58.純竜、非竜
三週間かけて、ようやく辿り着いた。
王国の馬車を降りたユキトは、目の前に広がる港町を見上げて、わずかに目を細めた。
アストロベイ。
シロネコ島に最も近い、王国南西の大交易港。
ここへ来た理由ははっきりしている。
島へ渡るための最後の準備を整えるためだ。
無人島を報酬として取った。
住めるかどうかも分からない危険島だと知った上で、それでもそこを選んだ。
だからこそ、ここから先は遊びではない。
必要なものを揃え、渡る手段を確保し、島へ最初の生活を持ち込む。
そのための港だった。
だが、そうやって頭では整理していても、実際に目の前へ出されると、少し言葉を失う。
広かった。
海沿いにずらりと並ぶ埠頭。
停泊する船の数は、ひと目で数えるのを諦めるほど多い。商船、漁船、輸送船、軍船らしきものまで混じっている。
岸には荷車が何列も動き、人間だけでなく獣人、エルフ、ドワーフ、見慣れない外国人まで入り混じって行き交っていた。
空気が違う。
潮の匂い。
魚と香辛料と油の匂い。
人の汗。
木材。
鉄。
遠くから運ばれてきた異国の匂いまで、全部がこの港町の風に混ざっている。
「……すごいですね」
隣でヴォルカが、素直にそう漏らした。
その声に、フローラも静かに辺りを見回す。
「王国でも屈指の港と聞いていましたが……想像以上です」
ネムリアは半分眠そうな顔のまま、行き交う荷車を見ていた。
「……ひと、おおい」
「ふねも、おおい」
「だな」
ユキトは短く返して、それ以上は言わなかった。
圧倒されていないわけではない。
だが、それを口に出すのも何となく癪だった。
背後で、馬の鼻息が小さく鳴る。
王国からの護送役として同行してきた兵たちは、ここまで来てようやく肩の力を抜いていた。
王都近くからずっとついてきた連中だ。目立ちすぎず、だが隙も見せず、三週間きっちり役目を果たしてきた。その顔ぶれの中から、一人、まとめ役らしい男が前へ出る。
「ここまでです」
声音は事務的だったが、冷たくはなかった。
「アストロベイ到着までが我々の役目でした」
「今後の渡航、島への上陸、その先の判断は、そちらに委ねられます」
ユキトは頷く。
「ああ、分かってる」
「王国側から約された支援については、後日、定められた条件に従って履行されます」
「ただし、現地での即応的な援助は保証されません」
「そりゃそうだろ」
ユキトは肩を竦めた。
「ここから先まで面倒見てもらえると思ってねえよ」
その返しに、男はわずかに口元を緩めた。
すぐにいつもの顔へ戻る。
「では」
そこで一度、言葉を切る。
「幸運を」
大仰な激励ではなかった。
けれど、それがかえって現実的だった。
ここで終わりだ。
ここから先は、本当に自分たちだけでやる。
ユキトは短く息を吐いた。
「そっちもな」
「王都まで戻るんだろ。道中気をつけろよ」
男は一礼した。
兵たちもそれに倣う。
やがて馬車が向きを変え、王国の人間たちは港町の喧騒の向こうへ消えていく。
四人だけが残った。
その瞬間、アストロベイの広さがさっきより少しだけ現実味を持った。
王国の庇護も、王都での余韻も、ここにはもうない。
「……さて」
ユキトは港の方へ向き直る。
「まずは島に渡る手段と、必要物資だな」
「工事の最中の食料と、水回りと……あと生きるためのもん全部」
ヴォルカがすぐに頷いた。
「はい」
「まずは船ですね」
その一言に、フローラも自然に続く。
「渡る手段が決まらなければ、荷も絞れませんから」
「ん」
ネムリアも短く同意した。
四人はそのまま、港の中心へ向かって歩き出した。
アストロベイは広い。
歩けば歩くほど、その広さはただの景色ではなくなっていった。
埠頭ごとに雰囲気が違う。魚と海藻の匂いが濃い場所もあれば、木箱と布と酒樽が積まれた輸送区画もある。造船所の近くでは鉄を打つ音が響き、異国商人の並ぶ通りでは聞き慣れない言葉が飛び交っていた。
