63.一瞬、何を見たのかわからなかった。
夜明け前の空は、まだ群青を残していた。
火山の中腹、これから生活の中心になる予定地には、夜の冷えがかすかに残っている。
けれど空気そのものは、もう以前とは違っていた。
足を踏み入れた瞬間に身構えるような荒れ方はない。地面はまだ黒く、火山灰の名残も濃い。それでもここはもう、ただ近づいてはいけない場所ではなくなっている。
その静かな土地に、二つの人影があった。
ヴォルカはしゃがみ込み、地面に置いた紙束を片手で押さえながら、もう片方の手で視線の先と見比べている。
紙の端は何度も折られ、ところどころ灰で汚れていた。
簡単に描いた見取り図ではない。
搬入路の傾斜。
小港からの導線。
生活圏の広さ。
家を建てる位置。
湯と水の流れ。
細かい書き込みと修正で埋まった、何度も手を入れた工事計画だった。
その横で、フローラは足元の灰を払っていた。
生活圏の境目に残っていた薄い火山灰を、風で散らさないよう丁寧に寄せ、要らない場所からだけ退けていく。
乱暴な力押しではない。
わずかな高低差や水の流れを見て、残すべきところと払うべきところを選んでいた。
「……こちらは、もう大丈夫そうです」
フローラが静かに口を開く。
ヴォルカは紙束から顔を上げず、もう一度だけ周囲を見渡した。
火山のふもとまで続く緩やかな道。
荷を積んだ荷車でも通れるよう削り直した坂。
下の方には、海際に小さく切り取られた港が見える。
大型船一隻がようやく入れる程度の小さな港だが、それでもここには十分だった。
「はい。港からの導線も問題ありません」
ヴォルカは紙束を閉じた。
「この傾斜なら、資材も職人も上げられます。途中で詰まることもないはずです」
フローラは頷き、今度は敷地の端へ視線を向ける。
敷地の上側からは、温泉が静かに流れ込んでいた。
白く煙るほど熱すぎず、勢いが荒すぎるわけでもない。自然な流れのまま敷地をかすめ、下へ抜けていく。
排水はそのまま山の下へ逃がせるようになっている。
匂いも穏やかだった。硫黄臭はしない。湯の近くに立っても、ただ湿った熱と柔らかな湯気があるだけだ。
その少し離れた場所には湧き水があった。
透明で、濁りがない。
流れも細すぎない。
「水も安定しています」
フローラが言う。
「湯と水、どちらも敷地内で確保できます。これなら生活の基準として十分です」
ヴォルカは、ようやく肩の力を抜いた。
「……終わりましたね」
その一言には、達成感よりも先に安堵があった。
彼女の髪には灰がついている。額には汗がにじみ、黒い服もところどころ煤で汚れていた。
フローラも同じだ。裾に泥が跳ね、手先には土と灰がついている。
派手な戦いのあとではない。
ただ、本気で住むために働いた痕がそこにあった。
「ええ」
フローラも短く答える。
「ここまで整えば、あとは人の手を入れて形にする段階です」
ヴォルカはもう一度だけ、自分の計画書を開いた。
最初の頁から順に目を走らせる。
港。
搬入路。
生活圏。
敷地。
水。
湯。
計画書を、最後にもう一度だけ確認する。
それから彼女は紙束を閉じ、フローラへ向いた。
「問題ありません。予定通り進められます」
フローラは小さく頷いた。
その時になってようやく、二人の間にほんのわずかな静けさが落ちた。
終わった、という実感が遅れて追いついてくる。
「戻りましょう」
フローラが言う。
ヴォルカは「はい」と返しかけて、それより先に少しだけ目を伏せた。
北の浜へ戻る回数は、思っていたより少なくなってしまった。
最初は毎週一度は戻るつもりだった。
けれど工事の確認を始めれば、一つ直せばまた次が見つかる。ここまで終えなければ離れられないという区切りが、いくつも重なった。
必要なことだったと分かっている。
分かっているのに、それでも胸の奥が少し重い。
