64.けじめ 第一部(完)
新しい家での暮らしは、思っていたより早く日常になった。
最初の数日こそ、屋根があるだの、ちゃんとした風呂があるだの、夜に砂が口の中へ入ってこないだので、いちいち小さな感動があった。けれど人間は慣れる。竜も慣れる。数日もすれば、その家が最初からそこにあったような顔で、四人は普通にそこで起き、食べ、働き、眠るようになっていた。
ただ、慣れたあとに出るものは、それぞれ違った。
ネムリアは家に入って早々、敷地の端へ行った。
何をするのかと思えば、余った板や木箱を引っ張ってきて、無言で小さな囲いのようなものを作り始める。
ユキトはしばらく見ていたが、途中で我慢できなくなった。
「……何してんだ、お前」
ネムリアは振り向きもせず答えた。
「ねこいえ」
「猫?」
「ねこ」
「いや、猫いねえだろ」
「くるかもしれない」
「犬じゃねえんだぞ」
そこでようやくネムリアが顔を上げた。
「しろねこじま、だし」
妙に強い理屈だった。
理屈になっていないくせに、本人の中では完結している顔をしている。しかもすでに水皿らしきものまで置いていた。
ユキトはそれを見て、呆れ半分で頭をかく。
「来なかったらどうすんだよ」
ネムリアはほんの少しだけ考え、それから当然のように言った。
「そのときは、わたしがつかう」
「やっぱお前用じゃねえか」
結局その小屋は完成した。猫はまだ来ない。来ないまま、昼間はネムリアがその近くで丸くなっていることが増えたので、もう半分くらいは本人のものだった。
ヴォルカは別方向だった。
家へ入るなり、部屋の広さや家具を見るより先に窓を開けた。風の通り方を確かめ、それから外へ出る。軒の下と庭先を見比べ、陽の当たり方を見て、どの時間にどこまで影が伸びるかまで確かめていた。
ユキトが戸口にもたれてそれを眺める。
「お前、新築で最初に見るのがそこか」
ヴォルカは一瞬だけ気まずそうに振り返ったが、すぐにまた庭の方へ視線を戻した。
「……洗濯物を干すなら、どこがいいかと」
「そこそんなに大事か?」
「大事です」
返事はやけに真面目だった。
「濡れたままなのは嫌ですし」
「ちゃんと乾く方が、気持ちいいので」
そう言いながら、今度は物干し縄をどこに渡せそうかまで見始める。日当たり、風通し、取り込みやすさ。ひとつひとつ確かめていく顔は本気だった。
やがてヴォルカは、庭の端で足を止める。
「……ここなら」
その声が、ほんの少しだけ明るかった。
「午前のうちによく乾きそうです」
ユキトはそこでようやく笑う。
「そこが嬉しいのかよ」
ヴォルカは少しだけ目を逸らした。
「……嬉しいです」
「ちゃんと暮らせそうで」
その答えがあまりにまっすぐで、ユキトはそれ以上からかえなかった。
浮かれていないわけではないのだろう。けれどヴォルカの浮かれ方は、まず“ちゃんと暮らせる”を見つけた時に出るらしい。
フローラは家の前にしゃがんでいた。
石造りの広い家は、それだけで立派だった。けれどそのぶん、まだ少しだけ無機質でもある。その足元に小さく土を盛り、花壇を作り始めていた。
「また勝手に始めてるな」
ユキトが横に来ると、フローラは手を止めずに小さく笑った。
「勝手ではありません。ここに何か植えた方が、家らしくなるでしょう」
「花か?」
「花もです」
その“も”の時点で、ユキトは嫌な予感がした。
「お前それ、最終的に食えるもん増やす気だろ」
「実用性も大切ですから」
真顔だった。
花壇と言いながら、その視線はもう少し先を見ていた。土の質、水の流れ、陽当たり、風の抜け方。火山側で少しずつ緑が戻ってきているのを見たからだろう。島そのものを、生活の場所としてもう一段育てられるかもしれないと、そう考え始めているのが分かった。
四人とも、同じ家に住み始めたのに、手の入れ方は少しずつ違った。
ネムリアは居心地のいい縄張りにしようとしていた。