四人はそこでようやく、自分たちが何をしに来たかを現実の作業として考え始める。
シロネコ島へ渡る。
そのために必要なのは、当然、船だ。
ここまではよかった。
よかったのだが。
「……いや、待て」
港の一角で足を止めたのはユキトだった。
商人らしき男に声をかけようとしたところで、ふいに動きが止まる。
フローラが振り向いた。
「どうしました?」
ユキトは答えない。
そのまま数秒、黙る。
ヴォルカも、ネムリアも、何かを察したように立ち止まった。
やがてユキトが、ひどく嫌そうな顔で言う。
「……なあ」
「はい」
「シロネコ島って、無人島だよな」
「そうですね」
とフローラが即答する。
「じゃあ当然――」
そこでフローラの言葉も止まった。
ヴォルカが小さく目を見開く。
ネムリアは少しだけ首を傾げたあと、同じところへ行き着いたように目を瞬く。
数拍の沈黙。
「……船便、ないですね」
とフローラが静かに言った。
「ない」
とユキトが低く返す。
「ないですね」
とヴォルカも認める。
そこへ、通りすがりに荷を運んでいた港の男が怪訝そうな顔でこちらを見た。
ユキトはその視線を捕まえて、半分諦めた顔のまま聞く。
「シロネコ島行きの船ってある?」
男は一瞬ぽかんとして、それから眉をひそめた。
「シロネコ島?」
「あの火山島か?」
「ああ」
男は何とも言えない顔をした。
「便なんてあるわけねえだろ」
「行きたがる奴がいねえ」
そこで終わらず、男は港の人間らしい現実感で続ける。
「厄介な火山島だ。灰も噴気もある。近づきたがる船頭なんざいねえよ」
「仮に行くにしても、誰が好き好んで定期便なんか組むかって話だ」
「……だよな」
「なんで今さらそこ確認してんだ、お前ら」
「疲れてんだよ、たぶん」
ユキトがそう返すと、男は少し呆れた顔をして肩を竦めた。
「観光に行くつもりならやめとけ」
そう言って男は荷車の後を追って去っていく。
その背中を見送りながら、ユキトは長く息を吐いた。
「……最後の最後でそこ抜けるか、普通」
フローラは苦笑しなかった。
ただ、静かに状況を飲み込んでいる顔だった。
「意識が、島を取ることと生活圏の整備に向いていましたからね」
「渡る手段が前提になっていたのでしょう」
「前提で流してたな」
とユキトが言った。
「見事に」
ネムリアがぼそっと漏らす。
「……つかれてる」
それが一番正しい気もして、ユキトは鼻で笑った。
「かもな」
少しの間、四人とも黙った。
無人島なのだから船便などない。
考えれば当然だ。だが実際に現地まで来て、そこでようやく実感を伴ってぶつかるのが厄介だった。
港の喧騒は変わらず続いている。
その中で、四人だけがほんの少し立ち止まっていた。
やがてヴォルカが、静かに口を開いた。
「……私は少しだけ、考えていました」
ユキトが顔を上げる。
ヴォルカは背負っていた荷から、折り畳まれた紙束を取り出した。
王国から渡されていた海図と、島の調査記録。そして自分で作成した工事の手順書。どれも道中で何度も読み返していたものだ。
「便があるとは思っていませんでしたから」
「行くなら、借りるか、雇うかになるだろうと」
「借りる前提で考えてたのか」
とユキトが聞く。
「はい」
とヴォルカは頷いた。
ユキトはそこでようやく少しだけ目を細めた。
「……続けろ」
ヴォルカは紙を開く。
風で煽られないよう押さえながら、島の輪郭に指を置いた。
「シロネコ島は南側に火山があります」
「ですから、南から入るのは難しいです」
「灰のせいか」
とフローラが聞く。
「それもあります」
ヴォルカはすぐに頷く。
「火山灰だけではありません。噴煙、噴気、熱、地盤の不安定さ……現状、南側は接岸にも向きません」
