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59.甘くみる余地が消えた

船は、島の北側へ回り込むように進んでいた。


その前に、南寄りに見える山の姿だけで十分だった。


「あれは……」


フローラが小さく息を呑む。


南側の火山は、遠目にも普通ではない。


山肌の色が死んでいた。黒く、ところどころ灰を被ったように白い。斜面には木がほとんど残っていない。生えていてもまばらで、立っているというより、どうにか残っているだけに見えた。


緑が途中で途切れている。


火山の周囲だけ、そこだけ別の季節に置き去りにされたみたいに色がない。


「……木、全然ねえな」


ユキトの声が低く落ちる。


ヴォルカは南の山を見据えたまま、静かに返した。


「灰にやられていますね。近づく場所ではありません」


ネムリアも、ぼんやりした目で南を見ていた。


「……やばい」


短い一言だったが、それで十分だった。


ユキトは視線を外さない。


「予定通りだな。北へ回るぞ」


「はい」


ヴォルカの返事は短かった。


そのまま船は、南の死んだ山を遠ざけるように北側へ入っていく。


波は思ったより穏やかだった。


だがそれは、島が穏やかだという意味ではない。危険な中心から距離を取っているからこそ、今はこうして進めているだけだ。


四人とも、そのことは分かっていた。


やがて、しばらく進んだところで――


「……あそこ」


最初に見つけたのはネムリアだった。


白い砂浜だった。


島の北側に、ゆるく弧を描いた浜がある。


一面の白い砂。朝の光を受けて淡く眩しく、海水は底が見えるほど透き通っていた。波も静かで、寄せては返す水音まで穏やかだ。


火山島の近くとは思えない。


「綺麗ですね」


フローラが少し意外そうに目を細める。


ユキトは浜を眺めたまま、素直には頷かなかった。


「綺麗すぎるな」


ヴォルカはその浜を見て、短く頷く。


「ここです」


「あっさり決めたな」


「決め打ちではありません。でも、条件には合っています」


ヴォルカは海と浜を見比べる。


「灰が来ていない。波も穏やかです。船も上げられる。最初の足場にするなら、ここが一番いいです」


フローラがその浜の奥へ視線を送る。


綺麗なのは確かだった。


だが、どこかおかしい。


白い砂、透明な水、穏やかな波。


景色だけなら南国の無人浜みたいなのに、少し奥へ目をやると空気が違う。


緑はある。


けれど、生き物の気配が薄い。


鳥の声がしない。


波はこんなに静かなのに、砂の上を小さく走るものも、林の奥で葉を鳴らすものも見えない。


ただ、波の音だけがやけに綺麗に響いていた。


風に混じる匂いも、澄みきってはいなかった。


ごく薄く、煤の匂いが残っている。


「……楽園ではないですね」


フローラの声は小さかった。


ユキトも同じものを感じ取っていた。


「……そうだな」


船はそのまま、白い浜へ慎重に寄っていく。


波が浅くなり、船底が砂を擦る音がした。


完全に乗り上げさせる前に止める。人が降りて押せる位置だ。


「先に降ります」


最初に浜へ飛び降りたのはヴォルカだった。


そのあとをフローラ、ネムリア、ユキトが続く。


白い砂は細かく、思ったより柔らかい。


海水は冷たく、驚くほど澄んでいた。


ネムリアが波打ち際を見下ろす。


「……きれい」


「見た目はな」


ユキトの視線は、すでに浜ではなく島の奥へ向いていた。


白い浜がある。


だが同じ島の南では、木が死に、灰に埋もれた火山が生きている。


その両方が同時に存在しているのが、むしろ気味が悪かった。


「まずは船です。これを上げないと始まりません」


ヴォルカが現実へ引き戻す。


「だな」


波打ち際に置いたままでは危ない。


潮でも波でも傷むし、最悪流される。最初の財産であり、今後の足でもある船を、ここで失うわけにはいかなかった。


ヴォルカが林の方へ目をやる。


「丸太がいります。取ってきます」


「竜化した方が早くねえか?」


ユキトの問いに、ヴォルカは即座に首を振った。


「力だけなら、その方が早いです。でも却下です」


「なんで」


「小回りが利きません。こういう細かい作業では、逆に危ないです。船体を壊すかもしれませんし、浜も狭い。雑に持ち上げる方が危険です」


フローラも頷く。


「今必要なのは、出力より丁寧さですね」


「わかった。却下で」


ヴォルカは林へ入った。


少しして戻ってきた時には、また人間の作業ではなくなっていた。


両腕に抱えているのは折られた木だ。


一本ではない。何本もまとめて持っている。太さも長さも、丸太代わりにちょうどいい。


「相変わらず、すごいな……」


「使えそうなものだけ選びました」


「そこをちゃんと選んでんのが余計すげえんだよ」


四人で砂浜に丸太を並べる。


ロープを船体に回す。


位置を決める。


「次、少し右寄せるぞ。船首から斜めに上げる。真っ直ぐやると埋まる。ヴォルカ、そのまま引け。フローラ、左側見てくれ。ネムリア、後ろ抜けたら前へ」


三人が頷いた。


ヴォルカがロープを握る。


フローラが船体の横へ手をかける。


ネムリアも反対側へ回って船腹に両手をついた。


ユキトも当然のように船尾側へつく。


「……よし。いくぞ」


