62.ずるくないか?
火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
その音でようやく、ユキトは自分が震えていることに気づいた。
呼吸が浅い。喉が乾いている。手のひらには何もないのに、夢の中で握りしめていた指輪の冷たさだけが、まだ皮膚の内側に残っている気がした。
ここは島だ。
夜の浜だ。
焚火の前だ。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥だけがまだ戻ってこない。
ヴォルカの声。
フローラの静かな拒絶。
ネムリアの、優しいのに逃げ道のない声。
――それ、わたしをみてない。
「……っ」
息を吸おうとして、うまくいかなかった。
その時、砂を踏む小さな音がした。
ユキトが顔を上げる。
天幕の影から、ネムリアが出てくる。
眠たげな目のまま、けれどちゃんとこちらを見ていた。寝起きなのか、最初から浅く起きていたのかは分からない。
ただ、その歩き方には迷いがなかった。
ネムリアはユキトの前まで来ると、その場にしゃがみ込んだ。
「……ゆきと」
返事をしようとして、うまく声にならなかった。
ネムリアは少しだけ首を傾げる。
ユキトの顔を見る。
呼吸を見る。
肩のこわばりを見る。
焚火の明かりの中で震えている手を見る。
それでだいたい分かったらしかった。
「……へいきじゃない」
問いではなかった。
確認でもない。
ただ、見えたことをそのまま言っただけの声だった。
ユキトは視線を落とした。
「……悪い。起こしたか」
「おきてた」
「嘘つけ。寝てただろ」
「ねてた。けど、みてた」
それがどういう意味なのか、今は深く考えられなかった。
ネムリアはそれ以上何も聞かない。
焚火の方へ顔を向ける。
風の向きを見る。
火の大きさを見る。
それから天幕の方へ視線を移した。
「こっち」
短く言って、ユキトの手首に触れる。
強く引っ張るわけではない。
逃がさないほどでもない。
ただ、ここにいても駄目だと分かっている手つきだった。
「……いや、俺、見張り」
「だめ」
「いや、まだ――」
「だめ」
今度はさっきより少しだけはっきり言って、ネムリアは立ち上がった。
そのまま手首を引く。
眠そうなくせに、こういう時だけ妙に迷いがない。
ユキトは抵抗しかけた。
だが、立ち上がった瞬間、自分の膝から力が抜けかけているのが分かった。
思った以上に身体が冷えている。
夢から覚めたはずなのに、芯のところにまだ寒さが残っていた。
ネムリアは一度だけユキトの顔を見た。
何も言わず、先に天幕の中へ入る。
中は暗かったが、寝床の位置くらいは分かる。
ただ、ネムリアはすぐに横にならなかった。
天幕の布の端を押さえる。
風が入りやすい隙間を直す。
敷いてある布を少しずらす。
毛布を持ち上げ、焚火の熱がわずかに届き、外の音も消えきらない場所へ寝床を寄せる。
波の音が聞こえる。
でも風は直に当たりすぎない。
火の気は感じるが、眩しすぎない。
ネムリアはそういう細かいところを、迷いなく選んでいった。
「……そこまで変わるか?」
かろうじて出した声に、ネムリアは振り向かない。
「かわる」
短い断定だった。
それから毛布の端を持ち上げて、ユキトを見る。
「ここ」
ユキトは少しだけ黙った。
眠るつもりはなかった。
眠っていいとも思えなかった。
何かあったら。
夜の海で何かが船に取りついたら。
火山の方で何かが起きたら。
起きていなければ間に合わない。
そんな考えが、頭より先に身体に染みついている。
「……寝たら、駄目だろ」
ネムリアは首を傾げた。
「なんで?」
「何かあったら」
「わたし、みてる」
「いや、お前だって寝るだろ」
「ねる。でも、みる」