“向かない”という言い方は、完全な不可能ではないことも含んでいた。
だが今の段階で選ぶ場所ではない。その意味が声に滲んでいる。
ヴォルカは北側へ指を滑らせた。
「行くなら北です」
「火山から距離が取れますし、風向きによっては灰も避けられる」
「波も南よりは読みやすいはずです」
「少なくとも、最初に足を置くならこちらしかありません」
ユキトが地図を覗き込む。
「北のどこでもいいわけじゃねえんだな」
「はい」
とヴォルカが答える。
「灰が溜まりにくく、噴煙の流れから外れ、波が比較的穏やかで、浜上げができて、島内へ入る導線も取れる場所」
「条件は多いです」
フローラが静かに付け加える。
「安全な場所ではなく、“最初の足場にできる場所”を探す形ですね」
「ええ」
ヴォルカは頷いた。
「その上で、上陸地点に仮拠点を建てて、そこから危険域を調べるしかありません」
ネムリアが地図を覗き込みながら呟く。
「……きたに、おりる」
「そこから、みなみ、みる」
「そういうことです」
とヴォルカが言う。
そして、一呼吸置いた。
「上陸して、拠点を作って、危険域を確認して、住居候補の地盤を見て、水場を探して……」
「住める形にするだけで、二ヶ月ほどかかると思います」
その一言で、目の前の島がただの“報酬でもらった土地”ではなくなった。
二ヶ月。
長い。
だが、無茶な数字ではなかった。
むしろ、これくらいはかかるのだろうと納得できるだけの現実味があった。
ユキトはしばらく黙っていた。
借りた船で行く。
雇った船に任せる。
話だけならそれで済む。
だが、本当にそうするのかと考えた瞬間、嫌なものがいくつも見える。
荷の量。
上陸後の融通。
戻る手段。
相手の都合。
島との往復を、他人の判断に握られること。
そして何より、せっかくこれから自分たちの生活圏を作るのに、最初の足を他人任せにする気持ち悪さがあった。
「……借りたら」
ユキトがぽつりと言う。
三人が見る。
「借りたら、返す前提になる」
「雇えば、向こうの都合が入る」
「物資の積み方も、戻るタイミングも、全部相手次第だ」
ヴォルカが答えない。
否定の余地がないからだ。
フローラも静かに聞いている。
ネムリアも視線を上げたまま黙っていた。
ユキトは少しの間、港を見た。
並ぶ船。
積み上がる物資。
行き交う人間。
ここには金で買えるものが山ほどある。
そして、自分たちにはそのための金がある。
ローブの男から引き出した金。
王国から受け取った現金報酬。
胸の中で、何かが決まる音がした。
「……買うか」
短い言葉だった。
ヴォルカが目を瞬く。
フローラはそれでも驚いた顔をしなかった。予想していたわけではないだろうが、その発想自体には納得したようだった。
ネムリアだけが、眠そうな顔のままぽつりと聞く。
「ふね」
「ああ」
とユキトは答える。
「船だ」
そのまま続ける。
「借りたら借りたで、後でまた揉める」
「戻るにしても、運ぶにしても、島との往復手段を他人の都合に置きたくねえ」
「島で暮らす気なら、最初に持つべきは家より先に往復の手段だ」
「だったら、買った方が早い」
ヴォルカが低く言う。
「大きな出費になります」
「だろうな」
「でも」
とフローラが静かに続けた。
「大きいからこそ、意味はありますね」
「渡る手段を確保するだけではなく、今後の移動と輸送の自由も手に入る」
ネムリアがこくりと頷く。
「……じゆう」
「だいじ」
ユキトは鼻で笑った。
「そういうことだ」
もう迷いはなかった。
船選びは予想以上に骨が折れた。
小さすぎれば話にならない。
四人と、二ヶ月分の物資を積めるだけの容量が要る。
大きすぎても困る。
接岸後に浜へ引き上げる想定がある以上、あまりに重い船は現実的ではない。
必要なのは、
沿岸を渡れるだけの堅牢さ