合図と同時に、四人が一斉に力をかけた。


船体がぎし、と鳴る。


砂が削れ、丸太がきしむ。


船はほんの少し前へ出た。


ヴォルカの引く力が明らかに大きい。


フローラも細身の見た目に反してしっかり押している。


ネムリアも眠そうな顔のまま、意外とちゃんと力をかけていた。


そしてユキトも、本気で押していた。


押していたのだが。


「……ゆきと」


「なんだよ」


ネムリアが横目で見る。


「ちから、よわい」


ユキトの額にぴくりと筋が浮いた。


「分かってるわ」


「ほんき?」


「ほんきでやってるわ!」


その返事の最中にも船は少しずつ動いていたが、主な出力がヴォルカとフローラとネムリアの三人なのは明らかだった。


ユキトの押しはやっていないわけではない。


ただ、竜の彼女たちに混じると誤差みたいなものだった。


ネムリアが眠そうな顔のまま続ける。


「……きもち」


「うるせえ」


「でも、すくない」


「知ってるよ!」


前方からヴォルカの声が飛ぶ。


「ユキトさん、右が沈みます。押す位置をもう少し後ろへ!」


「了解!」


即座に位置を変える。


力そのものでは勝てない。だからせめて意味のある場所へ手をかける。


フローラが船体の軋みを見ながら、穏やかに助け船を出す。


「力は足りなくても、今の指示は助かっています。そのまま位置取りだけ見てください」


「慰めになってねえようで、ちゃんとなってるなそれ」


「事実ですから」


船は少しずつ白い砂浜を上がっていく。


ヴォルカが引き、フローラが押し、ネムリアが丸太の位置を見て支え、ユキトが汗だくで食らいつく。


力の差はひどく分かりやすかったが、それでも四人でやっている形には違いなかった。


もう一度、全員で力をかける。


「……せ、の!」


船体ががくりと持ち上がり、丸太の上を一段ぶん転がった。


波打ち際から、はっきり距離が開く。


ユキトはその場で肩で息をした。


腕が重い。


手のひらも痛い。


だがそれ以上に、隣との差がきつい。


ネムリアがぼそっと漏らす。


「……がんばった」


「ああ、自分でもがんばった」


「でも、よわい」


「褒めてから刺すな!」


フローラがとうとう小さく笑った。


ヴォルカもロープを持ったまま、ほんの少し口元を緩める。


「ですが、ユキトさん。本気で押してくださっているのは、ちゃんと分かります」


「そこ褒められるの、余計に惨めなんだが」


「事実ですので」


「お前らほんとその言い方好きだな……」


それでも最後には、船を波の届かない位置まで引き上げることができた。


完全固定はしない。


必要ならまた出せるよう余地は残す。


だが少なくとも、これで今すぐ失う心配はなくなった。


その時点で、かなり疲れていた。


白い浜は綺麗だが、作業は綺麗じゃない。


汗と砂にまみれ、息は上がり、腕や足にだるさが溜まる。


そこへ、夕方の影が伸びてきた。


「……今夜どうする」


「まずは簡易拠点ですね。キットを開きましょう」


昨日買った簡易拠点キットは、まさにそのためのものだった。


最初の夜を越すための仮設拠点。布と支柱と縄が揃った最低限の一式。


ヴォルカが箱を開ける。


フローラが布を広げる。


ユキトが支柱を見る。


ネムリアはその一連を少し離れたところから眺めていた。


「これをここに張って――」


ユキトが作業の段取りを組み始めた時だった。


ネムリアが、当然みたいに船の屋根の下へ入っていく。


少しして、中から声がした。


「……こっちで寝る」


三人が同時にそちらを見る。


フローラが目を瞬く。


「……確かに」


「いいでしょ」


船内からネムリアの声が続く。


「かぜ、ない。すな、すくない」


ユキトは布を持ったまま止まった。


ヴォルカも支柱を手にしたまま、船と布を見比べる。


フローラが静かに結論を出した。


「外に張るより、こちらの方が早いですね。風も防げますし、灰も入りにくい。床もあります」


ユキトは数秒黙り、それから低く唸った。


「……これ、キット無駄じゃん」


「うん」


ネムリアが即答する。


「即答すんな」


「でも、いまは、いらない」


「知ってる!」


ヴォルカは少し考えてから、船内へ視線を戻した。


「今夜だけなら、船内の方が安全です。簡易拠点は保留でいいかと」


「保留って言い方が優しいな……」


だが実際、その通りだった。


外に張るより、船の中を使った方が明らかに早い。


風を防げる。


灰を避けられる。


荷も近い。


雨が来ても強い。


床もある。


そこでユキトの頭が切り替わる。


「待て」


声が低くなる。


「これ、今夜だけじゃねえな」


フローラがユキトを見る。


ユキトは船体を見上げた。


「しばらく使える。下手な仮設よりマシだ」


その一言で、やるべきことが決まった。


そこからはまた作業だった。


舟底が安定するよう周囲の砂を少し掘る。


石を集めて片側へ噛ませる。


荷を整理し、寝具の置き場所を決める。


入り口側に布を足して風避けを作る。


生活動線を決める。


ユキトが「ここは寝床」「火は外」「箱はこっち」と判断し、ヴォルカが力仕事と固定を受け持ち、フローラが風の流れと衛生を見て、ネムリアがいつの間にか一番奥に自分の居場所を作っていた。