ヴォルカはちゃんと暮らせる場所にしようとしていた。
フローラは育つ場所にしようとしていた。
そしてユキトは、そんな三人を見ながら、結局その全部を受け入れていた。
家は、思ったより早く“家”になった。
朝起きて、水を汲む音がする。
誰かが台所に立つ。
洗った布が干される。
湯気の立つ温泉を使う。
夜には同じ屋根の下へ戻る。
ネムリアの猫小屋はいつの間にか完全に日向ぼっこ用の場所になっていた。たまに本当に小さな鳥が近くへ来ることはあったが、猫はまだ見ない。それでもネムリアは特に困った顔をしなかった。来なくてもいいらしい。自分が寝られればだいたい問題ない。
ヴォルカが見つけた物干し場所は、そのまま自然に家の一部になった。朝に洗った布を干し、昼にはよく乾き、夕方にはきちんと取り込まれる。
風の通り方も日の当たり方も、最初に見た通りだったらしい。洗濯物が気持ちよく乾いているだけで、ヴォルカは少しだけ嬉しそうだった。
誰に言われたわけでもないのに、干し方も取り込み方もすっかり彼女の役目になっていた。
フローラの花壇からは、小さな芽が出た。きれいな花だけではない。どう見ても後で食卓か薬草棚へ回りそうなものも混ざっていたが、それでも玄関前に緑があるだけで家の顔つきは変わる。
時間が少しずつ積もっていく。
船と天幕で暮らしていた頃の、どこか仮住まいの落ち着かなさは消えた。
四人とも、もうこの家を“今だけの場所”だとは思っていなかった。
そんなある日、フローラが庭先で土を見ながら言った。
「そろそろ、菜園を広げてもよさそうですね」
ユキトが振り向く。
「もうやる気か」
「土が戻ってきています。火山側も、前よりずっと落ち着いていますし」
フローラは庭の先、そのさらに先の島の斜面を見た。
「果樹も、少しずつなら試せるかもしれません」
「いずれは放牧も考えられます」
ヴォルカがそれに反応する。
「ヤギですか」
「まずはそこからでしょうか」
ネムリアは花壇の横にしゃがみ込んだまま、小さく言った。
「うさぎも」
「増やす気が早えよ」
ユキトは呆れながら返したが、完全に否定する気にもなれなかった。
菜園。果樹。放牧。
少し前まで、ただ住めるかどうかの話をしていた場所で、今はその先の話をしている。
それはつまり、ここで生きていくつもりが、もう全員の中で当たり前になりつつあるということだった。
そして、そうなった時にだけ、逆に浮くものがあった。
家がある。
暮らしがある。
未来の話まで出ている。
なのに、ユキトはまだ何も言っていない。
最初にそれを口にしたのが誰だったのかは、あとから思い返しても曖昧だった。
夕方、三人で庭にいた時だったと思う。花壇の様子を見ながら、保存できる野菜は何がいいか、放牧するなら何を先に入れるか、そんな話をしていた流れで、ふと空気が切れた。
その隙間に、ぽつりと落ちた。
「……で、あの人はいつ言うんでしょうね」
フローラだったか、ヴォルカだったか。もしかするとネムリアが先に似たようなことを言ったのかもしれない。
とにかく、その一言で空気が少し変わった。
ヴォルカが咳払いみたいに息を整える。
「その……私も、少しは思っていました」
「ここまで来たら、普通は……その……」
「そろそろではありますね」
フローラが静かに引き取る。
ネムリアは膝を抱えたまま、首をかしげた。
「まだ」
その一言がやけに刺さった。
まだ。
たしかに、まだ、なのだ。
ここまで同じ家で暮らして、先の話までして、距離だってもう十分近い。なのに、肝心のところだけが言葉になっていない。
「けじめ、ですよね」
ヴォルカが小さく言った。
「こういうことは、ちゃんと……言葉にするものではないでしょうか」
「ええ」
フローラも頷く。
「ここまで何もない方が、逆に不自然です」
ネムリアはしばらく考え、それから素直に言った。