天井付きで雨風を避けられること
荷を積めること
それでいて、まだ人力とヴォルカ達の怪力で扱える範囲であること
そんな都合のいい船が都合よく見つかるのかと思ったが、アストロベイは港が大きいだけあって、選択肢自体はあった。
ただし、安くはない。
「たっけえな……」
船主の提示額を見たユキトが、露骨に顔をしかめる。
船主は日焼けした中年男だった。
こちらの顔色を窺うでもなく、最初から遠慮のない額を出してきている。観光客相手のふっかけではない。アストロベイの商売として、普通に強気なのだ。
「中型だ。屋根もある。荷も積める」
「それでこの値なら、むしろ良心的だと思いな」
「良心が高えよ」
「海は金がかかる」
それはその通りだったので、ユキトは舌打ちだけで済ませた。
フローラが静かに船内を見て回る。
ヴォルカは外板と底の状態を見ている。
ネムリアは迷いなく屋根の下へ入り込んで、少ししてから顔を出した。
「……ねれそう」
その一言に、船主が少しだけ笑う。
「嬢ちゃんだけ見るとこが違うな」
「そこ、だいじ」
「そうかよ」
結果として、条件に一番合う一隻が決まった。
大きすぎず、小さすぎず。
四人と荷を載せるにはぎりぎり余裕があり、屋根もある。外洋を渡るには無茶だが、今回は沿岸から島へ向かうだけだ。北側の浜へ入れるなら十分使える。
値段は痛い。
だが、払えない額ではなかった。
ローブの男から引き出したまとまった金が、ここでまとめて吹き飛ぶ。
胸糞の悪い出どころの金だが、それが今、四人の足になる。
ユキトは契約書に目を通し、最後に短く言った。
「買う」
その瞬間、船は自分たちのものになった。
そこから先は、本当に金が消える日だった。
時間の限り、港町を歩く。
必要なものを選ぶ。
優先順位を決める。
不要なものを切る。
贅沢を削る。
でも、削れないところにはちゃんと金を使う。
保存の利く食料。
水を溜めるための道具。
煮炊きと食事に使う最低限の器具。
灯りと油。
縄や防水布のような雑用道具。
薬、包帯、釘、工具、修理材。
寝具と毛布、予備の布、天幕。
そして、簡易拠点キット。
フローラが選び、ヴォルカが実用性を見る。
ユキトは値段で顔をしかめ、ネムリアは「ねるの、いる」とだけ言った。
「ああ、要るな……」
ユキトは結局、それも買った。
農業用の種は買わない。
そこは後だ。家が立ってから、王国支援で受け取る予定のものに回す。
今優先するのは、二ヶ月生きて工事を回すこと。
買うたびに袋が増え、箱が増え、縄で縛った荷が増える。
買うたびに金が消える。
だが不思議と、使いすぎた感じはしなかった。
必要だからだ。
日が傾く頃には、残った資金の七割が綺麗に消えていた。
それでもまだ、かなりの金額が残っていた。
ユキトはそこにだけ、わずかに満足した。
「悪い、ちょっと別の場所見にいく」
唐突にそう言い出したのは、日が西へ寄り始めた頃だった。
ヴォルカが振り向く。
「何か足りませんか」
「いや、念のため」
とユキトは言う。
「船回りでもう少し見とく」
言い方は自然だった。
船を買った以上、追加で見たいものがあってもおかしくはない。
フローラは一度だけユキトの顔を見る。
ネムリアも、ぼんやりした目で見上げる。
「すぐ戻る」
とユキトは続けた。
「お前らはその辺まとめといてくれ」
誰も止めなかった。
「分かりました」
とフローラが答える。
ユキトはそのまま、人の流れの中へ消えていった。
その背中を見送ってから、三人のあいだに少しだけ別の静けさが落ちる。
だが、誰もそこには踏み込まない。
フローラは買った荷の整理に戻り、ヴォルカは木箱を持ち直し、ネムリアは布袋を抱えたまま、どこか遠くを見ていた。
ユキトが姿を消してから、三人のあいだには妙な静けさが残っていた。
