60.またひとつ変わる
朝の空気は、思ったより澄んでいた。
前夜、遠くで噴火を見た同じ島とは思えないほど、北の浜は静かだった。
白い砂浜に寄せる波は穏やかで、風もやわらかい。夜に青白く光っていた海の名残をどこかに残したまま、朝の海は何事もなかったみたいに透き通っている。
けれど、その静けさの中にも、生活はもう始まっていた。
船は浜の上に半ば引き上げられ、昨夜のうちに最低限の拠点へ変えられている。
ただし、船の使い方ははっきり分けた。
荷を置く場所。
寝る場所。
そこまでだ。
火を使う。
食事をする。
道具を広げる。
そういう生活の気配は、船の中へ持ち込まない。
油や煙で船内を傷めたくないし、荷のあいだで鍋をひっくり返すのも御免だった。何より、船の中まで生活臭で埋めてしまうと、いざまた動かす時に困る。
だから、船のすぐ脇には簡単な天幕が張られていた。
支柱は昨日ちぎってきた木の残り。
布は買ってきた防水布と予備の幕。
日差しと風を少し避けられる程度の簡素なものだが、座って食事を取るには十分だった。
その天幕の下で、フローラが朝の支度をしている。
何もない島で、火があり、湯気が立っている。
それだけで少し安心できた。
ネムリアはまだ半分眠っていて、天幕の柱に寄りかかるように座っていた。
けれど完全に寝ているわけではない。鍋の匂いが強くなるたび、わずかに鼻先が動く。
ユキトは船の外側にしゃがみ込み、船体を固定しているロープの張りを見ていた。
昨夜の揺れで少し緩んだところを締め直し、舟底の砂の噛み方も確認する。
砂浜に半ば乗り上げた船は、昨夜よりは安定している。
それでも、完全に安心できるほどではない。
「……そっち、どうですか」
フローラの視線は鍋に向いたままだった。
「悪くねえ」
ユキトは船の状態を確かめながら、ロープをもう一度引く。
「昨日よりは安定したが、あとでもう少し砂足した方がいいな」
「後で見ます」
短いやり取りだった。
けれど、それだけでも妙に自然だった。
昨日までは“上陸した”だけだった。
今朝はもう、“暮らし始めている”側の動きになっている。
その少し離れた場所で、ヴォルカは南の山の方を見ていた。
昨夜の噴火は見えない。
だが、そこにある重さだけは消えていなかった。
ユキトは立ち上がり、手についた砂を払う。
「行くのか」
ヴォルカが振り返る。
「はい。山を一周して、危険域を見てきます」
声は落ち着いていた。
「噴気の位置、地盤の状態、どこから手をつけるべきか……先に把握しておきたいです」
「今日中に戻るんだよな」
「そのつもりです」
真面目な返事だった。
軽くはない。
だが深刻すぎもしない。
あくまで調査。戦いに行く顔ではない。
フローラも鍋から目を上げる。
「無理はしないでください。一周して危険域を確認するだけで十分です」
火の様子を見ながら、言葉を続ける。
「手を出すのは、戻ってから話して決めましょう」
「はい」
ネムリアも、ぼんやりした目のまま顔を上げた。
「……きをつけて」
ヴォルカの口元がほんの少しだけ緩む。
「はい」
ユキトはそこで少し迷った。
迷った末に、いつもより少し低い声を出す。
「……なんかあったらすぐ戻れよ。一人で抱えるな」
ヴォルカは一瞬だけ目を瞬いた。
それから微笑んでに頷いた。
「分かりました」
それを最後に、ヴォルカは山側へ歩き出した。
白い浜から離れ、少しずつ島の奥へ入っていく。
北側の静けさの中でも、彼女だけはもう別の温度で動いているように見えた。
やがてその背中が見えなくなる。
フローラが小さく息を吐いた。
「……では、こちらもやれることをやりましょうか」
「だな」
ユキトはまた船の方へ戻った。
朝食は質素だった。
だが、温かかった。
硬い乾パンも、湯で煮るだけで少し食べやすくなる。