「まだなの、おそい」
そこから、話は自然に理想のプロポーズの方へ流れた。
別に最初から本気で語るつもりではなかったのだろう。ただ、待たされている側の不満と期待が少しずつ形を持っただけだ。
「どうせなら、ちゃんと言葉にしてほしいです」
最初にそう言ったのはフローラだった。
軽い雑談の延長だったはずなのに、その一言が落ちた途端、三人とも少しだけ真面目な顔になる。
「誤魔化すのは嫌ですね」
「流れで何となく、みたいなのも困ります」
「はい……」
ヴォルカが小さく頷く。
「その、ちゃんと……私たちに向けて言ってほしいです」
「名前を呼んで」
「覚悟を決めて」
そこまで言ってから、自分で少し恥ずかしくなったのか、ヴォルカは視線を落とした。
ネムリアは膝を抱えたまま、眠たげな顔で二人を見ている。
「へんなのは、やだ」
「たとえば?」
フローラが少し面白がるように聞くと、ネムリアはほとんど間を置かずに答えた。
「ふとんどけたら、ゆびわある」
一瞬、二人とも黙った。
「……嫌ですね、それは」
フローラが静かに言う。
ヴォルカも真顔で頷いた。
「かなり嫌です」
ネムリアは小さく眉を寄せる。
「ねるまえに、こまる」
「困りますね」
フローラが息をついて、今度は自分の方を引き取った。
「雑なのが困る、というのはそういうことです」
「食後のついでみたいに、“あ、そういえば”で済まされるのも嫌ですね」
「それは……嫌です」
ヴォルカがすぐに反応する。
「大事なことなのに」
「片手間みたいなのは、ちょっと……」
そこまで言ってから、少し迷う。
「私は……ちゃんとした言葉もないまま、気づいたらそういうことになっているのが嫌です」
フローラが目を向ける。
ヴォルカは少し頬を赤くしたまま、それでも続けた。
「一緒に暮らしているから、もうこれでいいでしょう、みたいにされるのは……困ります」
「その、気づいたら事実婚みたいになっているのは……」
ネムリアが短くまとめる。
「じじつこんっぽいの、やだ」
「そうです」
ヴォルカは小さく頷いた。
「ちゃんと、言ってほしいです」
少しだけ空気がやわらいだところで、フローラが口元をゆるめる。
「でも、どうせなら少しくらい雰囲気はほしいですね」
「そうですよね、どうせなら……夜がいいです」
ぽつりと、ヴォルカが言った。
二人がそちらを見る。
ヴォルカは少し迷ったあと、それでも続けた。
「この島の空、すごく綺麗ですから」
「満天の夜空の下で、火を囲んで」
「ちゃんと名前を呼んで、その……言ってほしいです」
言い切ったところで、耳まで赤くなる。
フローラが少しだけ目を細めた。
「あなたらしいですね」
「わ、笑わないでください」
「笑ってはいませんよ」
フローラは口元だけで笑う。
「でも、いいと思います」
少しだけ考えてから、今度は自分の番だとでも言うように視線を上げた。
「私なら、この上の見晴らしのいい場所がいいですね」
「山頂ですか」
「ええ。あそこから見るこの島は綺麗ですから」
フローラの声は静かだったが、その静けさの中に少しだけ大きなものが混じる。
「この島を、あなたと育てていきたいと、そう言ってもらえたら十分です」
そこまで言ってから、少し間を置く。
「できれば」
「この島すべてをあなたにあげる、くらいのことは言ってほしいですが」
ヴォルカが目を瞬かせた。
「急に大きくなりましたね……」
「釣り合いは大切ですから」
「その規模は少し怖いです」
「冗談半分ですよ」
そう言いながらも、半分は本気の顔をしているあたりがフローラだった。
ネムリアはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。
「だれにもじゃまされないのがいい」
「あなたは、そうでしょうね」
「ずっといっしょ、っていう」
短い言葉なのに、妙に芯があった。
