり顔が増えます」


「増えるね」

ネムリアが言った。

「すごく、いや」


フローラはふっと笑った。


「では決まりですね」

「次にそれらしい顔をしたら、ちゃんと伝えましょう」

「受け入れたのは、あなたを偉くするためじゃない」

「勘違いするな、と」


ヴォルカは少し考えてから、ぽつりと漏らした。


「でも……たまに、少しだけなら」

「そういう顔をされるの、嫌じゃないんですよね」


沈黙。


ネムリアがゆっくりヴォルカを見る。

フローラも見る。


ヴォルカはすぐに赤くなった。


「い、今のは違って、その……全部が嫌という意味じゃなくてですね」

「ちゃんと求めてくれた後で、少し嬉しそうにされるのは……その……」


「わかる」

ネムリアが言った。


フローラも少しだけ目を伏せる。


「……ええ」

「そこは否定しません」


結局、そこだった。


三人とも、関係が進んだこと自体は嬉しい。

求められたことも、受け入れたことも、ちゃんと大事に思っている。

だからこそ、その変化が態度に出ること自体は完全には嫌ではない。


ただ、数日で急に“分かった男”みたいな顔をするのは違う。


嬉しいと、調子に乗るは別だ。

愛情と、所有顔は別だ。

そこを混ぜるな。


三人の結論はかなりはっきりしていた。


その頃、当のユキトは自室でひとり考えごとをしていた。


前より少し落ち着いて、彼女たちの近くにいられる。

触れる時も、前ほど無駄に身構えなくなった。

それは悪いことじゃない、はずだった。


……なのに最近、三人の視線が妙に静かに刺さる。


何かしたか、と考える。

した気もする。

してない気もする。

でも、多分した。


「いやでも、前より自然にいけるようになったのはいいことだろ……」

「よくないのか……?」

「いや待て、自然ってなんだ……」

「ていうか俺、もしかしてちょっと調子乗ってる……?」


そこまで考えて、布団の上で顔を覆う。


心当たりが、じわじわ増えてくる。


腰に手を回した。

肩を抱いた。

近くに寄った時、妙に余裕ぶった。

多分ちょっとだけ、

「もう俺たちはそういう関係だし」

みたいな顔もした。


「うわ」


と、ユキトは呟いた。


「うわ、これ絶対だめなやつだ……」


遅かった。

だが、遅いと気づけただけまだ少しはましだった。


居間ではその頃、フローラが静かに茶を飲み終えていた。


「まあ、一度浮かれるのは仕方ありません」

「ですが、そのあとでちゃんと恥をかかせておいた方が後々のためですね」


ネムリアがこくりと頷く。


「だいじ」


ヴォルカも真面目に頷いた。


「はい」

「嬉しいのと、甘やかすのは別です」


三人はそこで、次の方針を決めた。


受け入れたことは否定しない。

大事だったことも否定しない。

でも、勘違いは潰す。


ユキトがもし次にまた、

あの半端に育った男の顔をしたら。


その時は三人で、きっちり分からせる。


お前は受け入れられた。

だが、偉くなったわけじゃない。


そこを、ちゃんと。

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