61.渡せなかった未来
朝はまだ早かった。
空はすでに明るみ始めていたが、島の熱はまだ本格的には上がっていない。夜の湿り気がわずかに残り、潮の匂いも、昼間よりやわらかかった。
船の近くでは、ヴォルカとフローラがもう動き始めている。
昨日のうちにまとめておいた資材を見直し、今日運ぶ分を分け、簡単な打ち合わせをしているらしい。二人とも朝に強い。いや、強いというより、やるべきことがある時の切り替えが早い。
その様子を少し離れたところから見て、ユキトは肩をすくめた。
「俺たちはあれだな。戦力外チームだ」
隣で、ネムリアが眠そうな目のまま顔を上げる。
「ひどい」
「事実だ」
「……」
ネムリアは考えるように黙ってから、ぽつりと言った。
「なら、なまえ、なににする」
「名前?」
「ちーむ」
「そんなもん要るのかよ」
言ってから、ユキトは少し考えた。
こういうくだらないことに付き合ってくれる相手がいるのは、案外悪くない。朝っぱらから土と石と資材に囲まれている横で、自分たちは完全に別方向の話をしている。それが妙に可笑しかった。
「いや、いるか。大事だな」
「だいじ」
「うーん……」
腕を組んで悩んでいると、ネムリアが先に答えを出した。
「だみんりゅう」
ユキトは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「いいなそれ。よし、今日から俺らはチーム惰眠竜。昼寝しながら島を守る新組織だ」
「それ、いい」
「気に入ったのかよ」
「すき」
さらっと言って、ネムリアはまた瞬きをした。
ユキトは笑いながら、肩の荷を持ち直す。
「まあ、冗談はさておき」
「じょうだんじゃない」
「おい」
訂正は入ったが、無視した。
「工事そのものは、正直俺ら向いてねえだろ」
ヴォルカは力仕事も整地もできる。フローラは地盤の調整も、土壌や水の扱いも得意だ。比べる相手が悪いとも言えるが、少なくとも自分とネムリアが前線に立つ形ではない。
「でも、自分たちにできることはある」
島の地形を見る。危険がないか確かめる。水場や木陰、使えそうな場所を把握する。生態系を調べる。今後暮らしていくなら、そういう下見は無駄にならない。
「島の調査、ってこと?」
ネムリアが聞く。
「そういうこと。今のうちに見といた方が後で役に立つ」
「ん」
短く頷くと、ネムリアはそれだけで納得した。
無理に気合いを入れるでもなく、嫌そうな顔もせず、ただ自然についてくる。
「じゃ、俺達も出るか」
「しゅっぱつ」
二人は工事組より少し早く、その場を離れた。
船を置いた砂浜は、最初に見た時から綺麗だった。
白い砂が陽を受けるとやけに明るく見えて、波が引くたびに薄い水の膜が光を返す。海は透明で、船の影がそのまま揺れているのが見えるくらいだ。
一昨日ここへ辿り着いた時も、ずいぶん穏やかな浜だと思った。
だが、歩き始めてしばらくして、ユキトは気づいた。
この島は、船を置いた砂浜だけが特別綺麗なわけじゃない。
少し場所を変えるだけで、また違う綺麗さがあった。
入り江になっている場所は波がさらに静かで、水の色が淡い青から透けるような緑へ変わっていく。岩場の下には小魚の群れがきらつき、浅瀬には細い海藻が揺れている。白い砂の上に落ちる影すらくっきりしていて、海の底がそのまま見えてしまうほど透明だった。
「……すげえな」
思わず漏らすと、ネムリアも海を見た。
「きれい」
「ああ」
歩くたびに景色が変わる。
白い浜と青い海の向こうで、灰の届いていない緑が濃く茂っている。見ているだけなら、火山の島だとは思えなかった。
火山さえなければ、本当に穏やかでいい場所だ。
ユキトはそんなことを思った。
海辺にはちゃんと生き物の気配があった。
波打ち際を走る小さな蟹。岩陰に張り付く貝。水中をきらきらと抜けていく細い魚影。潮の匂いの中に、ちゃんと海が生きている感じがある。
だが、浜から少し陸へ上がると、空気が変わった。
草木はある。岩もある。地面も荒れているわけではない。
なのに、妙に生き物の気配が薄い。
