57.ありがとう
夜は静かだった。
高級宿の一室は広く、湯宿らしく整っていたが、今はその上等さがかえって空虚に見えた。
灯りは落としきられておらず、机の上の紙束だけが中途半端な明るさの中に残っている。
勇者は一人で座っていた。
鎧は外され、剣もない。
だが休んでいたわけではないことは、顔を見れば分かった。
眠れていない。食えてもいない。ずっと同じ場所で、同じ紙束を読み返していた顔だった。
扉の外で兵がノックし合図する。
「……入れ」
掠れた声だった。
扉が開く。
先に入ってきたのはユキト。
その後ろに、ヴォルカが続いた。
ヴォルカは部屋の端に立つ。
護衛としてついてきたのだと分かる位置だった。
けれど、何も言わない。
ユキトは勇者を見た。
机の上の茶は冷めている。
菓子には手がついた形跡がない。
紙束だけが、何度も開かれた痕跡を残していた。
少しだけ間を置いてから、ユキトが言った。
「……どうだ、高級宿。堪能できたか」
勇者は答えなかった。
答えられるはずもなかった。
ユキトはそれ以上続けず、近くの椅子を引いて座った。
無言が落ちる。
ヴォルカも動かない。
紙束の上に落ちる灯りだけが妙に白かった。
勇者は俯いたまま、しばらく動かなかった。
紙を持つ指先に、力が入っては抜ける。
何かを飲み込むみたいに、一度だけ喉が上下した。
それでもすぐには言葉にならない。
沈黙だけが、部屋の中に重く溜まっていく。
やがて、勇者が掠れた声で口を開いた。
「……アルフィーを、背負っているつもりだった」
声は低く、掠れていた。
独り言に近い声音だった。
「ずっと、あれを抱えているつもりだった」
「忘れないことが、償いだと思っていた」
そこで一度、喉が詰まる。
「だが……違った」
机の上の紙束へ視線が落ちる。
「縋っていた」
その一言が、静かに落ちた。
「アルフィーを理由にしていた」
「見なくていいものを、見ないで済ませるために」
「切ることを迷わないために」
「あれに、縋っていた」
ユキトは何も言わない。
ヴォルカも動かなかった。
勇者は続ける。
「調査書を何度も読み返した」
「俺がどれだけ、相手を見ていなかったか……嫌でも分かった」
指先が、紙の端に触れる。
「切った相手だけじゃない」
「支えてくれた人たちも見ていなかった」
「王国も、最初から俺を見捨てていたわけじゃなかった」
「それを、裏切ったのも俺だ」
掠れた息が漏れる。
「気づかせてくれて、ありがとう」
その礼は、不格好だった。
だが取り繕ってはいなかった。
ユキトは少しだけ目を伏せ、それから短く言った。
「……ああ」
また少し、沈黙が落ちる。
勇者はやがて顔を上げた。
だが、ユキトを真っ直ぐ見ることはできなかった。
「だから、俺は生きなければいけない」
その一言は、はっきりしていた。
「死んで終わりにはしない」
「一生かけて償う」
「都合のいいことを言っている自覚はある」
喉が軋む。
それでも言葉は止まらない。
「それでも、生きる」
「次は、人をちゃんと見る」
「そして……これまで自分が切ってきた命に、少しでも顔向けできるように」
「災厄から人を救う」
部屋は静かだった。
勇者は小さく息を吐く。
「綺麗事だと、自分でも分かっている」
「だが、それでももう死んで逃げるわけにはいかない」
そこで初めて、ユキトが口を開いた。
「……わかるよ」
勇者の視線が、わずかに上がる。
ユキトは椅子にもたれず、低く続けた。
「死んで逃げるのは簡単だ」
「でもそうしねえなら、ちゃんと償え」
それ以上は言わない。
慰めしない。
勇者はしばらく黙っていた。
やがて、ひどく静かな声で言う。
「……わかった」
ユキトは返事をしない。
代わりに、懐へ手を入れた。
取り出したのは、小さなペンダントだった。
古びた金属。飾り気はない。
だが、ただの装飾品ではないことだけはすぐに分かった。
勇者の目が、その瞬間だけはっきり揺れた。
ユキトはそれを机の上へ軽く置く。
「これ、やるよ」