日が落ちる頃には、そこはもうただの船ではなくなっていた。


家、というにはまだ粗い。


だが寝られる。


休める。


荷も守れる。


最初の夜を越すには、十分だった。


「……なんとか、なったな」


ユキトは船の外から中を覗き込む。


フローラが小さく頷いた。


「ええ。少なくとも、何もない地面で一夜を明かすよりは遥かに」


ヴォルカも満足そうに船体を見上げる。


「思ったより早く形になりました」


ネムリアはもう奥に潜り込んでいる。


「……ここ、ねる」


「好きにしろ」


夜は、思ったより静かだった。


白い浜は月明かりを受けて淡く光って見えた。


海も穏やかで、波の音もやわらかい。


風も強くない。


その時だった。


「……あ」


最初に気づいたのはネムリアだった。


船の奥で寝る気満々だったはずのネムリアが、いつの間にか入り口の方へ戻ってきて、波打ち際の先を見ている。


「どうした」


ユキトが声をかける。


ネムリアは、海の方を指さした。


「……うみ」


ユキトも船の外へ顔を向ける。


そこでようやく分かった。


波打ち際の、その少し先。


海の中の白砂の一部だけが、青白く淡く光っていた。


灯りのようにはっきりしているわけではない。


燃えているわけでもない。


ただ、波が寄せるたびに、海の底の白砂の一部だけが、ほのかに青を帯びて浮かび上がる。


「……なんだ、あれ」


思わず、ユキトの声も低くなった。


光は一面ではなかった。


浜全体が光るわけじゃない。


ところどころ、海の中の砂浜だけが、思い出したように青白く淡く光る。


次の波では消え、また次の揺れで別の場所が滲む。


フローラが、小さく息を呑んだ。


「綺麗……」


ヴォルカは何も口にしなかった。


ただ、その光景を黙って見ていた。


ネムリアが波打ち際へ一歩だけ寄る。


「……ひかってる」


その声は、少しだけ目が覚めていた。


ユキトは返事をしなかった。


できなかった。


危険島だと聞いていた。


実際、南には火山がある。


ここに住むのは楽じゃない。そんなことはもう分かっている。


それでも今だけは、ただ綺麗だった。


白い砂。


静かな波。


その中で、海の底が青白く淡く光っては消えている。


まるで島が、夜になってからだけ見せる別の顔だった。


「……これだけ見たら、本当に、ここが危険島だなんて思えませんね」


フローラの声は、波音に溶けるほど静かだった。


「見た目だけならな」


「ええ。ですが、これは……少し反則です」


「反則?」


「こんな景色を見せられたら」


フローラは海を見たまま、かすかに笑う。


「好きになってしまいます」


ネムリアが、波打ち際を見ながらぽつりと呟いた。


「……ここ、すき」


ヴォルカはその一言にだけ、小さく目を細めた。


やがて、四人とも少しのあいだ黙った。


ただ、青白く淡い海を見ていた。


一瞬だけ、本当に少しだけ、なんとかなるかもしれないと思えた。


その時だった。


低い音が、足元から突き上げてきた。


船体がきしむ。


「――っ」


ユキトは反射的に目を開けた。


同時に、船全体が揺れる。


横揺れではない。


地の底から押し上げるような揺れだった。


「地震……!」


フローラの声が短く跳ねる。


ネムリアも起きていた。


ヴォルカはすでに立ち上がっている。


揺れは長くは続かなかった。


だが一度収まったあとも、船体の軋みが妙に生々しく耳に残る。


「外だ」


ユキトが真っ先に動いた。


四人はすぐに船の外へ出る。


夜の浜は静かだった。


静かすぎた。


その静けさの向こう、南の空だけが、わずかに赤い。


誰もすぐには声を出さなかった。


遠い。


距離はある。