ヴォルカが少しだけ頬を緩める。
「それも、いいですね」
ネムリアはさらに少し考えたあと、眠そうな顔のまま付け足した。
「いっそ、きょうかいたてる」
二人が止まった。
「そこまで行くんですか」
「規模がおかしいですね」
ネムリアは気にしない。
「いっしょうのあい」
真顔だった。
その顔があまりにも本気とも冗談ともつかなくて、先に吹き出したのはフローラだった。
「それはさすがに大げさです」
「でも、少し見てみたい気もします……」
ヴォルカまでそんなことを言い出す。
ネムリアは満足そうでもなく、ただ当然のことを言ったみたいな顔で座っている。
しばらく笑いが続いたあと、フローラが息を整える。
「まあ、そこまで完璧じゃなくてもいいんですけどね」
「はい……ちゃんと言ってくれれば」
「きてくれたら、いい」
それが三人の本音だった。
ユキトは途中まで聞き耳をたてていた、しかし3人の理想が高すぎて早々に盗み聞きを切り上げた。
話の終わりに温度が下がったことを知らない。
ユキトの中では、もう固定された。
三人とも、本気で、あれくらいを望んでいる。
それからのユキトは、露骨に変になった。
夕食のあと、妙に静かになる。
何か言いそうで、言わない。
二人きり、あるいは三人と落ち着いた空気になると、少しだけ呼吸が変わる。
なのに結局、話題を変える。あるいは意味のないことを言って終わる。
最初は気のせいかと思った。
でも一回では終わらない。
ヴォルカの時にもあった。
フローラの時にもあった。
ネムリアの時にもあった。
そして次に三人が顔を合わせた時、ほぼ同時に口を開いた。
「今の、絶対そうでしたよね」
「やっぱりですか」
「さっきも」
そこで全部つながった。
「全員に同じことをしているんですか、あの人は」
フローラがやや呆れた声で言う。
ヴォルカは困ったように眉を下げた。
「でも、本気で言おうとしている感じはします……」
「ただ、その、途中で怖くなっているみたいな……」
「期待させるだけさせて引っ込むの、一番よくないんですけどね」
「怒りたいんですけど」
フローラはため息をつく。
「本気で悩んでいるのが分かるから、怒り切れないのが余計に厄介です」
ネムリアは少しだけ考えて、ぽつりと言った。
「よわい」
「弱いですね……」
「こういう時だけ」
言葉ほど本気で怒ってはいなかった。
むしろ困っていた。
本気で言おうとしているらしい。なのに、そこで引っ込む。その臆病さが腹立たしくもあり、妙にユキトらしくもあり、だからこそ強く責め切れない。
その流れで、話が少しずれた。
ヴォルカが何気なくネムリアを見る。
「そういえば、前に北の浜で……」
フローラも視線を向けた。
「あの件は、結局何だったんですか」
「かなり近かったですよね」
ネムリアはまばたきをした。
「……」
「説明は必要だと思いますよ」
少しだけ間があってから、ネムリアはいつも通りの顔で、短く言った。
「……ないしょ」
二人とも黙った。
怒るには、返しがずるかった。
開き直りでもなければ、弁明でもない。ただそこで止められると、逆にそれ以上踏み込めない。
フローラが先に小さく吹き出した。
「ずるいですね」
ヴォルカも困ったように笑う。
「それは、ずるいです……」
ネムリアは答えない。少しだけ口元が緩んでいた。
その場に残ったのは、修羅場というより、怒れないままのぬるい苛立ちと、少しだけ負けた気分だった。
そして最終的に、三人の結論は下がった。
最初は、ちゃんとした理想があった。
でも今はもう、そこまで求めていなかった。
豪華じゃなくていい。
完璧じゃなくていい。
多少変でもいい。
不器用でもいい。
ただ、逃げずに言え。
そこへ落ち着いた。
「誰が一番でも、文句は言いません」
フローラが言う。
ヴォルカも頷いた。
「順番で揉めるのも違います」
ネムリアは短くまとめる。