意味が分からないようでいて、ネムリアの中では何の矛盾もないらしい。
ユキトが何か言い返す前に、ネムリアは少しだけ近づいた。
「ひとりで、おきなくていい」
その一言が、妙に深く刺さった。
論破されたわけじゃない。
説得されたわけでもない。
正しい理屈を出されたわけでもない。
ただ、その言葉だけで、自分が今までどれだけ「ひとりで起きていなければいけない」と思っていたのかを、逆に見せられた気がした。
ユキトはゆっくり息を吐く。
「……ちょっとだけだぞ」
「うん」
その返事は、あまりにも素直だった。
ユキトが横になると、ネムリアは上から毛布を整えた。
肩のあたりを直す。
風が入らないように端を押さえる。
布の皺を軽く伸ばす。
その手つきが妙に丁寧で、ユキトは少しだけ目を細めた。
「お前、こういうの……」
「すき」
「まだ何も言ってねえ」
「たぶん、あってる」
「……そうかよ」
ネムリアは小さく頷いてから、少しだけ動きを止めた。
そこで初めて、ほんのわずかに迷ったように見えた。
抱くかどうか。
ここまでしていいのかどうか。
そんな一瞬のためらい。
けれど、それは本当に一瞬だった。
次の瞬間には、ネムリアも毛布の中へ入り込んでくる。
ユキトの隣に、自然な顔で横になる。
ただし、その距離は近かった。
近すぎるくらいに。
「……おい」
「ん」
「近くないか」
「ちかい」
「自覚あんのかよ」
「ある」
そこはあるのか、と思った瞬間、ネムリアの腕が背中に回った。
壊れ物を包むみたいに、やわらかく。
力は強くない。
押さえつけるようでもない。
逃げ場がないわけじゃないのに、逃げなくていいと思わせる抱き方だった。
もう片方の手が、頭の後ろに回る。
少しだけ引き寄せられて、ユキトの額がネムリアの胸元に触れた。
その温度に、息が止まる。
「……ねむって」
ネムリアの声は、いつもより少し小さかった。
大胆に抱いているくせに、たぶん少し照れている。
顔は見えなかったが、声だけで分かる。
「いや、だから……」
「ねていい」
「でも」
「わたし、いる」
短い。
でも、それだけで言葉が続かなくなる。
背中を撫でる手が、ゆっくり動く。
急かさない。
慰めるというより、呼吸をほどくみたいな動きだった。
「……こわかった?」
ユキトは答えられなかった。
夢の内容を言えば、今度は本当に現実になる気がした。
あの言葉を口に出した瞬間、全部自分の本音だったと決まってしまう気がした。
だから黙る。
ネムリアは、それ以上聞かなかった。
「……へいきじゃない」
「でも、いい」
「いまは、こっち」
そのまま、もう一度だけ背中を撫でる。
外では波の音がしていた。
焚火の火が小さく爆ぜる。
風の気配もある。
島の夜の音が、完全には遠ざからない。
そこがよかった。
何もかも切り離された静けさじゃない。
ちゃんと外の気配があるまま、その内側に守られている感じがした。
ユキトは目を閉じる。
眠るつもりは、まだなかった。
でも、身体の方が先に諦め始めていた。
こわばっていた肩が少しずつ落ちる。
浅かった呼吸が、少しだけ深くなる。
「……ネムリア」
「ん」
「……離れるなよ」
言ってから、自分でもひどく情けないと思った。
子供みたいだ。
みっともない。
でも、今は取り繕えなかった。
ネムリアは少しだけ黙って、それから答えた。
「……うん」
それだけだった。
でもその一音が、夢の中で遠ざかった声とはまるで違っていた。
温かかった。
そのまま、ユキトの意識は落ちた。
朝、目が覚めた時、最初に聞こえたのは波の音だった。
次に、鳥の声がひとつ。
遠い。
陸の上では少ないはずの鳥の声が、たまたま海辺まで来ているらしい。
目を開けると、天幕の布越しに朝の光が滲んでいた。