鳥の声が少ない。獣が走る気配もない。葉が揺れる音と、自分たちの足音ばかりがやけに近い。
ネムリアもそれを感じたのか、視線を巡らせる。
「うえ、しずか」
「だな」
海には気配がある。けれど陸の上だけ、妙に薄い。
不気味というほどではないが、偏っている感じはあった。
「火山の影響かね」
「わからない」
「だろうな。俺も分からん」
軽く返して、二人はまた歩き出した。
しばらく進んだところで、ネムリアが足を止めた。
白い砂が細く続く先、陰になった場所を見ている。
「しろねこどこ?」
唐突に言われて、ユキトは「ああ」と声を漏らした。
島の名前か、とそこで思い至る。
「そういや、調査書にそんなこと書いてたな」
歩きながら思い返す。
王国側が用意した資料の中に、島の簡単な由来も載っていた。交易や地形、水源、火山の危険性のついでみたいに、小さく。
「昔、この島にはシロネコがいたらしい」
「ん」
「毛並みが綺麗で、昔はわりと有名だったとかなんとか。だからシロネコ島」
「いた」
「いたらしい」
そこでユキトは周囲を見回した。
静かな陸。生き物の気配の薄さ。火山の活性化。暮らしに向いているとは言いづらい土地。
「でもまあ」
彼は肩をすくめる。
「火山がますます活性化して、住める場所も減ったなら、たぶんもういないんだろうな」
希望を持たせるような言い方はしなかった。
そういう島じゃない、と今の景色が言っている気がしたからだ。
ネムリアは黙って、それからきっぱり言った。
「いる」
「……いるのかよ」
「さがそう」
その断定があまりにも迷いなくて、ユキトは笑ってしまった。
「探すのか」
「うん」
「いや、まあ、調査ついでならいいけど」
「ん」
それで話は決まったらしい。
ネムリアはもう歩き出している。眠そうなくせに、こういう時だけ足取りが少しまっすぐだ。
ユキトは苦笑しながら、その後を追った。
シロネコ探しは、そのまま島の生態調査になった。
もっとも、成果らしい成果はない。
岩場の陰を見ても、草の間を覗いても、水場になりそうな場所を回っても、それらしい気配は一つも見つからなかった。
足跡はない。毛も落ちていない。鳴き声も聞こえない。
いる、と言い張ったネムリアも、途中からは探すこと自体を目的にしているような顔になっていた。
それでも彼女は意外と細かく見ていた。
「ここ、すずしい」
「岩、ひびある」
「みず、あっちにもある」
「このみち、あるきやすい」
眠そうな口調のまま、ぽつぽつと言う。
ユキトはそれを頭の中で拾っていく。
実際、工事組があとで動くなら、こういう情報は役に立つ。日陰の位置、水の流れ、通りやすい場所、崩れそうな岩場。真面目に見れば見るほど、遊びでは終わらなかった。
「お前、意外とちゃんと見てんな」
「ちゃんとみてる」
「普段寝てるのに?」
「みてるときは、みてる」
「器用だな」
「えらい」
「自分で言うな」
言いながら、ユキトは笑った。
二人きりで歩く時間は、妙に気楽だった。
ヴォルカやフローラといる時間が嫌なわけじゃない。そっちはそっちで、落ち着くし頼れるし、もう生活の一部みたいになっている。
ただ、ネムリアと二人でいる時は、それとは別の意味で肩の力が抜ける。
会話が続かなくても不自然じゃない。沈黙が重くならない。無理に盛り上げなくていい。
波の音と風と、時々ぽつぽつ落ちる短い言葉だけで成立する時間だった。
白い砂浜を抜け、少し高い場所から海を見下ろすと、青が幾重にも重なって見えた。浅瀬の透ける色から、沖の深い青まで滑らかに変わっていく。その境目がやけに綺麗で、思わず足を止める。
「ほんとに……火山さえなけりゃな」
ユキトがそう言うと、ネムリアも隣で海を見た。
「ここ、すめる?」
「どうだろうな」
考える。
「まあ、昨日より穏やかには見える」
「ん」
ネムリアはそれ以上言わなかった。
ただ、肩が触れるくらいの距離で立っていた。
気づけば、日がだいぶ傾いていた。
島を歩き回った分だけ、足は素直に重い。