自分は本来、守る側だ。
なのに、その自分が離れていた。
ユキトさん達に寂しい思いをさせていないだろうか。
待たせすぎたのではないだろうか。
ヴォルカはその不安を口にしなかった。
けれど横を歩き出したフローラが、何も言わずに少しだけ視線を落としたのを見て、同じようなものを抱えているのだと分かった。
必要なことだった。
離れていたのは間違いではない。
それでも、負い目は消えない。
二人はそのまま火山側の野湯へ向かった。
作業のあとに使うのが、もう当たり前になっている湯だ。
下はまだ土のまま。
囲いも仮のものに近い。
けれど身体を洗うには十分だった。
汗を流し、灰を落とし、泥をぬぐう。
湯に肩まで浸かると、ようやく骨の奥に残っていた疲れが少しゆるむ。
「……ようやく戻れますね」
ヴォルカが、小さく言う。
「ええ」
フローラは目を閉じたまま答えた。
「……やっと」
それ以上は話さなかった。
北の浜へ戻ったのは、空が朝の色に染まりきる少し前だった。
波の音は静かで、風も強くない。
船と天幕のある仮拠点は、まだ半ば眠っているように見えた。
ヴォルカが先に歩みを緩める。
その視線の先で、天幕の布がわずかに開いていた。
中が見えた。
一瞬、何を見たのか分からなかった。
そして次の瞬間には理解していた。
ネムリアが、寝床の端に寄るように横になっている。
その胸元に顔を埋めるようにして、ユキトが眠っていた。
抱きついているわけではない。
ただ、逃げ込むような距離で、体温に寄っている。
ネムリアの腕はその背に回っていて、起きているのか寝ているのか分からない眠たげな顔のまま、二人へ気づいて固まっていた。
ヴォルカの胸に、最初に来たのは安堵だった。
怪我がない。
血もない。
苦しそうでもない。
ちゃんと生きて、そこにいる。
それだけで一瞬、息がゆるむ。
けれど、そのすぐあとに別のものが来た。
自分が離れていた間に、ああして休める場所が、ネムリアのところにできていた。
それを責める言葉は浮かばなかった。
責められるはずもない。
ユキトは寝ている。
ネムリアも勝ち誇った顔ではなく、ただ恥ずかしそうに止まっているだけだ。
それでも、苦かった。
フローラもまた、何も言わなかった。
生きていてよかった。
まずそれがある。
その上で、この距離は偶然ではないと分かる。
自分たちのいない時間に、ネムリアが一歩近い場所へ入っていた。
その理由までは分からない。
けれど、ただの寝相では済まない何かが、そこにはある。
そして自分にも負い目がある。
必要な工事だったとはいえ、そばを離れていたのは事実だ。
だから、やはり責められない。
ネムリアは二人を見て、ほんの少しだけ頬を赤くした。
けれどユキトを引きはがさなかった。
はがせなかった、の方が近いのかもしれない。
その場に落ちたのは沈黙だった。
やがてフローラが小さく息を吐き、ヴォルカにだけ聞こえる声で言った。
「……無事でしたね」
「……はい」
それだけだった。
二人はその場では何も言わず、船の方へ回った。
戻ってきた道具を端に寄せる。
荷を確かめる。
朝の準備のようなことを始める。
やることがあるふりをしているのは、お互い様だった。
しばらくして、天幕の中で気配が動いた。
ユキトが起きたのは、それから少しあとだった。
見られていたことなど知らない。
ネムリアも言わない。
天幕から出てきたユキトは、まだ寝起きの顔のまま二人を見つけた。
「お、戻ってたのか」
ヴォルカが振り向く。
「おはようございます」
いつも通りに言ったつもりだった。
けれど、自分でも分かるくらい、声が少し固かった。
「おはよ。向こう、どうだった」
「一通り、形になりました」
フローラが答える。
「今日は実際に見た方が早いでしょう」
その声も静かだった。
静かすぎるくらいだった。
ユキトは少しだけ首を傾げた。