「きたら、うける」
それで三人の約束は決まった。
一方その頃、ユキトはひとりで頭を抱えていた。
「……いや無理だろ」
誰もいないところで、小さく吐く。
「一人ずつやったら絶対面倒になる」
「いや、面倒って言い方は違うか……違わねえけど」
頭を掻く。
「順番つけた時点で駄目だろ」
「最初に言われたやつはいい。最後が最悪だ」
そこまで口にしてから、自分でその先を引き取る。
「私は最後でよかったのか、とか」
「数合わせか、とか」
「ついでだったのか、とか」
「そりゃ思うだろ。思わねえわけねえ」
言いながら、勝手に胃が痛くなる。
「で、それを“そんなことない”で済ませられるほど、軽い話でもねえし」
ため息が落ちる。
「誰か一人を先に選んだ、みたいな形にしたくねえ」
「最後に回ったやつにだけ、選ばれなかった不安が残るのが一番駄目だ」
「だったら最初から三人まとめて言うしかねえだろ……」
そこまで言って、沈黙する。
自分で言って、自分で嫌になる。
「いや、難易度おかしいだろ、それ」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
「雰囲気は欲しいらしい」
「へんなのは嫌」
「雑なのも駄目」
「ちゃんと名前呼んで、ちゃんと言葉にしろ」
指を折るみたいに確認して、途中でやめる。
「注文が多いとかじゃねえんだよな」
「分かる。全部分かる」
「分かるから余計にきついんだよ」
壁に軽く後頭部を預ける。
「でも、ここで逃げ続ける方がもっと駄目だ」
少し黙って、それから小さく言う。
「……やるしかねえか」
その声には、諦めと覚悟が半分ずつ混ざっていた。
ユキトが三人を呼び止めたのは、夕方だった。
「たまには外で食おう」
何でもない調子を装っていたが、少しだけ声が硬かった。
それに気づいたのは、たぶん三人とも同じだった。
けれど誰も指摘しない。
ヴォルカは少しだけ背筋を伸ばし、
フローラは静かに目を細め、
ネムリアは眠たげな顔のまま、でも素直についてきた。
連れて行かれたのは、家から少し離れた浜辺だった。
夕日が落ちかけている。
空は赤から群青へ移り変わる途中で、海はその色を静かに映していた。
波の音はやわらかく、風も強くない。
人の気配はない。
綺麗だった。
けれど――食卓はない。
フローラが周囲を見回し、最初に口を開く。
「……食事はどこですか」
ヴォルカも少し遅れて辺りを見た。
「何も、ありませんね」
ネムリアは率直だった。
「ゆうはん、ない」
ユキトは一瞬だけ黙った。
逃げるなら、ここだった。
何でもない顔で「やっぱやめた」と言えば、まだ引き返せる。
でもたぶん、それをやったらもう二度と無理だった。
ユキトは息を吐いて、三人の方を向いた。
「順番、決められなかった」
最初の一言は、それだった。
三人とも黙る。
「誰か一人だけ先にするのも違うと思った」
「三人まとめてってのが正しいのかも、正直分かんねえ」
「格好いい形かどうかも、自信はねえ」
そこで少しだけ喉が詰まる。
でも止まらなかった。
「でも、逃げたままは嫌だった」
夕日が、横から四人を照らしていた。
「お前ら三人とも、大事だ」
「これから、妻として、一緒にいてほしい」
まっすぐで、不器用だった。
整いすぎた言葉ではなかった。
でも、そこで逃げなかったことだけは、誰の目にも分かった。
ヴォルカの肩が小さく揺れる。
フローラの呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
ネムリアは眠たげな目を少しだけ大きく開いた。
ユキトはそこで終わらなかった。
黙ったまま、懐へ手を入れる。
取り出したのは、小さな箱が三つだった。
空気がもう一度変わる。
「……指輪、ある」
その一言に、今度こそ三人とも本当に止まった。