だが、それでも分かる。


南の火山が噴いていた。


赤い光が夜の中で鈍く脈打っている。


黒い影のような山の輪郭の上へ、時折、火の粉にも見えるものが舞う。


噴煙は夜の空に溶けて見えにくいのに、そこだけ空気が生きているのが分かった。


浜は綺麗だ。


海も穏やかだ。


だが島の南では、今まさに山から火が噴いている。


ユキトはしばらくそれを見て、それからひどく真顔になった。


「……まじで、こんな場所住めるのか?」


フローラが珍しく即答しない。


「……想定より派手ですね」


ネムリアが眠そうな顔のまま呟く。


「……ねれない」


その二人の反応は、たぶん正しかった。


夜の浜に立ち、遠くの噴火を見せつけられて、楽観できる方がどうかしている。


だが、そのどうかしている側が一人いた。


ヴォルカだけが、他の三人と違う目で山を見ていた。


怖がっていないわけじゃない。


だが、見方が違う。


「大丈夫です」


真っ先にそう口にしたのがヴォルカだった。


ユキトが振り向く。


「何が」


「明日から手をつけられます」


ユキトは一瞬、言葉を失った。


ヴォルカは本気だった。


「南側の活動が見えました。逆に、どこがまだ生きていて、どこを先に押さえるべきか分かりやすくなりました。北側の足場が無事なら、順番に進められます」


「いや待て」


ユキトが遮る。


「今お前それ、楽しみにしてないか?」


「少し」


「少しかよ」


フローラが遠い噴火を見たまま、小さく息を吐く。


「私は今、普通に引いています」


「俺もだよ」


ネムリアがぼそっと足す。


「こわい」


ヴォルカだけが、ほんの少し表情を引き締めたまま、それでも前向きに南を見ていた。


「やることが明確になった、という意味です。明日から始めます」


その温度差が、夜の浜でひどく浮いていた。


白い砂浜。


透明な海。


静かな波音。


その向こうで噴く火山。


三人は大丈夫かこれと思っていて、一人だけ、やっと始められると思っている。


シュールだった。


ユキトは遠くの赤い光を見て、それからヴォルカを見た。


「……お前、そういうとこほんと頼もしいけど、たまに怖いな」


「ありがとうございます」


「褒めてねえよ」


それでも、そのやり取りのおかげで少しだけ息ができた。


噴火は遠い。


北の浜は今のところ無事だ。


そしてヴォルカは本気でどうにかするつもりでいる。


なら、やるしかない。


ユキトは長く息を吐いた。


「分かった。じゃあ明日からだ」


フローラが頷く。


ネムリアは眠そうに目を擦る。


ヴォルカだけは、最初からそうだと言わんばかりに南を見ていた。


船へ戻る前、ユキトはもう一度だけ噴火の光を見た。


綺麗な場所だ。


だが、間違いなく危険島だった。


その現実を初日に叩きつけられたのは、むしろ良かったのかもしれない。


甘く見る余地が消えた。


ここに住むなら、本当に手を入れなければならない。


そして、もう引き返すつもりもなかった。


四人は船へ戻る。


最初の家は、まだ粗い。


火山工事も、地盤整備も、これからだ。


簡易拠点キットも、結局今夜は使わなかった。


それでも、ここにはもう寝る場所がある。


四人が夜を越す場所がある。


それだけで十分だった。


船の中へ入りながら、ユキトは小さく呟いた。


「……ようやく、ここからか」


誰も返事はしなかった。


だが、その沈黙は否定ではなかった。


外ではまだ遠くで山が噴いている。


波は変わらず静かで、白い砂浜は月の下で淡く光っていた。


危険と静けさが、同じ島の中に同時にあった。


その真ん中で、四人は最初の夜を越える。

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