砂浜に戻ってくる頃には、朝の軽さはもうどこにもなかった。
船の近くまで来たところで、ユキトは背負っていた荷を下ろし、そのまま砂の上に腰を落とした。
ネムリアも隣にしゃがむ。
「だみんりゅう、つかれた」
「お前、それ気に入ったんだな」
「すき」
疲れているくせに、そこだけは即答だった。
ユキトは小さく笑ってから、船の方へ目をやる。
ヴォルカとフローラの姿はない。もう火山へ出発したらしい。
工事が進んでいる間は、あの二人は基本的に向こうの拠点側だ。
整地や仮設の調整、水回りの確認まで含めれば、戻らない日の方が多いだろう。
それを思い出して、ユキトは立ち上がった。
「……さて」
「ん」
「飯だ」
ネムリアが少しだけ目を瞬かせる。
「ヴォルカとフローラは?」
「工事が落ち着くか、何か起きるまでは、こっちに戻らない」
「うん」
「つまり今日からは俺らでやる」
ネムリアは黙ってユキトを見る。
ユキトは肩をすくめた。
「ここでの生活、最初の試練だな」
ネムリアは数秒考えてから、ぽつりと言った。
「しれん」
「そういうことだ」
船から食料と小鍋を下ろしながら、ユキトはわざとらしくため息をつく。
「普段やらないお前も参加な」
「……わたしも?」
「当たり前だろ。見てるだけで飯が完成するなら苦労しねえ」
「む」
「む、じゃない」
「むずかしい」
「安心しろ。俺も大して凝ったもんは作れん」
ネムリアは少し考えてから言った。
「つくれ」
「無茶言うな」
ユキトは苦笑しながら、船から食料を下ろした。
そう言って並べたのは、干し肉、乾パン、少しの干し魚、塩、水。
それに今日見て回った途中で、使えそうだと判断して摘んできた葉が少し。
相変わらず質素だったが、腹を満たすだけなら十分だった。
「火は任せる」
ユキトが言うと、ネムリアは素直に頷いた。
「わかった」
こういう時のネムリアは、眠そうな顔のわりに手元がぶれない。
小枝の組み方も、風を避ける位置も、火を育てる間合いも妙に慣れている。
ユキトは水を鍋に入れながら、その様子を横目で見た。
「お前、そこだけ妙に上手いな」
ネムリアは火を見たまま答える。
「こうやってつくるの、すき」
「ちゃんとできるじゃん……なんだよ、これならもっと早く気づいとけばよかったな」
「……いま、きづいたの?」
「今気づいた」
「おそい」
「悪かったよ。お前の才能見落としてた」
「じつは、ゆうのう」
火が落ち着いたところで、鍋をかける。
乾パンを砕き、干し肉を割って入れ、塩を少し落とす。
手間をかける料理ではない。煮て柔らかくして、食える形にするだけだ。
ネムリアが鍋を覗き込む。
「それ、おいしい?」
「可もなく不可もなくって感じだ」
「おいしくない?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、おいしい」
「雑な判定だな
ネムリアは少し考えてから、木匙を手に取った。
「まぜる」
「頼む」
湯気の立つ鍋の前で、二人並んでしゃがみこむ。
ネムリアは真面目な顔で鍋を混ぜていた。
普段なら寝転がっていてもおかしくないのに、今日は変にちゃんとしている。
「なんか意外だな」
「なにが」
「お前がこうやって参加してんの」
「ふたりきり、だから」
「……そういうこと言うよな、お前」
ネムリアはそれには答えず、しばらく鍋を見つめてから小さく言った。
「ふたりで、つくるの、すき」
「……そうか」
「うん」
その言葉だけで、妙に空気がやわらいだ。
鍋の中身は、見た目に期待できるものではなかった。
だが、ちゃんと温かい。ちゃんと湯気が立つ。
日が傾いたあとの海風の中では、それだけで十分ありがたかった。
器に分けて食べ始めると、ネムリアは一口目で少し止まった。
「どうだ」
「……」
「おい」
「かんがえてる」
「何を」
「ほんとに、おいしいか」
「正直すぎるだろ」
ユキトが吹き出すと、ネムリアも少しだけ口元を緩めた。
味は簡素だった。
でも、疲れた身体にはそれでよかった。
食べ終える頃には、空はすっかり夕焼けの色を落とし始めていた。