「……疲れてるな、二人とも」
「少しだけです」
ヴォルカが答える。
「大丈夫です」
その大丈夫は、半分くらい本当だった。
疲れている。
けれどそれだけではない。
ネムリアはその横で、何も言わずに立っていた。
視線が少しだけ落ち着かない。
それでもユキトの近くから離れないあたりが、余計にいろいろ物語っていたが、ユキトは気づかない。
二人の反応がいつもより少し固いことにも、工事で疲れているのだろうと思うだけだった。
四人で火山側へ向かった。
以前は近づくだけで止められた道を、今は普通に歩いていける。
それだけで、島がどれだけ変わったかが分かる。
道は緩やかに整えられ、足場も悪くない。
荷車を通すことを前提に削り直した坂は、見た目以上に実用的だった。
途中で、ユキトが下の方を見た。
「……あれか」
海際に、小さく切り取られた港が見える。
自然の入り江に手を入れて整えた程度の規模だが、それでも十分に港の形をしていた。
ヴォルカが頷く。
「はい。火山のふもとに小さい港を作りました。本土から資材と職人を入れるためです」
いつもなら、そこで少しだけ説明が長くなる。
けれど今朝のヴォルカは、言葉を選ぶように一拍置いた。
「大型船も一隻ならつけられます。そこからここまで、一本道で荷を上げられるようにしました」
「凄いな……」
ユキトが思わずそう漏らすと、ヴォルカは少しだけ視線を逸らした。
「住むなら、必要ですから」
その言い方が、いかにもヴォルカらしかった。
けれどいつもより少しだけ、距離があった。
ユキトはその横顔を見る。
「……怒ってる?」
「怒っていません」
返事が早かった。
ユキトは黙った。
ヴォルカも黙った。
少し後ろを歩いていたフローラが、静かに視線を逸らす。
ネムリアは、眠そうな顔で足元を見ていた。
だが、耳だけは少し赤かった。
「……なんかあったか?」
ユキトが聞く。
「何もありません」
フローラが答えた。
これもまた、返事が早かった。
「……そっか」
ユキトはそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めない空気だった。
やがて四人は生活予定地へ着いた。
そこは、以前の火山とは思えない場所だった。
地面はまだ黒い。
火山の近くであることも消えていない。
けれど生活圏に限っては灰がきれいに払われ、歩きやすく整えられていた。
ところどころには緑が芽吹き始めている。
まだ草の色は淡く頼りない。
それでも「ここに何かが根づこうとしている」と分かるには十分だった。
敷地の上からは温泉が流れ込んでいた。
細いが安定した流れで、生活予定地をかすめるように通り、そのまま下へ抜けていく。
湯気は柔らかく、乳白色で匂いも穏やかだ。
少し離れた場所には、澄んだ湧き水があった。
ユキトがしゃがみ込み、手ですくって口に含む。
冷たかった。
「……うま」
「そこを基準にしました」
フローラが言う。
「湯と水の両方が敷地内にあるのは大きいですから」
「確かに。水を毎回運ぶのは地獄だしな」
ユキトは立ち上がり、もう一度周囲を見渡した。
緩やかな地形。
下へ続く搬入路。
港。
温泉。
湧き水。
払われた灰。
芽吹き始めた緑。
そして、ここまで整えた二人。
「すごいな」
その声には本気の驚きがあった。
「本当に住めるじゃねえか」
ユキトは笑った。
「二人とも、ありがとう」
ヴォルカもフローラも、その言葉に返事はした。
したが、朝の件がまだ胸に残っている。
嬉しくないわけではない。
けれどすぐにはいつもの調子に戻れない。
ユキトはそこまでの事情を知らない。
ただ、その反応の重さだけは感じ取ったらしい。
少しだけ目を細め、改めて二人を見た。
汗と灰の名残。
洗ったあとでも抜けきらない疲れ。
徹夜に近い作業の気配。
「……工事、相当きつかったんだな」