隣にはまだネムリアがいる。
眠っているのか起きているのか分からない顔で、静かにこちらを見ていた。
「……おはよ」
小さな声だった。
ユキトはしばらく、状況が飲み込めなかった。
夜は終わっている。
島もある。
船もある。
火山も、たぶんまだある。
何も壊れていない。
そして自分は、見張りの途中で寝落ちしたあと、さらにちゃんと寝た。
それなのに、何も起きていなかった。
「……何か、あったか」
起き抜けにまず出た言葉がそれだった。
ネムリアは瞬きをひとつして、首を横に振る。
「なにも」
「船は」
「ある」
「火山」
「まだある」
「……そりゃそうか」
ユキトは額を押さえた。
寝てしまった。
しかも、思ったより深く。
なのに、何も終わっていない。
その事実が、妙に胸に引っかかった。
安心したいのか、責めたいのか、自分でもよく分からない。
ネムリアはそんなユキトを見て、小さく言った。
「ねても、おわらない」
ユキトは顔を上げた。
ネムリアは言い切ったあとで、ほんの少しだけ目をそらした。
自分でも少し照れたらしい。
でも、言葉は引っ込めなかった。
「……そう見えたか?」
「みえた」
「お前、そういうとこだけ鋭いよな」
「そういうとこ、だけじゃない」
「はいはい」
返してから、ユキトは少しだけ笑った。
ほんの少しだけだったが、昨日の夜よりはましだった。
外に出ると、朝の空気はもう昨日より暑くなり始めていた。
白い砂が光り、海は相変わらず馬鹿みたいに綺麗だった。
ヴォルカとフローラも、夜のうちにいったん戻ってきていた。
忘れ物を取りに来たついでに、船まわりの簡単な確認も済ませていたらしい。
「おはようございます、ユキトさん」
ヴォルカが振り向く。
いつも通りだ。
ちゃんといる。
死んでいない。
夢の余韻が胸の奥でじわりと痛んだが、ユキトは顔に出さなかった。
「おはよ。向こうはどうだった」
「仮拠点の整地はかなり進みました。今日中にもう少し形になります」
フローラが答える。
その声もいつも通りだった。
拒絶もない。
責める色もない。
ただ、ユキトの方はまともに目を合わせるまでに少し時間が必要だった。
ネムリアがその横で、特に何も言わずに立っている。
それだけで少しだけ呼吸が楽になる。
一度寝ても、世界は終わらなかった。
自分が起き続けていなくても、全部が壊れるわけではなかった。
それを理解したからといって、すぐに変われるわけじゃない。
でも、身体のどこかに一つだけ新しい感覚が残っていた。
――眠っても、終わらない。
その日から、少しずつ形が変わり始めた。
最初の数日は、島そのものがまだ落ち着いていなかった。
地の奥で何かがうごめいているみたいな気配があって、遠くで低く響く音がすることもあった。
足元がごく小さく揺れることもあった。
けれど、それも少しずつ変わっていった。
遠い地鳴りを聞く回数が減っていく。
ふいに身構えるような揺れも、前より間が空く。
山の方を見た時の嫌な緊張も、ほんの少しずつ薄れていく。
はっきりと収まったと言い切れるほどではない。
でも、体感で分かるくらいには、噴火や地震の気配は減っていた。
島が少しずつ、こちらを拒まなくなっていくみたいだった。
工事そのものはヴォルカとフローラが中心だった。
ヴォルカは火山側の岩盤を見て、危険な熱の流れを避けるように地形を削った。
フローラは水場の周辺を整え、土の流れを見ながら仮拠点の範囲を決めていった。
二人が作るのは、家そのものというより、まず暮らしが逃げ出さずに済む場所だった。
風が通ること。
雨が流れること。
火山の異変があればすぐ分かること。
水を運びすぎなくていいこと。
海から戻った時に、身体を休める場所があること。
そういう一つ一つが形になっていく。