ユキトは箱を見下ろしながら、少し言いづらそうに続ける。
「適当に同じのを三つ、ってのも違うと思った」
「でも、全部ばらばらも違うと思った」
そう言って、一つ目の箱を開けた。
そこにあった指輪は、土台の形こそ同じだったが、細く刻まれた意匠が違っていた。
炎が流れるような曲線。
鋭さではなく、温かさのある火の線だった。
二つ目の箱を開ける。
こちらには、花と蔓のような柔らかい模様が彫られている。
芽吹きと伸びていくものを思わせる線。
最後の箱。
そこには、波と月を思わせる静かな曲線。
眠る水面のような、やわらかな意匠。
「三つで少しずつ違う」
「でも並べると、繋がるようにした」
ユキトは指輪をそっと並べて見せる。
三つの輪を寄せると、刻まれた意匠がぴたりと繋がった。
火と花と波。
別々の線が一続きになり永遠の輪を作る
それは、ただの飾りではなかった。
ユキトが三人それぞれに似合う形を、似合う意味を、似合う言葉を、不器用なりに必死で探していた痕だった。
「誰か一人だけで完成する形にしたくなかった」
「三人まとめて、ちゃんと選んだって分かる方がよかった」
そこで、最初に崩れたのはヴォルカだった。
息を吸ったはずなのに、うまく吐けなかったらしい。
目の前の指輪を見たまま、言葉が出ない。
顔が赤くなって、それから次の瞬間には泣きそうなくらい熱を持つ。
「……え」
その一音しか出なかった。
ユキトがヴォルカの前へ進み、炎の意匠の指輪を差し出す。
ヴォルカは受け取ろうとして、そこで初めて自分の手が震えていることに気づいたみたいに、ぎこちなく指を止めた。
「ほんとうに……私、ですか」
今さらな問いだった。
けれど聞かずにいられなかった。
ユキトがうなずく。
その瞬間、ヴォルカは耐えきれなくなった。
両手で指輪を受け取る。壊れ物みたいに包んで、落とさないように、失くさないように、胸元へ引き寄せる。
「うれしい、です……」
「ずっと、待って……」
最後まで言えない。
泣きそうなくせに笑っていて、その笑い方が余計に危うかった。
次にユキトは、花の意匠の指輪をフローラへ向けた。
フローラは最初、ちゃんと受け取るつもりだった。
いつものように落ち着いて、綺麗に返事をしようとしていた。
でも指輪を見た瞬間、全部が少し止まった。
まばたきが遅れる。
呼吸が浅くなる。
差し出された手を見る。
それからユキトの顔を見て、もう一度指輪を見る。
そのわずかな間に、目元だけが先に熱を持った。
「……遅いです」
言葉はいつも通りのはずなのに、声が少し掠れていた。
受け取る指先は静かに見えて、触れた瞬間だけ、かすかに力が入る。
平静でいたいのに、嬉しさが隠せない。
指輪を見つめたまま、もう一度だけ言う。
「本当に、遅いです」
二回目のそれは、責める声ではなかった。
待っていた時間ごと、ほどけてしまった声だった。
最後にユキトは、波と月の意匠の指輪をネムリアへ差し出した。
ネムリアは何も言わなかった。
眠たげだった目が、珍しく少し大きく開いている。
指輪とユキトの顔を見比べて、それからまた指輪を見る。
黙っているのは嫌だからじゃない。
嬉しすぎて、言葉が追いついていないのが分かった。
ようやく手が伸びる。
動きはゆっくりだった。
でも一度その手の中へ指輪が収まったら、もう離さない。小さく握って、じっと見る。
「……ほんとに、くれるの」
ユキトが小さくうなずく。
ネムリアはしばらく黙ったまま、指輪を見つめ続けた。
それからようやく、眠そうな顔のまま口元がほどける。
「……すき」
たったそれだけだった。
でも、たぶん全部そこへ入っていた。
しばらく、誰も次の言葉を出せなかった。
波音だけが静かに続く。
夕日が落ちきる寸前の、少しだけ長い沈黙だった。
その沈黙を破ったのは、フローラだった。
目元に残っていた熱を、どうにか整えながら、でも言うことは言うみたいな顔で口を開く。