干し肉の脂と塩が混ざると、ちゃんと“食った”感じが出るのだから不思議だ。
ネムリアは最初眠そうだったくせに、食べ始めると静かにきっちり食べた。
フローラは鍋を配りながら、残りの水と食材の計算をしている。
ユキトは一度食い始めると早かった。
ただ、食べながらも時々、視線はヴォルカが消えた方角へ向いていた。
フローラはそれに気づいていた。
けれど触れなかった。
声に出せば、余計に意識させるだけだ。
食事を終えると、三人はまた手を動かし始める。
船の固定。
天幕の張り直し。
荷の整理。
火を使う場所の片付け。
今日必要なものと、今すぐはいらないものの仕分け。
その中で、使わなかった簡易拠点キットが少し邪魔になった。
昨日、上陸してすぐは必要だと思って買ったものだ。
だが結局、寝床としては船の中の方が狭いが安全だった。
「……これ、ちょっと邪魔だな」
ユキトは箱を見下ろす。
フローラもちらりと見て頷いた。
「今は、ですね。とりあえず外へ寄せておきましょう。濡れないよう布だけ被せて」
「わかった」
ユキトは箱を引きずり、船の脇の邪魔にならない位置へ移した。
ネムリアがその様子を見て、ぼそっと呟く。
「……いらない」
「今はな」
フローラが小さく笑った。
天幕の下には、ようやく“居場所”らしいものができ始めていた。
火を使う場所は外。
食べるのも外。
話すのも外。
船の中は荷と寝床。
この分け方が、思った以上にしっくりきている。
ただし、船の中へ全員で引っ込んで眠るわけにはいかなかった。
昨夜の揺れがある。
あれがまた夜中に来た時、全員が船内で寝ていたら対応が遅れる。
船体の固定が緩むかもしれない。
荷が崩れるかもしれない。
天幕が倒れるかもしれない。
火の跡や道具の周りも確認しなければならない。
だから、夜は一人だけ外に残る。
寝ずの番、というほど大袈裟ではない。
だが、外の気配を見て、揺れが来ればすぐ全員を起こせる場所にいる必要があった。
「……つまり、見張りか」
ユキトは天幕の下を見回しながら、少し嫌そうに呟いた。
フローラは荷を整理しながら頷く。
「はい。今の段階では必要だと思います」
ネムリアが眠そうな顔で、ぼそっとこぼす。
「……そと、ねるの、やだ」
「俺もやだよ」
「じゃあ、ゆきと」
「なんで俺に押しつける流れだけ早いんだよ」
そんな軽口を挟みながらも、誰も本気で否定はしなかった。
島は静かだ。
海も穏やかだ。
けれど、その下に何かが残っている。
それを、全員がもう知っていた。
昼を過ぎる頃には、少しずつ“暮らし”の輪郭ができていた。
だからこそ、その夕方の揺れはきつかった。
最初に来たのは、音だった。
遠雷にも似ている。
けれど空からではない。
もっと低い。
もっと鈍い。
地の下の、ずっと深いところで巨大な石が擦れ合っているような、腹の底に直接響く音だった。
ユキトは手を止めた。
今のは何だ。
そう考えるより先に、砂の上へ置いていた木の器が、かた、と小さく跳ねた。
その瞬間だった。
地面が、下から突き上げてきた。
「っ――!」
膝が勝手に折れかける。
揺れた、ではない。
殴られたみたいに、足場ごと打ち上げられた。
船体がぎしりと悲鳴を上げる。
外に張った天幕の柱が軋み、防水布がばたんと大きく鳴った。
積んであった箱が一つ、横倒しになる。
木の椀が砂の上を転がり、乾いた音を立てた。
「地震……!」
フローラの声が短く飛ぶ。
その声すら、揺れの中では薄かった。
二度目が来る。
今度は横揺れだった。
船がずるりと砂を噛む音がした。
固定していたロープがぴんと張り、舟底の下で砂が削れる。
今朝やっと整えたはずの足場が、目の前で少しずつ崩されていく。
ユキトは咄嗟に船体へ手をついた。
意味があるかどうかも分からない。
ただ反射だった。