勇者の喉が鳴る。
「……それは」
「勘違いすんなよ」
ユキトは先に言った。
「あのジジイ、俺が殺したわけじゃねえからな」
それだけだった。
どうして自分が持っているのか。
なぜ今渡すのか。
先代が何を思っていたのか。
何も語らない。
だが、語らない方が重かった。
勇者は震える指先で、ゆっくりとペンダントへ触れた。
ユキトが立ち上がる。
「明日、出るんだろ」
「……ああ」
「なら寝とけ」
「ひでえ顔してるぞ」
そう言って踵を返す。
ヴォルカも静かに壁際から離れた。
最後まで何も言わなかった。
扉へ向かう、その背中を見ながら、勇者はふと、無意識に権能へ触れていた。
ユキトを見る。
その背後に沈む歪みを見る。
そして、息が止まる。
前より、減っている。
あの荒野で見た時よりも。
出会った直後の、底の見えない不気味さよりも。
たしかに、規模が落ちていた。
勇者は目を細める。
なぜだ。
一瞬だけ考えて、すぐに答えに行き着く。
――そうか。
自分が死ぬ分岐が、遠のいたのだ。
王国とユキトが、自分を生かす選択を取った。
その結果、本来そこから溢れていたはずの災厄が消えた。
あるいは、弱まった。
なら、この権能は絶対ではない。
規模は見える。
だが、その規模は人の選択で変わる。
生かすか、殺すか。
向き合うか、逃げるか。
その違いだけで、未来は歪む。
勇者は静かに理解した。
もう、こいつは目安としか使えない。
規模だけで断てるほど、世界は単純ではない。
そうであることを、今ようやく思い知らされた。
扉のところで、ユキトが一度だけ振り返る。
「……どうした」
勇者は首を横に振った。
「いや」
それ以上は言わない。
ユキトも深追いせず、今度こそ部屋を出ていった。
ヴォルカも続き、扉が静かに閉まる。
部屋にまた静けさが戻る。
勇者は机の上のペンダントと紙束を見下ろした。
喉の奥はまだ痛い。胸の中も、何一つ軽くなってはいない。
それでも、ほんの少しだけ違っていた。
死んで終わる道は、もう消えた。
なら、生きるしかない。
そう思いながら、勇者はゆっくりと目を閉じた。
朝の空気は冷えていた。
郊外の高級温泉宿は、昨夜までと同じ建物のはずなのに、今朝はまるで別の場所みたいに静かだった。
湯気は変わらず白く立っている。木造の門も、手入れの行き届いた庭も、旅人を休ませるための上等な宿らしい柔らかさを残している。
だが、その静けさの中にあるものは安らぎではなかった。
一区切りはついた。
けれど、何も終わってはいない。
宿の前には、すでに王国兵が控えていた。
人数は多くない。目立ちすぎないように抑えられているのが分かる。だが、少数でも隙のない配置だった。
勇者の出立準備は整っている。荷は簡素で、護衛の兵たちもすでに馬ではなく徒歩で進むための支度を終えていた。
その少し離れた場所に、ユキトたちは並んで立っていた。
ユキトは腕を組まず、ただ自然に立っている。
いつものような軽さはない。だからといって、気負っているわけでもなかった。
昨夜、自分で決めたことの先を見ている顔だった。
隣のヴォルカは、背筋を伸ばしていた。
一見すれば落ち着いて見える。だが、指先だけがわずかに強張っている。
勇者を見送る、それだけのことが、彼女にはまだ少しだけ重い。
フローラは静かだった。
薄い朝の光の中で、姿勢一つ乱れていない。
何かを言う必要があるなら言う。けれど今は、その時ではないと最初から決めている顔だった。
ネムリアは眠そうだった。
実際、半分くらいはまだ眠っているようにも見える。
それでも目は開いていた。ぼんやりしているようで、ちゃんとこの場を見ている。
誰も軽口を叩かなかった。
昨夜の会話は、もう終わっている。
それでも消えたわけではない。
言葉にしたものも、しなかったものも、そのまま朝まで持ち越されて、この場の空気になっていた。
勇者はまだ出てこない。
兵たちも無駄口はない。
宿の者たちも奥に引いているのか、物音がほとんどしなかった。