その言い方には、探りも茶化しもなかった。
「ここまでやるの、めちゃくちゃ大変だったろ」
ヴォルカが目を伏せる。
「大変では、ありました」
「だよな」
ユキトは素直に頷いた。
「助かったよ。本当に」
それから、少しだけ声を柔らかくする。
「無茶しただろ。ありがとな」
その労いは、変に飾らないぶんまっすぐだった。
ヴォルカの肩から少しだけ力が抜ける。
自分たちがしてきたことは、ちゃんと見られていた。
無駄ではなかった。
フローラも、小さく息を吐いた。
胸の中のざらつきがなくなるわけではない。
けれどそれとは別に、この言葉は受け取れた。
「……ユキトさん」
ヴォルカが呼ぶ。
「ん?」
「その、北の浜では……」
そこまで言いかけて、言葉が止まった。
聞いてどうするのか。
責めたいのか。
説明してほしいのか。
自分でも分からない。
ネムリアは、少しだけ俯いた。
ユキトは不思議そうにしている。
本当に分かっていない顔だった。
その顔を見て、ヴォルカは小さく息を吐いた。
「いえ。何でもありません」
「いや、絶対何でもなくないだろ」
「何でもありません」
今度は少しだけ圧があった。
ユキトは黙る。
フローラが横から静かに続けた。
「今は、こちらの話をしましょう」
「……分かった」
空気が完全に戻ったわけではない。
けれど、少しだけやわらいだ。
その場でユキトが次の話をした。
「ここまで整ったなら、一回本土に戻る」
「王国に支援入れさせよう。家も風呂も台所も、最初から住める状態まで持ってかせる」
ヴォルカが顔を上げる。
「そこまで、ですか」
「そこまでだよ。資材だけ寄越されても困るだろ」
ユキトは肩をすくめた。
「どうせやるなら、生活始められるところまでが約束だからな」
「生活を、始められるところまで……」
フローラがその言葉を繰り返す。
「そう。屋根だけあっても意味ねえし、水回りが雑だと後で詰む。風呂も台所も寝床もいる」
ユキトは周囲を見ながら言った。
「ここでちゃんと暮らすんだろ。最初からそれ前提でもう頼んでいる」
その言い方は雑だった。
でも、その雑さの中に、生活を軽んじていない真面目さがあった。
ヴォルカは少しだけ目を伏せた。
フローラも、何も言わずに頷いた。
定住開始パッケージ。
そう言い換えてもいい内容だった。
その数日後、四人は一度本土へ戻った。
王国へ正式に支援開始を求め、必要な段取りを通す。
港から搬入する資材。
職人の人数。
滞在期間。
安全確認。
食料の補給。
島へ持ち込む家具や道具。
細かい話はいくらでもあった。
ユキトは途中で何度も面倒くさそうな顔をしたが、それでも投げなかった。
そのついでに、アストロ・ベイで食料や消耗品も補充してから、四人は再び島へ戻った。
それからの一か月は、思ったより早く過ぎた。
家はまだない。
だから暮らしは相変わらず北の浜のままだ。
船と天幕で寝起きし、風が強い日は布を押さえ、砂が物の隙間に入り込むのを諦める。
火を使う場所。
水を置く場所。
寝る場所。
仮のはずの生活は、日を追うごとに不思議と形を持ち始めていった。
北の浜からは、火山のふもとの港そのものは見えない。
けれど沖の航路には船影が出入りした。
朝、島へ向かってくる船。
夕方、また離れていく船。
晴れた日には帆が白く光り、天気の悪い日は輪郭だけがぼやけて見える。
風向きによっては、遠くから工事の音がかすかに混じる日もあった。
木を打つような音。
石を削る響き。
人の声。
けれど夜になれば、それも消える。
島はまた、静かな海辺の顔に戻った。
工事の節目ごとに、ユキトとネムリアとヴォルカの三人は山へ行った。
家の骨組みが立った日。
石造りの水路が通り始めた日。
風呂の囲いが形を見せた日。
台所の位置がはっきりした日。
少しずつ、何もなかった敷地が「家のある場所」に変わっていく。