白かった砂は薄く赤みを帯び、波の端だけがまだ明るい。
ネムリアが器を置いて、少しだけ身体を寄せてくる。
「……だみんりゅう、つかれた」
「さっきも聞いたぞ」
「もっと、つかれた」
「それは大変だ」
「たいへん」
ネムリアはそのまま肩を寄せてきた。
重すぎない。甘えすぎてもいない。ただ、二人きりだから許される程度に近い。
ユキトはそれを振り払わなかった。
夜になると、船のまわりは昼間とは違う空気に包まれた。
波の音は変わらずある。火山の気配も遠くにある。だが明るさが消えるだけで、島全体が少し別のものに見える。
船は今の寝床代わりだ。
だがユキトは、中へ入って素直に眠る気にはならなかった。
夜の海も、島も、まだ全部は見えていない。火山を抱えた土地で、完全に気を抜くには早すぎた。
だから船の外に張った天幕の下で、焚火を焚いた。今夜くらいは、見張りの延長で起きているつもりだった。
船の方をちらりと見る。
中は静かだった。ヴォルカとフローラがいないぶん、その静けさはいつもより深い。ネムリアも、たぶんもう寝ている。
「……」
ユキトは火に小枝をくべた。
火が小さく爆ぜる。
波の音がする。
夜気が肌を撫でる。
目は開いているつもりだった。
起きているつもりだった。
見張っているつもりだった。
なのに。
気づいた時には、焚火の匂いも、波の音も、夜の島の空気も、どこかへ消えていた。
代わりにあったのは――熱だった。
肌を刺すような熱気。
喉の奥を焼く硫黄の臭い。
足元からじわじわと這い上がってくる、赤い光。
ユキトは息を止める。
白い浜も、焚火も、船もなかった。
目の前に広がっているのは、溶けた岩が幾筋も流れる火山だった。
空気は揺らぎ、地面はところどころ赤く脈打っている。
立っているだけで靴の裏から熱が染みてくるようだった。
その中心に、ヴォルカがいた。
黒い髪。
赤い瞳。
見慣れたはずの姿。
なのにどこか、遠い。
ユキトの手には指輪があった。
いつの間に握っていたのかも分からない。
けれど夢の中の自分は、それを差し出さなければいけないのだと知っていた。
今なら間に合う。
今ここで渡さなければいけない。
そんな焦りだけが、最初から胸にあった。
「……ヴォルカ」
声は熱に焼かれたみたいに掠れた。
ヴォルカはゆっくりと振り向いた。
怒ってはいない。
泣いてもいない。
ただ、少し困ったように眉を寄せた。
それから、申し訳なさそうに、ほんの少しだけ悲しそうに笑った。
「ユキトさん」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
嫌な予感が、理由もないのに先に来る。
ヴォルカは指輪ではなく、ユキトの顔を見た。
「忘れたんですか?」
ユキトの喉が詰まる。
「……何を」
ヴォルカは責めるようには言わなかった。
本当に、困ったように。
言いづらいことを、それでも言わなければいけない相手みたいに、静かに言った。
「私はもう、死んでいますよ」
その瞬間、世界が一度ぶれた。
「……岩盤を壊した時に」
知らない。
そんなことはない。
そんな記憶はない。
そう思うのに、同時に、胸の奥に別の映像が流れ込んでくる。
赤黒い岩盤。
噴き上がる熱。
砕ける地面。
ヴォルカの背中。
振り返らないまま、前へ出る姿。
それを、見ていた気がした。
いや、見ていなかったはずなのに。
記憶だけが、勝手に本物の顔をして入り込んでくる。
見ていた気がした。
いや、見ていなかったはずなのに。
ヴォルカが崩れる瞬間の角度まで知っている気がした。
砕けた岩がどちらへ跳ねたのかも、熱で視界が白く濁ったことも、耳の奥で何かが千切れるみたいな音がしたことも。
そんな場面、見ていない。
あるはずがない。
まだ起きてもいない。
それなのに、思い出してしまったものみたいに、細部だけが妙に鮮明だった。
勝手に、ユキトの知らないはずの失敗を作っていく。
「ちが……」
声にならない。
ヴォルカは小さく首を横に振った。
否定ではなかった。