アストロベイの市場は相変わらず騒がしい。
港に近い通りは荷車と人の流れが絶えず、呼び込みの声も、船乗りの怒鳴り声も、異国語まじりの値切りも、全部まとめて潮の匂いに溶けていた。
その喧騒の中にいるのに、三人のまわりだけ少し空気が薄かった。
ヴォルカは抱えていた荷を一度足元へ下ろした。
縄でまとめられた布束、油の小瓶、工具の詰まった木箱。どれも必要なものだ。必要だから買ったし、必要だから運んでいる。
なのに今、意識はそこになかった。
フローラが店先の軒下へ少し身を寄せる。
日差しを避けるためでもあったが、それだけではない。ここなら人の流れを邪魔せず、少しだけ落ち着いて話せる。
ネムリアはその場にしゃがみこみ、買ったばかりの布袋を膝に抱えていた。
眠そうなのはいつものことだったが、今日は半分閉じた目が妙に冴えて見えた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、ネムリアだった。
「……ゆびわ」
短い一言だった。
けれど、それだけで空気が少し動いた。
ヴォルカの肩が、ほんのわずかに揺れる。
フローラはすぐには答えず、通りの向こうを見た。もうユキトの姿は見えない。
「たぶん」
とフローラが言った。
ヴォルカが低く息を吐く。
「やっぱり、そう見えますよね」
「うん」
ネムリアはこくりと頷く。
「かくしてるときの、ゆきと」
「だいたい、わかる」
フローラは小さく目を細めた。
「隠すのが上手いようで、あの人は妙なところで雑ですからね」
「……そうですね」
ヴォルカも否定しなかった。
足りないものを見てくる。
言い方も理由も別におかしくはなかった。この港は広い。まだ見て回るべき店はいくらでもある。
けれど、それでも分かる。
今あれは布でも鍋でも釘でもなく、もっと別のものを見に行った顔をしていた。
ヴォルカは視線を落とした。
胸の奥が少しだけ落ち着かない。
嬉しくないわけではない。
むしろ逆だと、自分でも分かっていた。あの人がそこまで先を考えていることが。口にしなくても、形にしようとしていることが。
けれど、その嬉しさのすぐ先に、別の重さがあった。
フローラが静かに言う。
「浮かれるには、少し先まで見えすぎていますね」
ヴォルカははっとして顔を上げた。
フローラはいつもの落ち着いた顔のままだったが、その声は柔らかいだけではなかった。
現実を知っている声だった。
ネムリアがぽつりと続ける。
「……そのさきもある」
ヴォルカは何も返せなかった。
分かっていたからだ。指輪があるなら、その先の話もある。
フローラが言う。
「寿命の話は、以前に何度も話し合いましたね」
「ユキトさんが、私たちより先に死ぬということも」
「それでも一緒にいると決めたことも」
「うん……」
とヴォルカが言う。
「でも、それで、おわりじゃない」
ネムリアが言う。
ヴォルカは無意識に、自分の手を握っていた。
「子ども、ですよね」
その一言で、会話の温度がひとつ落ちた。
フローラは短く頷いた。
「はい」
「今までは避けてきました、ですが今日はそこから先の話です」
市場の喧騒は変わらない。
荷車の軋む音、船の鐘、遠くの怒鳴り声。何も止まっていないのに、三人のあいだだけ別の時間が流れ始める。
フローラは少しだけ息を整えてから、静かに言った。
「先に、そこを分けておきましょう」
ヴォルカもネムリアも黙って聞いている。
「竜同士の子なら、そこまで問題にはなりません」
「必ずどちらかの竜種として竜化できますから」
ヴォルカは小さく頷いた。
そこは常識だった。竜と竜のあいだに生まれる子が、竜でなくなることはない。
問題は、そこではない。
フローラは続けた。
「問題は、竜と多種族のあいだに生まれる子です」
「この場合、子がどう生まれるかは読めません」