その間、ユキトとネムリアは島を歩き回った。
地図を作るほど立派なものではない。
けれど、毎日歩くと分かることがある。
朝に風が抜ける場所。
昼に熱がこもる岩場。
夕方になると虫が多くなる湿った草むら。
干潮の時だけ歩ける細い砂地。
踏むと崩れやすい斜面。
海鳥が降りてくる岩棚。
ネムリアは、そういう場所を妙によく覚えた。
「ここ、ひるね、だめ」
「何でだよ。陰あるぞ」
「むし、おおい」
「……確かに多いな」
「こっち」
そう言って少し離れた木陰へ案内する。
そこは風が通り、地面も乾いていて、波の音が近すぎない。
「お前、寝る場所に関してだけは信用できるな」
「だけじゃない」
「悪かったよ」
ネムリアは少しだけ満足そうに頷いた。
別の日には、船から仮拠点へ荷を運ぶ途中で、ネムリアがふいに足を止めた。
「ここ、よる、つよい」
「何が」
「かぜ」
「分かるのか?」
「たぶん」
試しにその晩、そこへ置いていた軽い布を見に行くと、見事に飛ばされかけていた。
ユキトは布を押さえながら、隣のネムリアを見る。
「……当たりかよ」
「うん」
「何で分かるんだ」
「ねむれなさそうな場所だから」
「基準が全部そこなんだよな」
「だいじ」
その言い方が真面目で、ユキトは笑った。
ネムリアの感覚は、戦闘や工事には向いていない。
ヴォルカのように地形を変えられるわけでもない。
フローラのように土や水を整えられるわけでもない。
でも、どこなら落ち着けるか。
どこなら身体が休まるか。
どこなら目を閉じても怖くないか。
そういうことに関してだけは、ひどく鋭かった。
そして、それは今のユキトにとって、思った以上に必要な力だった。
シロネコの痕跡は、相変わらず見つからなかった。
砂浜にもない。
林の中にもない。
水場の周りにもない。
古い巣穴らしきものもなければ、爪痕もない。
それでもネムリアは、たまに言った。
「いる」
「まだ言うのか」
「いるかもしれない」
「ちょっと弱くなったな」
「やっぱり、ぜったいいる」
その言い方が妙に可笑しくて、ユキトはそのたびに笑った。
夜も、前とは変わった。
最初の夜のように、ユキトが一人で焚火の前に座り続けることは減っていった。
完全になくなったわけではない。
たまにはまだ外に出る。
火を見る。
海を見る。
火山の影を見る。
そうしないと落ち着かない夜もあった。
けれど、そんな時も少し遅れてネムリアが来た。
「……また来たのか」
「またきた」
「寝てろよ」
「ねる。でも、こっち」
「どういう理屈だよ」
「わたしのやくめ」
「そんな役目つけた覚えねえぞ」
「いま、ついた」
ネムリアは当然みたいに隣へ座る。
肩が触れる。
昔なら、ユキトはすぐに軽口でごまかしたか、距離を取ったかもしれない。
でも今は、そのままにしておくことが増えた。
島の夜は静かだった。
海の音だけがある。
その静けさの中で一人で起きているより、隣に誰かがいてくれる方が落ち着くと知ってしまったのは、たぶんよくなかった。
でも、もう知ってしまった。
「……お前、近いよな」
「ちかい」
「自覚あるのか」
「ある」
「あるのかよ」
「でも、ふたりきりだから、いい」
そう言ったあと、ネムリアは少しだけ耳を赤くした。
自分で言って照れるなら最初から言うな、とユキトは思う。
でもそのちぐはぐさが妙に可愛かった。
ネムリアの距離は、少しずつ島の生活の中に入り込んでいった。
休憩場所を決める時。
寝床を移す時。
荷物の置き場を変える時。
夜、焚火を消す時。
朝、起きる前の少しの時間。
彼女はいつも眠そうで、言葉も少なくて、頼りなさそうに見える。
けれど気づけば、ユキトが休める場所にはだいたいネムリアがいた。
それは甘さというより、いつの間にかできた生活の形に近かった。