落ち着かせようとする仕草に近かった。
「あの時、大きいのを潰せばもう大丈夫だと思ったんです」
「ちゃんと戻るつもりでした」
「でも、間に合いませんでした」
そこで一度だけ、ヴォルカは目を伏せる。
「すみません」
死んだ側が謝った。
その一言で、胸の中の何かが崩れた。
「やめろ」
思ったより低い声が出た。
「そんな言い方すんな」
「お前は……」
「お前は、ここにいるだろ」
ヴォルカは悲しそうに目を細める。
「今も、そう見えているんですね」
その言い方が、たまらなく怖かった。
いる。
目の前にいる。
声も聞こえる。
なのに、ユキトの中の何かが、目の前のヴォルカを“もういないもの”として理解し始めていた。
足元の岩が、ぴしりと割れる。
赤い光が亀裂の奥で脈を打つ。
ユキトは一歩踏み出そうとした。
けれど熱が強すぎた。
いや、熱じゃない。
進めば本当に届かないと分かってしまいそうで、足が止まった。
「違う」
否定したいのに、うまく声が出ない。
「……死んでねえ」
ようやく出た言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
ヴォルカは、悲しそうに、でも穏やかに笑う。
「そう思ってくださるのは、嬉しいです」
「でも、私はもう――」
最後まで聞こえなかった。
地割れが広がる。
赤熱した光が噴き上がり、その色が次の瞬間には白く変わっていた。
火の粉の代わりに花びらが舞う。
熱が引く。
音が遠のく。
気づけば、そこは花の神殿だった。
白い石床。
高い柱。
淡い香り。
どこまでも静かで、どこにも逃げ場がない。
その中央に、フローラが立っていた。
白い衣。
淡いピンク色の長い髪。
整った微笑み――は、なかった。
ただ静かに、まっすぐにユキトを見ている。
ユキトの手には、まだ指輪があった。
握りしめたままの指先が冷えている。
ここで渡さなければ。
今度こそ。
そう思う。
ヴォルカの言葉が頭から離れない。
胸がざわつく。
このままでは駄目だと、焦りだけが先に立つ。
「フローラ」
呼ぶと、フローラは目を逸らさなかった。
ユキトは指輪を差し出す。
差し出した瞬間、自分の手がわずかに震えているのが分かった。
フローラはそれを見た。
指輪を見る。
その手を見る。
そのあと、静かに首を横に振った。
「私はあなたにとって都合のいい女じゃありません」
その一言で、背筋が強張る。
フローラの声は静かだった。
怒鳴らない。
責め立てない。
だからこそ、言葉がまっすぐ刺さる。
「分かってくれるから」
「支えてくれるから」
「最後には受け入れてくれるから」
「そんなふうに思われたまま、これを受け取るつもりはありません」
ユキトは息を詰めた。
「……そういうつもりじゃ」
言いかけて、止まる。
本当に違うのか。
違うと言い切れるのか。
胸の中がぐらつく。
フローラは優しくもしなかったし、冷たく突き放しもしなかった。
ただ、見ていた。
見えてしまう相手の目で。
「それに、あなたはいつもそうです」
その声音で分かる。
これから来る言葉は、もっと深い。
「本当に大事なもののために、自分のプライドを捨てれば済む場面で、最後の一歩だけ折れきれない」
「守りたいと口にしながら、自分が傷つく形では守れない」
「その結果、代わりに誰かが代償を払う」
「今回も、そうだったのでしょう」
ユキトの喉が、ひどく乾く。
反射的に否定したかった。
違う、と。
そんなつもりじゃなかった、と。
でもその言葉は、胸のどこかにあまりにも綺麗に刺さった。
生かしたかった。
それは本当だ。
助けたかった。
死なせたくなかった。
でも、本当にそのためなら。
自分の格好悪さも、見栄も、意地も、全部捨てて頭を下げるべき場面があったのではないか。
そこで折れた方がよかったのではないか。
そのせいで、フローラに余計な痛みを払わせたのではないか。
「ちがう」
やっと絞り出した声は、今度はさっきよりも頼りなかった。
「俺は……」
何だ。
何を言う。
守りたかった?
本気だった?