何かに掴まっていないと立っていられない。
「ネムリア!」
ネムリアはすでに天幕の柱を押さえていた。
眠そうな顔はもうどこにもない。
低い姿勢のまま、布が煽られすぎないよう片手で支えている。
フローラは転がった箱を押さえ、次の揺れに備えるように腰を落とした。
だが揺れは止まらない。
三度目は、横でも縦でもなかった。
地面そのものが、落ち着く場所を失ったみたいに細かく震え続ける。
白い砂浜が、今までの穏やかさを忘れたようにざわついていた。
波打ち際の水面にも細かい波紋が重なり、海そのものが落ち着かない生き物みたいに見える。
船体の木がきしむ。
帆柱が揺れる。
昨夜はかろうじて“揺れた”で済んだ。
だが今回は違う。
明らかに強い。
明らかに危険だ。
「昨日より……!」
ユキトは歯を食いしばる。
「ええ! 長いです!」
長い。
その言葉が、そのまま恐怖になった。
一瞬で終わる衝撃ならまだいい。
だがこれは違う。
終わる気配がない。
どこまで続くのか分からない揺れは、それだけで人を焦らせる。
ユキトの脳裏に、昨日見た遠い噴火の赤い光がよぎる。
まさか。
その考えが形になるより先に、揺れが一段深く沈み込んだ。
船がまたきしみ、固定したはずの片側がわずかに沈む。
天幕の支柱が傾き、結び目の一つが外れた。
防水布が半ば剥がれる。
火を使っていなかったことだけが救いだった。
ようやく、揺れが薄くなる。
完全に止まるまで、誰も動けなかった。
身体がまだ“次が来る”と思っている。
手を離せば、また倒れる気がした。
やがて振動が地の底へ引いていき、遅れて波の音だけが戻ってくる。
静かだった。
静かすぎた。
「……なんだ今の」
ユキトの声は低かった。
喉が乾いている。
心臓だけがやけに大きく鳴っていた。
フローラはすぐに反応しない。
ただ、南を見た。
ユキトもつられて視線を向ける。
火山。
だが、噴いていない。
少なくとも昨夜のような赤い火は見えない。
黒い山影はある。
重い気配もある。
けれど、今この瞬間に目に見える噴火はなかった。
それが逆に不気味だった。
揺れだけが来た。
しかも昨日より大きい。
なのに山は静かなまま。
「ヴォルカ……」
その名前が、自然に口をついた。
何が起きたのか、より先に。
この揺れの中で一人で山へ入っているヴォルカは無事なのか。
その一点だけが、急に現実味を持って胸へ刺さる。
フローラが短く息を吸った。
「私が見てきます」
ユキトは振り向いた。
「俺も行く!」
自分でも思った以上に大きな声が出た。
考えて出した言葉ではなかった。
ヴォルカが山にいる。
さっきの揺れの中で、一人で危険域に入っている。
そう思った瞬間、待つという選択肢が頭から消えていた。
だが、フローラは首を横に振った。
「駄目です」
「なんでだよ」
「山側は、まだ落石も噴気もガスもあります。地盤も不安定です」
フローラの声はきっぱりしていた。
「ユキトさんが入れば、守る対象が一人増えるだけです」
「でも、ヴォルカが――」
「だからこそです」
フローラはユキトを正面から見た。
「今必要なのは、気持ちで走ることではありません。危険域へ入って、状況を確認できる適性です」
一つずつ、逃げ道を塞ぐような言い方だった。
「私かヴォルカなら対応できます。でもユキトさんは違います」
ユキトは言い返そうとして、言葉を詰まらせた。
痛いほどまっすぐな言い方だった。
慰めも誤魔化しもない。
だが、その分だけ正しい。
「……俺が行ったら、邪魔になるってことか」
「はい」
フローラは即答した。
「ここを守ってください。ネムリアもお願いします」
ネムリアが小さく頷く。
「……まもる」
ユキトは拳を握った。
悔しさだけが残る。
それでも、今ここで食い下がるほど馬鹿ではいられなかった。
「……分かった」