「お前、こういうの本当に好きなんだな」
「すき」
「何が楽しいんだ?」
「ねれる」
「それが最優先か」
「ねれると、あした、うごける」
何気ない言葉だった。
でもユキトは、少しだけ黙った。
眠ることが、逃げではなくなる。
休むことが、諦めではなくなる。
明日動くために眠る。
ネムリアはたぶん、そんなことを理屈で言っているわけではない。
ただ、自分の感覚で当然のことを言っているだけだ。
それがユキトには、時々ひどく眩しかった。
夢の内容を、ユキトは全部は話さなかった。
言えなかったと言った方が近い。
ただ、一度だけ夜の海辺で、ぽつりとこぼしたことはある。
「変な夢見た」
ネムリアは隣に座ったまま、波の音を聞いていた。
「うん」
「置いてかれる夢だった」
少し間が空く。
ネムリアが、静かに聞く。
「……こわかった?」
ユキトはすぐには答えなかった。
そんなふうに言葉にしてしまえば、本当に自分が怯えていたことまで認める気がした。
子供みたいで、情けなくて、できればそのまま誤魔化したかった。
けれど、ネムリアは急かさない。
ただ待っていた。
ユキトは小さく息を吐く。
「……ああ」
少しだけ間を置いて、今度はちゃんと言った。
「怖かった」
ネムリアはそこでユキトを見た。
問い詰めない。
何があったのか、誰が出てきたのかも聞かない。
ただ、その言葉を受け取る。
「ひとりで、みなくていい」
それだけだった。
ユキトは返事をしなかった。
しなかったが、その夜は自分から少しだけネムリアの方へ寄った。
二度目の夢を見たのは、工事の終わりがようやく見え始めたころだった。
その夜も、寝る時にはネムリアが当然みたいに隣にいた。
風は穏やかで、波の音も静かで、火山も遠かった。
以前ほど強く眠りを拒む気配は、もうなかった。
ユキトは目を閉じる。
ネムリアの腕が背中にある。
呼吸が近い。
胸元のぬくもりが、ちゃんとそこにある。
それを感じたまま、意識がゆっくり沈んでいった。
気づくと、そこは白かった。
眩しいほどではない。
ただ、やわらかな光がどこまでも満ちている。
空も、床も、風も、何もかもが静かだった。
派手な祭壇もない。
大勢の参列者もいない。
鐘の音も楽団もない。
白い花が、静かに咲いている。
その向こうに、海が見えた。
淡い青が揺れている。
島の海に似ていたが、もっと優しく、もっと穏やかだった。
式場だ、と夢の中のユキトは知っていた。
理由は分からない。
けれど最初から分かっていた。
ここが、結婚式の場所なのだと。
そして、その先にネムリアが立っていた。
白いドレスを着ている。
飾り立てすぎたものじゃない、静かな形のドレスだった。
胸元も肩もひどく華やかに作られているわけじゃないのに、だからこそネムリアによく似合っていた。
ふわりと軽い裾が、立っているだけで少し揺れる。
髪も、いつもより少しだけ整えられていた。
眠たげな雰囲気を残したまま、ちゃんと今日のために触れられた感じがある。
その少しだけ特別な感じが、ひどくネムリアらしかった。
ネムリアは明らかに落ち着いていなかった。
裾が気になるのか、指先でそっと布の端をつまむ。
じっと立っているつもりなのに、ほんの少しだけ重心が揺れる。
いつもの眠たげな目なのに、今日はそこにちゃんと緊張があった。
でも逃げたそうではなかった。
ただ、照れて、困って、それでもここにいた。
ユキトは、その姿を見たまま動けなかった。
綺麗だった。
それはそうだった。
けれど胸に残ったのは、それだけじゃない。
ちゃんと花嫁の格好をしているのに、澄ましきれなくて、少しそわそわしていて、でも嬉しそうで。
そういう全部が、ネムリアだった。
ただ、最初から最後までこの人だけを見ている、という感覚が自分の中にあった。