そんなことは、もうフローラの前では言い訳にしか聞こえなかった。
フローラは目を伏せない。
「あなたが本気だったことくらい、分かっています」
「でも、本気であることと、私が受け入れることは別です」
その言葉が痛かった。
本気なら許されるわけではない。
善意なら足りるわけではない。
フローラは指輪に触れなかった。
もう少しで届く距離なのに、その距離だけが埋まらない。
「そうやって支払われた後で差し出される未来を、私は祝福できません」
静かな断定だった。
ユキトの手が、目に見えて震える。
もうこれは、未来を誓うための差し出し方じゃない。
自分でも分かっていた。
失いたくないから。
何かひとつでも形にして、繋ぎ止めたいから。
それが前に出ている。
その醜さを、フローラには全部見抜かれている。
白い花びらが一斉に舞い上がる。
神殿の柱も床も、淡い霧の中に溶けていく。
足元が柔らかくなる。
湿った土の匂いがする。
気づけば、森だった。
深い木々。
薄い霧。
音が遠い。
夜なのか朝なのかも曖昧な、柔らかな暗さ。
その中に、ネムリアがいた。
木にもたれるように立っている。
いつものように静かで、眠たげで、けれどちゃんとこっちを見ている。
ここまで来た時点で、ユキトの呼吸は浅くなっていた。
ヴォルカはもういないと言った。
フローラは受け取れないと言った。
それでも、まだ終わりたくなかった。
ネムリアを見る。
胸の奥から、ほとんど反射みたいに思う。
お前だけは。
その考えが出た瞬間、自分で気づく。
もうこれは告白じゃない。
プロポーズでもない。
最後に縋れるものへ手を伸ばしているだけだ。
それでも、止まらなかった。
「ネムリア」
声がかすれる。
ネムリアは小さく首を傾げた。
ユキトは指輪を差し出す。
今度はもう、手の震えを隠せなかった。
「お前だけは最後までいてくれると思ってた」
言ってから、胸の奥が沈む。
あまりにも剥き出しだった。
綺麗でも何でもない、本音そのものだった。
「お前は離れないと思ってた」
「せめてお前だけは……」
そこまで言って、言葉が止まる。
ネムリアはしばらく黙っていた。
すぐには返さない。
責めない。
泣かない。
ただ、静かに見ていた。
それから、小さく言った。
「……うん」
その一音だけで、少しだけ息が戻りかける。
けれど次の言葉で、それも消えた。
「……でも、それ、わたしをみてない」
ユキトの指先が固まる。
ネムリアはいつもの小さな声のまま続けた。
「……さいごに残こるものとして、みてる」
「……それは、わたしじゃない」
ユキトの指先が固まる。
ネムリアはいつもの小さな声のまま続けた。
「……お前だけは、って」
「……それ、わたしじゃなくてもいいさいご」
「……わたしを、そこにしないで」
ほんの少しだけ、ネムリアは目を伏せる。
「……わたしは、のこりものじゃない」
優しい声だった。
でも逃げ道は一つもなかった。
森が、少し深くなった気がした。
木々の影が一段濃くなる。
「ちが……」
もう何度目かも分からない否定が、また喉で止まる。
違わない。
少なくとも、全部は違わない。
ネムリアを見ていた。
ネムリアを大事に思っていた。
でも同時に、どこかで「最後まで消えないもの」として見ていた。
包んでくれるもの。
隣にいてくれるもの。
休める場所。
そこに甘えていた。
ネムリアは静かに言う。
「……お前だけは、って」
「……それ、わたしじゃなくてもいい」
「……わたしを、そこにしないで」
優しい声だった。
でも逃げ道は一つもなかった。
ユキトは一歩前に出ようとした。
足が重い。
眠気みたいに、身体の芯から沈んでいく。
叫びたいのに、声が出ない。
「待て」
かろうじて出た声は、情けないほど掠れていた。
「待ってくれ」
ネムリアは怒らなかった。
困りもしなかった。
ただ少しだけ寂しそうに目を細めて、一歩だけ下がる。
たったそれだけで、距離が一気に遠くなる。
森が深い。
霧が濃い。
届かない。
ヴォルカの姿はもうない。
フローラの気配もない。
ネムリアまで遠ざかる。
手の中には、まだ指輪があった。
冷たかった。
ひどく重かった。
渡せなかった未来だけが、形になって残っていた。
握りしめた指先が痛い。
その痛みで、ようやく目が覚めた。
火はまだ小さく燃えていた。
波の音がする。
夜気が肌を撫でる。
島の夜だ。
ちゃんと、ここにいる。
なのに胸の奥だけが、まだ夢の中に取り残されているみたいだった。
ユキトはしばらく動けなかった。
呼吸が浅い。
喉が乾いている。
手のひらに、まだ指輪の重さが残っている気がする。
もちろん、そこには何もなかった。
何もない。
それなのに、何かを取り落とした感覚だけが、ひどくはっきり残っていた。
火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
その音でようやく、ユキトは自分が小さく震えていることに気づいた