フローラは頷き、そのまま南へ向かって走り出した。
灰が降り積もる範囲の少し手前まで行ったところで、その姿が大きく変わった。
花聖竜姫としての竜化。
白く、淡く、神聖な光を帯びた大きな翼が開き、そのまま空へ上がる。
ユキトはそれを見送ることしかできなかった。
残されたのは、ユキトとネムリアだけだった。
散った器を拾う。
倒れた箱を起こす。
天幕の張りを見直す。
外へ寄せていた簡易拠点キットが倒れていないか確認し、ずれた布を掛け直す。
やることはある。
だが手を動かしていても、意識の半分はずっと山の方角へ残っていた。
ユキトは何度も南を見る。
当然、ここからはヴォルカもフローラも見えない。
火山も静かだ。
だから余計に落ち着かない。
ネムリアは黙って片付けを手伝っていた。
励ましはない。
気の利いた慰めもない。
ただ近くにいて、一緒に動いている。
それが今は妙に助かった。
「……遅えな」
ユキトがぼそっとこぼす。
ネムリアは箱を抱え直した。
「……うん」
「大丈夫だよな」
「わかんない」
即答だった。
ユキトは少しだけ眉をしかめる。
だが、その答えが嫌だったわけではない。
むしろ変に「大丈夫」と返されるよりよかった。
「……そうだよな」
「でも」
ネムリアは箱を置き、山の方を見た。
「ふろーら、いった。だから、きっと戻る」
その言葉に、少しだけ息が抜けた。
根拠なんてない。
けれどネムリアは、こういうところで変に揺れない。
夕暮れが夜へ変わる頃、ようやく気配が戻ってきた。
最初に見えたのはフローラだった。
その少し後ろに、ヴォルカがいる。
姿を見た瞬間、ユキトはすぐに駆けた。
「おい、大丈夫か」
まず、それしか出てこなかった。
近づいて初めて、ヴォルカのひどい有様がはっきり見える。
真っ黒だった。
灰と煤で髪も顔も服も汚れている。
どこまでが元の色で、どこからが汚れなのか、一瞬では分からないくらいだった。
「怪我は」
「ありません。少し擦った程度です」
「歩けるか」
「はい」
そこまで聞いて、ようやくユキトは少し息を吐いた。
「……ならいい。先に落とせ、その汚れ」
フローラが頷く。
「浅瀬へ行きましょう」
ヴォルカは素直に従った。
白い浜の端、波が膝下まで来る浅瀬へ入る。
フローラが海水をすくってヴォルカの肩からかける。
ネムリアも隣へ入り、髪や腕についた灰を海水で流し始めた。
灰は思ったよりしつこい。
ただ濡らせば落ちるわけではなく、擦って流して、また海水をかける必要がある。
ユキトは浜に立ったまま、布を持って待つ。
「で、何があった」
声は低かった。
ヴォルカは少し黙った。
「山を一周して、危険域を見ていました。噴気孔の位置、地盤の弱い場所、溶岩の流れ……そこまでは予定通りでした」
フローラが黙って灰を落とし続ける。
ネムリアも無言で腕のあたりを洗う。
ヴォルカは続ける。
「その途中で、地震と噴火の大本になっていた主岩盤の露出箇所を見つけました」
ユキトが眉を寄せた。
「主岩盤?」
「圧を溜めて、地震と噴火の起点になっている場所です。同じような地形は多かったですが、あそこだけは明らかに違いました」
フローラの手が一瞬だけ止まる。
「それで?」
ヴォルカの声が少しだけ低くなった。
「地図に落として戻るつもりでした。ですが……その場で砕いた方が確実だと思い独断で処理しました」
海水が肩から流れ落ちる。
その間もフローラの手は止まらない。
「最大の原因は潰せました。大規模噴火と大地震の危険は、大きく減ったと思います」
ヴォルカは目を伏せる。
「ただし、危険が全部消えたわけではありません。落石、ガス、地熱、局所的不安定さは残ります」
ユキトは理屈を全部は分からない。
だが要点だけは分かった。
でかい原因を潰した。
大きな危険は減った。