三人はその変化を並んで見た。
その間、フローラは別に動いていた。
王国の職人たちに見えない場所を選び、火山の周囲へ回る。
まだ灰に覆われたままの大地へ、ひとり静かに手を入れていく。
人間の目のある前ではやらない。
あくまで隠れながら、壊れた土をやわらげ、熱にやられた地を休ませ、少しずつ緑が戻れる下地を作る。
今日すぐに花が咲くわけではない。
けれど、灰色しかなかった斜面の一部に、ある日ふと淡い緑が見えるようになる。
翌週には、それが少し広がっている。
ユキトたちは、それを全部は知らない。
ただ火山の景色が、来るたびにほんの少しだけやわらかくなっていくことだけは分かった。
「なんか、前より見た目がマシになってきたな」
ユキトが言うと、フローラは少しだけ目を伏せる。
「土が、戻り始めているのかもしれません」
「へえ」
ユキトは何気なく頷く。
フローラはそれ以上言わなかった。
自分がした、と言わない。
言わなくてもいいと思っている。
ただ、そこに少しでも緑が戻るなら、それでよかった。
北の浜の夜、ネムリアがユキトのそばにいることは相変わらず多かった。
けれどそれを、もう誰もいちいち言葉にはしなかった。
近い距離が、そのまま日常へ溶けていく。
ヴォルカは時々、二人を見る。
何も言わない。
フローラも見る。
やはり何も言わない。
ネムリアは気づいているのかいないのか、眠そうな顔のままユキトの隣にいる。
ユキトは、たぶん半分くらいしか気づいていない。
それがまた、少し腹立たしい。
ただ、その距離がユキトを落ち着かせていることも分かる。
夜に外で見張りに出る回数は減った。
焚火の前で一人で固まっている時間も減った。
眠る時の顔が、以前より少しだけましになった。
それを見てしまうと、責める言葉はさらに出にくくなる。
出にくくなるだけで、消えるわけではないが。
やがて一か月ほどが過ぎた。
生活拠点は、ついに形になった。
石造りに近い堅牢な家。
しっかりした屋根。
台所。
水回り。
浴室。
家具。
寝具。
日用品。
庭の下地。
上から引いた温泉は、もう土の上を流れるだけではなく、石造りの水路を通って風呂へ届くようになっている。
野湯だったものが、ちゃんとした風呂になっていた。
四人が家の中へ入ると、最初に反応したのはネムリアだった。
「……べっど」
中へ入るなり、目ざとく大きな寝台を見つける。
近づき、手で押し、少し沈むのを確かめる。
「やわらかい」
その声は本気だった。
ユキトが思わず笑う。
「そこ一番かよ」
「だいじ」
ネムリアは真顔で言った。
「ねるの、だいじ」
「お前は本当にぶれねえな」
「ぶれない」
そう言うと、ネムリアはもう一度寝台を押した。
かなり気に入っているらしい。
ヴォルカはその横で、並べられた食器に目を止めていた。
必要最低限の無骨なものではない。
実用品ではあるが、少しだけ意匠の入った、可愛げのある皿とカップだ。
「……これ」
珍しく、少し声が弾む。
「かわいいですね」
言ってから、ヴォルカははっとしたように口を閉じた。
ユキトがにやりとする。
「気に入ったか?」
「い、いえ。使いやすそうだと思っただけです」
「今かわいいって言っただろ」
「言いましたが」
「言ったんだな」
「言いました」
ヴォルカは少しだけ頬を赤くした。
それでも食器から目を離さない。
フローラは家全体を見ていた。
壁の厚み。
台所の位置。
水回りの導線。
庭へ抜ける広さ。
思っていた以上に、ちゃんとしている。
「ここまで整えるとは思いませんでした」
その声には、素直な驚きと喜びが混じっていた。
「これなら快適に過ごせそうです」
「だろ」
ユキトは少し得意げに言った。
「王国が頑張った」
「あなたが、注文したのでしょう」
「ちょっとな」
「ちょっと、ですか」
フローラの目が少し細くなる。