白い湯気だけが、朝の冷気の中で細く揺れている。
その静けさの中で、不意に足音がした。
石畳を踏む、少し速い足音だった。
兵の一人が顔を上げる。
だが、止めるには遅かった。
門の手前まで、一人の女が来ていた。
王女だった。
供もほとんど連れていない。
控えていた兵たちが一瞬だけ動くが、もうこの距離まで来られてしまえば、今さらどうこうできる間合いではない。
王女はそんなことなど最初から分かった上でここまで来たのだと、見ただけで分かった。
彼女は真っ直ぐにユキトたちを見ていた。
そのまま数歩、さらに近づく。
止まった位置は、礼節を守るには近すぎて、無礼と断ずるにはぎりぎり遠い、そんな距離だった。
誰も口を開かない。
王女の目にあるのは怒りだった。
だがそれだけではないと、見れば分かった。
眠れなかったのだろう。
泣いたのだろう。
それでも泣き顔のまま来ることだけは選ばなかった。
赤くなった目元を、怒りで無理やり支えて立っている顔だった。
その視線は真っ先にユキトへ向いていた。
「……どうして」
声は震えていた。
「どうして生かしたの」
ユキトは答えない。
王女はさらに言った。
「どうして終わらせなかったの」
「あなたたちは、何を見たの」
「何を見て、あれを生かす方を選んだの」
ユキトは黙っていた。
その沈黙に、ヴォルカがわずかに一歩だけ前へ出かける。
だが、途中で止まる。
止まったのはユキトが制したからではない。自分で止まった。今ここで口を挟めば、王女の怒りを踏みにじるだけだと分かったからだった。
フローラも何も言わない。
ネムリアもただ見ている。
王女の目に滲んでいるものは涙だった。
けれど、それは弱々しい泣き方ではない。
泣き崩れる代わりに怒りへ変えて、立ったままこちらを射抜いている。
「また誰かが奪われたらどうするの」
その一言だけ、少し低くなった。
「また、あの人みたいに」
「何もしていないのに」
「ただ、未来がどうとか、災厄がどうとか、それだけで切られたら」
言葉の最後がわずかに掠れる。
だが王女は止めない。
「あなたたちは責任を取れるの?」
「また誤った時、何を返せるの?」
「死んだ人は戻らないのに」
そこで、ほんの一瞬だけ王女の目が揺れた。
脳裏に浮かんだのは、たぶん誰にも見せたことのない未来だった。
春になったら式を挙げるはずだった。
王都の喧騒から少し離れた屋敷で、最初は小さく暮らそうと話していた。
仕事を終えたら一緒に夕食を取って、政治の話は卓の上へ持ち込まないようにしようと、そんなくだらない約束までしていた。
子ができたらどうするか、どの庭に花を植えるか、娘なら誰に似るだろうかと、笑いながら話していた。
その、まだどこにも触れていない生活ごと、勇者は斬った。
王女の喉が震える。
「私は……」
言いかけて、飲み込む。
弱さになる言葉は、最後まで出さない。
代わりに、さらに一歩前へ出る。
「何とか言いなさい」
その時だった。
背後で、宿の戸が開いた。
小さな音だった。
だがこの場では、それだけで空気が変わるには十分だった。
兵たちの気配が一瞬だけ張り詰める。
王女も、怒りに押されたままの呼吸を止める。
そして、振り向いた。
そこに、勇者がいた。
宿の玄関口に立っていた。
旅装の上から朝の光を受けている。派手さはない。剣も腰にある。護衛につく兵がその少し後ろで控えていた。
昨夜と同じ顔だった。
けれど、今は湯宿の客ではなく、歩いて去る側の人間としてそこに立っている。
王女の顔から、一瞬だけ怒りが消えた。
本当に、一瞬だけだった。
泣きそうな顔だった。
会いたかったのだ。
憎くても。
罵りたくても。
殺したいほど許せなくても。
一度だけでも、自分の目で見たかった。
奪った相手が、どんな顔でまだ生きているのかを。
その感情が、怒りより先に漏れた。
唇がわずかに開く。
声にならない。
目の奥だけが、ひどく弱く揺れる。
まるで、死んだはずの人に会ってしまったみたいな顔だった。
だが、それは本当に一瞬でしかなかった。