ネムリアが膝の上の布袋を抱え直す。
「……じゅんりゅう」
「ひりゅう」
「ええ」
とフローラは頷く。
「竜化できる子なら純竜」
「竜の血を引いていても、竜化できなければ非竜です」
そこで一度だけ言葉を切る。
「そして、この差は大きい」
ヴォルカが目を上げた。
フローラの声は落ち着いている。だが、それだけに内容の重さが逃げない。
「非竜なら、人に近い速さで育つ可能性が高い」
「幼い時期を抜け、大人になるまでが早い」
「けれど純竜なら――」
フローラはわずかに目を伏せた。
「大人になるまで、圧倒的に長い」
その一言が、静かに落ちた。
ヴォルカは何も言えなかった。
それが意味するものが、すぐに分かってしまったからだ。
非竜なら、子は早く育つ。
それは一見、分かりやすい幸福の形にも見える。だが同時に、自分たちとは違う時間で生きるということでもある。
純竜なら、今度は長く同じ時間を生きられるかもしれない。
だがその場合、ユキトとの時間はさらにずれる。
どちらに転んでも、何も単純ではない。
ネムリアがぽつりと呟いた。
「はやい子も」
「おそい子も」
「どっちも、ちがう」
「ええ」
とフローラが答える。
「恋人同士の寿命差だけでは済まないのです」
「子がどちらの時間で育つかで、家族の形そのものが変わる」
「見送る順番も」
「一緒にいられる長さも」
「普通と思っていたものが、最初から当てはまらない」
港の風が吹き抜けた。
潮と鉄の匂いを混ぜた風だった。
しばらくして、ヴォルカが低く問う。
「……じゃあ、純竜になることは」
フローラは静かに首を振った。
「竜と多種族のあいだの子が純竜になるのは、ほとんど御伽話のように稀です」
「ないとは言い切れません」
「ですが、あてにしていい話でもない」
「期待して当然のものでもありません」
ヴォルカは唇を引き結ぶ。
御伽話。
そんなものに縋るのは愚かだ。そう言われれば、その通りだと思う。
思うのに。
フローラの声が、ほんの少しだけ柔らいだ。
「……ですが」
「自分の子の話になると、すがりたくなるのでしょうね」
その一言で、ヴォルカの胸の奥にあったものが、静かに形を持った。
願い、では少し綺麗すぎた。
期待、では少し軽すぎた。
すがりたい。
その言葉が、一番しっくりきた。
理屈では分かっている。
そんな奇跡みたいな確率に寄りかかるべきじゃない。
それでも、自分の子のことになると、どうしても心のどこかがそこへ手を伸ばしてしまう。
ヴォルカは拳を握ったまま、俯いた。
「……分かってるんです」
その言葉が何に対する返事なのか、自分でも曖昧だった。
御伽話みたいに稀だということ。
思い通りにはならないということ。
子に何かを望むのは、自分勝手だということ。
全部、分かっている。
それでも。
「でも」
とヴォルカは続けた。
「少しだけ、思ってしまいます」
フローラは何も言わなかった。
ネムリアも、ただ聞いている。
ヴォルカの声は小さかった。
「自分の子なら……って」
「せめて、自分の子なら」
「一緒の時間を生きてほしいって」
言ってしまってから、胸の奥が少し痛んだ。
綺麗な願いじゃない。
そんなのは分かっている。
それは子どもを子どもとして見る前に、性質を願っている。
自分の時間の側へ繋ぎたい、自分が置いていかれたくない、その欲が混ざっている。
ヴォルカは唇を噛む。
「勝手ですよね」
「そんなの」
ネムリアが、ぼんやりした顔のまま呟く。
「……わたしも」
「ちょっと、おもう」
ヴォルカが顔を上げる。
ネムリアは眠そうな目のまま、珍しくまっすぐ言った。
「おいてかれる子、やだ」
「おいてく子も、やだ」
「でも、ちょっと、すがりたくなる」
それはネムリアらしい言い方だった。
少ない言葉で、核心だけを置く。
フローラは目を伏せた。
しばらくしてから、静かに言う。