でもまだ危ない場所は残る。
それで十分だった。
ヴォルカはさらに深く目を伏せた。
「勝手にやって、心配をかけました。すみません」
フローラの声が静かに落ちる。
静かだった。
だからこそ刺さる。
「成果があったことは分かっています。ですが、それとこれとは別です」
ヴォルカの肩についた灰を洗いながら、フローラは続ける。
「次からは先に伝えてください。迎えに行く側の身にもなってください」
ヴォルカは素直に頷いた。
「……はい」
ユキトもそこで口を挟む。
「……心配した」
それだけだった。
怒鳴らない。
責め立てない。
けれど、その一言に全部入っていた。
ヴォルカは一瞬だけ目を伏せる。
「……はい」
ネムリアが、髪の先の灰を落としながら、ぽつりとこぼした。
「……びっくりした」
短い。
けれど、その一言は妙に重かった。
ヴォルカが少しだけ目を伏せる。
「ごめんなさい」
波が足元を揺らした。
海水の中で灰が薄く広がっていく。
しばらくして、ヴォルカは少しだけ表情を整えた。
「それと、山側で、使えそうな天然温泉脈を見つけました」
ユキトが目を瞬く。
「温泉?」
「はい。それから、生活に使えそうな湧き水の筋も。工事の前進拠点にできる場所もあります」
フローラの目がわずかに細くなる。
今度は叱責ではなく、別の意味で考え始めた顔だった。
ヴォルカはそこで、少し迷う。
「明日から、私は山で生活してもいいですか」
「山で?」
「はい。毎日の移動時間を減らしたいです。工事の効率も上がります。危険域の監視も、その方がしやすいです」
今度は勝手に動かない。
ちゃんと確認として話している。
そこがさっきまでと違っていた。
フローラが考え込む。
「湧き水が本当に生活用に使えるなら、早めに押さえるべきですね。温泉と地熱も、生活基盤に組み込めるか見たいです」
そして、すぐに判断を下す。
「……私も行きます」
ユキトはそちらを見る。
「お前も?」
「ええ。山側の環境整備は、私も入った方が早いです」
フローラの目はもう山側へ向いていた。
「使える湯なら、無駄にしたくありませんし」
ユキトはそこで、少しだけ眉をひそめる。
「……だったら」
言いかけて止まる。
ヴォルカとフローラが見る。
ユキトは少し考え、今度は最後まで続けた。
「俺も山に移った方がよくないか? 水も温泉もあって、工事もそっちで進むなら、最初から一緒にいた方が早いだろ」
かなり素直な疑問だった。
その問いに、ヴォルカが静かに首を横に振った。
「まだ駄目です」
即答だった。
「大規模噴火と大地震の危険は大きく減りました。でも、山側が生活拠点として安全になったわけではありません」
声は落ち着いている。
だが、中身はかなり現実的だった。
「落石も、ガスも、地熱も残っています。地盤の不安定な場所もまだ多いです」
ヴォルカは一度だけ間を置いた。
「私が山に移りたいのは、安全だからじゃありません。危険域の近くで監視と工事を続けたいからです」
それから、まっすぐユキトを見る。
「ユキトさんがいると、私は工事より先にそちらを気にします。今の山側は、それで回せる段階ではありません」
短く、はっきりしていた。
ネムリアが、眠そうな顔のままぽつりと足した。
「……ゆきと、やま、だめ」
「直球だな」
「でも、ほんと」
ヴォルカはわずかに苦笑する。
それから、また真面目な顔に戻った。
「整えば、話は変わります。でも、まだそこまでいっていません」
フローラも頷く。
「ええ。今の段階で全員を山へ寄せるのは無理です。だからこそ、拠点を分けた方がいい」
そこで初めて、ユキトは肩の力を抜いた。
「……分かったよ」
ネムリアがその横で、小さく頷く。
「……はま、まもる」
ユキトはそちらを見て、苦く笑った。
「そういうことらしいな」
納得したわけではない。