ヴォルカもいない。
フローラもいない。
誰も出てこない。
誰かを失ったあとで残ったものに縋る形じゃなかった。
比べる必要もなかった。
焦って選び取る必要もなかった。
埋め合わせみたいに何かを差し出さなくていい。
最初から、ネムリアだけがいる。
そのことに、ユキトはひどく安心した。
それだけでいいのだと思える静けさが、そこにはあった。
ネムリアがこちらを見る。
視線が合った瞬間、ぴたりとは見ていられなかったらしい。
ほんの少しだけ目をそらして、でもまた気になって戻してくる。
「……みすぎ」
夢の中でも、言うことはあまり変わらなかった。
ユキトは思わず笑った。
「そりゃ見るだろ」
「……そんなに?」
「そんなに」
ネムリアは困ったみたいに唇を結んで、それから小さく裾を握る。
「……へん?」
「お前が、すごい可愛い格好してるからだろ」
その言葉に、ネムリアの目が少しだけ丸くなった。
それから、耳までうっすら赤くなる。
「……いま、そういうの、だめ」
「何がだよ」
「もっと、てれる」
本気で困っているのに、嫌がってはいない。
むしろ嬉しいのを隠しきれていない。
でも逃げない。
その場にちゃんと立っている。
ユキトは、ゆっくりとその前まで歩いた。
夢なのに、不思議なくらい足取りは軽かった。
手の中に指輪がある。
一回目の夢みたいな焦りはない。
これを差し出さなければ終わる、という切迫感もない。
ただ、ここで渡したいと思っていた。
ネムリアの前で立ち止まる。
近くで見ると、ますます綺麗だった。
綺麗で、可愛くて、少しだけ困っているみたいで、でもちゃんと嬉しそうだった。
「ネムリア」
呼ぶと、ネムリアは「ん」と小さく返した。
その返事があまりにもいつも通りで、ユキトは少し肩の力が抜けた。
「こういうの、苦手か?」
「……ちょっと」
「やっぱり」
「でも、いやじゃない」
「そうか」
「うん」
それからネムリアはほんの少しだけ間を置いて、声を小さくした。
「……ふたりだけ、だから」
その一言が、すごくネムリアらしかった。
大勢の前で祝われるより、こうして静かに隣にいる方がいい。
華やかさより、ちゃんと二人でいる方がいい。
この式は、たぶんそういう夢だった。
ユキトは指輪を持った手を上げる。
今度は震えていない。
ネムリアを見る。
ちゃんと、この人だけを見る。
「一緒に生きていたい」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほどまっすぐだった。
綺麗に飾ろうとしなかった。
守るとか、誓うとか、幸せにするとか、そういう強い言葉ではなく。
でも、そのどれよりも本音だった。
「ずっと隣にいてほしい、とか」
「ひとりにしない、とか」
「そういうのも、たぶんある」
ネムリアは黙って聞いている。
「でも、それより」
「俺が、お前と一緒に生きていたい」
ネムリア自身と、これから先を一緒にしたい。
その願いだけが、すとんと胸の真ん中に落ちていた。
「お前がいる未来がいい」
「お前が笑ってるとこも、眠そうなとこも、面倒くさがってるとこも、近すぎるとこも」
「そういうの全部含めて、隣で見ていたい」
ネムリアの目が少しだけ見開かれる。
「……そんなに?」
「そんなに」
「……みてる」
「見てるよ」
「へん」
「お互い様だろ」
そこでようやく、ネムリアが少しだけ笑った。
照れている。
けれど嬉しそうだった。
その笑い方に、夢なのに胸の奥が妙に静かになる。
ネムリアは手を差し出した。
少しだけためらう。
それから、ユキトの手に自分の指を重ねる。
「……わたしも」
小さな声だった。
「いっしょがいい」
それだけで十分だった。
ユキトはその手を取る。
指輪を通す。