ユキトは視線を逸らした。
そこへ、あとから王国側とのやりとりを整理した紙が届いた。
搬入品の一覧と、細かい設計上の要望がまとめられたものだった。
ユキトは最初、それをあまり見せたがらなかった。
「いや、別に見るもんじゃねえだろ」
「見ます」
ヴォルカが即答した。
「確認します」
フローラも静かに続ける。
「今後の生活に関わるものですから」
「いや、もう完成してるし」
「見ます」
二人の声が揃った。
ユキトは黙って紙を渡した。
ヴォルカとフローラは並んで、その中身に目を通した。
そして、しばらく黙った。
そこには、細かい要求が書かれていた。
寝床は大きくしろ。あいつは柔らかくないと寝ない。
風呂は広め。湯浴みしやすい形。できれば熱を逃がしすぎない作り。
台所はちゃんと作れ。あいつが一番使う。作業台は広め。
庭も欲しい。花だけじゃなく、食えるものも植えられる広さ。
水場は近く。けど湿気が寝床に来ないようにしろ。
火を使う場所は安全に。あいつが焦ると危ない。
皿は割れにくいやつ。でも見た目も少しはまともにしろ。変なの寄越すな。
ヴォルカが、一文目で止まった。
寝床は大きくしろ。
あいつは柔らかくないと寝ない。
視線が、自然とネムリアの方へ向く。
ネムリアは寝台の端に座り、まだ柔らかさを確かめている。
「……私たちの分も、大きいのですよね」
ヴォルカが低く言った。
ユキトは一瞬、固まった。
「いや、それは当然というか、全員分というか」
「そうですか」
「そうだよ」
「そうですか」
同じ言葉だったが、二度目の方が少し重い。
ヴォルカは紙を持つ手に少しだけ力を込めた。
怒っているのではない。
いや、少しは怒っている。
けれど、それ以上に困っていた。
自分たち全員のことを見ていたのだと分かる。
生活の細部まで、ちゃんと考えていた。
しかもそれを恩着せがましく言っていたわけでもない。
ただ王国へ細かく要求して、黙って家の形にしていた。
それが嬉しい。
嬉しいのが、少し悔しい。
あの日の朝の天幕の光景が、消えたわけではない。
ネムリアの腕の中で眠るユキトの姿は、まだ胸に残っている。
自分たちがいない間に、ネムリアだけが一歩近づいた事実も、なかったことにはならない。
けれど、この家の中には、自分たちのために考えられたものも確かにあった。
怒る理由を、一つ失った気がした。
それがまた、少し腹立たしい。
フローラも、似たような顔をしていた。
紙を丁寧に折りたたみながら、静かに言う。
「ユキト」
「何だよ」
「ありがとうございます」
素直な礼だった。
ユキトは少しだけ面食らう。
「お、おう」
「ただ」
そこでフローラは顔を上げた。
「それとこれとは別です」
「……何が?」
「別です」
ヴォルカも頷いた。
「はい。別です」
ユキトは二人を見た。
それからネムリアを見る。
ネムリアは寝台の上で、少しだけ視線を逸らした。
「……何かあったのか?」
「ありません」
ヴォルカが言う。
「何もありません」
フローラも言う。
二人とも、やはり返事が早かった。
ユキトはしばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
「分かった。何もないんだな」
「はい」
「ええ」
その声はきれいに揃っていた。
ネムリアが小さく呟く。
「……なにもない、こわい」
「お前のせいじゃないか?」
ユキトが即座に返す。
ネムリアは少しだけ布団の端をつまんで、顔を隠すようにした。
ヴォルカとフローラは、それを見た。
見たが、何も言わなかった。
感謝はしている。
見てくれていたことも分かった。
この家が、自分たちのためにも作られていることも分かった。
だから、少しだけ責める気は削がれた。
ほんの少しだけ。
でも、根に持つ。
それだけは、きちんと残ったままだった。