「私も同じです」
ヴォルカが息を止める。
フローラは感情を荒げない。
けれど、その声は少しだけ硬かった。
「期待すべきではないと分かっています」
「奇跡のような確率だということも」
「子に何かを背負わせる願い方だということも」
そこで一度、息を吐く。
「それでも、自分の子なら、と」
その言葉は祈りではなかった。
もっと現実的で、もっと苦い告白だった。
ヴォルカが小さく言う。
「……ユキトさんは、たぶん」
そこで言葉が止まる。
ネムリアが先に言った。
「ゆきと、たぶん、どっちでもいい」
ヴォルカが目を瞬く。
ネムリアは続ける。
「にんげんでも、りゅうでも」
「たぶん、こどもは、こども」
フローラが静かに頷いた。
「ええ」
「あの人は、たぶん最初にそこを見ません」
「純竜か非竜かより先に、自分の子だと思うでしょう」
「人でも、竜でも、その違いを先に持ち込まない」
その言葉は、三人の胸を静かに刺した。
たぶん本当にそうだ。
ユキトは、そんなところから見ない。
自分たちのように、
竜を背負っていてほしいとか、
時間を共有したいとか、
そういう“側”の願いを最初に置かない。
子どもは子どもだと、きっと本気でそう思う。
その考えの方が、ずっと綺麗だった。
ずっとまっとうだった。
だからこそ、言えない。
ヴォルカが掠れた声で言う。
「私たちの方が、汚いですね」
フローラはすぐには否定しなかった。
「私たちの側の欲ですから」
とだけ言った。
「長い時間を知っている側の」
「恥ずかしい部分でもあります」
ネムリアが、小さく呟く。
「ゆきとに、いえない」
「ええ」
とフローラが答える。
「言えば、あの人は困るでしょう」
「あるいは、そんなことはどうでもいいと、本気で思うかもしれない」
「どちらにせよ――」
そこで少しだけ言葉を切る。
「たぶん、あの人の方が綺麗です」
それが一番、三人の胸に刺さった。
もし話せば、ユキトは聞くだろう。
理解しようともするだろう。
けれどきっと、それでも最初にそこは見ない。
それが正しい。
それが綺麗だ。
だからこそ、自分たちの願いは余計に口にしづらい。
ヴォルカは深く息を吐いた。
「……言わない方がいいですね」
「ええ」
とフローラが答える。
「少なくとも、今は」
ネムリアもこくりと頷く。
「まだ、いらない」
「それ、ゆきとに、まだ、いらない」
三人のあいだに、静かな一致が落ちた。
受け入れたわけではない。
整理もついていない。
ただ、自分たちの願いが綺麗ではないことと、それをあの人に今ぶつけるべきではないことだけは、はっきりしていた。
その時だった。
「……悪い、待たせた」
聞き慣れた声がして、三人が同時に振り向く。
ユキトが戻ってきていた。
手には新しく買ったらしい小さな袋がひとつ増えている。表情はいつも通りを装っていたが、わずかに不自然だった。
ヴォルカは一瞬だけ、その懐のあたりへ目をやる。
すぐに逸らした。
フローラも何も言わない。
ネムリアも、じっと見ただけで口にしない。
ユキトが三人の顔を見て、少し眉をひそめた。
「……なんだよ」
「いえ」
とフローラが答える。
「別に何も」
「……そうか?」
「はい」
ヴォルカも荷を持ち直した。
「買うもの、まだありますよね」
「ああ」
とユキトは言った。
「まだ終わってねえ」
ネムリアが立ち上がる。
「……しお、みる」
「いっぱい、つかう」
「塩?」
とユキトが聞き返す。
「うん」
「いっぱい」
ユキトは少しだけ呆れたように笑った。
ほんの少しだけ、いつもの調子が戻る。
「分かったよ。じゃあ次は塩だ」
四人はまた、人の流れの中へ戻っていく。
誰も、指輪のことは言わなかった。
純竜のことも、非竜のことも、この場ではもう口にしない。
けれど、さっきまでの会話は消えていなかった。