次の瞬間には、もう消えている。
王女は唇を噛むようにしてそれを押し殺し、顔を持ち直した。
泣き顔など見せたくなかった。
会いたかったなど、絶対に言い渡したくなかった。
被害者としての痛みと、王族としての意地、その両方で立ち直した顔だった。
勇者は、その場で立ち止まった。
何も言わない。
ユキトたちも動かない。
宿の前の空気が、完全に止まる。
さっきまであった見送りの静けさは、もう壊れていた。
朝の一区切りを見送るための空気ではない。
今ここにあるのは、生き残った者同士が同じ場所に立ってしまった時の、どうしようもない現実だけだった。
王女が、ゆっくりと勇者へ向き直る。
声は、さっきよりも低かった。
「……今度こそ」
そこで一度、言葉が切れた。
だが逃げなかった。
「今度こそ、処理されるのを楽しみにしているわ」
勇者は黙っている。
王女の目が細くなる。
「すぐに化けの皮が剥がれるでしょう」
「今度は誰を、どんな理屈で切るの」
「それとも今は、反省しているふりでもしているのかしら」
何も返らない。
勇者は顔を逸らさなかった。
弁解もしない。
怒りもしない。
ただ、その言葉を正面から受けていた。
王女の呼吸が乱れる。
沈黙が、余計に傷を抉る。
「……何か言ったらどうなの」
返事はない。
「黙って立っていれば、それで背負ってることになると思ってるの?」
勇者はまだ何も言わない。
その無言が、王女の奥に残っていた最後の均衡を押し崩した。
「いっそ、ここで私も殺しなさいよ」
兵の空気が動いた。
だが誰も割って入れない。
王女は勇者を睨んだまま、震える声で続けた。
「あなたが死ぬなら、私も死んでもいい」
「そうしたら少しは釣り合うんじゃないの」
「あなたが奪った命の前に、少しは顔向けできるんじゃないの」
勇者は逃げなかった。
それが昨夜口にしたものの答えだった。
生きると言った。背負うと言った。
なら、こうして向けられる怒りからも逃げないしかない。
王女が叫ぶ。
「何か言いなさい!」
その声だけが、朝の空気を裂いた。
長くは響かなかった。
裂けたあとに残った静けさの方が、ずっと痛かった。
その中で、勇者が初めて口を開く。
声は低く、短い。
「……あなたの大切な人を、私は奪ったのでしょう」
王女の肩が揺れる。
「言い訳はできません」
それだけ言って、勇者は止まらなかった。
「見ていてください」
王女の目が見開く。
勇者はまっすぐに見返したまま、続けた。
「私がまた誤るなら」
「その時は、殺してください」
長い言葉ではなかった。
慰めにもならない。
許しを乞う言葉でもない。
ただ、自分の首を生きたまま差し出すような言葉だった。
王女は何も返せなかった。
言い返そうとして、でもすぐには声にならない。
憎いはずだった。
今も憎い。
なのに、そこで初めて、相手が死んで終わる方ではなく、生きて差し出されていることを突きつけられた。
勇者はそれ以上言わなかった。
一礼もない。
謝罪を重ねもしない。
ただ、それだけを置いて、歩き出した。
兵が続く。
足音は重くない。
堂々ともしていない。
逃げるようでもない。
徒歩だった。
護衛の兵を連れて、勇者はそのまま街道の方へ向かっていく。
振り返らない。
立ち止まらない。
王女はその場に立ち尽くしていた。
追いすがりもしない。
引き留めもしない。
叫ぶことすら、もうできなかった。
ユキトたちも何も言わない。
ヴォルカはじっとその背を見ていた。
フローラは静かに目を伏せ、また上げた。
ネムリアは眠そうな顔のまま、最後まで見送っていた。
ユキトも、何も言わなかった。
朝の見送りは、綺麗には終わらなかった。
言葉で丸く収まることもなかった。
被害者の怒りも、加害者の罪も、そのまま置かれたままだった。
許しも救いも、まだどこにもない。
それでも。
だからこそ、その旅立ちは嘘にならなかった。
死んで終わる方ではなく、
生きて、見られながら、背負って歩いていく旅立ちだった。