今度は冷たくも重くもなかった。
ただ、ちゃんとそこに収まる感覚があった。
ネムリアは自分の指を見て、それから少し困ったように眉を寄せる。
「……なんか、てれる」
「今さらかよ」
「いま、だから」
「そういうもんか」
「そういうもの」
それから、少しだけ視線を上げて、ユキトを見る。
「……でも、うれしい」
その言葉がひどく真っ直ぐで、ユキトは一瞬何も言えなくなった。
ユキトは思う。
ただ安心したいだけじゃない。
ただ縋りたいだけじゃない。
この人と一緒に生きていたい。
その願いだけが、ひどく綺麗に胸に残った。
ネムリアが少しだけ近づく。
それから、照れたみたいに目を伏せて、小さく言う。
「……だみんりゅう、けっこんした」
ユキトは吹き出した。
「その締め方するか普通」
「だめ?」
「いや、だめじゃない」
「よかった」
笑いながらそう言うと、ネムリアは少しだけ安心した顔をした。
その顔を見ているうちに、世界が少しずつ白く滲み始める。
夢が終わるのだと分かった。
不安はなかった。
ただ、消えないでくれと思った。
でもそれ以上に、この感じをちゃんと覚えていたいと思った。
ネムリアの姿が光に溶ける直前、最後に聞こえたのは、小さな声だった。
「……おきても、いる」
その言葉で、目が覚めた。
朝だった。
天幕の中。
波の音。
島の朝の匂い。
見慣れた布と、すぐそばの体温。
ネムリアが、隣にいた。
眠っている。
いや、半分は起きているのかもしれない。
いつもの眠そうな顔のまま、ユキトの方へ少しだけ寄っている。
夢じゃない。
今度は、遠ざからなかった。
ユキトはしばらく動かなかった。
胸の奥に、さっきの夢の感触がまだ残っている。
ウェディングドレスのネムリア。
「いっしょがいい」という小さな声。
それは甘い夢だった。
都合のいい夢だった。
願望そのものの夢だった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、ようやく自分で自分の願いを見つけたような感覚があった。
ネムリアが少しだけ目を開ける。
「……おはよ」
「おはよう」
「ちゃんと、いる」
夢の最後の言葉と同じだった。
たぶん偶然だ。
でも、それだけで胸が妙に熱くなった。
「いるな」
「うん」
ネムリアはそこから少しだけ動いて、またユキトの方へ寄る。
大胆なくせに、起きたあとは少しだけ恥ずかしそうだ。
目は完全には合わせられない。
でも離れない。
「……ねれた?」
「寝れた」
「よかった」
それだけ言って、ネムリアは少しだけ口元を緩めた。
ユキトは天幕の上を見た。
白い布越しに、朝の光がやわらかく滲んでいる。
一人で起き続けなくてもいい。
眠っても終わらない。
そして、目が覚めたら、ちゃんと隣にいる。
そのことが、前よりずっと自然に思えた。
ユキトは息を吐く。
それから、ほんの少しだけ身体を預けた。
ネムリアは何も言わなかった。
ただ当たり前みたいに受け止める。
そのくせ、少しだけ耳が赤い。
「……ネムリア」
「ん」
「もう少しだけ、このままでいいか」
ネムリアは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく頷いた。
「いい」
短い返事。
でも、その声は少しだけ嬉しそうだった。
外では波の音がしている。
島は変わらずそこにある。
火山も、工事も、まだ終わっていない。
これからやることは山ほどある。
それでも今だけは、急がなくてよかった。
ネムリアの腕の中は、もうただの逃げ場じゃなかった。
休める場所で、戻ってこられる場所で、そしてたぶん、少しずつ「一緒に生きていきたい」と思い始めた場所だった。
隣には、ちゃんとネムリアがいた。