悔しくないわけでもない。
だが、今ここで食い下がっても状況が変わらないことくらいは分かる。
フローラは、ヴォルカの肩に残った灰を最後にひと撫でしてから、海水を払うように手を離した。
「今日はもうこれで十分でしょう。残りは明日、湧き水で洗い直せばいいです」
「ありがとうございます」
ヴォルカは素直に頷いた。
ネムリアも手を止める。
濡れた指先をじっと見てから、ぽつりと呟いた。
「……くろいの、いっぱいとれた」
「まだちょっと残ってるけどな」
ユキトが横から口を挟む。
「はい」
ヴォルカはわずかに視線を逸らした。
「すみません」
「そこは別に謝んなくていいだろ。真っ黒なのは見りゃ分かるし」
その返しに、フローラが小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
四人は浅瀬から上がる。
白い砂の上に残る足跡は、海水ですぐに薄れていった。
夜の浜は静かだ。
波の音も穏やかで、さっきまで大地震と噴火の話をしていたのが嘘みたいに、足元だけは穏やかだった。
ユキトは、船の脇に布を被せて置いてあった簡易拠点キットの箱を見た。
昼間は邪魔だったそれが、今はもう別の意味を持ち始めている。
「明日から持っていくなら、今のうちに分けるか。山に持ってくもんと、こっちに残すもん」
「そうですね。朝になってから慌てるより、その方がいいでしょう」
フローラが頷く。
ヴォルカもすぐに荷の方へ目を向けた。
「私は工具と、応急処置の道具を優先したいです。地盤確認のため双眼鏡も持っていきます」
「湧き水が本当に使えるなら、容器も要りますね。それから簡単な調理器具も少し」
フローラは荷の量を見ながら、必要なものを頭の中で分けていく。
ユキトは荷の山を見渡して、短く息を吐いた。
「食料も半分寄せるか。向こうで動くなら、その分は向こうに置いといた方が早いだろ」
「ええ。その方が無駄がありません。水も、運ぶ分と置いておく分で分けましょう」
「了解」
ネムリアは眠そうな目で、簡易拠点キットの箱を見ていた。
「……やっと、でばん」
「昼間はいらないって言ってたよなお前」
「ひるは、いらなかった。いまは、いる」
「正しいけどなんだかなあ……」
そこでヴォルカが少しだけ視線を下げた。
「本来なら、今日のうちにここまで進む予定ではありませんでした。勝手に早めてしまって……すみません」
また謝る。
ユキトはそれを聞いて、少し眉を寄せた。
「もういいって。謝るのは分かった。結果も出したんだろ」
そこで、ヴォルカをまっすぐ見る。
「だったら次から先に言え。それで終わりだ」
ヴォルカは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、今度は少しだけやわらかい声を出す。
「……はい」
フローラも静かに続けた。
「ええ。今日の分まで、明日からは順番を守りなさい。そうすれば、文句は減ります」
「減るだけで、なくならないんだな」
「当然です」
「厳しいなあ」
「当たり前でしょう。こちらは迎えに行ったのですから」
その返しに、ヴォルカはまた小さく肩をすくめた。
もう言い返す気はないらしい。
しばらくしてから、フローラがネムリアの方を見た。
「明日から、しばらくは二手に分かれます。浜側はお願いしますね」
ネムリアは少しだけ首を傾げる。
「……ずっと、みとく」
「お願いします。ユキトの護衛と、拠点の維持を」
「ん」
短い返事だった。
だが、それで十分だった。
ユキトはそのやり取りを横で聞いていて、変な感じがした。
大袈裟な話ではない。
ただ、役割が決まっただけだ。
それなのに、どこか少しだけ線が引かれたようにも感じる。
山へ行く二人。
浜に残る二人。
明日から、この島の暮らし方がまた一つ変わる。