「……で、食事は?」
空気が少しだけずれた。
ヴォルカが「あ」と小さく声を漏らす。
ネムリアは素直だった。
「ゆうはん、ない」
ユキトは少しだけ間を置いた。
それから、ほんのわずかに得意げとも照れ隠しともつかない顔で言う。
「……ある」
三人がそちらを見る。
「こっちだ」
案内されたのは、さらに少し先の別の浜だった。
そこには、ちゃんと食卓があった。
灯りが置かれ、皿が並び、席まで整えられている。
豪華すぎて下品というほどではない。けれど、明らかに今日のために用意したと分かるだけの食事だった。
しかも適当ではない。三人それぞれの好みを考えた跡が見える。
ヴォルカが呆然としたまま呟く。
「……本当にあったんですか」
「思ったより、ずっと本気ですね」
フローラが小さく目を細める。
ネムリアは率直に言った。
「すごい」
ユキトは頭をかいた。
「最初の浜は、その……言うための場所」
「こっちは、食うための場所」
「分けたんですか」
「分けた」
ヴォルカがとうとう少し笑ってしまう。
「そこは妙にちゃんとしているんですね……」
フローラが改めて食卓を見た。
「これ、いつから準備していたんですか」
「どうやって」
ネムリアの短い問いに、ユキトは観念したように説明する。
「前にアストロ・ベイ行った時、少しずつ買って隠してた」
「一気にだとばれるから、何回かに分けて荷に紛れ込ませて」
「倉庫に突っ込んどいて、昨日の夜中にこっちへ運んだ」
ヴォルカが目を瞬かせる。
「昨日の夜中に?」
「何往復かした」
「一人でですか」
「まあな」
フローラは呆れたように笑った。
「見えないところで無駄に努力しているあたりが、実にあなたらしいです」
ネムリアは椅子に座る前に、ぽつりと聞いた。
「だめだったら?」
その一言で、少しだけ空気が止まる。
ユキトは視線を逸らした。
答えづらそうにしながらも、結局答える。
「……まあ、断られてたら一人で食うつもりだった」
三人が固まる。
ユキトはさらに言った。
「こんだけ用意して無駄にするのももったいねえし」
「最悪、ここで一人で全部片づけるしかねえかなって思ってた」
フローラが即座に返す。
「そういう問題ではありません」
ヴォルカも真顔になる。
「そこまで考えていて、なぜ今まで黙っていたんですか」
ネムリアが一番容赦なかった。
「さみしいひとりごはん」
「言うな」
ユキトは顔をしかめる。
「想像すると死ぬ」
そこで三人が吹き出した。
もう怒れなかった。
遅いという文句も、呆れも、もちろんある。
でもここまでやって、最悪の結末まで想定して、それでも来たのなら、もう受け取るしかない。
少し遅れて始まった食事は、やけにうまかった。
四人で座り、湯気の立つ皿を囲み、時々笑いがこぼれる。
指輪はそれぞれの手元にあった。離さないままの者もいた。
その途中で、ユキトが小さく漏らす。
「……一人で食わなくて済んでよかった」
フローラがすぐに睨む。
「本当にそういう問題ではありません」
「はいはい」
ヴォルカもまだ少し頬を赤くしたまま、小さく笑う。
「でも、よかったです」
ネムリアはもう皿に手を伸ばしていた。
「よかった」
その一言に、たぶん全部入っていた。
波の音が静かに続く。
最初の浜で交わした言葉。
そこで受け取った指輪。
次の浜で囲む食卓。
少し不器用で、少し回りくどくて、でも最後にはちゃんと届いた夜だった。
第1部終了。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第一部では、異世界での冒険と、竜の娘たちとの恋を描いてきました。
第二部で描くのは、その物語の先にあるものです。
彼らが何を選び、何を積み重ね、その結果として何を手にするのか。
よろしければ、彼らの物語を最後まで見届けていただければ幸いです。