非常に稀な話だと分かっている。
そんなものに縋るべきじゃないと分かっている。
それでも少しだけ、自分の子ならと、すがりたくなってしまう。
だから、指輪を見ても、ただ素直に喜ぶことだけはできなかった。
そんな綺麗じゃない本音を、三人は胸の奥にしまったまま歩いていた。
そして、その少し前を行くユキトは、
そんなことを何ひとつ知らないまま、いつも通りの顔で振り返りもしなかった。
それが、少しだけ救いで。
少しだけ、苦しかった。
夜のアストロベイは、昼とは別の顔をしていた。
停泊する船の灯りが海へ映り、揺れるたびに星が砕けたみたいに見える。
これがこの港の名の由来なのだろうと、誰に説明されるまでもなく分かった。
四人の船は、港の外れ寄りの静かな場所に繋がれていた。
昼の喧騒から少し離れただけなのに、ここまで来ると波の音がよく聞こえる。
買い込んだ荷はひとまず船へ積み終えてある。
木箱と布束と食料と道具が、明日の出航を待って並んでいた。
ユキトは船の縁に腰を下ろし、港の灯りを見ていた。
ヴォルカはすぐ近くに立っている。
フローラは船内の最終確認を終えたところで、静かに甲板へ出てきた。
ネムリアはもう屋根の下へ潜り込んでいて、寝ているのか起きているのか分からない。
「明日ですね」
とヴォルカが言う。
「ああ」
短い返事。
「北から回ります」
「まずは北側の、灰が届きにくい浜を探します」
「頼む」
「はい」
フローラが船縁へ手を置く。
「ここまで来ると、いよいよですね」
「そうだな」
王都で揉めていた頃は、まだ遠い話だった。
無人島を取る。
そこへ住む。
そんな言葉だけが先にあった。
だが今は違う。
船がある。
荷がある。
港がある。
そして明日、実際にそこへ行く。
夢物語ではなくなったぶん、少しだけ怖さもあった。
だがそれ以上に、ようやく足がついた感じがある。
ネムリアが屋根の下から顔だけ出す。
「……もう、でる?」
「明日だ」
とユキトが言う。
「じゃあ、きょう、ねる」
「好きにしろ」
「うん」
また引っ込む。
ヴォルカがわずかに口元を緩めた。
フローラも小さく息を吐く。
その緩みが、必要だった。
しばらくして、ユキトは港の灯りを見たまま言った。
「ここまで来たら、もう戻れねえな」
誰もすぐには返さなかった。
戻れない。
それは別に、引き返せないという話じゃない。
もっと単純で、もっと重い意味だった。
もう、取った。
もう、決めた。
もう、船も買った。
荷も積んだ。
明日渡る。
そこまで来たのだ。
フローラが静かに答える。
「はい」
「でも、戻らないと決めたのは、もっと前でしょう」
ユキトは少しだけ笑った。
「それもそうか」
波が船腹を叩く。
遠くで鐘が鳴る。
アストロベイの夜はまだ賑やかだったが、その灯りも明日には背中側へ回る。
やがて四人は、それぞれの場所へ散った。
そして翌朝。
まだ空が白みきる前から、港はもう動いていた。
漁に出る船、荷を運ぶ荷車、眠そうな顔のまま働き始める人足たち。大港に朝の静けさなどない。
その中で、四人の船もまた静かに綱を解かれる。
ヴォルカが最後に港の方角を確認する。
フローラが荷の固定を見直す。
ネムリアは屋根の下からぼんやり海を見ている。
ユキトは舵近くに立ったまま、もう振り返らなかった。
船がゆっくりと岸を離れる。
アストロベイの埠頭が、少しずつ遠ざかっていく。
並んだ船。
行き交う人の群れ。
王国の匂い。
人の暮らしの熱。
全部が後ろへ流れていく。
ユキトは、朝の海の先を見た。
その向こうにあるのは、危険島だ。
火山があり、灰があり、噴気があり、王国が持て余した土地。
けれど、そこはもうただの報酬ではない。
これから自分たちが住む場所になる。
船は静かに沖へ出る。
王国の港が、背中で小さくなっていった。




